2018年7月18日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第1回:両国→御茶ノ水】(その3)

柳森神社です。柳森神社は、長禄2(1457)、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳を現在の佐久間町一帯に植え、京都の伏見稲荷を勧請し、このあたり一帯の鎮守として祀ったことに由来します。万治2(1659)に神田川堀割の際に現在の地に移りました。柳の樹も堀の土手に移植され、江戸時代には商売繁盛の神として非常に賑わい、柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと当神社に由来する町名がありました。また、椙森神社、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれました。


鳥居を潜ると下へ降りる階段があります。本殿が鳥居より下にある神社のことを「下り宮」といいます。狭い境内には社が8社が鎮座しています。


まず、階段の途中に、富士宮浅間神社が鎮座しています。そして、富士宮浅間神社の奥にある岩は、千代田区に残る唯一の富士塚の名残です。この富士塚の名残のほか、境内の13個の力石群が千代田区の有形民俗文化財に指定されています。



境内の福寿神祠は「お狸様」と呼ばれ、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の時代に、ご生母であった桂昌院により江戸城内、俗にいう“大奥”に「福寿いなり」として創建されたものです。桂昌院は八百屋の娘でしたが、春日局に見込まれ第3代将軍・徳川家光の側室となりました。「玉の輿」という言葉は、桂昌院(「お玉」が元の名前)が八百屋の娘から側室へとなったことが由来とされています。福寿神祠に祀られている祭神は福寿神(徳川桂昌院殿)、通称「お狸様」です。何といっても、鳥居の左右に鎮座する狛狸様が特徴的です。このほか柳森神社の境内はたくさんのお狸様の像が祀られています。他を抜いて(たぬき)、玉の輿に乗った桂昌院の幸運にあやかりたいと大奥の女中衆はこぞってこのお狸様の像を崇拝したと言われています。「玉の輿」以外にも、他を抜いて(たぬき)の語呂から、「出世開運」や「必勝勝負」、さらには懐妊の狸像がご本尊なので、「安産」のご利益もあるのだそうです。





奥に進むと、摂社が並んでいます。右から「明徳稲荷神社」、「秋葉大神」、「水神厳島大明神 江島大明神」、「金刀比羅神社」です。明徳稲荷神社の祭神は宇気母智神(うけもちのかみ)、お狐様です。秋葉大神の祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)。防火鎮守の神様で狛犬様です。水神厳島大明神・江島大明神の祭神は龍神様です。金刀比羅神社の祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。江戸時代、運送業者や商人の金毘羅信仰を集めていたのがこの金刀比羅神社から窺えます。


JR東北・上越新幹線やJR山手線・京浜東北線、上野東京ラインの線路の高架の下を通ります。東北・上越新幹線の上野駅のホームは地下4階にあるのですが、東京駅までの延伸に伴い、全長1,133メートルの第1上野トンネルを経て、JR秋葉原駅の手前で地上に出てきます。この写真の右手に秋葉原駅があります。
  

 次に左手からJR中央本線の線路が近づいてきます。ここにある橋が万世橋です。




万世橋(まんせいばし)です。万世橋の歴史は、延宝4(1676)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡ります。この筋違橋は、徳川将軍が上野寛永寺や日光東照宮に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋とのほぼ中間にありました。すぐ南に江戸城三十六見附の1つ「筋違見附(筋違橋御門)」があり、橋はその見附の付属物のような位置付けのものでした(前述のように、見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことです)。「筋違」の名称の由来は、この御門の前が日本橋から本郷に通じる中山道と、内神田から下谷へ通じる日光御成道(にっこうおなりどう)が交わる場所だったからです。日光御成道は江戸時代に五街道と同様に整備された街道の1つで、中山道の本郷追分を分岐点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前で日光街道に合流する脇街道のことです。歴代将軍が江戸城大手門を出て神田橋門を通り、上野寛永寺や日光東照宮に出向く時に使用した道路のことで、日光御成街道や、途中岩槻を通ることから「日光道中岩槻通り」や「岩槻道」とも呼ばれていました。

明治5(1872)に筋違見附が取り壊され、翌明治6(1873)にその筋違見附の石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成しました。当時の東京府知事・大久保忠寛が「萬世橋(よろずよばし)」と命名したのですが、次第に“まんせいばし”という音読みが一般化していきました (眼鏡橋とも呼ばれることもありました)。上流の昌平橋が明治6(1873)に洪水に流され、明治29(1896)に復旧されるまでは、現在の万世橋の位置に仮の木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれました。この期間は、万世橋の下流に昌平橋があったことになります。

明治36(1903)、一時昌平橋と呼ばれた仮の木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋は明治39(1906)に撤去されました。新万世橋は大正12(1923)の関東大震災で被災したのですが、直ちに修復されました。大震災後の帝都復興事業に指定され、東京地下鉄道の渡河工事に伴う水路変更の必要もあって、いったん東側下流の木製仮橋に移転した後、昭和5(1930)に長さ26メートル、幅36メートル、石及びコンクリート混成の現在のアーチ橋に架け替えられました。南側より北側が広い橋詰広場や、欄干袂の機械室と船着場は、地下鉄建設時の経緯によるものです。


旧万世橋駅の跡地です。万世橋駅は中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間にかつてあった駅で、今は建物は完全に取り壊され、ホームの跡だけが微かに残るだけの廃駅ですが、かつてはここが中央本線の終着駅(ターミナル駅)でした。駅舎は日本銀行本店や東京駅の駅舎と同様、著名な建築家・辰野金吾の設計による赤煉瓦造りの豪華な建物で、1912(明治45)4月に完成、営業を開始しました。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である廣瀬武夫と杉野孫七の銅像も建てられました。東京市電が走り、多くの人で賑わい、大正時代に最盛期を迎えました。しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。さらに1919(大正8)3月、中央本線の万世橋駅~東京駅間が開通して、中央本線のターミナル駅としての役目は僅か7年で終了しました。同年、神田駅が開業。1925(大正14)11月には、上野駅~神田駅間の総武線の高架線が完成。秋葉原駅が旅客営業を始めました。一方、万世橋駅は1923(大正12)の関東大震災で駅舎が焼失し、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎として再建されました。しかし、徒歩で行ける距離に神田駅及び秋葉原駅ができたこと、さらに山手線の上野駅~神田駅間の路線が開通したことで東京駅以南から上野・浅草方面への市電乗り換え駅としての地位をも失ったため、乗客数は急減していきました。1936(昭和11)4月、東京駅から鉄道博物館がこの地に移転。駅舎は解体縮小され、博物館に併設された事務所小屋のような状態となりました。そしてついに1943(昭和18)11月、駅は休止(実質上廃止)となり、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊されました。



現在、万世橋駅の旧構内には中央本線が走っており、プラットホームの遺構は中央線の神田駅~御茶ノ水駅間の車窓から確認することができます。中央本線の上り線と下り線が離れた間の線路より幾分高い所にあって、雑草が茂っているので、すぐに分かります。2012(平成24)7月から旧万世橋駅遺構の整備工事が始まり、2013(平成25)9月には「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」が開業しました。この「mAAch ecute 神田万世橋」にはガラス張りのすぐ横両サイドを中央線の電車が行き交うお洒落なカフェになっています。



今回の「江戸城外濠内濠ウォーキング」のガイドを務めていただいたのは大江戸歴史散策研究会を主宰されておられる瓜生和徳さん。リゾートホテルや旅行会社の販促コンサルタントを経て、現在は旅のプランナーとしてご活躍なさっている方です。ご自身が企画したツアーのガイドをやりながら、お客様の声を直接聞き、次の企画の参考にしているのだそうです。特に歴史上の人物にスポットを当てたツアーの企画が得意分野なのだそうです。この江戸城外濠内濠ウォーキングもご自身で企画して旅行会社に持ち込み、またご自身でガイドも務めておられるのだそうです。そういう方ですので、とにかく博識で、なんと言っても説明が面白い! 江戸のことなら知らないことがないってくらいです。私自身は江戸の歴史に興味を持ち始めた“お江戸初心者”なので、瓜生和徳さんのガイドに魅了されて、いっぺんで瓜生和徳さんのファンになっちゃいました。瓜生和徳さんの企画したツアーの“追っかけ”をやりたいくらいです。上の写真は旧万世橋駅の前で筋違見附(筋違橋御門)の説明を瓜生和徳さんから受けているところです。

旧万世橋駅の中に入ります。鉄ちゃん(鉄道マニア)としては、ちょっとワクワクします。昔のまんまの階段です。こちらは「1935階段」、昭和10(1935)に設置され、昭和18(1943)の駅休止までの間、使用された階段です。この「1935階段」は階段の踏面はコンクリート、壁面のタイル目地も平目地となっていますが、旧万世橋駅にはもう1つ「1912階段」と言って明治45(1912)の万世橋駅開業の時に作られた階段があって、こちらのほうの階段は、厚い花崗岩や稲田石を削りだした重厚なもので、壁面のタイルも、東京駅のレンガ(煉瓦)などに見られる「覆輪目地(ふくりんめじ)」という、高級な施工がされているのが特徴です。鉄ちゃんとしてはこの「1912階段」に大いに興味が惹かれるのですが、この日は団体行動なので我儘は言えません。またの機会に是非訪れたいと思っています。


 「2013プラットホーム」です。明治45(1912)の万世橋駅開業時は、近距離電車用の南側ホームと、長距離列車用の北側ホームの2面のホームがありました。しかし、御茶ノ水~飯田町間の複々線開業と同時に北側のホームは撤去され電車の留置線となりました。駅休止後、上屋などは撤去されましたが、ホーム自体は撤去されず残されていました。それを平成25(2013)に展望デッキやカフェとして蘇らせて整備したので「2013プラットホーム」と呼ばれています。デッキには、万世橋駅の当時の駅名標を忠実に再現して設置されています。ホームにはガラスに囲まれた展望カフェデッキがあり、JR中央線の電車がすぐ両脇を行き交います。こりゃあ鉄ちゃんの聖地、特別な空間です。今度ゆっくりと訪れたいと思います。



駅前には万世橋駅再生工事の途中に発見された、万世橋駅時代のホーム上屋の基礎の一部が保存されています。この旧万世橋駅、他にもいっぱい見どころがありそうなので、何度も繰り返しになりますが、鉄ちゃんとしては、ゆっくりと時間をとって訪れたいと思います。


旧万世橋駅の前に神田祭についての説明板が立っています。神田祭はこの近くの神田明神で隔年(西暦の奇数年)5月中旬に行われる祭礼のことです。「神田明神祭」とも呼ばれ、山王祭、深川祭と並んで「江戸三大祭」の1つとされ、また、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に「日本の三大祭り」の1つにも数えられています。行事は主に、祭神を御輿に移す鳳輦神輿遷座祭、各町内会の連合渡御となる氏子町会神輿神霊入れ、伝統の神事能である明神能・幽玄の花、そしてすべての神職が奉仕する例大祭などがあります。


神田祭の起源についての詳細は不明ですが、大祭になったのは江戸時代以降のことです。江戸時代に書かれた『神田大明神御由緒書』によると、江戸幕府開府以前の慶長5(1600)に、徳川家康が会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだ時や、関ヶ原の合戦において神田大明神に戦勝の祈祷を命じました。神田明神では家康の命によって毎日祈祷を行っていたところ、915日の祭礼の日に家康が合戦に勝利し天下統一を果たすことができました。そのため家康の特に崇敬するところとなり、社殿、神輿・祭器を寄進し、神田祭は徳川家縁起の祭として以後盛大に執り行われることになったといわれています。

現在、神田祭と言えば、“ふんどし”を粋に締めた担ぎ手も混じるたくさんの町御輿が繰り出されることで有名ですが、これは明治の時代になって以降のことで、元々江戸時代には京都の祇園祭のような山車が出る祭りで、江戸三大祭についても「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と謳われたほどでした。しかし、明治の時代になって以降、路面電車の開業や電信柱の敷設で山車の通行に支障を来すようになり、次第に曳行できなくなりました。さらに関東大震災や戦災によって山車がすべて焼失したこともあり、現在は山車に代って町御輿が主流となっているのだそうです。

なお、山車に飾られていた人形や、明治期に売却されたという山車が関東各地に伝存するようです。また、国の重要無形民俗文化財に指定されている埼玉県川越市の「川越氷川祭の山車行事」は江戸の神田祭の伝統が今日でも最も生きている祭りの1つであると言われています。さすがは川越。江戸時代から「小江戸」と呼ばれた城下町だけのことはあります。


昌平橋を渡ります。この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年〜1645)と伝えられていて、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称していました。また寛文年間に発行された『新板江戸大絵図』には「あたらし橋(新し橋)」、元禄年間初期の江戸の絵図には「相生橋」とも記されています。元禄4(1691)に第5代将軍徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子の生誕地である魯国の昌平郷にちなんで、「昌平橋」と命名されました。

江戸時代には水害で度々流されており、享保13(1728)830日夜から923日にかけての大洪水では昌平橋、和泉橋、柳原新し橋(現在の美倉橋)、柳橋が一気に流失、また、寛延2(1749)8月にも昌平橋、筋違橋など神田川に架かる橋々が幾つも流失し、その度に架設されています。また、明暦の大火の後、昌平橋から筋違御門にかけて「八ツ小路」あるいは「八辻ヶ原」と呼ばれる火除地が設けられたのですが、弘化3(1846)1月の大火で昌平橋が焼け落ち、同年新たに架設されました。

昌平橋は明治維新後の明治6(1873)923日の洪水により落橋したのですが、昌平橋及び筋違橋を廃して、その中間に石橋(萬世橋)を架橋する事が既に決定していたため、流された橋はすぐには再架橋されることはありませんでした。前述のように、同年、旧昌平橋と旧筋違橋の間に、筋違御門の枡形石垣を解体して再使用した石造アーチ橋の「萬世橋」(よろづよばし)が架設されたのですが、明治11(1878)、資産家の高橋次郎左衛門により、その萬世橋の更に下流(現在の万世橋付近)に鉄橋の有料橋である「昌平橋」が架設されました。この昌平橋は、秋田産の土瀝青(天然アスファルト)を使用した日本初のアスファルト舗装が施された橋でした。

この場所に再び橋が架けられたのは明治33(1900)のことで、再び昌平橋と命名されました。これに伴い、下流の萬世橋は「元萬世橋」に、昌平橋は「新萬世橋」に改称されました。現在の昌平橋は大正12(1923)4月に架け替えられたもので、神田川における最初の鉄筋コンクリート製アーチ橋でした。竣工当時は人道橋(橋長約23.64メートル・幅員約19メートル)と軌道橋(東京市電専用橋:橋長同じ・幅員約6.97メートル)2本の橋が独立した構造で並び、人道橋と軌道橋の間に鋼製アーチの水路橋(橋長約21.21メートル)が設けられていました。その5ヶ月後の同年91日に関東大震災に遭遇したのですが、目立った被害には遭わなかったと言われています。その後、震災復興再開発事業法に基づき昭和3(1928)に人道橋の歩道部分を廃止して車道・軌道専用橋に改修するとともに、下流側(東側)に新たな人道専用橋を架設。昭和5(1930)に上流側(西側)の旧軌道橋を人道専用橋に改修しました。なお、架設当時の高欄、照明灯は第二次世界大戦中の鉄材供出で撤去され、その後は親柱だけが残った状態だったのですが、昭和58(1983)の昌平橋整備工事により架設当時の姿に復元されています。また、平成24(2012)には長寿命化工事(アーチ補修)が竣工しています。


神田川に架かる昌平橋の前後でJR中央線と総武線の高架線路をくぐり抜けます。このすぐ西がJR御茶ノ水駅で神田駅からやって来た中央線と、秋葉原駅からやって来た総武線が合流するところがよく見えます。また、その先には神田川を鉄橋で渡る東京メトロ丸ノ内線の地下鉄車両も見えます。そういうことで、ここは都会の鉄道風景として、“撮り鉄”がよく撮影に来る人気スポットになっています。






……(その4)に続きます。



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