2019年5月27日月曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その1)

518()19()、『甲州街道歩き』の【第13回】に参加してきました。【第13回】では、前回【第12回】のゴールだった石和宿の小林公園を出発して、甲府柳町宿を経て、韮崎宿まで歩きます。初日のこの日は甲府柳町宿まで歩きます。この日の集合場所はさいたま新都心駅前。甲州街道歩きも第13回ともなると、ほぼ見馴れたお顔ばかりです。基本、単独で参加されている方ばかりなのですが、同時に東海道や中山道を歩いていらっしゃる方々もおられて(私は現在甲州街道歩きだけですが…)、もうすっかり仲良くなっていらっしゃるようで、バスの車中は賑やかです。
数日前までは日本列島の南の海上を前線を伴った低気圧が通過する予想で、これから行く山梨県を含む関東地方は「曇りのち雨」の天気予報が出ていたのですが、いい方に外れたようで、朝から初夏のような陽射しが照りつけています。雲が多く、標高が高く山に近いほうに行くので、いちおう雨具の用意はしていますが、まっ、この2日間、雨の心配はしなくて良さそうです。「晴れ男のレジェンド」は今回も健在のようです (ちなみに、宮崎県や鹿児島県といった九州南部では前日から断続的に激しい雨が降り、大雨により地盤が緩んで土砂災害の危険性が高まり、「土砂災害警戒情報」が発表されている地域が出ていました)。このような行楽日和の週末なので、中央自動車道はさぞや渋滞が起こるのではと心配されたのですが、最大10連休という大型のGWが終わった後だけに、中央自動車道も意外なほど空いていて、さいたま新都心駅前を出発して約2時間半後の午前10時半にはこの日の甲州街道歩きのスタートポイントである石和の小林公園に到着しました。1ヶ月前の【第12回】の時はサクランボの花の淡いピンクとモモ()の花の濃いピンクで華やかに彩られていた甲府盆地も、眩いばかりの新緑に変わっています。
いつものようにストレッチ体操を済ませて、この日の甲州街道歩きのスタートです。
石和は甲州街道と鎌倉街道が通過する交通の要衝で、石和宿や石和陣屋(代官所)が置かれていました。ちなみに、この日のスタートポイントとなった小林公園の奥にある笛吹市立石和南小学校の一帯がかつて石和陣屋敷があったところです。石和陣屋は寛文元年(1661)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男で、「甲府宰相」と呼ばれた徳川綱重が甲斐甲府藩15万石の藩主となった際に、家臣の平岡勘三郎良辰によって築かれました。徳川綱重は甲府藩主であったものの将軍家の一員として江戸城桜田邸や甲府浜屋敷(後の浜離宮)に居住したため、この陣屋は代官所として使用され、平岡勘三郎良辰が初代の代官となりました。甲府藩は徳川綱重の後、長男の綱豊が2代目の藩主となったのですが、第5代将軍徳川綱吉(徳川綱重の弟)に子供がいなかったため、その綱豊が綱吉の養子となり、徳川家宣と改名して第6代将軍となりました。その後は譜代の柳沢吉保が藩主を勤めました。享保9(1724)、柳沢吉保の嫡男・柳沢吉里が大和国郡山に国替えになった後、甲斐国は天領となったのですが、この石和陣屋は幕末の慶応3(1867)まで甲府・上飯田とともに三分代官所の1つとして使用されました。現在、石和陣屋跡には案内標柱が1本立っているだけで、遺構は残されておりません。明治7(1874)、表門が八田家に払い下げられ、移築され現存しているそうです。という説明をウォーキングリーダーさんから聞いただけで、訪れるのはパスしました。ちなみに、甲府宰相徳川綱重ですが、前述のように第3代将軍・徳川家光の三男で、徳川家光の死後、兄(長男)の家綱が第4代将軍に、弟(四男)の綱吉が第5代将軍になりました (兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳で死去したため)
小林公園を出発してすぐ、進行方向右手に石和八幡宮があります。この石和八幡宮は日本武尊(ヤマトタケル)の父である第12代景行天皇の時代に創社されたとされる古い神社です。中世となり、「武運の神(弓矢八幡)」である八幡信仰の篤い源頼朝が鎌倉幕府を開くと同時に八幡神を鶴岡八幡宮に迎え、頼朝に仕える御家人に対しても自らの領土へ勧請するよう推進しました。幕府創建の功績を認められ、甲斐国守護職に任ぜられた武田信光(石和五郎信光)もこれに応じて八幡神を鶴岡八幡宮から勧請し、従来祀っていた神と合祀し、同時に名称も国衙八幡宮と改め、のち石和八幡神社(別称:石和八幡宮)と称しました。甲斐国ではこの石和のほかに、韮崎市神山町北宮地の武田八幡宮や山梨市北の大井俣窪八幡神社がこの時に創建されました。また、戦国期には永正16(1519)、武田信虎(信玄の父)が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を構えて甲府に開府したのにあわせて、大永5(1525)、この石和八幡宮から八幡神を勧請し、甲府に府中八幡宮を建立しました。『社記』によれば、永禄4(1561)には甲斐国内の諸社に対し府中八幡宮への参勤が命じられているが、一宮浅間神社をはじめこの石和八幡宮を含む10社だけは勤番を免除されていたのだそうです。
このように、この石和八幡宮は、武田信虎が躑躅ヶ崎館に居館を移すまで320年間、武田家を宗家とする甲斐源氏より厚く崇敬され、射法相伝の儀式はこの石和八幡宮ですべて執り行われたと伝えられています。また、『社記』によると、天正10(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長により諸堂や宝物が焼き討ちされ、社領も没収され衰微したといわれています。近世には天正壬午の乱を経て甲斐国を領有した徳川家康により、新たに社領を安堵されており、歴代甲府藩主による尊崇を受け、今に至っているのだそうです。
石和からは国道411号線に沿って歩きます。国道411号線は、東京都八王子市から東京都西多摩郡奥多摩町を経て山梨県甲府市に至る一般国道で、昭和57(1982)に主要地方道八王子青梅線、主要地方道甲府青梅線を一般国道化した道路です。同じ八王子〜甲府間を通る国道20号線(現在の甲州街道)に対し、途中の青梅市からになりますが、青梅街道をほぼ踏襲するルートを辿ります。ただ、このあたりではこの国道411号線が旧甲州街道です。
甲運橋で第2平等川を渡ります。この第2平等川とその先を流れる平等川は元々は笛吹川の本流が流れていて、水量の多い夏期は舟渡しで渡っていました。明治7(1874)長さ45丈約136メートル)、幅2(6メートル)の甲運橋が完成したのですが、明治40(1907)に発生した大水害で橋は流され、笛吹川も石和の東側を流れる現在の流路に変わりました。平等川の平等は京都府宇治市にある平等院から取られたのだそうです。甲運橋を渡った先からが甲府市です。いよいよ甲府市に入ります。
甲運橋を渡ったところに「川田の道標」が立っています。正面には「左 甲府 甲運橋 身延道」、左面には「右 富士山 大山 東京道(江戸道)」、裏面には「左 三峰山 大嶽山」と刻まれています。この道標が建てられたのは万延元年(1860)。江戸時代に東京などあるはずがなく、後世、江戸と刻まれた部分を東京と刻み直したもののようです。確かにそれぞれの文字の刻み方も違います。
平等橋で平等川を渡ります。かつてはこの平等川と第2平等川が笛吹川の本流だったようなのですが、今は石和の東側を流れる現在の笛吹川の流路と比べるとはるかに細い川になっています。
このあたりは川田町という地名です。その川田町の由来について書かれた標注が立っていますが、表面が風化していて文字を読み取ることができません。川と田圃だけの土地だったので“川田町”……、なぁ〜んて安易なことが書かれているわけはありませんよね ()
この山梨県立青少年センターの向こう側の今は一面のブドウ畑になっているところが川田館跡です。この川田館は甲斐国守護の武田氏の居館だったところです。甲斐国守護の武田信昌(信玄の曾祖父)が、小田野城(山梨市、旧東山梨郡牧丘町)の跡部景家を攻めてこれを破った後、それまでの小石和(笛吹市、旧東八代郡石和町)にあったそれまでの居館を廃して、新たに築いた城館です。信昌の孫の武田信虎(信玄の父)はこの川田館を本拠に、武田一族の油川信恵や大井信達を攻めて勝利し、郡内地域(今日の都留市・大月市周辺)を領有していた小山田氏を服属させて甲斐を統一した後、永正16(1519)に古府中に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:甲府市)を築いて、居館をそこに移しました。その後、川田館は破却されたと考えられています。信虎が新たな居館として躑躅ヶ崎館を築いたのは、古府中が甲斐の中心に位置していたことから甲斐の統治に適していたことと、この川田館が水害に悩まされることが多かったことが理由ともいわれていますが、詳しいことはわかっていません。現在、この山梨県立青少年センターの奥にある二宮神社の東側のブドウ畑のある一帯が館跡とされており、かつての水堀と推定される水路や、御所曲輪(ごしょぐるわ)があったとされる付近には土塁の一部の痕跡が残っているのだそうですが、明瞭な遺構としては現存していません。
和戸町の由来が書かれた標柱が立っています。それによると、このあたりの現在の地名は川田町ですが、古くは和戸町と呼ばれていました。和戸町は、平安期、この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の遺称です(最初のを省略したわとの郷)。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られています。地内には在原塚や琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在しているのだそうです。

出ました、「郷」。上述の通り、50戸をもって編成された行政村落の単位のことで、奈良時代の日本の人口を推測するために、当時の全国の郷の数を数えるという手法が採られることがあるという話を聞いたことがあります。なるほどなるほど。このあたりは奈良時代から栄えていたってことですね。
この和戸町由来の標柱の横には道祖神をはじめとした石塔石仏群が集められて祀られています。もちろん道祖神は甲州街道独特の丸い球体をした石の道祖神です。この球体道祖神はかなり新しいもので、最近祀られたものですね。
歴史を感じさせる立派な門構えのお宅があります。かつてこのあたりの庄屋を勤めた農家だったのでしょうか。甲斐国守護の武田氏の居館だった川田館跡のすぐ近くなので、旧武田氏の家臣だった人物の屋敷だったのかもしれません。こういうお宅がところどころにあります。
国道411号線を甲府市中心部に向けて歩きます。
これは…。長屋門を構えたお宅があります。長屋門は江戸時代に多く建てられた日本の伝統的な門形式の1つで、上級武士の住宅(武家屋敷)の表門の形式として広く利用されました。武家屋敷の長屋門では、門の両側部分に門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用されました。上級武士以外にも、下級武士()や郷村武士の家格をもつ家、苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られましたが、基本的な構成はほぼ同じですが、その規模は武家屋敷のものより小規模なものでした。このような長屋門では、門の両側部分は使用人の住居・納屋・作業所などに利用されたようです。規模から推定するに、この長屋門を構えるお宅はこのあたりの富裕な農家・庄屋だったお宅と思われます。
1kmほど国道411号線を黙々と歩きます。

十郎大橋で十郎川を渡ります。十郎大橋と“大橋”の呼称が付けられていますが、十郎川の川幅は大したことはありません。向こうに南アルプスの山々が見えますが、前線の接近で雲が垂れ込めているので、その雄大な山容までは今日は見ることができません。明日はもっと近ずくので、南アルプスの雄大な山容が楽しめるでしょうか?
十郎大橋で十郎川を渡った先の右側に可愛らしい六地蔵尊が立っています。
このあたりから酒折に入ります。

山崎三差路です。この山崎三差路は追分になっていて、ここで旧甲州街道と旧青梅街道が合流します。勝沼宿を出たところにあった等々力交差点からここまで歩いてきた国道411号線も青梅街道と呼ばれていますが、これは現代の青梅街道。江戸時代の旧青梅街道はこちらでした。江戸の内藤新宿で別れた甲州街道と青梅街道がここで合流するわけです。内藤新宿での追分を見てきているだけに、感慨深いものがあります。江戸時代、青梅街道は武蔵国と甲斐国を結ぶ甲州街道の裏街道として使われてきました。途中、大菩薩峠(標高1,897メートル)という険しい峠を越えねばならないような大変な難路でしたが、甲州街道よりも幾分距離が短いので、多くの旅人が利用したのだそうです。
またこの山崎三差路で合流する道路は「雁坂みち」とも呼ばれ、かつては日本三大峠の1つ雁坂峠(標高2,082メートル)で奥秩父の山域の主脈を越え、武蔵国の秩父盆地と甲斐国とを結ぶ街道でした (ちなみに、日本三大峠の他の2つは飛騨山脈越えの針ノ木峠2,541メートル、赤石山脈越えの三伏峠2,580メートル)。「雁坂みち」は秩父往還道とも呼ばれ、「萩原みち」と呼ばれた青梅街道とともに武田信玄によって整備された甲斐国から他国に通じる9本の軍事用道路「甲斐九筋」の1つで、江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』には、「本州九筋ヨリ他州ヘ達する道路九条アリ 皆路首ヲ酒折ニ起ス」と記述されています。酒折とはまさにこのあたりのことです。酒折は『甲斐九筋』のすべての起点とされていました。「雁坂みち」は現在の国道140号線に相当し、塩山のあたりで「萩原みち」(青梅街道)と分岐していました。ちなみに甲州街道は江戸時代になって整備された道なので、この『甲斐九筋』には含まれておりません。それ以前はこの「雁坂みち(秩父往還)」と「萩原みち(青梅街道)」が甲斐国と武蔵国を結ぶ重要な道路でした。したがって、あの日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰りに通った道もこの「雁坂みち」でした。このようにここ酒折はかつては甲斐国の交通の要衝だったところです。なお、ここから西方、信州方向に延びる道は「穂坂みち」と呼ばれ、しばらく甲州街道と並行するものの、別の経路の道でした。

この山崎三差路の追分の脇に山崎刑場跡があります。この山崎刑場の設置年代は明らかではありませんが、300年ほど前からここに罪人の断首場が設けられていました。断首場には切り捨て場2ヶ所と首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸1ヶ所があったとされています。この山崎刑場は明治5(1872)の大小切事件の処罰を最後に跡形もなくなり、現在は供養塔のみが残っているだけです。
ちなみに、大小切事件とは、明治5(1872)に山梨県で起こった一揆で、山梨県農民一揆とも呼ばれています。江戸時代の享保年間に甲斐国一円は幕府直轄領化されたのですが、甲府盆地の山梨郡、八代郡、巨摩郡の国中三郡では近世以前の金納税制である大小切税法(甲州三法のひとつ)という特殊な年貢徴収法が甲州枡、甲州金とともに独自の制度として適用されていました。この大小切税法とは、米納を基本とする江戸時代において、この国中三郡に限っては原則米納は9分の4で、納税米額の9分の3は小切と呼ばれる米414升を金1両で換算でした代金納で9月に納められ、9分の2は「大切」と呼ばれ、享保9(1724)以降は浅草蔵前冬張紙値段(100=35両前後)で換算した代金納で納められていました。このため、国中三郡では米麦芝居のほか、現金収入を得るため養蚕や織物、煙草栽培など商品作物栽培や、山間地での林業などを組み合わせる形態の生業が確立し、貨幣経済が浸透していました。明治維新により明治2(1869)に甲斐国は「甲府県」と改められ、三郡の代官所は廃止とされ山梨県一円は甲府県知事の統治下となりました。明治4(1871)に明治政府は全国的な廃藩置県を断行し、甲府県は「山梨県」と改められました。それと同時に、明治政府はそれまで旧諸藩が独自に行っていた特殊な税の徴収法を認めず全国一元化を断行し、明治5(1872)、大蔵省は山梨県における大小切税法の廃止を命じ、ただちにその旨が県下に布告されました。国中三郡ではこれに対する反対運動が起こり、旧田安領である栗原筋・万力筋の97か村と大石和筋・小石和筋では武装蜂起に至りました。6,000人とも言われる一揆勢は甲府へ迫ると、県庁では一揆勢を抑え込む兵力がなかったため、当時の山梨県令・土肥謙蔵は陸軍省へ出兵を要請し、これを武力により鎮圧しました。この大小切事件の逮捕者は160人以上に及び、山梨県庁内に山梨裁判所(後の甲府地方裁判所)が開設され、審理の結果、首謀者とされる山梨郡小屋敷村(現在の甲州市塩山)の長百姓・小沢留兵衛、同郡松本村(現在の笛吹市石和町)の名主・島田富十郎には絞刑の判決が下されました。また、同郡隼村(現在の山梨市牧丘町)の長百姓・倉田利作は懲役10年となり、ほか徒刑3年が4名、罰金3,772名が課せられました。決して学校の日本史の授業では習わないことですが、明治維新期にはこういう社会の大混乱がこの山梨県に限らず全国各地で起きていたことも歴史の偽らざる真実です。

国道411号線を西に進みます。ここに酒折宮への参道を示す道標が立っています。ここで右へ分岐する細い道を進むと日本武尊(ヤマトタケル)ゆかりの酒折宮に行くのですが、酒折宮には後で行きます。
おおっ!! ここは。箱根駅伝の強豪校の1つ、山梨学院大学の本部キャンパスです。
JR中央本線の酒折駅です。ここから観光バスに乗って、昼食会場に向かいます。この日の昼食会場はここからほど近い甲斐善光寺の駐車場です。


……(その2)に続きます。

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