2018年7月30日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第2回:御茶ノ水→飯田橋】(その1)


510日、某旅行会社主催の江戸城外濠内濠ウォーキングの【第2回】に参加して、御茶ノ水→飯田橋を歩いてきました。この日のスタートポイントは前回のゴールだったJR御茶ノ水駅西口改札前。ここから飯田橋まで歩くのですが、距離は短いものの、今回は比較的テーマを絞った見どころを幾つか訪ねます。

JR御茶ノ水駅の西口前に「お茶の水(御茶ノ水)」という地名の由来について書かれた石碑が立っています。その石碑によると、このあたり一帯は古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたのですが、第2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止を目的とした神田川の放水路と江戸城の外濠を兼ねて東西方向に掘割りが作られ、現在のような渓谷風の地形が形成されました。それとちょうど同じ頃、その堀割りの北側にあった高林寺から泉が湧き出し、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったのだそうです。なるほどぉ〜。


お茶の水橋で神田川を渡ります。このあたり一帯は神田山を崩して人工の堀割りが掘られ、現在のような渓谷風の地形が形成されたことは前述のとおりで、付近一帯は高林寺から湧き出した泉を由来にして「お茶の水」と呼ばれるようになりました。これにより、この人工の渓谷も「お茶の水谷」、さらに雅称として「お茶の谷」という意味の「茗溪(めいけい)」と呼ばれるようになりました。「お茶の水橋」の名称もこの地名に由来します。

しかし当時の土木技術では深い峡谷に架橋することは困難だったこともあり、橋が建設されたのは明治に入ってからのことです。初代の橋は明治24(1891)に日本人の設計としては初の鉄橋として架けられました。当時の構造は長さ38(69メートル)・幅6(11メートル)の上路式トラス橋で、橋の上には路面電車が走っていました。明治37(1904)に橋の下に甲武鉄道(現在のJR中央本線)の御茶ノ水駅が開設されました。大正12(1923)の関東大震災では橋板に木材が使われていたため焼失し、神田川は土砂崩れで堰き止められました。昭和6(1931)、関東大震災からの震災復興事業として架け替えが完成し、新たな橋は橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製のラーメン橋になりました。耐震性に優れた造りの橋で、架橋から90年近く経った現在に至るまで使用され続けられています。

茗溪と呼ばれるとおり、このあたりは人工の堀割りとは思えないほどの見事な渓谷美を醸し出しています。微妙に曲がるS字カーブなど、とても人工の堀割りとは思えません。この日も案内役を務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんによると、ここから見える風景が江戸城の外濠で一番の景観なのだそうです。堀割りに沿ってJR中央本線が走っていて、ちょうど総武線の各駅停車の電車が接近してきました。鉄道マニア的にも絶景ポイントです。この深い渓谷が人工のものとは…。現代のような近代的な重機がなかった時代に、ほとんど人力だけで掘られたものです。本当に凄いことだと思います。ちなみに、この掘割りの開削工事で出た大量の土砂は、他の神田山を崩して出た土砂と同様、日比谷入り江の埋め立て等に使われました。


ここまで何度か述べてきましたように、神田川は江戸時代に神田山を人工的に開削して構築した堀割りであり、JR御茶ノ水駅から見て神田川を挟んで北側を湯島台といい、南側は駿河台と呼ばれる台地になっています。神田川が開削されるまではこの2つの台地は地続きで、神田山という1つの大きな山でした。

神田川は東京都三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して東へ流れ、前回【第1回】で訪れた両国橋脇で隅田川に合流する流路延長約24.6kmの河川です。東京都内における中小河川としては最大規模の河川で、都心を流れているにもかかわらず全区間にわたり開渠である極めて稀な河川です。かつては平川と呼ばれ、現在の飯田橋付近から現在の日本橋川を通って日比谷入江に流れていたのですが、江戸幕府による度重なる普請と瀬替えが行われ、現在の流路となりました (なので、このあたりから東の区間は江戸時代に人工で開削された堀割りです)。江戸市中への上水が引かれてからは、上水を分流する石堰より上流を神田上水、下流を江戸川(現在の江戸川とは別物)と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになりました。明治の時代になり神田上水が廃止されてからは石堰より上流部分も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法の改正によって全て神田川の呼称で統一されるようになりました。このあたりのJR中央本線(総武線も含む)の線路は、その江戸時代に開削された堀割りの中に敷かれています。

私達の世代、「神田川」と言えば、「南こうせつとかぐや姫」が歌った『神田川』ですね。1970年代の若者文化を象徴する作品の1つに数えられ、シングル盤は200万枚以上売れる日本のフォークソング史に燦然と輝いて残る大ヒット曲となり、また、関根恵子さん草刈正雄さん主演で映画にもなりました。

お茶の水橋を渡ったところを左折してしばらく進んだところに東京都水道歴史館があります。この東京都水道歴史館は江戸から東京にわたる約400年間の大切な水道の歴史と、安全でおいしい水を届けるための水道の技術・設備に関わる展示を、無料で公開している東京都水道局が運営するPR館の1つです。神田上水や玉川上水などの江戸時代の上水から、明治時代以降の近代水道の創設、現在、規模・水質ともに世界有数のレベルに達した東京水道の歴史や技術を実物資料や再現模型、映像資料などを用いてわかりやすく紹介しています。特に玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、閲覧室では江戸時代の水道の記録『上水記』(東京都指定有形文化財[古文書])をはじめとした貴重な水道に関する歴史資料を保存・公開しています。 



私もこれまで何度か述べてきましたように、江戸時代、江戸は人口100万人を抱える世界最大の都市でした。その江戸の町に住む人々の生活用水を確保することが最重要課題であると考えた徳川家康は、江戸入府にあたって、家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じ、藤五郎は小石川上水を造ったといわれています。小石川上水の水源や配水方法、経路等についての具体的なことの詳細は現在もわかっていませんが、小石川上水は江戸における最初の水道となり、その後の江戸の発展とともに神田上水へと発展していきました。また、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の町の西南部に給水されていました。

江戸の町づくり及び城づくりは3代将軍家光の時代(元和9(1623)~慶安4(1651))に完成します。天守閣に金の鯱(しゃちほこ)が光り輝く江戸城の周辺には、豪華な大名屋敷が幾つも建ち並び、日本橋・京橋・新橋方面の下町も大いに賑わいをみせることになります。この下町に水を給水するため、井ノ頭池を水源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰で塞き上げた後、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路で導水し、神田川を懸樋(かけひ)で渡して、神田・日本橋方面に給水するという神田上水が、江戸の町づくりと軌を一にして、完成しました。この東京都水道歴史館、特にインフラ系のエンジニアにとっては、なかなかに興味深いところです。

http://www.suidorekishi.jp/ 東京都水道歴史館HP

説明員さんの解説付きで東京都水道歴史館の館内を見て回りました。


まず、説明を受けたのは江戸の町中に張り巡らされた上水道設備に関してです。この江戸の上水道設備ですが、玉川上水により江戸の町に送られてきた多摩川の水を四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配される仕組みになっていたのですが、これがとにかく凄いんです。四谷大木戸の「水番所」以下は基本的に「自然流下方式」で水の供給が行われており、樋と枡を用いた地下水道が使われていました。


樋とは送水菅のことで、石樋と木樋が一般的で他に瓦樋・竹樋などの種類もありました。このうち石樋は幹線として使われ、木樋は石樋に繋がる支線として主に用いられました。昭和53(1978)に霞ヶ関にある外務省の地下から玉川上水の幹線として使用されていた石樋が発掘されました。この石樋は側壁が石を積み上げて作られていることから「石垣樋」と呼ばれていますが、外径寸法が1,250mm×1,300mm、内径寸法が850mm×750mmと大型のもので、石と石との間には粘土を詰め込み、漏水を防ぐ工夫が施されていました。


枡は貯水槽として一時的に水を溜めておく役割をもった施設です。枡は木または石でできており、樋を通すための穴が開いていました。「埋枡」と「高枡」の2種類があり、地下に設けた枡を「埋枡」、地上に設けた枡を「高枡」と言います。さらに「高枡」には流水を高所に上げる「登り竜枡」と流水を低所に落とす「下り竜枡」の二種類がありました。それに水の勢い(水量・水質)を見たりするための「水見枡」や、分水するときに使われる「わかれ枡(分水枡)」といった枡も存在しており、これらの樋と枡を使って給水をしていたわけです。


この樋と枡による配管は元禄年間(1688年〜1704)には町屋の台所にも及んでいたようです。道路部分の伏樋から各戸に水を引き込み、宅地内の上水用井戸に水が流れるようになっていました。長屋にも上水井戸が設置され、住人たちが共同で使っていました。水量と水質に関しては厳重な管理が敷かれていました。神田上水、玉川上水の両上水とも各所に番人を置いて毎日水量と水質を検査していたようです。

なお、上水道が整備していたのは隅田川の手前までで、隅田川の東側に対しては、下の右の写真にあるように天秤棒に水の入った桶を下げた冷水売りが水を売り歩いていました。


これは神田川に架かる懸樋(かけひ)を再現した模型と、その当時の様子を描いた浮世絵です。上水の水はこのような懸樋を使って神田川等の河川を渡していました。この後で行く水道橋付近にこの模型と浮世絵に描かれた懸樋の跡があります。


江戸の上水道は地下に水道管を敷設していた点で現在の水道に通ずるところがあります。「水道の水で産湯をつかい」と江戸っ子の自慢でもあった上水道は当時の最新の技術を駆使したものだったわけです。当時、これほどの設備を持つ都市は世界でも数えるくらいで、おまけに江戸は世界最大の人口(100万人)を誇るロンドンやパリをも凌ぐ世界一の大都市でした。これは日本人として誇るべきことである!…と私は思います。このように、上水道設備は江戸の町の発展を支える最重要インフラ設備であり、徳川家康が江戸城の改築に先立っていち早く上水道の整備に着手させたこと、その結果として玉川上水の開削と合わせて江戸時代初期にここまでの上水道設備を整備したことにより、今の日本の首都東京がある…と言っても過言ではないと私は思います。この江戸の上水道設備はもっともっと注目されるべきだと私は思います。

次に玉川上水に関する説明を受けました。繰り返しになりますが、徳川家康が豊臣秀吉に命じられて入府した当時、見渡すかぎりの湿地帯が広がるだけだった江戸の町が瞬く間にロンドンやパリを凌ぐ人口100万人を超える世界的な大都市にまで発展できたのは、都市を支える基盤、すなわちインフラ設備がしっかりと構築できていたからです。中でも都市としての最重要インフラ設備が上水道です。ヒトは飲料水がないと暮らしていけません。しかも当時の江戸は現在の皇居の間際まで海水が流れ込んでいたような一面の湿地帯で、井戸を掘っても湧き出す水には海水の塩分が含まれていて、とても飲用には適さないようなところでした。

そこで江戸幕府が目を付けたのが豊富な水量を誇る多摩川の水で、その多摩川の上流から飲用に適した綺麗な水を特別な用水路を開削して江戸の町に引き込み、それを江戸の町中に張り巡らせた地下水路で各家庭にまで送り届けられるようにしたわけです。この多摩川の上流から飲料水を引き込むために開削した特別な用水路が「玉川上水」でした。




玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)のことで、江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水)と呼ばれる上水の1つです。

天正18(1590)、関白・秀吉から関東240万石への国替えを要求された徳川家康は家臣団が猛反対するなか、「関東には未来(のぞみ)がある」と居城を江戸に移して、街づくりに着手するのですが、その中でも飲料水の確保はまず最初に手を付けないといけない喫緊の課題でした。特に城下の東南側の低地は湿地帯を埋立て造られた土地であり、井戸を掘っても海水が混じり、良水は得られなかったため、上水の建設は必須となっていました。そこで徳川家康は天正18(1590)、配下の大久保藤五郎(忠行)に上水道の整備を命じます。大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で、この上水道がその後発展・拡張したのが神田上水であるといわれています。

神田上水は三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井之頭池を水源とする上水です。この井之頭池を水源とするようになったのは慶長年間間(1596年〜1614)以降のことであると推定されています。井之頭池を水源として見立てたのは前述の大久保藤五郎と内田六次郎の二人で、内田家はその後、明和6(1770)に罷免されるまで代々神田上水の水元役を勤めました。井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」とも呼ばれていました。井之頭と命名したのは3代将軍徳川家光だと言われています。

神田上水は完成したものの、江戸の都市拡大に伴って急増した水需要への対応は幕政の急務でした。そこで次に江戸幕府が目をつけたのが、多摩川の水でした。『玉川上水起元』(1803)によると、承応元年(1652)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画されました。多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、甲州街道の江戸への入り口にあたる四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配するという計画です。

工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱が、現場工事を指揮する水道奉行には利根川の東遷という江戸という街を建築していく上で極めて大きな功績を残した土木工事のスペシャリストである関東郡奉行の伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が工事を請負いました。幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは、承応2(1653)の正月で、着工が同年4月。羽村から四谷までの間の約43kmの距離の区間の標高差が僅か約100メートルしかなかったり、浸透性の高い関東ローム層の土壌に水が吸い込まれてしまう区間があったりして、引水工事は困難を極めましたが、そういう困難を次々に克服し、僅か約半年間の工期で羽村取水堰〜四谷大木戸間約43kmを開通し、承応2(1653)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3(1654)6月から江戸市中への通水が開始されました。

羽村取水堰から四谷大木戸までの間の約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれていました。一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されています。庄右衛門・清右衛門の兄弟は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。

それにしても、青梅市に近い多摩の羽村市からこの四谷大木戸までの約43kmの露天掘りの用水路をわずか半年で開通させるとは! それも現代のような大型重機もない中で!  しかも前述のように全長約43kmの上水の高低差は僅かに約100メートル。これは1km2.3メートル、10メートルでは僅かに2.3cmの高低差ということになります。現代のような精密な測量器具もない時代に、この非常に精度の高い用水路を構築したことは驚異的とも言えるものです。当時の技術力の高さには驚くばかりです。

上記でご紹介した写真は『上水記』に記載されている羽村取水堰の絵図です。この堰は固定堰と投渡堰(なげわたしぜき)2つの堰で構成されていました。投渡堰とは堰の支柱の桁に丸太や木の枝を柵状に設置したもので、大雨時に多摩川本流が増水した場合、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避する目的で、堰に設置した丸太等を取り払って多摩川本流に流す仕組みになっています。この仕組みは堰が設置された承応3(1654)から現代に至るまでほぼ変わっていません。また、固定堰と投渡堰の境には、かつて江戸へ木材を運ぶために設けられた筏の通し場が設置されていました。

上水の建設は、玉川上水の完成後も本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水の四上水が加わり、計6つの上水道が存在しました (青山・三田・千川の三上水は玉川上水の分水)。これを「江戸の六上水」と言います。しかし、江戸時代を通じて使用されたのは神田上水と玉川上水の両上水に限られ、他の四上水は、享保7(1722)に突如一斉に廃止されてしまいました。この時代は幕府の財政難を解消するため 8 代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」が行われている真っ最中であり、その享保の改革が大きく影響しているものと思われます。

東京都水道歴史館では明治時代以降の近代水道についても展示されています。


これは現代の水道設備の展示です。現代の水道設備は鋼管が中心の近代的なものになっていますが、基本は江戸時代のものと同じです。翻って言えば、いかに江戸時代の江戸の町の水道設備が時代を先取りした先進的なものであったか…とも言えようかと思います。



神田上水で実際に使われていた石樋が、東京都水道歴史館の裏手にある東京都水道局が管理する本郷給水所公苑内に移設・復元されて展示されています。



 本郷給水所公苑では、ちょうどバラ(薔薇)が満開の時期を迎えていました。綺麗です。



  

……(その2)に続きます。

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