2020年12月22日火曜日

中山道六十九次・街道歩き【第16回: 長久保→和田峠】(その3)

その細い道の下り際に江戸の日本橋を出てから48番目の「四泊(よどまり)一里塚」跡を示す説明板が建てられています。説明板によると、ある高僧が善光寺を目指して歩いていて、4泊目に泊まったところだから「四泊(よとまり)」という地名になったと伝えられているのだそうです。ここには榎(エノキ)の大木が植えられていたのですが、昭和35(1960)に行われた国道の改修工事の際に取り払われてしまいました。今は一里塚があったことを示す標識のみが残っているだけです。一里塚跡の標識の横に中山道を示す道標が立っています。

その旧道を歩きます。農道のようですが、これが旧中山道です。舗装されていない往時のままの土の道が残っています。野焼きの煙があたり一面に漂っていて、ちょっと呼吸が苦しいです。街道歩きの最中も基本マスク着用です。マスクに加えてこの野焼きの煙。ちょっと勘弁して…って気になります。

旧中山道は国道142号線(国道152号線)を横切り、一度反対側の側道に出るのですが、すぐに国道142号線(国道152号線)と合流します。その合流地点に旧街道の証し“道祖神”が立っています。こうした石塔石仏を見ると、旧街道を歩いているな…って思えます。石塔石仏を見て興奮するようになると、あなたも立派な旧街道マニアです。

しばらく国道142号線(国道152号線)と並行して進みます。

大和橋の交差点で右に分岐する国道142号線から分かれ、左側の国道152号線に入るのですが、ここでちょっと寄り道。大和橋を渡ります。下を流れている川は依田川。依田川は日本最長の一級河川・千曲川(信濃川)の支流で、ここから先、旧中山道は依田川に沿って遡るように伸びていきます。

大和橋の交差点で右に分岐する国道142号線から分かれ、左側の国道152号線に入るのですが、ここでちょっと寄り道。大和橋を渡ります。下を流れている川は依田川。依田川は日本最長の一級河川・千曲川(信濃川)の支流で、ここから先、旧中山道は依田川に沿って遡るように伸びていきます。

この『長和の里 歴史館(長和町文書館)』、なかなか興味深いモノが展示されています。

 「水戸浪士通行にともなうエピソード」という展示があります。

この先の和田峠で幕末の元治元年(1864)11月に「天狗党の乱」と呼ばれる一連の戦いの1つが繰り広げられました。「天狗党の乱」とは、元治元年(1864)3月から12月にかけて、水戸藩士の尊王攘夷派のうちの急進派の一隊が、常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)、下総国(千葉県)の各地の農民を率いて常陸国筑波山で挙兵し、関東各地また中山道を転戦した事件のことです。 ここで書かれている水戸浪士とはその天狗党のことです。この先、和田峠を越えて下諏訪宿に向かう途中でその天狗党が高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵との間で激戦が繰り広げられました。激戦の後、戦いに勝利して高島(諏訪)藩・松本藩の藩兵を蹴散らした天狗党軍は、討ち死にした10数名の同志(浪士)をこの地に埋めて中山道を京を目指して進軍していきました。その激戦が繰り広げられた場所には、討ち死にした10数名の浪士を埋めた「浪人塚」と書かれた石碑が建っています。

中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その4)

甲州街道と言えば甲斐武田家ですが、中山道と言えば「皇女和宮の江戸降嫁」です。万延元年(1860)、皇女和宮の江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)への輿入れが決定。江戸幕府により、その準備が一斉に始められ、翌 文久元年(1861)10月、和宮一行は中山道を下り、江戸を目指すことになりました。この幕末期における「皇女和宮の江戸降嫁」の行列は空前絶後、世界一の花嫁行列と言われ、中山道を歩いていると随所でその大行列に関わる様々な話に出くわします。この行列のお供は、京都方1万名、江戸方16千名。持参した物も含め、行列は約50Kmもの長さに及び、沿道で行列をすべて見送るには丸4日を要したとのことです。中山道沿いの宿場などに幕府より通達が発せられ、近隣の住民をも巻き込んで、てんやわんやの大騒ぎだったことは容易に想像できます。

この『長和の里 歴史館(長和町文書館)』には昔を偲ぶ様々なモノが所狭しと(雑然と)置かれています。こういうところ、実は私は大好きです。

『長和の里 歴史館(長和町文書館)』の前に二十三夜塔が立っています。その先は諏訪神社本殿跡地。焼けてしまったのか、現在は石でできた鳥居だけが残っています。

旧中山道に戻ります。国道142号線沿いに「中山道 これより和田の里」と刻まれた石碑が立っていますが、和田宿はまだまだ先です。

前述のように、旧中山道は大和橋手前の交差点で右に分岐する現代の中山道、国道142号線から分かれ、左側の国道152号線に入っていきます。この大和橋のところで2本の川が合流します。国道142号線に沿って流れてくるのが依田川、国道152号線に沿って流れてくるのが大門川です。

旧中山道はほんの少し大門川に沿って進みます。

ただ旧中山道は国道152号線(大門街道)100メートルほど歩いた先ですぐに右に曲がり、大門川を落合橋で渡ります。

この落合橋のたもとが国道152号線(大門街道)との分岐点です。ここからは武田信玄が信濃攻略のために作ったと言われる軍用道路「棒道(ぼうみち)」が分かれていました。八ヶ岳南麓から西麓にかけての甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の境、いわゆる「甲信国境」を通り、甲斐国北西部の逸見筋にあたる山梨県北杜市(旧北巨摩郡小淵沢町、長坂町)や長野県富士見市には、現在でも“上の棒道”、“中の棒道”、“下の棒道”の3筋が残されています。甲州街道を歩くと、この「棒道」だけでなく武田信玄が建設したとされる何本もの軍用道路を目にすることができます。ちなみに、「棒道」の名前の由来は、荒野にまっすぐ一本の棒のように存在していたので棒道と呼ばれるようになったとされています。

現在は国道152号線として白樺湖へ向かう観光道路になっています。この国道152号線は信濃国(長野県)の上田市と遠江国(静岡県)の浜松市との間を結ぶ全長264.1 km の国道ですが、信濃国の上田市から茅野市までの区間は「大門街道」と呼ばれ、茅野市から南の区間は「杖突街道」、さらには「秋葉街道」と呼ばれるようになって、浜松市に至ります。別名を「塩の道」ともいい、海辺でとれた塩を信州地方に運ぶルートでもありました。

地図で見るとこの国道152号線は八ヶ岳や南アルプスの西側の山間部を縦断して、高遠藩の城下町・高遠町(現・長野県伊那市)を経て静岡県の天竜川や支流の水窪川に沿って浜松市街に下るほぼまっすぐに伸びる道路のように見えるのですが、この路線は中央構造線そのものであり、地質の関係もあって実際には山また山の連続。北から順に大門峠、杖突峠、中沢峠、分杭(ぶんくい)峠、地蔵峠、青崩(あおくずれ)峠と6つの主要な峠を次々と越えてゆくことになります。特に後半の3つの峠は対向すら難しい幅員の狭い1車線の道路で、さらに地蔵峠、青崩峠の2つの峠は崩落により分断されていて、林道で迂回しないといけない道路になっています。“国道”とは名ばかりの、いわゆる“酷道”で、道路踏破趣味の一分野としてこのような“酷道”を走破する事に情熱を傾ける「酷道マニア」の間では有名な道路になっています。

 

ちなみに、中央構造線とは日本列島を縦断する大断層で、九州から四国を通り、この国道152号線(秋葉街道)のルートを経て諏訪湖で糸魚川静岡構造線と交差しています。この中央構造線を境にそれぞれ生い立ちの異なる地質である外帯(三波川変成帯:さんばがわへんせいたい)と内帯(領家変成帯:りょうけへんせいたい)とが合わさっています。国道152号線の上記6つの峠の中の1つである分杭峠は、「ゼロ磁場」の地点として有名なところです。「ゼロ磁場」というのは、N極とS極の磁気がお互いに打ち消しあいつつも磁力の高低の変動が大きく、全体的にはゼロに近くて磁気の低い状態を保っている場所のことを言います。分杭峠は中央構造線と呼ばれる世界最大級の断層の上にあり、地底で左右から巨大な断層同士が押し合うことで、そこがゼロ磁場になっていると考えられています。 拮抗する断層の均衡が、ちょうど良い地点が分杭峠ということなのでしょう。余談ですが、諏訪大社のほか、豊川稲荷(愛知県)、伊勢神宮(三重県)、高野山(和歌山県)、天河大弁財天(てんかわだいべんざいてん:奈良県)、大剣神社(徳島県剣山)、石鎚神社(愛媛県)、幣立神社(へいたてじんじゃ:熊本県)といった格式の高い神社仏閣や、修験道の聖地と呼ばれる場所の多くがどういうわけか中央構造線上に設置されています。この事実は、いったい何を物語っているのでしょうかねぇ~。これらの神社仏閣や修験道の聖地と呼ばれるところも「ゼロ磁場」の場所の上に建っているってことなのでしょうか。不思議です。

 

……(その4)に続きます。


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