2020年12月25日金曜日

中山道六十九次・街道歩き【第16回: 長久保→和田峠】(その6)

 和田八幡神社を過ぎると徐々に旧宿場町の雰囲気が出てきます。

菩薩寺です。安和元年(968)、空也上人がこの和田の地を訪れ、衆生利益のため説法をした時、建てたお堂が菩薩寺の始まりと寺伝に伝えられています。本堂に木造愛染明王坐像が祀られているのだそうです。

「和田新田」バス停です。このバス停はコンクリート製の待合所になっています。ここまで宮造り風の屋根やトンガリ帽子の屋根の待合所が続いてきたのですが、ここだけちょっと違います。

「追手川橋」を渡ると、和田宿の宿内に入っていきます。

和田宿は江戸の日本橋から数えて28番目の宿場です。中山道はおろか五街道最高地点である難所の和田峠(標高約1,600メートル)を控えた和田宿は、隣の下諏訪宿まで518(22km)と中山道最大の長丁場で、しかも峠との標高差は約800メートルもあったため、逗留する諸大名らの行列や旅人も多く、長久保宿と同様に中山道の信濃二十六宿の中では規模の大きな宿場町でした。天保14(1843)の記録(中山道宿村大概帳)によると、和田宿の宿の長さは75(870メートル)、宿内家数は126軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で宿内人口は522人でした。本陣や旅籠に加えて、和田峠越えのために、荷駄を運ぶための伝馬役が最盛期には70軒ほどあったのが特徴です。天保3(1832)の記録によると、その1年間で和田宿で動員した人足の数は延べ17.759人、7,744匹にのぼったそうです。宿常備の伝馬で賄いきれない分は、元禄7(1694)に定められた助郷制により、近隣の村々から動員されたのだそうです。

 幕末の文久元年(1861)3月、本陣を含め109戸が全焼…と、宿場の大半が火災で焼失してしまいますが、この年の11月には皇女和宮の御降嫁の行列の通過が控えていたことから、幕府より2,000両ほどを拝借し、全国から大工などを集めて、僅か4ヶ月で町並みを復興させ、この大行列を無事に迎えました。

標高820メートル余りの高地にある静かな山里にあるこの和田の街道と宿場は国の史跡「歴史の道」として整備されていて、現在も本陣や出梁造りの問屋など古い家屋が現存し、往時の面影を色濃く留めています。素晴らしい光景です。これまで訪れてきた28の宿場のなかでは、間違いなく雰囲気が一番の宿場です。

追手川橋を渡ると、賑やかな町並みが連なっていたと言われていますが、明治維新後、しだいに寂れていき、今は山あいの静かな町になっています。その町並みを見ると、時間が止まっているかのような錯覚さえ覚えてしまいます。

 追手川橋を渡ったところにあるのが「下町の問屋」と言われた山木屋(左側)と、その向かいにあるのが「歴史の道資料館かわちや」(右側)です。このどちらも文久元年(1861)3月の大火後に建てられた建物です。

特に、「歴史の道資料館かわちや」、ここは旧旅籠の「かわちや(河内屋)」の跡です。和田宿の旅籠の中では規模が大きく、出桁(だしけた)造りで格子戸の付いた宿場の建物の代表的な遺構で、江戸時代末期に立てられた旅籠建築の建築様式をよく伝えている貴重な建物です。国の史跡に指定されています。ここも文久元年(1861)3月の大火で焼失したのですが、その年の11月に本陣や脇本陣等と同じく再建されたものです。昭和56年度、「歴史の道整備事業」の一環として「歴史の道資料館」として復元されました。

その裏手に「黒曜石石器資料館」があります。旧石器時代から縄文時代にかけて、和田峠周辺は黒曜石を原材料とした石器の日本最大の産地だったと言われています。和田峠にある男女蔵(おめぐら)遺跡からは黒曜石を原材料とした石器が多く出土することから、旧石器時代の重要な遺跡として古くから注目されてきました。この和田宿にある「黒曜石石器資料館」には、この男女蔵遺跡から出土した石器が展示されていて、旧石器時代の人々が使用した石器から、当時の人々の技術力や生活の様を窺い知ることができます。特に「男女倉型尖頭器」と呼ばれている石槍は、旧石器時代の流通を解明する貴重な資料として注目されています。

 旧旅籠の「大黒屋」です。「下町の問屋」山木屋の隣に並ぶこの建物も文久元年(1861)3月の大火の後に建てられたもので、間口6(10.8メートル)×奥行き7(12.6メートル)の出桁造りの大型の建築物です。「大黒屋」は安政年間以降、昭和初年まで穀物商を営み、戦後、奥座敷の床の間と勝手奥の小座敷壁面の帳箪笥などは採光のために取り払われ、改造を加えられているのだそうです。また、明治時代に川に向かって傾斜を緩くするために道路が掘り下げられた際、道路に合わせて町並みより奥に移動したのだそうです。前面が石垣になっていますが、江戸時代には街道がその石垣の高さまであったそうです。

このほかにも歴史を感じさせる古くて大きな建物が並んでいます。

この道の奥に信定寺(しんじょうじ)があります。信定寺は前述のように武田信玄の信濃侵攻の前に敗れ、自害して果てた和田城主の大井信定父子を弔うために建てられた寺院で、14代住職であった活紋禅師は佐久間象山の師匠であったと言われています。

ちなみに、和田城の城主だった大井氏は武田信玄の生母の実家の一族でしたが、天文22年(1553年)、大井信広、信定父子は突如として武田家を離反して長尾景虎(上杉謙信)に与し、近隣の村上家と共に挙兵。大井信定は矢ヶ崎城を接収し、家臣である泰次郎右衛門幸清を配して守りを固めますが、武田軍に侵攻により落城。その時、大井信弘、信定父子も討死(自害?)したと伝えられています。その後、居城であった和田城も落城し、一族郎党悉く討死。それにより、このあたりの地方は武田信玄によって平定されました。同年、大井信定の菩提を弔う為にこの信定寺が創建され、元禄6(1693)には、前述のように信定寺の当時の和尚が、居館跡(現在の若宮八幡神社境内)の大井信定父子の首が埋められた場所に追悼する碑を建立しました。 

この信定寺は中山道の和田宿に位置していた事から日光東照宮の例祭に奉幣を奉納する為に朝廷から派遣された例幣使や、参勤交代で和田宿を利用する西国諸大名、祈願所として京都二条殿などから参拝を受けていたのだそうです。

 背後にある山は武田信玄により落城された大井氏の居城・和田城の跡です。今は土塁だけが残っているだけなのだそうです。


大黒屋の斜め対面にあるのが旧旅籠の「羽田野」家跡です。この建物も文久元年(1861)3月の大火の後、和田宿の町並みの中心部に建てられた建物で、平入出桁の門付旅籠型の伝統的な遺構です。明和2(1765)以降、同族の名主の退役により明治維新まで名主を務めた羽田家の役宅です。門や鬼瓦に刻まれた六文銭の彫り物は、かつて真田氏に所縁のあった証なのでしょう。現在は「蕎麦や徳田」として、十割手打ち蕎麦やダッタン蕎麦がウリのお蕎麦屋さんになっています。

  


……(その7)に続きます。



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