2019年5月14日火曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その14)

笛吹橋を渡った石和温泉郷東入口交差点で国道411号線(旧甲州街道)は左折します。国道411号線は築堤の上の松並木になった笛吹川通りを進みます。この松並木は明治40年の大水害後に植えられたのだそうです。旧甲州街道はすぐに坂道を下り、松並木から1段下がった側道を進みます。
角地に笛吹川の名前の由来となった。笛吹権三郎の像があります。その笛吹権三郎の民話は以下の通りです。
昔、この三富村(旧上釜口村)というところに年老いた母と幸せに暮らすたいへん親孝行な権三郎という若者がいました。京より父を捜しにこの地まで来ましたが、既に父は亡く、村人とともに暮らしていました。権三郎は笛を吹くのが大好きで、村人たちもその音色に聞き惚れていました。人々は笛の上手なこの少年を「笛吹権三郎」と呼んでいました。
ある年の夏(15757月と伝えられています)、豪雨のため子酉(ねとり)川が氾濫し、権三郎の家は流されてしまいました。濁流の中、権三郎は母と離れてしまいました。運良く権三郎は岸にたどり着き助かりましたが、母の姿は見えません。川が静まってから権三郎は毎日毎日母が好きだった笛を吹きながら母を探して歩きました。いつしか冬が過ぎ、春が来ました。それでも権三郎は独り母を探し続けました。しかし、笛の音が聞こえなくなりました。権三郎は川下の小松村まで流され、そこの淵で深みにはまり死んでいるのが見つかり、村人達の手によって近くの長慶寺に手厚く葬られました。
その後、川の音が権三郎の吹く笛の音のように聞こえることから、誰とはなしにここより下流の子酉川のことを笛吹川と呼ぶようになりました (今は上流部分も笛吹川と呼ばれています)

今でもこの地域の人は、権三郎が身につけていた不動明王を笛吹不動尊として供養を続けているのだそうです。
笛吹権三郎の像のかたわらに大きな丸石道祖神があります。
旧甲州街道はこの笛吹権三郎の像のところから権三郎通りを進みます。
曹洞宗の寺院、宇賀山長昌院です。この長昌院も武田勝頼ゆかりの寺院です。
天正10(1582)、甲斐国国主・武田勝頼は織田信長・徳川家康の連合軍に追われて、韮崎に造ったばかりの新府城を焼き捨てて、わずかな供を連れて甲州街道を東へと落ちていきました。落人の中には武具を持たない女・子供も多く、これがかつて戦国時代最強の軍団と謳われた武田軍団だったとはとても思えないほど哀れな姿だったと言われています。供人の数も一夜明けるごとに少なくなり、この年の3月、今はもう従う者も数えるほどとなり、心身共に疲れ果て、この石和町川中島の長昌院に立ち寄りました。この寺の境内には「勝頼公腰掛けの石」が残されています。この後、武田勝頼一行は駒飼で最期の頼みの綱と信じた岩殿城城主・小山田信茂の裏切りを知り、失意の中で駒飼の山中に逃げ込み、田野の地で自害することになります。時間の関係で、立ち寄らずに先を進みます。

ヒョウタンの実が幾つもぶら下がっています。乾燥させて容器や装飾品などに加工するのでしょうか。
丸石道祖神です。ここの丸石道祖神は幾つもの丸い石が積み重ねられている形状をしています。
このあたりが石和宿の江戸方(東の出入口)でした。天保14(1843)に編纂された『宿村大概帳』によると、石和宿は宿内の総人口1,143人、総家数は166軒。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒。
石和は甲斐武田氏の故地(発祥の地)です。甲斐武田氏の祖は河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光)とされていますが、その新羅三郎義光から4代目の信義の時、韮崎の地(武田郷)に移り、以降武田と名乗るようになったと伝えられています。武田信義は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命され、その子の武田五郎信光(5代目)は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐、安芸で繁栄する基礎を築きました。五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代目の武田信虎(信玄の父)の時に甲府の躑蠋ヶ崎(つつじがさき)に移るまでこの石和が武田氏の本拠地でした。

石和の地名の由来は、この地が大小の多くの川が流れる荒地で藺(い:イグサ)が一面に生い茂っていたところから「藺の沢」と呼ばれ、その後転化し「石和」となったとされています。また、平安時代前期の第57代天皇・陽成天皇(在位:西暦876年〜884)の時代に見事な栗が献上され、「石禾(いさわ)」の字を賜ったなどの説もあるようです。石和は鵜飼いが有名で、その歴史は800年ほど前に遡るのだそうです。

以前から石和宿の北東にある大蔵寺の山麓に温泉が僅かに湧いていたのですが、昭和36(1961)1月、石和の葡萄畑の中から突然大量の高温の温泉が湧き出し、温泉地として発展することになりました、

日蓮宗の寺院、鵜飼山遠妙寺(おんみょうじ)です。この遠妙寺は謡曲『鵜飼』の発祥の史跡として知られ、境内には鵜飼堂と供養塔があります。この謡曲『鵜飼』は榎並左衛門五郎が原曲を作成し、世阿弥が改作して応永年間後期から永享年間初期に成立したといわれています。その内容は、遠妙寺に伝わる「鵜飼伝説」に基づくもので、日蓮および法華宗を賛美する内容となっています。
遠妙寺の「鵜飼伝説」とは、平家没落後の元暦年間に平家一族の平時忠(謡曲『鵜飼』では漁翁”)が殺生禁断の石和川において鵜飼を行ったために観音寺の僧により殺され、怨霊となりました。その後、文永6(1269)に日蓮が同地を訪れ平時忠の亡霊と遭遇。この時、日蓮は怨霊を成仏させることができず、文永11(1274)に日蓮は弟子の日郎・日向を伴い再び同地を訪れ、一字一石の経石で施餓鬼供養を行ない怨霊を成仏させました。これにより、川施餓鬼根本道場として遠妙寺が創建されたという伝説です。

この鵜飼山遠妙寺は身延五ヶ寺の1つに数えられています。境内の桜(ソメイヨシノ)は今が満開真っ盛りです。

石和宿の後藤本陣跡です。この後藤本陣は宝暦11(1761)、信州高遠藩主内藤大和守が参勤交代で初めて石和を通行することに際して、仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことに始まります。明治13(1880)の大火で本陣の建物は焼失してしまいましたが、土蔵のみが現存しています。
この日のゴールはその後藤本陣跡の斜め前にある小林公園(由学館跡)でした。この公園は、文政6(1823)に当時の代官・山本大膳が一宮町小城に設け、のちにここに移転した由学館という学校があったところです。主として漢学を教授し、武士ばかりでなく、一般人にも聴講を許したのだそうです。
その小林公園の前には新宿行きの高速バスの停留所があり、温泉地石和らしく足湯も設けられています。
この日は歩行距離19.2km。歩数にして26.139歩、歩きました。前日の笹子峠越えのような急な坂道はなかったものの、これまでの私の旧街道歩きの中で最も長い距離を歩きました。この日は果樹どころ甲府盆地の満開のモモの花の濃いピンク色と、桜(ソメイヨシノとサクランボ)の花の淡いピンク色に彩られた風景に尽きますね。見事でした。

小林公園の前から観光バスに乗って出発地であるJR東京駅丸の内口に戻ったのですが、その途中、観光バスのフロントガラスに雨粒が当たっていました。この日も「晴れ男のレジェンド」は健在でした。

次回『甲州街道あるき第13回』は5月にこの石和宿を出発して、甲府柳町宿を経て韮崎宿まで歩きます。ついに甲府です。


――――――――〔完結〕――――――――

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