2019年5月10日金曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その10)

やがて右側に「国見坂」の木柱が立っている長い下り坂にさしかかります。
旧甲州街道沿いらしく、古い旧家のような建物が幾つも建ち並んでいます。
右側に「上行寺」等の石柱が3本立っています。右手高台にある上行寺は日蓮宗の寺院で、「日蓮聖人投宿之地碑」もあるのだそうです。
この上行寺の前の交差点付近が勝沼宿の江戸方(東の出入口)でした。

古い土蔵が残っています。
勝沼宿は甲州街道の宿として、元和4(1618)に新規取り立てとなり、鶴瀬・駒飼宿と栗原宿の間の荷物、人の継ぎ立てを開始しました。江戸から甲府経由で諏訪湖湖畔の下諏訪宿へ向かう甲州街道の最大の難所・笹子峠を越えると、駒飼宿、鶴瀬宿と山間部にある小規模な宿場が2宿続いたのですが、この勝沼宿は山間地から平坦地の甲府盆地に入った最初の大きな宿場町でした。甲府盆地の東端に位置していることから、峡東地方の物資集積の場として栄え、万治元年(1658)には市が始まり、寛文12(1672)には上中下の3つの市場と27の定め市の制度が設けられ、貞享3(1686)には宿場の拡大に伴い上町・中町(現仲町)・下町(現本町)・横町・上新町(現富町)・下新町(堰合町)の町名制が定められました。町並みが東西に12(1.3km)と長く、天保14(1843)の宿村大概帳によると宿内人口は786人。総家数192軒。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒、問屋場1ヶ所、継立人馬25人・25匹、高札場1ヶ所を備え、甲州街道の甲斐道中で随一の賑わいを見せる宿場でした。

「勝沼宿 脇本陣跡」という案内標柱が立っています。
さすがに宿場町です。旧街道脇には古い土蔵のある民家がところどころにあります。
その隣の進行方向左手に「史跡 勝沼氏館跡 駐車場」があり、その入口に「甲州街道勝沼宿」の説明板が掲げられています。その「史跡 勝沼氏館跡」に立ち寄ります。
勝沼氏は甲斐武田家の一族で、武田信玄の父である武田信虎の弟・勝沼信友、その子信元の家系です。武田信虎が最も信頼していた家臣であり、小山田氏の備えとして東郡勝沼郷(現在の甲州市勝沼町)を領し、「勝沼」姓を称しました。勝沼信友は天文4(1535)、武田信虎が甲斐南部の河内領万沢口において駿河の今川氏輝と争った際に、今川氏支援のため郡内へ侵攻した相模の北条氏綱との山中湖畔における合戦で討死しました(山中の戦い)。勝沼信友の嫡子信元も武田信玄の有力な親族衆・家臣として武田軍団と呼ばれる重要な軍事力の一翼を担っていたのですが、大善寺の理慶尼のところでも書きましたように、永禄3(1560)に逆心の企てが露見し、武田信玄によって処断されたと言われています。
勝沼氏の館は日川の断崖を利用して築かれており、対岸を当時の甲州街道の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過するという当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていました。館主体部は「甲斐国誌」や「甲斐国古城跡志」等の古文書によってこの地あたりに相当すること、二重の堀や太鼓櫓と呼ばれる高台のあること等が早くから知られていました。また昭和45年には、古銭250枚が出土したりもしました。
昭和48(1973)、山梨県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり5ヶ年にわたり山梨県教育委員会による発掘調査が行われ、その結果、礎石のある建物跡、門跡、水溜、溝、土塁、小鍛冶状遺構等が土地の中から数多く検出され、そのほかにも多くの遺物が出土しました。館跡に入ると、どこにどんな建物があったのかなどがわかる説明板と、地面には標識があります。
15世紀からの館で、遺跡は層序や溝、建物跡の重複関係によって3期にわたることが確認されています。内郭拡張の際、土塁内側を削っていること、また、それに対応して外側に土塁を設けたことが、外側土塁下の生活面によって確認されているのだそうです。内郭の構造の変還のみならず、それが館の拡大と関連して把握することができる貴重な遺跡で、国指定の史跡に選定されています。
なお、この館跡の北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷、長遠寺(信友法名は長遠寺殿)等の地名や泉勝院(信友夫人開基)があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もあると考えられているのだそうです。
甲州街道歩きに戻ります。

上町交差点を過ぎたところに立派な松が見えます。「本陣槍掛けの松」です。その横が勝沼宿の本陣跡で、この勝沼宿本陣に大名や公家などが泊まると、その目印にこの老松に槍を立て掛けたのだそうです。
本陣跡の斜め向かいにある古い屋敷群が建っています。江戸後期の豪商、仲松屋の住宅です。仲松屋住宅は、江戸時代後期に建てられた主屋を中心とした土蔵付きの東屋敷と、明治時代に建てられた建築を中心とした西屋敷の2軒の商家建築から成っています。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした板葺、2階建建築で、通り土間を挟み明治後期に1階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されているのだそうです。また、西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されているのだそうです。東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重な建物です。こういう建物が現在も残っているところは、さすがに旧宿場町です。
本陣の隣(仲松屋の向かい)は古寿園というぶどう園になっているのですが、そこに立派な桜(ソメイヨシノ)が植えられていて、見事に満開に咲き誇っています。
これは…、珍しい「3階建ての蔵」です。かつて今は駐車場になっているところに薬局があったのですが、この薬局が火災で焼けた時、この3階建ての蔵が隣家への延焼を防いだのだそうです。その時、蔵は内扉を少し焦がしただけで中の物は無傷だったとのことです。そう言われてみると、蔵が隣家との防火の為、奥深く造られているのが分かります。なるほどなるほど。この3階建ての蔵は明治20年頃に発生した勝沼宿の大火の後、この土地の所有者が大和村にあった自己所有の山林の木材を使って造ったのだそうです。


……(その11)に続きます。




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