2019年5月3日金曜日

甲州街道歩き【第12回:笹子峠→石和】(その3)

昼食後の休憩を終え、甲州街道歩き午後の部スタートです。杉良太郎さんの「身代り両面地蔵菩薩」横の細い山道が旧甲州街道で、再び鬱蒼と繁る杉林の中を進んでいきます。
また、沢に架かる丸太橋(板橋)を渡ります。よく見ると、この丸太橋、従来のものが既に朽ち果てて、下に落下してしまっているので、その代わりに架けられた仮の橋のようです。幅が狭いので、1人ずつ慎重に渡ります。
時々沢に下ることもありますが、基本登りで、笹子峠のサミット(頂上)に向けて徐々に高度を上げていきます。
ここで進行方向左側から同じような細い山道が合流してきます(この合流する道のほうが若干道幅が広い)。矢立の杉の手前あたりから矢立の杉を通らずに伸びてきた道のようですが、旧甲州街道は私達が通ってきたこの細いほうの道が正解です。反対に笹子峠から下ってくる人の中には、間違って写真右側の道のほうに進んでしまう人が続出しているのだそうです。案内板でも立てておいていただければよろしいのですが
進行方向左側に少し大きな沢を眺めながら、山道を登っていきます。
ここでいったん沢まで下りて、今度は沢を渡ります。幸い、この沢も今は水がまったく流れていないので簡単に渡ることが可能ですが、雨期などで水が流れている時には大きな石伝いに渡らないといけないようなので大変でしょうね。
さぁ~、ここからが甲州街道最大の難所と言われる笹子峠の中でも一番の難所の区間となります。まずはその最初の難所。細く急な山道をドンドン登っていきます。写真ではさほど伝わってこないかと思いますが、かなり急な登り勾配です。
進行方向右側の深い谷底には先ほど渡った沢が流れていて、砂防ダムが見えます。沢の勾配も急で、雨が降るとかなりの急流となることが容易に想像できます。
ここまで順調に高度を稼いできたのですが、ここでいったん急な坂を下ります。ここが第二の難所です。急な岩場を横に生えている木を掴みながら下っていくのですが、1人では危険なので、先の下りた方が手助けしながら下ります。
下る距離は短いものの、横から見るとこんな感じの急な坂です。それにしても、今から約150年前まで、この細くて急な山道が日本の幹線道路の1つで、参勤交代の大名行列も通っていたなんて、信じられませんよね!!
これがこの道が旧甲州街道であることの証しです。ここからはここで合流してきた山梨県道212号日影笹子線をしばらく歩きます。本当は旧甲州街道は進行方向右手の山の中を突っ切るようにかなり急な坂で伸びていたようなのですが、途中で消滅してしまっているということなので、仕方なく山梨県道212号日影笹子線を使ってグルっと迂回して歩くわけです。山梨県道212号日影笹子線は旧甲州街道に沿って伸びているのですが、前述のようにクルマが走行できるように道路の傾斜を緩くするためにS字のヘアピンカーブを何度も繰り返しながら伸びているので、ところどころでチラチラっとガードレールは見えてはいたのですが、歩くのは久しぶりって感じです。
山梨県道212号日影笹子線の笹子トンネル(笹子隧道)です。前述のように笹子峠(標高1,096メートル)の直下を貫くこの山梨県道212号日影笹子線の笹子トンネル(笹子隧道)は昭和13(1938)に開通しました。明治18(1885)の国道指定(いわゆる明治国道)では、江戸時代以来の旧甲州街道がそのまま「国道16号線」に指定され、その後、大正9(1920)施行の道路法(旧道路法)で国道8号線に指定されたのですが、昭和4(1929)に国道8号線のルートが変更され、江戸時代のままで未整備の笹子峠越えの区間が国道から外されて、大月から富士吉田を経由し御坂峠を越えるルート(現在の国道139号線・137号線)が国道8号線となりました。再び笹子峠越えのルートに首都東京と甲府を結ぶ幹線ルートの座を取り戻すべく昭和11(1936)から2年間の工期をかけて昭和13(1938)3月に開通しました。その後、笹子トンネル(笹子隧道)の前後の道路も整備されていったのですが、トンネルへ通じる道はヘアピンカーブの続く狭隘な未舗装の道路であり、昭和27(1952)にこの笹子隧道経由の道が再び国道20号線に指定されたものの、甲府盆地で収穫された果実や野菜などの首都圏への主要な流通経路とはならず、距離は遠いものの大月から富士吉田を経由し御坂峠を越えるルートがずっと物流の中心である状態が続きました。そして、昭和33(1958)に当時有料であった新笹子トンネル(新笹子隧道)が開通した時に国道20号線が新笹子トンネルのルートに移り、やっと東京と甲府との間の物流の中心は笹子峠越え(新笹子トンネル)のルートに戻ったわけです。新笹子トンネル(新笹子隧道)に加え、昭和52(1977)には中央自動車道の笹子トンネルが開通したことで、この峠越えの山梨県道212号日影笹子線はその役割を終え、行き交うクルマもほとんどなく、まったく寂れ、国道20号線であった往時の面影もなくなってしまっています。トンネルの坑門上部の持送状装飾に加えて、抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変に特徴的で、現在、国の重要文化財に指定されています。
笹子トンネル(笹子隧道)の全長は239メートル。幅3.0メートル。高さ3.3メートル。前述のようにこの笹子トンネル(笹子隧道)は笹子峠の直下を貫いており、こちら側の坑口から、トンネルの先に明るく見える反対側の坑口までの間の距離239メートルの上に旧甲州街道の笹子峠があります。そして、両方の坑口の付近に笹子峠へと通じる登山道の入口があります。
その登山道に入っていきます。「クマ出没注意」の看板が出ています。周囲はいかにもクマ()が出没しそうな落葉樹林になっています。
九十九折(つづらおり)の山道をドンドン登っていきます。意外と険しい山道です。
少し開けたところに出たと思ったら、そこが笹子峠のサミット(頂上)でした。その笹子峠に向けて前方から山を下ってきた若者の一団と峠で遭遇しました。笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま:標高1357.7メートル)を登ってきたハイカーの一団のようです。この笹子雁ヶ腹摺山は山頂からの富士山の眺めが素晴らしく、山梨県大月市が定めた「秀麗富嶽十二景」の1つに選ばれているほどで、また、西側の甲府盆地や南アルプスの展望も良く、それらの風景を眺めるために多くのハイカーが訪れるようです。どうも、近年の笹子峠は笹子雁ヶ腹摺山に向かう縦走路(登山道)の中継ポイントとしてのほうが知られているようです。
甲州街道最大の難所と呼ばれて有名なわりには、サミット(頂上)には「笹子峠」の案内表示がほとんど見当たりません。辛うじて、この案内表示の柱に「笹子峠」の文字が確認できました。また、峠だといっても、残念ながら決して見晴らしがいいってところでもありません。
笹子峠は甲斐国坂東山にある標高1,096メートルの峠で、これまで何度も書いてきましたように甲州街道最大の難所と呼ばれてきました。甲斐国は武田信玄率いる甲斐武田家の本拠地で、甲府の武田家本拠から関東地方の相模国(現在の神奈川県)で勢力を伸ばしていた新興勢力の後北条氏との戦に出る武田武士達が行き交った古道でもあります。

天正元年(1573)、遠江国三方ヶ原の戦いの最中に病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田家の当主となった四男の武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍の前に敗北。その後失地回復に努めたのですが、天正10(1582)、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が離反して織田信長に通じたのを契機に再び織田信長・徳川家康連合軍との戦いが始まりました。織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に対して武田軍では家臣の離反が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。武田勝頼は未完成の本拠地・新府城に放火して逃亡。家族を連れてこの笹子峠を越えて家臣の岩殿城主・小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城に逃げ込み、そこに篭城しようとしました。しかし、小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換。岩殿山城に向けて敗走中の武田勝頼は小山田信茂離反の知らせをこの峠道の手前()にある駒飼(これから行く駒飼宿のあるところ)の地で受けて(当時は笹子峠を含めそこから先が小山田領でした)、笹子峠の峠道を進むこと諦め、駒飼の山中に逃げ込みます。勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃。逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田家は滅亡しました。この甲斐武田家の滅亡の舞台になったのも、この笹子峠越えの峠道でした。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』は、武田家中の国衆であった真田家の真田昌幸、信幸、信繁(幸村)兄弟がこの主家・甲斐武田家の滅亡によって乱世の大海原に放り出されるところから始まりました。

また、慶応4(1868)、近藤勇に率いられた甲陽鎮撫隊(旧・新撰組)は、江戸に迫り来る新政府軍を甲府城で迎え撃つため、重い大砲を引っ張ってこの笹子峠を越えました。しかし、進軍の遅れにより甲府城は土佐藩士・板垣退助率いる新政府軍(東山道軍)に占拠され、その後、新政府軍(東山道軍)と勝沼(現・山梨県甲州市)において交戦。甲陽鎮撫隊は兵力・武力とも新政府軍と比べ脆弱で、わずか1日の交戦で壊滅してしまいました(甲州勝沼の戦い)。甲陽鎮撫隊の残党は再び笹子峠を越えてほうほうの体で上野原(現・山梨県上野原市)まで退却。そこで解散して、各自勝手に江戸まで撤退しました。その後、板垣退助率いる新政府軍がこの笹子峠を越えて江戸に進軍していきました。この細くて急な山道には、そんな歴史が残っています。

このように笹子峠は単に江戸(東京)と甲州を結ぶ交通の要衝としてだけでなく、日本の歴史の中で軍事上、さらには文化交流の上で重要な役割を果たした峠でした。

実際に自分の足で歩いてみると、その時の様子が窺えて、メッチャ面白いです。歴史小説やテレビの時代劇で描かれているのとはかなり異なる歴史の真実のようなものまで見えてくる感じです。

標高が1,000メートルを超えるとは言え、この日はよく晴れて暖かく、険しい山道を登ってきたこともあって汗ダクです。登り始める際に着ていたアノラックは途中で脱いで、上はポロシャツ1枚になっています。しかも腕捲り。1週間前に下見に来たというウォーキングリーダーさんが、峠のサミット(頂上)付近にはまだ雪が残っていたと言っていましたが、雪は既に融けてしまっているようで、まったく残っていません。心配していた風もたいしたことはなく、快適そのものです。


……(その4)に続きます。

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