2日目の朝、宿泊したJR佐久平駅前のホテルからこの日の出発点である和田宿に向かう途中のバスの中から撮影した浅間山です。夜の間、前線が通過した影響で雨が降っていたようですが、朝にはすっかりやんで、青空が顔を覗かせています。今日も『晴れ男のレジェンド』は健在のようです。
2日目は和田宿を出て、いよいよ中山道だけでなく五街道最高地点である和田峠の頂上(サミット)付近にある東餅屋茶屋跡に向かいます。和田宿の標高は約820メートル。和田峠の頂上は1,531メートル。標高差約710メートルを一気に登ります。
この日は前日バスに乗った「和田宿ステーション」と呼ばれる長和町営の農産物直売所の駐車場から歩き始めました。
野沢菜です。漬物になった姿ではお馴染みの野沢菜ですが、ナマで見たのは初めてです。
長野県と言えば“リンゴ”。美味しそうなリンゴが安価で売られているのですが、お土産に買って帰るには重いので、断念!!
翠川脇本陣の対面にあり、和田宿に何軒も残っている出格子造りの家の中で一際目立つのが、旧旅籠屋兼庄屋であった「なが井」家です。玄関に大戸がある古風な建築を活かし、平成24年(2012年)まで「本亭旅館」という旅館として営業していて、中山道を旅する人の間で大変に人気のあった旅館だったのだそうです。現在は営業しておりません。
「よろずや」です。江戸時代には質屋と両替商を営んでいたと言われています。旅籠屋形式の作りですが、和田宿では唯一“卯建(うだつ)”を持つ建物です。見事な“卯建”と白壁の土蔵を持つ商店は、今も「よろずや」と看板を掲げる酒店となっています。「よろずや」は、文字通り、今も和田宿の“コンビニ”として、なくてはならない存在のようです。
その「よろずや」の看板ですが、江戸方は「よろづや」と平仮名表記で屋号が書かれていますが、反対の京方からは「萬屋」と漢字表記で屋号が書かれています。これって、京方向から来る人にほうが文化的教養度が高いからという理由なのでしょうか?
和田宿内は国指定の史跡「歴史の道」として保護が行われていることもあるのでしょうが、各家の軒先にはそれぞれの屋号が書かれた札が掛かっています。地元の方々のここが中山道の宿場であったことへの誇りを感じさせます。
ここで後ろを振り返って通ってきた和田宿のほうを眺めてみました。振り返ってみると、和田宿の宿内もかなりの勾配で登っているのが分かります。
宿場街もそろそろ終わりというあたりに「上町中」のバス停があり、ここが高札場跡でした。幕府の法度等が掲げられた高札場の大きさは正面幅2間(約3.6メートル)の屋根付きのものであったそうです。
旧中山道は旧街道らしく等高線に沿って微妙にS字カーブを描きながら伸びています。このあたりもちょっとした登り勾配になっています。
宮造り風の屋根をした「和田上町」バス停です。
このあたりは金山坂と呼ばれています。仲睦まじい、信州名物、男女双体道祖神です。
これもなかなか風情のあるバス停です。「鍛治足」バス停です。
旧中山道脇を小川が流れています。旧中山道の和田峠に近づくにつれ登り勾配が徐々にキツくなってきているので、小川の流れもかなり急で、ゴボゴボと音を立てながら流れています。しかし、流れている水は透き通った清流です。
しばらく歩くと国道142号線と合流しまします。そして国道142号線を斜めに突っ切るように進みます。
和田鍛治足交差点で国道142号線を横断します。横断したところに、江戸の日本橋から数えて50番目の一里塚、「鍛治足(かじあし)一里塚跡碑」と「諏訪街道道標」が立っています。五叉路になっていて、道を挟んでその向かい側には「中山道」を示す「歴史の道」の石碑が立っています。塚は民有地となっていて、すっかり消滅してしまっています。50番目の一里塚と言うことは、江戸の日本橋を出てからここまで約200km歩いてきたことになります。ちょっと感慨深いものがあります。ですが、まだ200kmです。中山道は江戸の日本橋から、武蔵国(現在の東京都と埼玉県)、上野国(群馬県)、信濃国、木曽国(ともに長野県)、美濃国(岐阜県)、近江国(滋賀県)を経て京都の三条大橋まで135里35町(約534km)もあります。まだ半分も歩いてきていません。先は長いです。
この鍛治足一里塚跡からは左側の細い道(旧道)に入ります。旧中山道は今度は国道142号線と依田川の間を進みます。
茅葺き屋根の大出バス停です。雰囲気がありますね。
……(その9)に続きます。
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