2020年12月26日土曜日

中山道六十九次・街道歩き【第16回: 長久保→和田峠】(その7)

和田宿本陣です。この建物も文久元年(1861)3月の大火の後、建設されたものです。何度も書いていますように、和田宿は文久元年(1861)3月に宿場の大半を火災で焼失し、前身の本陣もこの大火の際に灰燼に帰したのですが、この年の11月に皇女和宮の御降嫁の宿泊地とされていた和田宿ではこの使命を全うすべく幕府の拝借金を得て宿場の復興が行われたのですが、この本陣はその中心となる建物として再建されたものです。

明治維新後は本陣としての機能を終えて、町役場兼農協の事務所として昭和59(1984)4月まで使用されていました。役場の新庁舎移転に伴い解体の運命にあったのですが、調査の結果、和田宿における重要な遺構としての価値が認められ、昭和61(1986)より解体修理が行われ、5年の歳月を経て、往時の姿に復元されました。出桁造りの間口12間、奥行き9間に及び和田宿最大の建造物で、数少ない残存する遺構として威容を誇っており、国の史跡に指定されています。当時の本陣は大名等が宿泊する客殿(座敷棟)と、本陣の所有者が寝泊まりしていた本殿(居室棟)に分かれていたのですが、現存しているのは板葺き石置き(1,633個の石)屋根が特徴的な本殿(居室棟)のほうで、皇女和宮も宿泊したと言われる「上段の間」などがあった客殿と門は上田市丸子町の龍願寺に、門は同じく丸子町の向陽院に移設され、そこで現存しているのだそうです。

この門は往時の姿に復元された門ですが、皇女和宮が宿泊するために特別に作られた門で、旧中山道沿いにはなく、旧中山道から左折して少し入ったところに設けられていました。



現在、本陣は「和田宿 長和の里歴史館」となっていて、内部を見学することができます。

この本陣の建物は文久元年(1861)3月に起きた宿場の大半を焼失する大火災の後、皇女和宮の江戸降嫁の大行列を迎えるために急遽再建されたものなので、その皇女和宮の江戸降嫁の大行列に関する資料が数多く展示されています。

文久元年(1861)1020日、和宮の行列は京を出発して中山道を下り、江戸へと向かったのですが、人質同然で降嫁する和宮を奪還すべく、過激な攘夷派が行列を襲撃するという噂が広がりました。そのため御輿の警護に12藩、沿道警護に29藩を動員し、幕府の威信をかけて絶対安全の確保を目指しました。この結果、空前絶後、世界最大の大行列が出現したわけです。記録によると、行列のお供は、京都方約1万名、江戸方約15千名。通し人足約4千人、警護の各藩約1万人、助郷人足約13千人、遠国雇人足約7千人、馬士2千人、馬2千頭…、総人数は約8万人。持参した物も含め、行列は50Kmもの長さに及び、沿道で行列をすべて見送るには丸4日を要したそうです。この空前絶後の大行列が4日間に殺到したわけです。さぞや大混乱したことでしょうね。これはもう、行列というより、ひたひたと押し寄せる津波、大草原で発生するイナゴの大群のようなものです。ちなみに、この和田宿を警護したのは江戸幕府の若年寄も務めた譜代大名の飯山藩(現在の長野県飯山市)35千石藩主・本多豊後守助賢(すけとし)。さぞや大変だったろうと思います。


本陣に残されている皇女和宮の江戸降嫁の大行列に関する貴重な資料も展示されています。


ここには旧中山道の古い写真が展示されていて、往時を偲ぶことができます。ここまで歩いてきた途中の写真もあります。なるほどぉ〜。

本陣らしく、参勤交代途中の大名等が、滞在中に門のところに掲げておく関札が残っています。一番右の真田幸民は、信濃国松代藩10万石第10(最後)藩主、その隣の堀親広は信濃国飯田藩15千石第12(最後)藩主。そのまた隣の牧野康済は、信濃国小諸藩15千石第10(最後)藩主です。みな譜代、もしくは譜代格の大名です。石高の違いが関札の大きさに表れています。


和田宿には本陣だけでなく、往時を偲ばせる古い建物が幾つも残っています。

本陣の斜め向かいにある「石合家」です。かなり大きな建物です。長久保宿の本陣である「石合家」から分かれた家のようで、現在10代目、ないし11代目となる家柄だと言われています。旅籠屋を営み、和田宿の「年寄り」であったと伝えられています。本陣の斜め向かいという和田宿の中心部に位置し、町並み景観上も重要な位置にあり、典型的な旅籠屋の外観を今に伝える貴重な建物の1つです。

和田宿の2軒あった脇本陣のうちの1つで、歴代「翠川氏」が務めた翠川脇本陣です。この建物も文久元年(1861)3月の大火の後、この年の11月の皇女和宮の御降嫁に間に合うように建てられたもので、現在の建物は当時の客殿部分で、上段の間や二の間を備えた格式の高さが感じられる部分や風呂や厠なども残り、上田、小県地方唯一の脇本陣の遺構として大変に貴重な建物となっています。残念ながら一般公開はされておりませんが、皇女和宮の履いた草履を保存しているのだそうです。

翠川脇本陣の対面にあり、和田宿に何軒も残っている出格子造りの家の中で一際目立つのが、昔庄屋だった「なが井」家です。平成24(2012)まで「本亭旅館」という旅館として営業していて、中山道を旅する人の間で大変に人気のあった旅館だったのだそうです。前述のように平成24(2012)に廃業して、現在は営業しておりません。「中山道和田宿旅人御宿本」という看板が掲げられていて、広間の高札や槍がこの家の歴史の古さを伝えています。

「米屋鐡五郎本舗」です。ここは「上町の問屋」と呼ばれた問屋「米屋家」の跡です。現在は和田宿街道復元計画の一環として問屋「米屋家」跡を改築し、歴史資料館と休憩所を兼ねた「米屋鐡五郎本舗」として公開されています。

翠川脇本陣の隣に「上和田」バス停があります。かつてここがJRバス関東が運行する和田峠北線の終点で、ここでJRバス関東下諏訪支店が運行する和田峠南線と接続し、和田峠を越えてJR中央本線の下諏訪駅まで運行されていました。信越本線と中央本線という2本の幹線鉄道路線を短絡する和田峠線の接続点でした。しかしながら、乗客の減少により2005年に和田峠南線が廃止され、残った和田峠北線も長久保~上和田間が長和町営の長和町巡回バス(JRバス関東が運行受託)の区間に切り替えられました。

この日の街道歩きはこの上和田バス停がゴール。この近くにある和田宿ステーションと呼ばれる特産物直売所の駐車場からバスに乗り込み、この日の宿泊ホテルであるJR佐久平駅(北陸新幹線・小海線)駅前にある佐久平プラザ21へ向かいました。この日は13.6km、歩数にして18,707歩、歩きました。この日のスタート地点であった長久保宿の標高は約750メートル。ゴールの和田宿の標高は約820メートルなので、この日登った標高差は約70メートルです。

この日訪れた長久保宿と和田宿は、どちらも往時の面影が色濃く残るという点では、これまで訪れた中山道や甲州街道の宿場の中でも一、二を争う素晴らしい宿場でした。旧街道歩き再開初回にこのような魅力的な宿場を訪れることができたので、俄然街道歩きへの“やる気”が戻ってきました。さぁ〜明日は街道歩きのもう一つの魅力である“峠越え”。いよいよ標高1,531メートルの五街道最高地点、和田峠の頂上(サミット)まで標高差約710メートルを一気に登ります。

  

……(その8)に続きます。


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