2019年5月6日月曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その6)

この天狗橋のあたりからが駒飼宿で、江戸方(東の入口)がありました。
そこに松尾芭蕉の句碑が立っています。句碑には次のように刻まれています。
「秣(まぐさ)負う 人を栞(しおり)の 夏野哉(かな)  芭蕉」

(まぐさ)とは馬や牛の飼料とする草のことです。また、栞(しおり)とは枝折とも書き、文字通り枝を折ること。道標のない一面の牧草地では、帰り道に迷わないように木の枝を折って、道標代わりにしたことの状況を詠んだ句です。読みかけの本の間に挟む栞も、この道標代わりにした枝折から来ています。残念ながらこの句は笹子峠で詠まれた句ではなく、奥の細道を訪ねた松尾芭蕉が栃木県の那須野で、道も定かでない草深い中を苦労して歩いた情景を詠んだ句だそうで、「笹子越えも同様に大変な道だよ」と呼びかける目的で、駒飼宿の住民の方が立てたものと想像されます。

駒飼宿の中を進みます。駒飼宿は本陣・脇本陣が各1軒、旅籠6軒という山間の小さな宿場です。馬の放牧が多く行われていたことから「駒飼」の宿名がつきました。次の鶴瀬宿との合宿(あいしゅく)で、問屋業務や人馬の継ぎ立てを毎月21日から月末まで行なっていました。1つ前の黒野田宿と同様、笹子峠越えを控えて、往時は多くの旅人で賑わった宿場でした。(継ぎ立てとは、宿場ごとに、人馬を新しく替えて雇うことで、この駒飼宿では笹子峠越えを専門とした馬と馬子が控えていたほか、通しの馬にも餌と水が与えられました。)
写真左手の空き地に標柱が立っていますが、ここは富屋脇本陣跡です。
現在の地名“日影”に相応しく、今は笹子峠が通る坂東山の北側の麓にある山間の静かな集落ですが、かつてここは歴史上の大きな舞台となったところです。

前述のように、天正元年(1573)、遠江国三方ヶ原の戦いの最中に病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田家の当主となった四男の武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍の前に敗北。その後失地回復に努めたのですが、天正10(1582)、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が離反して織田信長に通じたのを契機に再び織田信長・徳川家康連合軍との戦いが始まりました。織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に対して武田軍では家臣の離反が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。武田勝頼は未完成の本拠地・新府城に放火して逃亡。家族を連れてこの笹子峠を越えて家臣の岩殿城主・小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城に逃げ込み、そこに篭城しようとしました。しかし、小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換。笹子峠を越えて岩殿山城に向けて敗走中の武田勝頼は小山田信茂離反の知らせを笹子峠を越えて小山田領に入る直前に受けて、笹子峠の峠道を急ぎ引き返し、峠の麓にある駒飼の山中に逃げ込みます。勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃。逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田家は滅亡しました。この甲斐武田家の滅亡の舞台になったのが、この駒飼宿でした。このあたりには武田勝頼をはじめ、甲斐武田家滅亡に関わる史跡が幾つも残っています。

また、慶応4(1868)、駒飼宿は新鮮組の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は甲府城に立て籠もる土佐藩士・板垣退助率いる新政府軍との決戦を前に軍議を開いた場所ともなりました。

ここも今は空き地になっていますが、標柱が立っていて、ここが渡辺本陣跡です。
本陣跡横に駒飼宿の案内板が立っています。駒飼宿には今も家が建ち並び、往時の雰囲気を色濃く残しています。案内板を眺めてみると、この駒飼宿ではすべての家に屋号が付けられていて、今でも屋号で呼び合っているようです。
駒飼宿は宿内もかなりきつい傾斜の坂道になっています。
さすがにかつて甲州街道を行き交う人々で賑わった宿場町。山間の集落と言っても、歴史を感じさせる大きな旧家も建っています。
さらに坂道を下っていきます。このあたりが駒飼宿の諏訪方(西の出入口)で、進行方向左手には城郭のような立派な石垣が築かれています。この上に見張りのための番所でも建っていたのでしょうか。
旧甲州街道であることを示す案内標柱が立っています。
さらに急な坂道を下っていきます。
手作りと思われる千手観音菩薩が祀られています。古道復活に尽力した地元の古老を讃えて建てられたもののようです。建立が平成309月吉日となっていることから、最近建てられたものですね。近くに古道橋という橋があり、その橋で笹子沢川を渡ります。
手作りっぽい「甲州街道 駒飼宿」の石碑が立っています。これも最近、地元の方が建立されたものですね。
おそらく旧甲州街道沿いに立てられていた石塔・石仏がここに集められて祀られているのでしょう。
下り坂は中央自動車道の高架の下を通り、大和橋西詰の国道20号線との合流地点まで続きます。旧甲州街道は、その大和橋西詰交差点を左折するのですが、私達はそこを右折し、大和橋で日川を渡り、渡った先にある駐車場で待つ観光バスに乗り込みました。(笹子沢川は、この大和橋の手前で日川と合流します。)
この日の甲州街道歩きは、この大和橋がゴールでした。この日は15.5km、歩数にして21,189歩、歩きました。距離もさることながら、甲州街道最大の難所と言われる笹子峠(1,096メートル)越えはさすがにキツかったです。でも、メチャメチャ面白かったです。旧街道歩きの醍醐味は、往時の面影が色濃く残る峠越えにこそあります。その旧街道歩きの醍醐味を十分に堪能させていただきました。

大和橋詰めから観光バスに乗り、この日の夕食会場である甲州市の「勝沼ぶどうの丘」に向かいました。「勝沼ぶどうの丘」は東洋のブルゴーニュとも言われる山梨県甲州市勝沼町の一面に広がるぶどう畑の小高い丘のてっぺんにあり、眼下には360度のパノラマで甲府盆地の田園地帯が見渡せます。この時期の甲府盆地は淡いピンクと濃いピンクの2色で彩られています。淡いピンクはサクラ()。淡いピンクはソメイヨシノもありますが、その多くはサクランボの木、濃いピンクはモモ()の木。甲府盆地はブドウやモモ、サクランボといった多くの果物の産地として有名なところです。そのうちのモモとサクランボの木が満開でした。メチャメチャ綺麗です。この時期でないと見られない光景なので、本当に良かったです。
「勝沼ぶどうの丘」での夕食ということで、もちろん地元の美味しいワインをいただきました。甲州街道歩きではこの【第12回】から12日の旅程になります。夕食を一緒にした皆さんとはこれまでの回で何度かご一緒した方ばかりですし、甲州街道最大の難所である笹子峠を一緒に越えてきたということで一種の連帯感のようなものも芽生えてきています。加えて、皆さん、東海道や中山道を踏破した兵揃い(つわものぞろい)なので、旧街道歩きマニアということでやたらと話が弾みます。気持ちよくワインを飲むうち、笹子峠越えの疲れもあり、一気に酔いが回ってきてしまいました。

宿泊は山梨市のホテルルートイン山梨。大浴場で疲れを癒し、2日目に備えます。2日目は今日のゴールだった大和橋を出発して、鶴瀬宿、勝沼宿、栗原宿、日川宿を通り石和宿までの5つの宿場を通る行程で、1日で歩く距離で言うと20km弱と、これまでの甲州街道歩き最長の距離となるようです。



……(その7)に続きます。

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