2019年8月16日金曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その5)

登ってきた坂を振り返って眺めてみました。このような長く続く緩斜面の登り坂の場合には、こうして時々振り返って眺めることで、どのくらい登ってきたかが分かります。確かにかなり登ってきました。この先にある峠の名称は富士見峠。その名のとおり、ここからは霊峰 富士山の雄大な山容が正面に見られるはずなのですが、今日はあいにくの曇り空(雨空)で、雲がかかって富士山の姿は見られませんでした。
この若宮高原別荘地内の繁みの下に浄水場があり、標高930メートルのこの場所で減圧しているという案内板が出ています。標高差100mでは10kg/cmもの圧力がかかり、蛇口をひねったら蛇口が吹っ飛ぶほどの水圧になるので、こうした浄水場を各所に作って減圧を繰り返すのでしょう。
芓木風除林の案内板が立てられています。この芓木風除林は旧甲州街道の街道沿いに約160メートルに渡って植林された防風林のことです。かつてこのあたり一帯の芓ノ木平は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が現在の若宮地籍へ移り住み、しばらく無人家の地となっていました。元和6(1620)頃、近隣の大片瀬村から小林氏が移住して開墾を始めたのですが、当初はやはり北風が強く、内風除けは作ったものの、なお稲はよく実りませんでした。寛政年間(1789年〜1800)に芓木村では高島藩に願いを出して、防風林としてこの旧甲州街道沿いの村の上に外風除けを仕立てました。その際に植林したアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして、今も残っています。
その芓木風除林のすぐ先に江戸の日本橋を出てから47里目の「塚平一里塚」があります。現在は北塚のみが現存しています。
石碑には「重修一里塚」と刻まれています。何度も修復が行われた一里塚という意味のようです。
一里塚の横にと「950m」という標高標柱が立っています。随分と登ってきました。ただ富士見峠のサミット(頂上)の標高は961メートル。ここよりもうちょっと行った先にあります。
標高標柱の傍に「甲州街道コース」と記された道標が立てられています。なぁ〜んか嬉しくなっちゃいます。

芓ノ木平を進みます。
もう少し先まで歩くと丁字路に突き当たって、旧甲州街道はその先で消滅してしまっています。その先はある企業の敷地に変身してしまっています。仕方ないので、案内板に従って、左に曲がり、敷地のフェンスに沿って右に曲がります。500メートル近く迂回するのですが、敷地の中には太陽光発電のパネルが拡がっているのが見えます。実はこの土地はあるデベロッパーの所有地になっていて、ここに大規模な別荘地の建設を計画していたのですが、バブルの崩壊によりその計画は断念され、今は広大な敷地に太陽光発電のパネルが並ぶだけの土地となっているようです。
ずっと雨はあがっていますが、雨雲は低い高度まで下がってきていて、いつ雨が降り出してもおかしくない状態です。まもなくこの日のゴールである富士見公園に到着します。この日は歩き始めこそ幾分霧雨が残っていたのですが、歩き出して10分もしないうちにそれもやんで、あとは曇り空の下での街道歩きでした。7月のこの時期は晴れていれば気温も高く、熱中症も心配しないといけないのですが、この曇り空のおかげで、湿度は高いものの気温はさほどでもなく、むしろ歩きやすい気象条件でした。この山にかかる雨雲を見る限り、今回も南アルプスの高い山々に守られた感じはしますが、梅雨前線との戦いは『晴れ男のレジェンド』の勝利と言えるのではないでしょうか。
フェンスが途切れたあたりに「原の茶屋」の標識が立っています。旧甲州街道の蔦木宿と次の金沢宿の間は3445(12.3km)と長く、特に途中の芓ノ木村と御射山神戸(みさやまごうど)村の間は距離が長く、途中に人家もなかったため、旅をするのに不便でした。そこで、明和9(1772)頃に松目新田の名取与兵衛がこのかつて向原と呼ばれていた地に出て茶屋を始めました。その後ここを中心にして次第に人家が増えていき、周囲の村との間で紛争が起きたので、高島藩が仲裁に入り、40(72.7メートル)四方の築地を築かせて、その中で茶屋を営ませました。そこが「原の茶屋」です。
その原の茶屋の標識の前に右手から伸びてくる道路があります。これが旧甲州街道で、この先であの太陽光発電のパネルが拡がる敷地の中に入っていき、途中消滅しています。その「透関の馬頭観音像」が立っているのだそうです。この「透関の馬頭観音像」は天明元年(1781)に立てられた三面六臂(顔が3つで腕が6)のちょっと怖い形相の石仏なのだそうです。18世紀の終わりごろ、近隣の出身で、甲府の物産問屋の養子となり家業を隆昌して財を成した三井茂右衛門(号が透関)なる人物が、このあたりの甲州街道がぬかるんで通行するのにも難儀だったため、私財を投じて道を改修し、その完成記念に旅人の無事を祈って安置した石仏なのだそうです。
瀬沢の戦いによる諏訪惣領家滅亡後、この富士見峠の台上道は信濃国への侵入口として「棒道」とともに武田軍勢が行き交う軍用道路としての役割を担うような道となりました。甲斐方にとっては人馬荷駄が行交う経済路線であり、軍師や密偵たちが往復し、情報が交錯する最重要路線であったに違いありません。武田家滅亡直後、織田信長は阿智から伊那路を北上、高遠城と諏訪神宮寺を経て、天正10(1582)42日、富士見峠を越えて甲斐国に入りました。徳川家康、明智光秀、細川忠興、毛利輝元ら臣下を従えて、武田征伐の戦歴を訪ねる凱旋旅行であったといわれています。まさに絶頂期にあった織田信長はここ富士見峠で雄大な富士山の姿を目にしたに違いありません。やがて来る大変本能寺の変の2か月前のことです。
「原の茶屋」跡から少し歩くと、前方に観光バスが停まっているのが見えてきました。そこがこの日のゴールである富士見公園の駐車場でした。
明治41(1908)、この地を訪れたアララギ派の歌人で小説家でもあった伊藤左千夫がここから見える富士山の姿をはじめ周辺の風景に感激し、地元民に諮ってその3年後の明治441911)、この公園を整備したのだそうです。 園内には伊藤左千夫の他に斎藤茂吉、島木赤彦、森山汀川らのアララギ派の歌人達の歌碑と、なぜか松尾芭蕉の句碑が立っています。
 965メートル」という標高標柱が立っています。あれっ!? 富士見峠の最大標高は確か961メートルのはずだったのに965メートルとは?? どうも標高標柱の立っているこの場所の標高が965メートルということのようで、確かに旧甲州街道はそこから4メートルほど低いところを通っています。なので、この富士見公園のあたりが甲州街道 富士見峠のサミット(頂上)のようです。で、その富士見峠のサミットがこの日のゴールでした。
この日は約10km、歩数にして13,672歩、歩きました。距離はいつもの街道歩きと比べるとむしろ短いほうなのですが、問題は登り。富士見峠は最大標高が961メートル。スタートの蔦木宿の標高が700メートルほどなので、標高差約250メートルを最後の約2.5kmほどの区間で一気に登ってきました。まぁ〜、険しい山道というわけではなく、ちゃんと舗装された道路ではあったのですが、ダラダラ続く登り道はさすがに脚にきます。そして疲れました。今日はもうこれ以上歩くのは勘弁だな…って感じです。
この日は12時過ぎに歩き始めたのですが、距離が短かったため15時過ぎにはゴールの富士見公園に到着しました。整理体操の後、観光バスに乗せられてこの日の宿泊先であるホテルルートイン第2諏訪インターに到着したのが15時半過ぎ。ホテルにチェックインしてしばらくして外は雨が降り出しました。夜に入って雨はドシャ降りに。この日は私達が富士見峠を登った4時間ほどの間だけ奇跡的に雨が降らなかったことになります。『晴れ男のレジェンド』は、なおも健在のようです。
2日目は富士見峠を下って金沢宿、そして甲州街道の終着・下諏訪宿のある諏訪盆地へと入っていきます。甲州街道歩きもいよいよゴールが近づいてきました。


……(その6)に続きます

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