2019年5月1日水曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その1)

4月に入り、冬の間、休んでいた甲州街道歩きを再開しました。再開初日、46()はいきなり甲州街道最大の難所と言われた笹子峠(標高1,096メートル)を越えます。

今回の集合場所はJR東京駅の丸の内口の丸の内ビルディング(丸ビル)前でした。ここから観光バスに乗り、この日のウォーキングのスタートポイントに向かいます。
「晴れ男のレジェンド」は今回も健在で、この日の関東地方は朝からよく晴れています。晴れているどころか、天気予報によると、この週末は土曜・日曜と気圧配置の影響で南から暖かく湿った空気が流れ込む関係で予想最高気温が20℃以上と、4月の上旬にも関わらず、初夏のような陽気に見舞われるとのことです。この土曜・日曜で歩く甲府盆地は周囲を高い山に囲まれているため、それにフェーン現象が加わるので、さらに高温、おそらく25℃近くまで気温が上昇するのではないかと思われます。昼間、気温が上昇しても夜はそれなりに冷え込むと予想されますし、予想が外れて、平年並みの戻ることだって考えられます。おまけに、笹子峠という急な山道を含め長い距離を歩きますし…。この日は着る服に注意が必要で、思いのほかリュックが膨らんでいます。

観光バスは神田橋ICから首都高速道路に入ります。バスの車窓には見事に咲き誇った皇居北の丸公園と千鳥ヶ淵(内濠)沿いの桜が見えます。今年は暖冬で、東京都心の桜(ソメイヨシノ)の開花宣言が出されたのは321日と平年よりも5日ほど早く、満開日も327日と平年よりも7日も早かったのですが、その後、真冬の寒気が戻り寒い日がこのところ数日間続いたため、満開の桜も散りだすのが遅れ、美しい満開の桜(ソメイヨシノ)が長く楽しめました。この日(46)も東京の桜の名所として知られる北の丸公園や千鳥ヶ淵には大勢のお花見客や観光客が押し寄せているようです。また、この時期は各地で小学校や中学校、高校、大学などの入学式が行われたところが多く、満開の桜に見守られて、入学式を迎えた…という子供達も多かったのではないでしょうか。
まさに「三寒四温」ってやつですね。「三寒四温」とは、晩秋から初春にかけて、3日間くらい寒い日が続いたのちに4日間くらい暖かい日が訪れるというように、約7日の周期で寒暖が繰り返されることをいいます。これは朝鮮半島や中国北東部の冬季に典型的な気象現象で、冬のシベリア大陸上に発達する高気圧(シベリア高気圧)がほぼ 7日の周期で規則的に強まったり弱まったりするために起こる現象のことです。この「三寒四温」は日本列島の本土の天候にはあまりはっきりとは現れず、ひと冬に1回あるかないかという程度の現象です。これは、日本列島付近の冬の天候が、シベリア高気圧だけでなく、太平洋の高気圧(太平洋高気圧)の影響を受け、天候の変化の様相が複雑になるからです。

とはいえ、日本列島でも冬から早春にかけてのこの時期は、この「三寒四温」の傾向が見られることがあります。しかも、この現象が現れる時には気温の差が朝鮮半島や中国北東部と言った大陸以上に極端になることが多いようです。これは、このシベリア高気圧と太平洋高気圧の2つの高気圧の影響を受けることによるものです。シベリア高気圧の勢力が強くなると強い寒気が日本列島の上空にも強い北風となって押し寄せ、気温が急激に下がります。次に、シベリア高気圧の勢力が弱まると、今度は太平洋高気圧から暖かく湿った暖気が日本列島の上空に強い南風となって押し寄せ、急激に気温が上がります。で、次にシベリア高気圧の勢力が強まり日本列島の上空に寒気が押し寄せてくると、太平洋高気圧によってもたらされら暖かく湿った空気と、シベリア高気圧によってもたらされる冷たく乾いた空気が日本列島でぶつかり合い、天気が崩れ、山間部では時として季節はずれの雪が降ったりもします (実際、今年は410日に東北地方から関東地方の山間部にかけて雪が降りました)

前述のように、この日(46)は北から強い寒気が流れ込んで気温が低い日が続いていた前々日あたりまでとは一変、シベリア高気圧の勢力が弱まった関係で、太平洋高気圧からの暖かく湿った空気が南風となって流れ込んでくる影響で、関東地方も予想最高気温が20℃以上になるとのこと。1週間前に今回のコースを下見に行ったというウォーキングリーダーさんの話によると、1週間前の笹子峠周辺はうっすらと雪が残っていたということでしたが、この暖気の影響で、その残っていた雪もすべて融けてしまって、随分と歩きやすくなっているのではないかと予想されます。まさに「晴れ男のレジェンド」は今回も健在ってところです。

とは言え、この時期に心配すべきは“風”、それも暴風です。春は暖かく穏やか…というイメージがありますが、実際は3月から5月にかけてのこの春の時期が一番天候の不安定な時期なのです。皆さんも「春の嵐(メイストーム:May storm)」という言葉を聞いたことがおありかと思います。4月から5月にかけてのこの時期は、急速に暖かくなって過ごしやすい季節なのですが、「三寒四温」のところでも書きましたが、この時期はシベリア高気圧から吹き出してくる北からの冷たく乾いた空気と、太平洋高気圧から吹き出してくる南からの暖かく湿った空気が日本列島付近でぶつかり合って、極端な空気の温度差を生じます。その極端な温度差を持つ空気のぶつかり合いから上昇気流が発生することで温帯低気圧が発生し、急速にその勢力が発達することがあります。この急速に発達する低気圧は、急激な天候の変化、特に風が急激に強くなる傾向があります。時には、台風(風速17メートル/秒以上:10分間平均)並みの暴風となり、風速30メートル/秒を超す暴風になることもあります。ちなみに、30メートル/秒の強風と言うと、走行中のトラックが横転したり、道路標識が傾くほどの暴風です。しかも、台風の強風が中心が近づくにつれて強まるのに対し、「春の嵐」の強風は低気圧の中心から離れた場所でも強いのが特徴で、そのため日本列島を覆うような広い範囲で暴風が吹き荒れることがあるので注意が必要です。「春の嵐」の発生が予想されると、気象庁では警戒を呼びかけるために警報や注意報を発令します。竜巻注意報が発令される場合もあります。

幸い、この日(46)に関しては気象庁からこの「春の嵐」に関する警報も注意報も発令されておりませんでしたし、天気図を見る限り日本列島付近で目立った温帯低気圧は見られなかったものの、安心はできません。これだけの気温差があるわけですから、天気図に表れない規模の小さな温帯低気圧が発生していることは十分に考えられますし、なんと言っても、この日は標高1,096メートルの笹子峠を越えます。風(風速)は高度が高くなるにつれて速くなる傾向にありますので、峠のサミット(頂上)付近では強い風が吹くことが十分に予想されます。最低限、そのための準備はしておこう…。そういうことを想像しながらバスに揺られていました (気象情報会社に15年間も勤めたおかげで、こういう知識は増えました)

観光バスは首都高速都心環状線→首都高速4号新宿線中央自動車道と、たいした渋滞に巻き込まれることもなく、高速道路を西に向かって順調に走ります。このルートは旧甲州街道のルートと基本的に重なり、高速道路の高架下には、これまでの「甲州街道歩き」で通ってきた街々の風景が続きます。私の「甲州街道歩き」は114()以来約5ヶ月ぶりですが、そうした街々の風景を眺めながら、そこを歩いた時のことを思い出していると、約5ヶ月間のギャップが徐々に埋まってくる感じがしてきます。中央自動車道の談合坂サービスエリア(SA:下り車線)でしばしのトイレ休憩。この談合坂SA(下り車線)のすぐ横は、旧甲州街道の野田尻宿がありました。その先の区間では、旧甲州街道が中央自動車道により分断されているところが幾つかあり、その前後では、まさに私達が実際に歩いた旧甲州街道そのものが見えたりもします。これは旧甲州街道を歩いた者でしか分からないことですね。

山梨県に入り、中央自動車道を大月インターチェンジ(IC)で降り、現在の甲州街道、国道20号線を西に向かいます。下花咲宿、上花咲宿、ここまでは114()の【第10回】猿橋宿駒橋宿大月宿下花咲宿上花咲宿真木諏訪神社で歩いたところです。しかし、ここから先の前回【第11回】真木諏訪神社下初狩宿中初狩宿白野宿阿弥陀海道宿黒野田宿の区間については、あいにく私はどうしても外せない用事が入っていたので参加することができませんでした。ウォーキングリーダーさんの話によると、この【第11回】のコースは基本的に国道20号線にほぼ沿っているということなので、バスの車窓を眺めて、甲州街道歩きのウォーキングの疑似体験をすることにしました (バスの車窓から下見はできたので、機会があれば自力で歩いて、空白になる区間を埋めたいと思っています)
JR東京駅の丸の内口を出発して西に向かうこと2時間半。連れていかれたところはこの日の甲州街道歩きのスタートポイントである黒野田宿(山梨県大月市笹子町)のはずれにある「笹子・天野記念公園」駐車場でした。
この「笹子・天野記念公園」は国道20号線沿いにあり、このすぐ先で山梨県道212号日影笹子線と分岐します。この山梨県道212号日影笹子線は山梨県大月市から同県甲州市の境界をまたぐ笹子峠越えの峠道で、旧の国道20号線です。昭和33(1958)に当時有料であった新笹子トンネルが開通した時に国道20号線が新笹子トンネルのルートに移り、昭和46(1971)に無料開放された際に、この旧国道20号線の曲がりくねった峠道が旧建設省から山梨県に移管されて、山梨県道212号日影笹子線に降格された道路です。

この新笹子トンネルの建設に尽力したのが昭和26(1951)、山梨県出身者として初の知事に当選した天野久知事で、この天野知事の働きかけがあって笹子峠越えの区間に新しいトンネルを開削することが国営の直轄事業となり、国道20号線改築工事として、昭和31(1956)に着工。2年後の昭和33(1958) 1123日に工事が完了。同年128日に日本道路公団が管理する一般有料道路「笹子トンネル」として供用が開始されました。この新笹子トンネルは全長2,953メートル。完成当時、道路トンネルとしては日本第2位の長さのトンネルでした。

この新笹子トンネルの開通により、従来、果物や野菜などを東京の市場へ出荷する際には国鉄中央本線による貨物列車による輸送が主であったのが、トンネルの開通や国道20号線の舗装整備によりほとんどがこのルートのトラック輸送に転換されました。また、従来も一部で利用されていたトラック輸送では、険しい峠道が続く旧国道20号線(現在の山梨県道212号日影笹子線)を避けて、大月から富士吉田を経由して御坂峠を越える現在の国道137号線・139号線ルートが使われていたのですが、新笹子トンネルの開通によって距離にして約30km、時間にして約1時間40分短縮することが可能となり、山梨県の経済において多大な恩恵をもたらしました。「笹子・天野記念公園」はその新笹子トンネルの開通に尽力した天野久知事の功績を讃えるために、現在の国道20号線と旧の国道20号線である山梨県道212号日影笹子線が分岐するこの地点に作られた公園のようです。現在は、笹子峠越えや、笹子雁ヶ腹摺山をはじめとした大菩薩連嶺、奥秩父山塊の山々への登山口となっていて、そのハイカーや登山客向けなのでしょう駐車場は観光バスが数台停車できるスペースがあります。

その「笹子・天野記念公園」でバスを降りると、まずは入念なストレッチです。約5ヶ月ぶりの甲州街道歩き。それもいきなり甲州街道最大の難所と呼ばれる笹子峠越えなので、ストレッチ体操もいつもより念入りに行いました。また、笹子峠以降の甲州街道歩きやさらなる街道歩き用に新しく購入したトレッキングシューズの履きおろしとなるので、その靴紐をしっかりと結び直しました。この新しいトレッキングシューズは、これまで私が使っていたどちらかと言うと登山用のトレッキングシューズではなく、険しい山道だけでなく、舗装された平坦な街道歩きでも使えるように足首が動きやすいよう浅めにカットされた軽量のトレッキングシューズです。中山道街道歩きや甲州街道歩きでご一緒させていただいている街道歩きのベテランの皆さんの足元を参考にさせていただきました。まさに街道歩きに適したと思われるトレッキングシューズです (それまでは2つのトレッキングシューズを使い分けていました)

このあたりの地名は追分。追分とは街道の分岐点のことで、ここの追分の地名は、その先から小田原・沼津方面への分かれ道があったことによるものだそうです。この小田原・沼津方面への街道は、御坂峠を越えて河口湖・山中湖・御殿場方面に行ったのでしょう。そのルートを想像するに、笹子峠越え以上に大変な道だったのではないでしょうか。
ストレッチ体操が終わり、いよいよ甲州街道歩きの再開です。いよいよ甲州街道最大の難所と言われる笹子峠越えです。さすがにこのあたりは標高が550メートルを超えているので、サクラもやっと咲き始めといったところです。峠を越えた先の甲府盆地のサクラが楽しみです。
笹子峠は甲州街道の江戸と下諏訪のほぼ中間の、黒野田宿(山梨県大月市)と駒飼宿(山梨県甲州市)の間にある峠で、峠の最高地点の標高は1,096メートル。

私のこれまでの旧街道歩きでは、中山道の碓氷峠(標高1.188メートル)、笠取峠(標高900メートル)、和田峠(標高1,600メートル)、塩尻峠(標高1,012メートル)、鳥居峠(標高1,197メートル)、甲州街道の小仏峠(標高548メートル)と幾つかの峠を越えてきましたが、久々の1,000メートル越えです。峠越えの厳しさは最高地点の絶対的な標高ではなくて、登り始める手前の宿場との標高差で論じないといけない部分がありますが、これも和田峠の780メートル(和田宿との標高差)、碓氷峠の723メートル(坂本宿との標高差)といった700メートルを超える中山道の2大難所ほどではないものの、手前の黒野田宿との標高差は515メートル!! 久々の標高差500メートルを超える本格的な峠越えになります。胸が踊ります。

ちなみに、東海道にある箱根峠の標高は846メートル、小田原宿との標高差は836メートル。小田原宿から箱根峠を越えて次の三島宿までの距離は約8(32km)。このため『箱根八里』と呼ばれていました。この坂道は唱歌『箱根八里』で「箱根の山は天下の険」と唄われたように、東海道随一の難所でした。絶対標高は1,000メートル以下ですが、手前の宿場との標高差は旧江戸五街道で随一でした。この小田原宿からの箱根峠越えと言えば、近年は毎年12日と翌3日の2日間にわたって行われる正月の風物詩『箱根駅伝(正式名称「関東学生陸上競技連盟主催 東京箱根間往復大学駅伝競走」)』の「山上りの5(山下りの6)」として有名な区間です。この箱根駅伝の5(6)は国道1号線を走るため、必ずしも旧東海道の道筋とはルートが微妙に異なるのですが、それでも標高846メートルの箱根峠を越えていきます。よくぞこの「天下の険」と呼ばれる峠を越える駅伝競走を企画したものだと感心しちゃいます。私はまだ東海道を歩いていないので、いつかこの箱根峠越えにも挑戦したいと思っています。なお、この『箱根八里』の小田原宿と三島宿の間には、箱根宿(標高725メートル)が置かれていました。

旧街道歩きの最大の醍醐味はこの「峠越え」にある…というのが私の持論です。江戸時代以前はヒトとモノが行き交う日本の幹線道路だった旧街道も、明治維新以降、モータリゼーションの進展や土木技術の発達により自動車が通行できるように道幅が広く、傾斜も緩やかな道路に改修されたり、トンネルが開削されたり、近代的な橋が架けられたり…と大きくその姿を変えてきました。なかにはルート自体が大きく異なる区間もあります。そういう中にあって、峠の区間だけは往時の道路がほぼそのままの状態で現在も残っているところが数多くあります (たいていはその峠の下を通るトンネルに姿を変えているので、ルートも道幅もほぼ往時の状態のままで残っているのです)

また、峠は、通常、屏風のように立ちはだかる山々の稜線にあります。水は高いところから低いところへと流れますので、この稜線のどちら側に雨が降るかで流れ込む川が変わり、注ぎ込む海が変わってきます。これが分水界(分水嶺)と呼ばれるもので、稜線と分水界が一致していることがほとんどです。峠は山々の稜線にありますので、峠を越える前と後では、流れる川の向きが変わってきます。さらに、高い峠はその前後で人々の容易な往来を妨げてきたことから、峠の手前と先とでは、そこに暮らす人々の暮らしや文化が微妙に変わってきたりもします。その人々の暮らしや文化の違いは、例えば建物の様式などに微妙に現れてきたりもします。したがって、峠を越える手前と、峠を下った先とでは、見える周囲の風景がガラッと一変するということもあるわけです。まさに「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」、そのものです。この「峠越え」の醍醐味が理解できるようになれば、あなたも立派な旧街道歩きマニアです(^-^)v

先ほど、江戸時代以前はヒトとモノが行き交う日本の幹線道路だった旧街道も、明治維新以降、モータリゼーションの進展や土木技術の発達により自動車が通行できるように道幅が広く、傾斜も緩やかな道路に改修されたり、トンネルが開削されたり、近代的な橋が架けられたり…と大きくその姿を変えてきたということを書きましたが、この笹子峠もそうしたところです。

旧甲州街道は山梨県道212号日影笹子線に沿って伸びています。沿っていると言っても、山梨県道212号日影笹子線はクルマが走行できるように道路の傾斜を緩くするためにS字のヘアピンカーブを何度も繰り返す九十九折(つづらおり)の道になっていたり、大きく迂回するルートをとっているのですが、旧甲州街道は基本ヒトや馬、牛が歩いて通る道なので、多少の急傾斜はおかまいなく、その山梨県道212号日影笹子線のS字カーブや迂回路を突っ切るように伸びています。

笹子峠が甲州街道最大の難所だということはこれまで何度も書いてきましたが、どのくらいの難所であったかは、この旧甲州街道とほぼ並行して伸びる山梨県道212号日影笹子線の歴史によく表われています。明治18(1885)の国道指定(いわゆる明治国道)では、江戸時代以来の旧甲州街道がそのまま「国道16号線」に指定され、その後、大正9(1920)施行の道路法(旧道路法)で国道8号線に指定されたのですが、昭和4(1929)に国道8号線のルートが変更され、江戸時代のままで未整備の笹子峠越えの区間が国道から外されて、大月から富士吉田を経由し御坂峠を越えるルート(現在の国道139号線・137号線)が国道8号線となりました。再び笹子峠越えのルートが国道に指定されるのは昭和27(1952)のことです。この間、昭和13(1938)に笹子峠の直下を貫く笹子トンネル(笹子隧道)が開通し、その前後の道路も整備されていきました。しかし、トンネルへ通じる道はヘアピンカーブの続く狭隘な未舗装の道路であり、昭和27(1952)にこの笹子隧道経由の道が再び国道20号線に指定されたものの、甲府盆地で収穫された果実や野菜などの首都圏への主要な流通経路とはならず、距離は遠いものの大月から富士吉田を経由し御坂峠を越えるルートがずっと物流の中心である状態が続きました。そして、昭和33(1958)に当時有料であった新笹子トンネルが開通した時に国道20号線が新笹子トンネルのルートに移り、やっと物流の中心は笹子峠越え(新笹子トンネル)のルートに戻ったわけです。このように、笹子峠は江戸(東京)と甲府を結ぶ最短ルートではあるものの、峻険な山岳地帯を通るため、近代化されて現在のような姿に至るまでには文字通り随分と遠回りを必要としました。なお、山梨県道212号日影笹子線の笹子トンネル(笹子隧道)付近は、今も冬季(12月~3)になると雪で閉ざされ、数ヶ月に渡って閉鎖されます。

笹子峠は江戸(東京)と甲府を結ぶ最短ルートであるため、この山梨県道212号日影笹子線や国道20号線の笹子トンネル(笹子隧道)、新笹子トンネル(新笹子隧道)のほかにも、並行する幾つかのトンネルがあります。

まず鉄道では、JR(旧国鉄)の中央本線も笹子駅〜甲斐大和駅(旧駅名:初鹿野駅)間の笹子峠を笹子トンネル(全長4,656メートル:下り線)と新笹子トンネル(全長4,670メートル:上り線)の並行する2(複線)のトンネルで抜けています。この鉄道による笹子峠越えも難工事だったようです。甲府と東京を鉄道で結ぶ計画は、長野県の諏訪湖周辺で生産される上質の生糸を大消費地である首都東京や貿易港の横浜に運ぶために明治政府により国家的急務とされ、明治25(1892)に帝国議会で成立した鉄道敷設法の筆頭に挙げられ、建設に向けた測量が開始されました。その中でもこの笹子峠が最大の難工事の区間とされていました。測量の結果、複数の案が考えられ、中には笹子峠そのものを平均66.7パーミル(1,000メートル進む間に66.7メートル登る)勾配のアプト式ラック鉄道で越えるという途方もない計画もありました。結局は笹子峠の隣の米澤峠の下をトンネルで抜けるという案に落ち着きました(そのトンネル案でもトンネル前後の区間の最大斜度は25パーミルの急勾配です。トンネル内はほぼ平坦)。明治29(1896)5月に八王子に建設工事の事務所が設置されて、開削工事に着工。削岩機や電気機関車牽引のトロッコ等、当時の最先端土木技術を使い、約8年の歳月を経て明治36(1903)21日に開通しました。前述のように笹子トンネルは全長が4,656メートル。昭和6(1931)91日に上越線の清水トンネル(全長9,702メートル)が開通するまでは日本一長い鉄道トンネルでした。笹子トンネルは当初は単線のトンネルでしたが、その後、昭和41(1966)1212日に並行して新笹子トンネルが開通して複線化されました。前述のとおり、このJR中央本線の笹子トンネルは厳密には笹子峠ではなく隣の米澤峠の下を通っていますが、甲州街道の笹子峠に敬意を評して笹子トンネルと命名されたようです。ちなみに、笹子トンネルは昭和6(1931)に電化されたのですが、明治時代に開削された狭小断面のトンネルをそのまま電化しているため、JR中央本線(東線)ではパンタグラフ搭載部を低くして低屋根車とした特殊仕様の電気機関車や電車が使われてきました。

次に高速道路。中央自動車道の大月ジャンクション(JCT)〜勝沼インターチェンジ(IC)間の笹子峠に昭和52(1977)1220日開通の笹子トンネルが通っています。全長は(上り線)4,784メートル、(下り線)4,717メートル。中央自動車道では恵那山トンネルに次いで2番目に長いトンネルです。この中央自動車道の笹子トンネルは平成24(2012)122日に上り線の東京寄りの場所で、天井が崩落する事故が発生。現場を走行中の自動車3台が落下した天井板の下敷きとなり死者9名、重軽傷者2名の事故が発生したことで注目が集まりました。

さらに、東京と大阪の間を最高設計速度505km/時の高速走行が可能な超電導磁気浮上式リニアモーターカーで結ぶべく2027年の開業を目指して現在建設が進められている「リニア中央新幹線」。その「リニア中央新幹線」に先行する「山梨リニア実験線(総延長42.8km)」として開通している区間にも笹子トンネルがあります。この山梨リニア実験線の先行区間の起点は笹子トンネルの中に位置しており、笹子トンネル自体は、この先、より長いトンネルになる予定ですが、先行区間で供用されている部分だけでも5,983メートルの長さがあります。この山梨リニア実験線では、平成27(2015)421日に603km/時の有人走行を行い、鉄道における世界最高速度記録を更新しました。

このように笹子峠は昔から現代に至るまで日本列島を貫く交通の要衝でした。それはこの先も続きます。


……(その2)に続きます。

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