2019年8月23日金曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その12)

丸井伊藤商店はマルイ味噌というブランドの味噌を製造販売する味噌蔵です。ここは工場と店舗を兼ね、中に入ると独特の香りに包まれます。
その丸井伊藤商店の味噌蔵の奥には、私設の御柱博物館があったりしてなかなか面白いのですが、なかでも一番面白いのはこれです。貧乏神が祀られている「貧乏神神社」なる大変ユニークな神社があります。この貧乏神神社、この工場の一番奥にあり、参拝するには工場内を通過してゆかなければなりません。
この貧乏神、辞書には「窮鬼」と載っています。すだれ眉毛に金壺まなこ、頭に角が1本生え、体が隠れるマントを被り、破れた渋団扇を持っていると。また、痩せこけて色青ざめ、さも悲しげに立っているとも。味噌と貧乏神の関係は、江戸時代、大阪の富豪の家が毎月晦日に次のような貧乏神送りをしていたそうです。番頭が、貧乏神が好むという焼き味噌を2つ作り、座敷から店へと家内中を持ち回り、終わって川へ流したと伝えられています。
そもそもこの神社は櫻井鉄扇なる人物により長野県飯田市に作られたもので、平成10(199)に創建された新しい神社です。脱サラし様々な苦難を乗り越えてきた櫻井鉄扇に感銘した丸井伊藤商店の当主が分社した貧乏神をこの味噌蔵に祭ったものなのだそうです。
この貧乏神神社では、お願いごとをするのではなく、拝み方は3回叩き、3回蹴っ飛ばす、そして最後は豆をぶつけて追い出すという乱暴なもので、普通の神様とはずいぶん違います。決して拝んではいけません。拝むと貧乏神に取り憑かれてしまうとされています。「鬼は外 福は内」の発想ですね。もちろん私もやりました。貧乏神様の前にある御神木を貧棒という名の棒で思いっきり3回叩き、次に御神木を思いっきり3回蹴飛ばします。3回叩いて3回蹴飛ばすのは、三三、すなわち散々で貧乏が逃げるというシャレのようです。で、最後に貧乏神様の御神体に向かって豆を1回、思いっきり投げつけます。やってみると、スゥ〜っとします(^ ^)
貧乏神神社の横に祀られているのが鈿女神社(うずめじんじゃ)。鈿女神社の祭神は、日本書紀や古事記に登場する「岩戸隠れ」で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れて世界が暗闇になった時、岩戸の前で力強くエロティックに踊って、天照大御神に岩戸をちょこっと開けさせたとされる女性、天鈿女(あまのうずめ)です。この天鈿女は後には猿田彦(さるたひこ)神と共に「双体道祖神」として祀られるようになりました。信州でよく見られる双体道祖神は天鈿女と猿田彦なんですね。この天鈿女と猿田彦のコンビですが、双体道祖神以外にも別のキャラクターとしても知られています。天鈿女の面は狂言の面としてはいわゆる「おかめ面」となり、これが「ひょっとこ」と一緒に面白おかしく踊られるようになりました。この「ひょっとこ」が猨田彦なのだそうです。
こういうことから、鈿女神社は「おかめ神社」とも呼ばれ、金ヘンに田と女で、「かねため神社」ともされています。なので、貧乏神神社で貧乏を追い払った後は、この鈿女神社に“ふつうに二礼二拍手一礼で参拝するといいとされています。

昼食を挟んだ休憩は1時間。近くに諏訪大社の神事で有名な「木落し坂」と呼ばれる急坂があるというので、そこへ行ってみることにしました。旧甲州街道(長野県道197号払沢茅野線)JA茅野のビルの先で右折し、諏訪家中興の祖と言われる諏訪頼忠の菩提寺の1つで、高島藩主諏訪家ゆかりの曹洞宗の寺院 円通山宗湖寺の前を通ると、JR中央本線の線路を越える跨線橋があるので、それを渡ります。(ちなみに、宗湖寺の境内には「明治天皇御膳水」の碑があり、明治13(1880)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際、明治天皇がこの寺の井戸から汲んだ水を使ったお茶を召し上がられたのだそうです。)
その跨線橋の先の坂を上って行くと「木落し公園」と書かれた説明板が立っています。説明板の向こうに崖のような草で覆われた急な坂があります。ここが諏訪大社の神事で有名な「木落し坂」と呼ばれる急坂です。
信州諏訪地方の6市町村約21万人もの人々がこぞって参加すると言われる7年に1度の天下の大祭『御柱祭』、正式には「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」と言われる諏訪大社のお祭りです。この祭りは、7年に1度の寅と申の年に行われ、社殿の造営(現在は宝殿のみ)と「御柱」と呼ばれる直径約1メートル、長さ約17メートル、重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木16本を山から切り出し、それを大勢の人々の力で山から里へ曳き、最後に上社(本宮、前宮)、下社(春宮、秋宮)の各社殿の四隅に建てます。 
この茅野にある「木落し坂」はその7年に1度行われる諏訪大社の神事、『御柱祭』の際に、上社(かみしゃ)の本宮と前宮に立てる8本の巨大なモミ()の大木に氏子の若者達が群がって乗り、最大傾斜27度、長さ36メートル余りの急斜面の崖を一気に上から下に滑り落とす雄大な神事が行われることで知られています。
氏子達が樅の木の巨木である御柱を引いて進む道を「曳行(えいこう)路」と呼びます。上社側は、42日〜4日に行われる「山出し」が諏訪郡原村と茅野市境にある出発点の「綱置場(つなおきば)」から茅野市宮川沿いの「御柱屋敷」までの12.1km53日〜5日に行われる「里曳き」は御柱屋敷から上社前宮(茅野市)までが0.7km、本宮(諏訪市)までが1.9kmとなっており、曳行路の大半は茅野市内を通ります。いっぽう、下社側は同郡下諏訪町内のみを通る曳行路で、山出し(48日〜10)は出発地の「棚木場(たなこば)」から木落し坂を経て「注連掛(しめかけ)」までの4.8km。里曳き(514日〜16)は注連掛を出て下社春宮までが1.7km、秋宮までは3.3kmです。曳行路は古くからほぼ一定で、上社側の曳行路は距離が長く比較的緩やか、下社側は距離が短く傾斜がある道のりとなっています。
上社の御柱の特徴は柱から角のように突き出す「めどでこ」と呼ばれる部具が取り付けられていること。山出しと呼ばれる柱の曳行中は、この「めどでこ」に若者達が鈴なりになって乗ります。この「木落し坂」は山出し最大の難所とされ、「木落し坂」では、御柱はジリジリと崖の上にせり出し、木遣りの一声で追掛綱(おいかけづな)が斧取衆(よきとりしゅう)によって切られると、巨木が一気に坂を滑り下ります。木落しの際には「めどでこ」だけでなく柱本体にも多くの若者が乗り、そのままこの急な斜面を滑り下りていきます。そのため、落下の反動で若者が放り出され、毎回負傷者が何人も続出するといわれています。まさに命懸け。相当の危険を伴うため、一瞬の隙も許されない瞬間で、氏子達の顔つきも緊張感に包まれます。 「男見るなら七年一度の木落とし、坂落とし」と木遣り唄にも謳われています。 木落しが行われる際にはこのあたり一帯は多数の見物人が埋め尽くすそうで、『御柱祭』のメインイベントとも言える神事です。上から見下ろすとかなりの急な斜面で、巨木と一緒に滑り落ちたら相当に危険であろうと実感しちゃいます。


ちなみに、現存する最古の記録では、平安時代の桓武天皇の御代(在位西暦781年~805)から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ、盛大に行われたとなっていますが、それよりも以前から諏訪地方では大木を建立する祭りが行われていたとされていて、明確な起源は判っていないということです。 

午後の街道歩きの出発の時間が迫ってきたので、また跨線橋を渡って貧乏神神社のある丸井伊藤商店のところまで戻りました。跨線橋の上から西の諏訪湖の方角を見たところです。諏訪湖の湖面らしきものはまだここからは確認できません。しかしながら、先ほど通った金沢宿から次の上諏訪宿までは31355(13.3km)。既に6kmほどは歩いてきているので、残りは7kmほどではないでしょうか。諏訪湖のほとりに上諏訪宿はあります。さらに、甲州街道の終着地である下諏訪宿は上諏訪宿から11140(5.2km)。長かった甲州街道歩きも、ゴールはもうまもなくです。 
丸井伊藤商店の道向かいに「明治天皇御小休所跡」の碑と案内板が立っています。案内板によると、明治13(1880)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際、明治天皇がここにあった五味三郎宅で、約1時間、小休止を取られたそうです。ちなみに、この明治天皇の山梨・三重・京都三府県御巡幸の一行には伏見宮や太政大臣三條実美、参議寺島宗則、伊藤博文など500余名が従者として従う大行列だったようです。そりゃあ甲州街道は大変な騒ぎだったでしょうね。
五味三郎宅のあったあたりに3階建ての不思議な形の蔵が建っています。3階建ての板倉で、土壁漆喰仕上げ。窓の形態は鉄板を外部に跳ね上げて、角材で固定する蔀戸(しとみど)が特徴的です。案内板には「かんてんぐら(寒天倉)」と書かれています。案内板によると、この建物は昭和の初期に岡谷にあった繭倉を移築し、寒天倉庫として使用してきたものなのだそうです。明治から大正期、岡谷は絹糸の製糸で栄えていました。昭和に入り製糸が下火になると、入れ替わるようにここ茅野では寒天作りが盛んになってきました。この「かんてんぐら(寒天倉)」はそんな背景の中、岡谷から移築されてきたものです。繭倉として建てられてから築100年以上と考えられています。この地域約300メートル圏内に同じ規模の寒天倉はこれを含めて4棟ありますが、どれも岡谷から移築されてきたものです。寒天倉庫としての役目を終えたこの「かんてんぐら」は、平成21年、多目的ホールに改装して、今は音楽をはじめとする様々なイベントで使用されているのだそうです。
「板倉」についても説明が載っています。それによると、八ヶ岳山麓周辺に残る倉はほとんどが板倉なんだそうです。板倉の古いものは「セイロ」と呼ばれる「井籠倉」で、建物の隅で井桁に組まれた形式のものですが、この「かんてんぐら」は「オトシ」と呼ばれる「落とし板倉」です。「オトシ」とは、大きな梁で支えられた柱と柱の間に1.52(56cm)の厚さの板材を柱の溝に沿って落とし込む形式のものです。それに荒土を塗り付け、漆喰で仕上げています。そのため外観では見分けづらいのですが、この地域の倉の多くはこの「板倉」です。板倉は釘を使っていないのも特徴の1つです。土壁を落として解体すれば、また別の場所で組み立てることができます。豊富な森林資源を背景に、数百年に渡って作り続けられた倉ですが、先人達が自然と上手く共存しながら生活する中で、資源を建築に活かす技術の集大成であり、木と土の文化が生み出した世界的にも稀な木造建築です……とのことです。

そう言えば、ここまで歩いてくる途中に「寒天の里」と書かれたデッカイ看板が立っていました。茅野市は寒さと乾燥により寒天の生産に適した気象条件が揃っているのでしょう。

丸井伊藤商店の工場の奥にあった鈿女神社の本殿はこの奥にあります。この「おかめ(天鈿女)」を祭神として祀る神社は諏訪地方に3社あり、長持ちに必ずおかめ面を付けて担ぐ慣わしになっています。この茅野の鈿女神社は昭和8(1933)に当時のこのあたりの商業者が商売繁盛、家内安全、厄除け縁結び祈願するために、安曇の松川村に勧請して分社したもので、以来地元宮川商業会がお守りしているのだそうです。福の神として「おかめ様」があり「笑う門には福来たる」として心の明るさと癒しを与えてくださっているのだそうです。
その鈿女神社と同じ境内にある三輪神社です。こちらは古く、今から約810年前、大和の国の三輪神社に勧請して分社した神社で、宮川・茅野地区の産土神になっています。この建築が類を見ないもので、本殿の屋根が前方に大きく張り出しているのが特徴です。大隅流の宮大工棟梁・矢崎玖右衛門の作だそうで、小さいながらも由緒正しい神社のようです。諏訪大社上社本宮の主祭神は『古事記』の国譲りの段において、大国主(おおくにぬし)神の御子神として登場する建御名方神 (たけみなかたのかみ)。三輪神社の主祭神は大物主(おおものぬし)。大物主は、日本神話に登場する神で、大国主神の和魂(にきみたま)であるとされています(別名:三輪明神)。また諏訪大社の上社本宮も三輪神社も本殿が設けられておりません。諏訪大社の上社本宮の神体は守屋山、三輪神社は三輪山を御神体としています。こういう共通項から三輪神社を勧請したと推察されます。この共通性は何を意味しているのでしょうね。
昼食休みの1時間で出来るだけ回ろうとしたのですが、タイムアップで詳しくは見られませんでした。このあたりは私の好奇心をそそられるような見どころが豊富にあります。


……(その13)に続きます。

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