2019年8月12日月曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その1)

714()15()、甲州街道歩きの【第15回】蔦木宿茅野に参加してきました。今回は前回(第14回】のゴールであった蔦木宿の本陣前をスタートして、金沢宿を経て甲州街道の終着である諏訪(上諏訪宿、下諏訪宿)の一歩手前である茅野の頼岳寺まで信濃路を歩きます。蔦木宿と金沢宿の間(3445間:約12.3km)には、釜無川(富士川)水系と宮川(天竜川水系)の分水嶺である富士見峠(最大標高961メートル)が待ち受けます。蔦木宿の標高は710メートルほどなので、またまた標高差250メートル以上の登り道です。1日目はその富士見峠の登りで、サミット(峠の頂上)付近にある富士見公園がゴールとなります。富士見峠は甲州街道最後の峠で、富士見峠を越えれば甲州街道の終着である諏訪湖畔(湖面標高は759メートル)に向けて下っていきます。その下りは2日目です。

今年はなかなか梅雨が明けません。今年(2019)、気象庁が関東甲信地方(ちなみに、関東・甲信地方とは、一般的には関東地方の茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県と甲信地方の山梨県、長野県を加えたエリアのことです)が梅雨入りしたとみられると発表を出したのは、平年より1日早い68日のこと。それ以降、オホーツク海にある高気圧が張り出し本州の南岸に梅雨前線がずっと停滞したままになっている影響で、日本列島の太平洋側を中心に冷たい空気が流れ込んで、曇りや雨の日が続いています。東日本や西日本を中心に平年より気温が低いいわゆる「梅雨寒」となり、東京の都心では、今月(7)12日まで8日連続で最高気温が25℃を下回り、7月としては平成5(1993)に並ぶ記録となっています。特に関東地方では日照不足が深刻で、714日までの10日間の日照時間の合計は、私が住む埼玉県さいたま市がわずか2時間で平年の5%、東京の都心が2.8時間で平年の7%、群馬県の前橋市が3.5時間で平年の9%などと関東の各地で1割にも満たない状態が続いています。関東甲信地方の平年の梅雨明けは721日頃。この日はまだ714日ですので、まぁ〜平年並みと言っちゃえばそれっきりなのですが、昨年(2018)、気象庁が梅雨明けしたとみられると発表したのが629日、一昨年(2017)76日だったので、この直近2年間と比べると、断然遅くなっています。
この日(714)も梅雨前線が日本列島のすぐ南の海上に停滞している影響で、今日も西日本から東日本の広い範囲で雨になりました。私が住む埼玉県さいたま市も朝から時間雨量5ミリ以上の本降りの雨が降っていました。こりゃあ『晴れ男のレジェンド』の連勝記録もついに途切れて、今回は本降りの雨の中での街道歩きになるかなと覚悟しての出発で、雨の具合によって使い分けようと、リュックにはセパレーツタイプとポンチョタイプの2種類のレインコートを入れておいたくらいでした。615()16()に歩いた前回【第14回】も梅雨前線を伴う中心気圧984ヘクトパスカルという強い温帯低気圧が接近・通過する中での街道歩きでしたが、幸いなことに2日間とも歩いている間はたいした雨に降られることもなく、特に2日目はよく晴れて、初夏の強い陽射しの中での街道歩きを楽しめました。その意味で『晴れ男のレジェンド』の圧勝でした。果たして今回は……(梅雨前線が少し南に移動しそうなのと、南アルプスの高い山々が雨雲の進入を少しは阻止してくれそうなので、降ってもさほど強い雨にはなるまいと少し期待は持っていました。) 

私達を乗せた観光バスはさいたま新都心駅を出ると、首都高速5号池袋線、中央環状線、首都高速4号新宿線を通り、中央自動車道を西へ走ります。3連休の中日だと言うのに、朝からのあいにくの雨で行楽客の出足が悪いのか、クルマの通行量は少なく、極めて順調に今回のスタートポイントの蔦木宿に向かいます。中央自動車道を走行中はずっと雨で、時折フロントガラスに雨粒が強く当たるような状況だったのですが、小渕沢インターチェンジ(IC)で中央自動車道を降りて一般道の区間に入ると雨が小降りに変わり、昼食会場の「道の駅 信州蔦木宿」に到着した時には、ほんの霧雨程度になっていました。ここまであまりに順調に中央自動車道を走ってきたので、予定よりかなり早く昼食会場に到着したので、お弁当の配送の到着が遅れ、ちょっと待たされてしまいましたが、その間にも順々天気が回復に向かっています。これは……。
この日の甲州街道歩きの【第15回】は私達さいたま新都心駅発だけではなく、上野駅・東京駅発と横浜駅発のコースも組まれていたようで、それらのバスも次々と到着しました。
「道の駅 信州蔦木宿」の駐車場に停車した観光バスの車内で幕内弁当の昼食を済ませると、「道の駅 信州蔦木宿」から今回のスタートポイントである蔦木宿の本陣跡にそのまま観光バスで移動。この日は標高差約250メートルを登るということでいつもより入念にストレッチ体操を終えると、今回の甲州街道歩きをスタートしました。若干霧雨が残っているのと、上空の雲の様子を見る限りいつ雨が降り出してもおかしくない状況なので、ウォーキングリーダーさんの指示で、全員雨具着用です。私も弱い雨用に持参したポンチョタイプのレインコートを念のために着用しました。着脱が容易なので、弱い雨の中ではポンチョタイプのレインコートのほうが歩きやすいですし、加えて、レインコートは通気性が悪く、中は相当に蒸しますので、裾をバタバタすると空気の入れ換えができるポンチョタイプのほうが私は好きです。
前回【第14回】でも書きましたが、蔦木宿は江戸の日本橋から43番目の宿場です。江戸時代後期の天保14(1843)の宿村大概帳によると、蔦木宿の宿内人口は508人、宿内総家数は105軒。本陣1軒、脇本陣はなく、旅籠15軒。ここは慶長16(1611)に甲州街道の信濃国最初の宿場として整備された宿場です。山間の小規模な宿場ですが、それまで何もなかった新しい土地に計画的に整備された宿場ですので、稀に見る宿場としての形態を完備した宿場になっていて、江戸方、諏訪方の両方の入口は、宿場特有の枡形構造になっています。

ここが蔦木宿の大阪屋源右衛門本陣の跡です。本陣の建物は老朽化により昭和50年代に取り壊されてしまったのだそうで、現在は本陣の建物はなく、現存しているのは門だけです。この大阪屋本陣の規模は広大で、多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していたと伝えられています。本陣門の左隣には、案内板、「甲州道中 蔦木宿 本陣跡」の石碑、「明治13623日 明治大帝御駐輦跡」の石碑が建っています。大帝とは天皇のこと。また、駐輦(ちゅうれん)”は天子(天皇)の乗られる車のことで、“駐輦”とは天子(天皇)が行幸の途中で車をとめること、すなわち滞在されることを意味します。駐蹕(ちゅうひつ)とも言います。明治13(1880)623日の朝、台ヶ原宿を出た明治天皇の山梨・三重・京都三府県御巡幸の行列は、午前10時過ぎにこの蔦木宿の大阪屋本陣に到着。明治天皇はここでしばし休憩を取られました。なので、明治天皇がこの大阪屋本陣で休憩を取られたことを記念して建てられた石碑と言うことのようです。
また、明治から昭和初期にかけての代表的女流歌人である与謝野晶子は、この大阪屋本陣の家族と親交があったそうで、度々この蔦木の地を訪れて歌を詠んだといわれています。蔦木宿にはその与謝野晶子の歌碑が幾つか立てられているのですが、この大阪屋本陣の庭にも
 「本陣の このわが友と いにしえの 蔦木の宿を 歩む夕暮れ  与謝野晶子詠」
と詠まれた歌碑が立っています。
蔦木には「元気を出すぞ蔦木宿の会」という地元組織があって、会員の皆さんは古くから伝わる自分の家の屋号を表札にして軒先に設置して、旧甲州街道の雰囲気を盛り上げてくれています。大阪屋本陣のすぐ隣のお宅の屋号は「油屋」さんですね。
その「元気を出すぞ蔦木宿の会」が立てた蔦木宿の家並みと屋号が書かれた案内板です。旧甲州街道に面したほぼすべての民家に屋号の表札が設置されています。
往時を偲ばせる連子格子の古民家が建ち並んでいます。
ここは「中扇屋」さんですね。
中扇屋さんの隣に小さな公園があり与謝野晶子の歌碑が立っています。
「白じらと 並木のもとの石の樋()が 秋の水吐く 蔦木宿  与謝野晶子詠」
その与謝野晶子が詠った「石の樋」が歌碑の前にあります。ここは湧水を利用した水飲み場で明治39(1906)頃に蔦木宿で16箇所造られた水道施設の1つで、上水道が整備された昭和26(1951)、昭和27(1952)頃まで使われていたものだそうです。また、この「石の樋」に使われている水は七里岩から出る湧き水であり、明治天皇がご巡幸の折に使われた(お飲みになられた)御膳水である旨も書かれています。
その「石の樋」の前の桃の木です。小さな実をつけています。
こちらは「吉野屋」さん。さらに漆喰のなめこ壁のある古民家が並びます。


……(その2)に続きます。



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