2019年5月11日土曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その11)

おっ! 旧甲州街道に似つかわしくない洋風建築の建物があります。「旧田中銀行博物館」です。
この旧田中銀行社屋は勝沼宿のほぼ中央、甲州街道沿いに位置しており、博物館として公開されているこの建物は当初、勝沼郵便電信局舎として明治31(1898)頃に建てられたものです。入母屋造り、瓦葺き、2階建てで、明治時代後期に多く建てられた擬洋風建築(すなわち、和洋折衷)の建物です。この旧田中銀行社屋は、敷地内にある土蔵(レンガ倉庫)とともに平成9(1997)に国の登録有形文化財に登録されました。また、平成19(2007)には、前述した社屋、土蔵(レンガ倉庫)、および繭倉を加えた3件が「甲州市のワイン醸造を支えたインフラ施設・建築物」として経済産業省から近代化産業遺産の認定遺産リストに選ばれました。
当初、郵便電信局舎として建てられたのは前述のとおりですが、その後、大正9年から昭和7年頃までは地元の名士である田中家が中心となって設立された山梨田中銀行のカウンターがある銀行社屋に改修され、重要書類の保管施設として土蔵(レンガ倉庫)、さらに繭蔵1棟、米蔵2棟が奥に増築されました。銀行の後は住宅としての改修が行われ、第二次世界大戦中は田中本家に皇室の北白川宮が疎開され、この旧田中銀行の社屋は北白川宮の関係者である水戸部孚の住宅として使用されました。
ちなみに、郵便電信局舎として建てられ、その後、銀行、住居、博物館と用途を変え、その都度内部は間取りを含め改修されてきたものの、登録有形文化財の名称が「旧田中銀行社屋」であるのは、土蔵(レンガ倉庫)3階建ての繭蔵など、銀行としての体裁が整ったまま保存されているためです。
旧田中銀行博物館のすぐ先で急な下り坂になります。手前の大きな石柱に緯度・経度と海抜が、隣の木柱にこの坂の解説が書かれています。この坂が「ようあん坂」。勝沼宿内で最も急な坂で、「ようあん坂」の名称は、坂の手前で「用有」、すなわち「用(用事)あんの(あるの)?」と呼び止められたことからとも、天野養庵(ようあん)という医者の家が近くにあったためとも伝えられています。海抜は400メートル。
坂を下ったところの勝沼小学校入口に、「勝沼小学校跡」の碑と「明治天皇勝沼行在所」の石柱と明治天皇の歌碑が建っています。
勝沼町内には、明治9年に造られた祝学校と明治13年に造られた勝沼学校の2棟の擬様式建築の学校がありました。ともに旧田中銀行と同じく南部下山大工の松木輝殷が手掛けたものです。この2校のうちの勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、明治136月の明治天皇御巡幸の折りには行在所となりました。木造2階建て、1階に車寄、2階にベランダをそなえたE字型の校舎で、その後の日本全国の学校建築や、明治村にある東山梨郡役所などの庁舎建築に大きな影響を与えました。残念ながら老朽化のため昭和30年に取り壊されてしまいましたが、玄関の柱と扉が今も保存されています。
さらに勝沼宿内を進みます。
おおっ!! この桃の木は見事です。1本の幹に白、淡いピンク、濃いピンクの3色の花が咲いています。この桃の木は接ぎ木でしょうか。相当の手が入った木です。
浄土宗の寺院・護念寺です。幕末の柏尾の戦いで戦死した新政府軍の鳥取藩士、木村伊助武則の墓があります。
勝沼地域総合局入口交差点です。このあたりが勝沼宿の諏訪方(西の出入口)でした。
勝沼宿の諏訪方を出たはずれに勝沼諏訪神社があります。この勝沼諏訪神社でひときわ目を引くのがこの大ケヤキ()です。目通り(目の高さに相当する部分の木の幹の太さ)4.8メートル、樹高約30メートル、樹齢300年と推定される勝沼最大のケヤキです。
諏訪神社の境内の桜(ソメイヨシノ)は今が満開です。
諏訪神社の横には宿場のはずれらしく道祖神と常夜灯が立っています。ここの道祖神も丸い石です。
等々力交差点です。この等々力交差点は街道が合流・分岐する「追分」で、右からやって来る国道411号線と合流します。この国道411号線は東京都八王子市から東京都西多摩郡奥多摩町を経て山梨県甲府市に至る一般国道で、同じ八王子〜甲府間を通る国道20号線(甲州街道)に対し、途中の青梅市から青梅街道を踏襲するルートを辿ります。この青梅街道の踏襲区間では甲州裏街道と呼ばれることがあります。この等々力交差点からは旧甲州街道を笛吹市石和町を経て終点の甲府市中心部まで西進します。ちなみに、この青梅街道(国道411号線)は山梨県東部にある大菩薩連嶺を柳沢峠(標高1,472メートル)で越えてここまで伸びてきています。江戸時代までの青梅街道は柳沢峠ではなく大菩薩峠(標高1,897メートル)を経由していました。大菩薩峠へは道幅も狭く通行も困難な青梅街道最大の難所であり、遭難者も多く出していたのですが、甲州街道より2里ほど距離が短く、途中に関所がないこともあり利用者は多かったのだそうです。
この等々力交差点のあたりに江戸の日本橋を出てから30里目の「等々力一里塚」がありました。塚の痕跡はまったく残っておらず、標柱のようなものもありません。

立派なお庭を持つ大きな旧家が建っています。このあたりの庄屋を務めた農家でしょうか。屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓が載っているので、養蚕をやられていたのでしょうね。
延命地蔵尊の前に道祖神と常夜灯が立っています。甲州街道にはよく目にする丸石の道祖神ですが、大きな1つ玉が台座に祀られているものが多い中で、ここの道祖神は小さい玉が沢山集まって山をなしている形状をしています。
その先に「杉御坊」の大きな石碑が立っています。杉御坊とは浄土真宗の寺院 萬福寺の別名です。この石碑のところから萬福寺に続く参道が伸びています、萬福寺の創建は推古12(西暦604)と大変に古く、聖徳太子の命を受けた使者により、 国史秦川勝の 協力を得て建立された東日本最古の寺院の1つと伝わっているのだそうです。時間の関係で立ち寄れませんでしたが、境内には聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って天から降り立った時に石につけた蹄の跡がある馬蹄石があり、聖徳太子伝説となっているのだそうです。また、寛元2(1228)には親鸞聖人がこの地に聖徳太子の足跡を偲んで訪れ、しばらく逗留しています。それ以後は浄土真宗の寺院として栄えました。この萬福寺を杉御坊と称するのは、親鸞聖人が逗留した時に箸を地面に刺して念仏を唱えたところ、杉の大木になったことに由来するとされているのだそうです。
このあたりはのどかな果樹園地帯で、ぶどう畑が続いています。現在、ぶどう畑では今年の収穫に向けて樹木の消毒をはじめとした作業が着々と行われています。
勝沼周辺はワインの製造が盛んなところで、多くのワイナリーがあります。その1つ、白百合醸造の駐車場に停めさせていただいた観光バスの車内で、お昼のお弁当をいただきました。この白百合醸造は「ロリアン」というブランドのワインを造っていて、見学、試飲ができるのですが、午後も街道歩きが続くので断念。

勝沼周辺は、奈良時代に我が国に伝えられたとされる葡萄の産地として古くから知られ、江戸時代には神田市場などにも流通していました。やがて明治維新とともに新しい産業を興す気運が高まり、明治10(1878)、地元の有志が大日本山梨葡萄酒会社を設立し、25歳の高野正誠と19歳の土屋龍憲の2名を約1年半フランスに派遣して、ワインの醸造技術の習得にあたらせました。2人の帰国によってこの地域で本格的なワイン造りが始まり、やがて開通した鉄道により全国へと出荷されていきました。勝沼町には、明治31(1898)に土屋龍憲により造られた半地下式の「龍憲セラー」(国の登録文化財)や宮崎第二醸造所(現・メルシャンワイン資料館)といった日本のワイン醸造黎明期の遺産が幾つも残っています。


……(その12)に続きます。




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