2020年12月29日火曜日

中山道六十九次・街道歩き【第16回: 長久保→和田峠】(その10)

往時の面影が色濃く残る土の道を進んでいきます。かなりの勾配の登り坂なのが、見て取れると思います。

木の橋を渡ります。いずれの峠道もそうですが、山から湧き出した水が沢を形成して流れるので、こうした短い橋が随所にあります。

落葉針葉樹のカラマツ林の木立の中を進んでいきます。夏は緑の葉っぱが繁っているのでしょうが、今はすっかり葉が落ちて、これもまた風情があります。この古道には、一部、石畳の区間も残っています。

江戸の日本橋から数えて51里目の「唐沢一里塚」です。この唐沢一里塚は、江戸時代中期に中山道の経路が川沿いに移ったため、このカラマツ林の山中に手つかずのままひっそりと取り残されたもので、天保2(1831)の記録では、既に中山道の路線からは外れていたのだそうです。既に塚上の木は失われていますが、左右の塚がほぼ原形をとどめている珍しい一里塚です。まさに時を越えて江戸時代にタイムスリップしたかのような貴重な貴重な一里塚です。私達はこの唐沢一里塚を見るために、この区間は旧中山道ではなく、敢えて中山道が整備された当時の (経路が変更になる前の) 古中山道を辿ったわけです。一里塚の付近には「御嶽大権現」の石碑などが並んで立っています。

唐沢一里塚から先はいったん急な勾配の坂を下り、“現在の中山道”である国道142号線に合流します。せっかく登ってきたのに、下るのはもったいない感じがしちゃいます。唐沢集落を経由する“旧中山道”もここの手前で国道142号線と合流しています。その国道142号線との合流地点にも「唐沢一里塚跡」の標識が設置されています。


ここから和田峠(東餅屋)まで4.3km。この手前で一度急な勾配の坂道で下ったので、標高を見ると1,000メートルちょっとと、先程の唐沢口からさほど変わっていません。和田峠の頂上まで残り4.3km530メートルの標高差を登らないといけません。123パーミルですか……。ちょっとキツそうです。

 明治39(1906)、このカーブを曲がった左手あたりに観音沢分教場という小学校がありました。昭和2(1927)に教室を増設したものの、昭和38(1963)に廃校になりました。今は誰も住んではいませんが、当時、観音沢と唐沢の集落にはそれなりの人口がいたと考えられます。

唐沢一里塚跡から15分ほど歩くと「男女倉(おめぐら)口」に出ます。ここで国道142号線は左右2手に分かれます。右に分岐するのが本線の国道142号線で、こちらはほぼ旧中山道に沿って伸びているのですが、左に分岐する新道のほうはここから新和田トンネル有料道路を通り、和田峠を下った先の西餅茶屋付近で本線の国道142号線と合流します。

「男女倉口」バス停のところに観光バスが停車しています。トイレ休憩のためここからトイレが設置されている新和田トンネル有料道路にある料金所のところまで連れていってくれるのですが、こういうところ、旅行会社が企画するツアーは便利です。旧街道歩きを個人(自力)でなさっておられる方も大勢いらっしゃるようですが、無理をなさらず旅行会社のツアーに参加することをお勧めします。

「男女倉口」バス停から観光バスで5分も走らないうちに新和田トンネルの料金所に到着。昼が近づいているのと気温がかなり上がってきました。温度計を見ると17℃になっています。11月も終わろうとしているこの時期、標高が1,000メートルを越えるこの場所で気温が17℃とは!! 寒さ対策として1枚多めに着込んできたので、ここまで歩いてきてちょっと汗をかいちゃいました。そこで、中に着込んだフリース素材の1枚を車内で脱いでいるうちに、新和田トンネルの料金所に到着しちゃいました。すぐでした。この新和田トンネルの料金所の左手に男女倉(おめぐら)の集落があり、ここがJRバス関東が運行受託している長和町コミュニティーバスの終点です。路線バスの終点マニアとしては心惹かれます。

そして、この男女倉集落の先にあるのが、旧石器時代の黒曜石の加工場の跡が残る男女倉遺跡です。旧石器時代から縄文時代にかけて、この和田峠周辺は黒曜石を原材料とした石器の日本最大の産地だったと言われています。和田峠にあるこの男女蔵遺跡からは黒曜石を原材料とした石器が多く出土することから、旧石器時代の重要な遺跡として古くから注目されてきました。特に「男女倉型尖頭器」と呼ばれている石槍は、旧石器時代の流通を解明する貴重な資料として注目されています。新和田トンネルの料金所前の駐車場には、男女倉遺跡の所在を示す碑が立っています。

ちなみに、黒曜石は火山岩の一種で、化学組成上は流紋岩に分類されます。石基はほぼガラス質で少量の斑晶を含むことがあります。流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出することで生じると考えられ、同じくガラス質で丸い割れ目の多数あるものはパーライト(真珠岩)と呼ばれています。外見は黒くガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから、旧石器時代から世界各地でナイフや鏃(矢じり)、槍の穂先などの石器として長く使用されました。黒曜石は特殊な条件下でしか生成されないことから特定の場所でしか採れず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られていますが、良質な産地はさらに限られています。旧石器時代や縄文時代における黒曜石の代表的産地としては、北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼部が知られています。黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果で判明していて、例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡を隔てた朝鮮半島南部の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石は遠くロシア東部のウラジオストクまで運ばれているのが確認されています。

  

……(その11)に続きます。
 

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