2019年5月29日水曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その2)

甲斐善光寺の駐車場に停車した観光バスの車内で昼食のお弁当をいただきました。昼食後、まずは甲斐善光寺に参拝です。
浄土宗の寺院、甲斐善光寺の山号は定額山。正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざん じょうちいん ぜんこうじ)と称します。長野県長野市にある善光寺(信濃善光寺)をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれることが多く、甲州善光寺、甲府善光寺とも呼ばれることもあります。この甲斐善光寺は永禄元年(1558)、甲斐国国主であった武田信玄によってこの山梨郡板垣郷の地に創建されました。開山は信濃善光寺大本願37世の鏡空和尚です。
天文10(1541)、武田晴信(のちの信玄)は父親の武田信虎を追放し、甲斐国の国主の家督を相続しました。武田晴信はその直後から信濃国への侵攻を本格化させ、北信濃の国衆を庇護する越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)と衝突し、北信濃(長野県長野市南郊)において5次に渡るいわゆる「川中島の戦い」を繰り広げました。
天文24(改元後の弘治元年:1555)、第3次の川中島の戦いが駿河国・今川義元の仲介により武田・長尾間の和睦が成立し終結すると、長尾景虎は信濃善光寺・大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰り、永禄初年(1558)に直江津(現在の新潟県上越市)に如来堂を建設しました。いっぽう、武田晴信も弘治3(1557)に信濃善光寺北西の水内郡にあった葛山城(長野市)を落とし一帯を勢力下に置くと、善光寺別当の栗田寛久に命じ信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や数々の寺宝を甲斐国の甲府へ移転させ、翌永禄元年(1558)、この地に甲斐善光寺を創建しました。これは信濃善光寺が戦火にさらされることを恐れ、本尊以下諸仏・寺宝類をこの寺に移したとのことですが、真偽のほどは分かりません。時系列から想像するに、たぶんに長尾景虎への対抗意識があったように思われます。甲斐善光寺の造営は長期に渡り、善光寺如来はしばらく仮堂に収められ、永禄8(1565)に本堂が完成し、入仏供養が行われたといわれています。その後も、元亀年間(1570年〜1573)に至るまで造営は続いたそうです。
天正10(1582)、織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が行われ、武田勝頼は駒飼の山中で自害し、甲斐武田家は滅亡したのはこれまで何度も書いてきたことです。信長は戦後に残党狩りを行い、甲府で多くの武田家臣を処刑しました。『甲陽軍鑑』等によれば、この甲斐善光寺では武田勝頼の従兄弟の葛山信貞、郡内領主・小山田氏の当主小山田信茂(最終的に武田勝頼を裏切った岩殿山城城主)、小山田一族の小山田八左衛門尉、山県同心の小菅五郎兵衛らが処刑されたといわれています。甲斐武田家の滅亡後、織田信長の嫡男・織田信忠が善光寺本尊の阿弥陀如来像を美濃国岐阜城城下(岐阜県岐阜市)に移転させたのですが、その直後に起きた本能寺の変により織田信長・信忠親子が討たれると、善光寺の阿弥陀如来は信長の次男・信雄により尾張国清州城城下(愛知県清須市)へ移転、さらに天正11(1583)には徳川家康により三河国吉田・遠江国浜松を経て、甲斐善光寺へ戻されました。京都で文禄5(1596)に発生した慶長伏見地震により京都東山の方広寺の大仏が倒壊したため、慶長2(1597)、豊臣秀吉の要請により、大仏の代わりとして善光寺の阿弥陀如来像が京へもたらされ、大仏殿に安置されました。そして、最終的には慶長3(1598)、信濃善光寺へ戻され、今に至っています。

本堂はなかなか荘厳な作りです。国の重要文化財に指定されています。
甲斐善光寺の山門です。本堂と同じく、国の重要文化財に指定されています。甲斐善光寺では、このほか現在の本尊である銅造阿弥陀如来及両脇侍立像(この像はかつての本尊の前立像であったのですが、本尊が信濃善光寺に再度移されるにあたって新しく本尊とされたのだそうです)、木造阿弥陀如来及両脇侍像2組が国の重要文化財に指定されています。
私が令和になって最初にいただいた御朱印は、甲斐善光寺の御朱印です。
甲斐善光寺への参拝が終わり、観光バスでJR中央本線の酒折駅に戻り、甲州街道歩きの再開です。
すぐに右に折れ、酒折宮に立ち寄ります。
踏切でJR中央本線の線路を渡ります。酒折駅に珍しい電車が停車していたので、思わずパチリ! JR東日本の215系近郊型電車です。東海道本線の混雑緩和をめざして開発された車両で、在来線初のオール2階建て車両として、座席数を増やしているのが特徴です。215系電車は東海道本線の快速「アクティー」や「湘南ライナー」のイメージが強いのですが、最近では観光シーズンの休日には行楽用の「ホリデー快速ビューやまなし」として中央本線でも運用されています。
酒折宮です。酒折宮は八幡神社と境内を共有しており、『古事記』と『日本書紀』(以下、「記紀」)に記載される日本武尊(ヤマトタケル)の東征の帰途、立ち寄ったとされる古い神社です。
日本武尊の東征は『古事記』では尾張から相模・上総を経て蝦夷に至り、帰路は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至ったと記載されています。一方、『日本書紀』では尾張から駿河・相模を経て上総から陸奥・蝦夷に至り、帰路は日高見国から常陸を経て甲斐酒折宮を経由し、武蔵から上野碓日坂を経て信濃、尾張に至ったと記載されています。いずれにせよ、この甲斐国酒折宮は帰路に立ち寄っています。その帰路、甲斐国酒折の地に立ち寄って営んだ行宮がこの酒折宮ということのようです。伝承によると、行在中に日本武尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打ち袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言したため、塩海足尼がその火打ち袋を神体とする社殿を造営して創祀したのだそうです。記紀に記される日本武尊の東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっています。また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、酒折宮も「坂」に関係する祭祀を司っていた神社であると考えられているのだそうです。
また、この酒折宮は連歌発祥の地と言われています。連歌とは、2人以上の人が、和歌の、上(かみ)の句と下(しも)の句とを互いに詠み合って、続けて行く形式の歌のことです。
記紀によると、日本武尊が酒折宮に滞在中のある夜、日本武尊が
「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」【意味】常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか
と家臣たちに歌いかけたところ、家臣の中に答える者がおらず、身分の低い焚き火番の老人が
「日々(かが)(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」【意味】指折り数えてみますと九泊十日かかりました
と答歌、日本武尊がこの老人の機知に感嘆したという伝えを載せ、『古事記』にはその老人を東国造に任命したと記載されています。


酒折宮の伝承ではこの2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥として位置づけられ、そこから連歌発祥の地として多くの学者・文学者が訪れる場所になったとされています。境内には山県大弐や本居宣長の碑が建てられています。
酒折宮から戻り、国道411号線を西に向かいます。
JR身延線の高架下を潜ります。
身延線(みのぶせん)は 静岡県富士市の富士駅と山梨県甲府市の甲府駅の間の88.4kmを結ぶJR東海の鉄道路線で、駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線です。身延線の前身は、私鉄の富士身延鉄道。である。江戸時代まで甲駿(甲斐国〜駿河国)間は富士川沿いの富士川舟運による物流が盛んで、明治中期には最盛期を迎えていました。そのため、中央本線の計画に際しては岩淵から富士川沿いに北上し、市川大門を経て甲府へ至る岩淵線ルートが構想されていたのですが、中央本線は八王子経由のルートが採用され、明治30(1901)に開通しました。中央本線の開通により舟運の相対的地位は低下したのですが、甲駿間を結ぶ鉄道路線の計画は明治28(1895)に東京在住の資本家を中心とする駿甲鉄道敷設計画として存続し、山梨・静岡の支援者を得て着工。この駿甲鉄道計画は資本金不足などにより途中で挫折したのですが、明治44(1911)には小野金六、根津嘉一郎や甲州財閥系の資本家による富士身延鉄道と、身延参詣者の輸送を目的とした身延軽便鉄道(甲駿軽便鉄道)の計画が同時に持ち上がり、東海道線の鈴川駅(現在の吉原駅)から大宮駅(現在の富士宮駅)までの馬車鉄道を運営していた富士鉄道を買収し、大正2(1913)に富士駅〜大宮町駅間が蒸気鉄道として開業。以後、順次延伸され、大正9(1920)に身延駅まで開通し、昭和3(1928)に甲府駅までの全線が開業しました。全線開通の10年後となる昭和13(1938)には路線が鉄道省(のちの国鉄)に借り上げられ、昭和16(1941)には国有化されました。現在はJR東海に移管され、特急「ふじかわ」が甲府駅〜富士駅〜静岡駅間で17往復運転されています。富士川沿いを行くなかなか魅力的なローカル線です。


……(その3)に続きます。

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