2019年5月8日水曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その8)

曹洞宗の寺院・真竜寺です。桜が見事に咲き誇っています。この真竜寺の奥をJR中央本線の線路が伸びていて、新深沢トンネルと新深沢第2トンネルがあります。その手前に、その新深沢トンネルと新深沢第2トンネルの新設に伴って平成5(1997)に廃止された深沢トンネルがあって旧甲州街道からも見えるはずなのですが、うっかりして見落としてしまいました。この深沢トンネルは明治36(1903)の国鉄中央本線、初鹿野駅(現・甲斐大和駅)~甲府駅間の開業に先立ち、明治33(1900)に竣工した全長1,106メートルのトンネルで、風格ある石積みの坑門を持つ明治期の典型的な構造を持つトンネルです。平成5(1997)に廃止された後はJR東日本から地元の勝沼町に無償譲渡され、勝沼町ではトンネル内の気象環境条件がワインの保管に適していることに着目し、平成17(2005)に「勝沼トンネル ワインカーヴ(地下貯蔵庫)」としてオープンさせました。このワインカーヴはボトル約100万本の収容能力があり、地元のワイナリーのほか、レストランや個人向けにも貸し出されているのだそうです。
真竜寺の石柱を過ぎると、石垣の上に「古跡 血洗澤」というなにやら物騒な文字が書かれた標柱が立っています。その標柱には「この地は土屋惣蔵が逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われています」と書かれています。
甲斐武田家の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』によると、跡部大炊介勝資(かつすけ)は武田晴信(信玄)・勝頼期には譜代家老などを務めた側近の人物ですが、同じく側近である長坂光堅(釣閑斎)とともに武田家没落の原因となった奸臣として評されています。武田勝頼の自害により甲斐武田家が滅亡した際、最後に勝頼を裏切って籠っていた駒飼の山中より逃亡したとされています。

土屋惣蔵昌恒(まさつね)も甲斐武田家の譜代家老衆の1人で、最後まで主君・武田勝頼に従った忠臣として知られています。武田勝頼一行が小山田信茂を頼って笹子峠を越えて郡内へ逃れる最中に信茂の離反を知り、動揺する勝頼側近の跡部大炊介勝資に対して、これを非難したといわれています。『甲陽軍鑑』によれば、勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、勝頼が自害するまで間の時間を稼いで織田勢と戦って奮戦しましたが、最後は討ち死にしました。土屋惣蔵昌恒が自ら跡部大炊介勝資を追尾して斬ったかどうかは確かではありませんが、甲斐武田家滅亡に際しては、この笹子峠一帯で様々な人間ドラマが繰り広げられたであろうことは、想像に難くありません。

ちなみに、土屋惣蔵昌恒の子息の土屋忠直は母に連れられて辛くもこの場を脱出。その後、甲斐国は三河国の徳川家康の領土となり、土屋忠直の同心70名は徳川家臣・井伊直政に付属されました。忠直自身は天正16(1588)に家康に拝謁し、家康の側室の阿茶局により養育され、慶長7(1602)には上総久留里藩2万石の藩主として大名となりました。いっぽう、跡部大炊介勝資の子息の跡部大炊介昌勝も、後に徳川氏の旗本になっています。甲州街道の宿場である八王子を拠点に甲斐方面からの侵攻に備えた「八王子千人同心」もそうですが、甲斐武田家の滅亡後、徳川家康は武田家の遺臣達を数多く召し抱えました。こういうところに徳川家康の懐の深さを感じます。

国道20号線は日川に沿って緩やかにカーブしながら伸びています。このあたりは日川の河岸段丘の斜面にあたり、平らな部分が少ないので、旧甲州街道も現在の国道20号線と同じようなところを通っていたと考えられます。
右手の石垣の上に「古跡 鞍懸」と書かれた標柱が立っています。その標柱によると、この地は逃亡する武田勝頼の家臣・長坂長閑(釣閑)が土屋惣蔵に追われ、落ちた馬の鞍が路傍の桜の木に引っ掛かっていたところと言われているのだそうです。『甲陽軍鑑』によると、長坂光堅(釣閑斎)は武田晴信(信玄)・勝頼期には譜代家老などを務めた側近の人物ですが、跡部大炊介勝資とともに武田家没落の原因となった奸臣として評されています。跡部大炊介勝資と同様、武田勝頼の自害により甲斐武田家が滅亡した際、最後に勝頼を裏切って籠っていた駒飼の山中より逃亡したとされています。逃亡後、織田勢に捕縛され、甲府で処刑されたと伝えられています。ここでも逃亡する長坂光堅(釣閑斎)を追ったのは土屋惣蔵昌恒。さすがに甲斐国。このあたりの地では瓦解した武田家臣団の中にあって武田勝頼に最後まで従い、勝頼に殉じて討ち死にした土屋惣蔵昌恒が一番のヒーローなんでしょうね。
国道20号線の長柿洞門(おさがきどうもん)です。洞門とは落石や雪崩の防止のため、道路に接した擁壁を用いて設けたトンネル状の工作物のことです。洞門の抗口の桜が綺麗です。
旧甲州街道は洞門には入らず、洞門横の脇道を進みます。このあたりは山が日川に沿って迫っているところなので、往時も山肌に沿ったこの細い道を進んでいたようです。なかなか雰囲気のいい道です。
その旧甲州街道の横に、日川を跨ぐ古い吊り橋が架かっています。床板が朽ち果てていて、ところどころ無くなっていて、渡ることはできません。長垣橋という名のこの橋、竣工の銘版を見ると昭和37(1962)328日と日付が刻まれています。対岸の集落に住む人達にとって、生活のための重要な橋だったのでしょうね。クルマの通行ができないため、少し下流に架かる新しい橋に役目を引き継ぎ、廃橋になっているようです。なかなか趣きのある吊り橋です。
その吊り橋のたもとに松尾芭蕉と小林一茶の句碑が立っています。
観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲  芭蕉」

「松風に 添う川音の 時雨かな  一茶」

芭蕉の句にある“観音”とは横吹観音堂のことではないかと推定されます。横吹観音堂は先ほど通ってきた長柿洞門の坑口脇(この側道とは反対側)から細く急峻な旧道を少し登ったところにあります。この横吹観音堂は安藤広重にも絶賛された景勝地だったそうですが、今回は時間の関係で立ち寄りません。松尾芭蕉といえば門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記『奥の細道』が有名ですが、この甲州街道沿線にも多くの句碑が立っています。実は、松尾芭蕉は甲斐国とも縁が深く、長く滞在したことがあるのです。松尾芭蕉は、天和2年(1682年)の暮れに起きた江戸の大火(天和の大火)に遭い深川の庵を失い、弟子であった高山傳右衛門(俳号:麋塒)を頼って甲州谷村町(現在の都留市)に長期間滞在しました。松尾芭蕉39歳のことです。高山傳右衛門は、当時谷村藩主秋元蕎朝の国家老でした。そこで、ここ甲州でも幾つもの句を詠んでいます。

松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人・小林一茶も日本全国へ俳諧行脚の旅に出掛け、この甲州街道も通って多くの句を詠んだとされています。ちなみに、この句がこの地で詠まれたかどうかは定かではありません。

芭蕉と一茶の句碑のあるところに長柿洞門の反対側の坑口があり、旧甲州街道はその地点で国道20号線の下を地下道で横切り、その先の坂道を円を描くように下っていきます。横吹観音堂へ登る旧道の入口はここにもあります。
円を描くように下っていく途中に「古跡 武田不動尊」があります。この武田不動尊は武田勝頼一行が織田方の滝川一益の軍勢に追われて敗走している時、武田家の守り神としてもっていた不動尊を村人に託したものが祀られているのだそうです。その武田勝頼が村人に託したといわれる武田不動尊は、この入口より遥か下に隠すように祀られているのだそうです。かなり急な石段を下っていった先だそうで、ここも時間の関係で訪れるのは諦めました。それにしても、このあたりは甲斐武田家滅亡にまつわる伝承が幾つも残っているところです。
見上げると、先ほどの廃吊り橋が樹々の間から見えます。
ここからは国道20号線から1段下ったところを伸びる旧道を歩きます。
ここが旧甲州街道であったことを証明するかのように、途中に民家が建ち並んでいるところがあります。往時もこんな感じだったのではないでしょうか。
坂道を上がり、国道20号線に合流します。
道路脇に道祖神が祀られています。道祖神は厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するため、村の守り神として主に旧街道の村境や村の入口に祀られることが多いのですが、甲州街道、特に甲斐国の道祖神の特徴は丸い石でできていること。道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はなく、形状も男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富んでいるのですが、この丸石による道祖神はこの甲斐国ならではのもののようです。中山道では祝事像や双体像、文字碑が主体だったので、最初に甲州街道の丸石による道祖神を見た時には随分と違和感があったのですが、道中、幾つも見るうちに見慣れてきました。
国道20号線を進みます。遠くに甲府盆地が見えてきます。これから行く勝沼あたりでしょうか。昨日、夕食を摂った勝沼ぶどうの丘から、満開のサクランボの淡いピンクとモモの濃いピンクの2色に彩られた周辺の美しい光景を見ましたが、まさにその濃淡2色のピンク色で彩られた美しい風景が広がっています。
このあたりに江戸の日本橋を出てから29里目の「横吹の一里塚」があったそうなのですが、塚も案内表示も残っていません。


……(その9)に続きます。

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