2018年7月2日月曜日

甲州街道歩き【第2回:内藤新宿→仙川】(その1)


217()、甲州街道歩きの【第2回】に参加してきました。【第2回】は新宿を出発して高井戸宿(下高井戸宿、上高井戸宿)を経て、京王線の仙川駅まで歩きます。江戸時代に江戸と呼ばれていたのは四谷まで。既に内藤新宿は豊多摩郡で、江戸の外側でした。という事で、ここからは江戸を出て、一路甲府を経て下諏訪宿を目指します。


とは言え、ここから八王子を過ぎるあたりまでは街道歩きで言えば「繋ぎの区間」と呼ばれる区間になります。都市化が急激に進み、往時の面影を偲ばせるものはほとんど残っていない区間、すなわち見どころの少ない区間に入ります。ただひたすら先を目指して歩くという意味で「繋ぎの区間」というわけです。ですが、そんな「繋ぎの区間」であっても、甲州街道を完歩するためには歩かないわけにはいきません。今振り返ってみると、中山道でも埼玉県内の区間がほぼ「繋ぎの区間」と言えるものでした。とは言え、その「繋ぎの区間」の埼玉県内の区間も新たな発見の連続で面白かったので、今回の甲州街道でも期待してもいいかな…と思っています。なんと言っても、私はその中山道の「繋ぎの区間」である埼玉県内の区間で街道歩きの面白さに目覚めましたし。


 この日も新宿は朝から多くの人出で賑わっています。


午前10時、前回【第1回】のゴールポイントだった文化服装学院横の小さな公園に集合。入念なストレッチ体操の後、この日の街道歩きのスタートです。目の前には抜けるばかりの青空をバックに建ち並ぶ新宿副都心の超高層ビル群が見えます。この日も天気は良さそうです。






スタートしてすぐの文化服装学院の前に煉瓦でできたアーチ形のモニュメントが建っています。かつてこの文化服装学院前の甲州街道には玉川上水が流れていました。玉川上水は江戸城下の急激な発展に伴う水不足を解消するため、江戸幕府により承応3(1654)に開削された人工の水路のことです。全長は多摩川上流の羽村取水口から四谷大木戸に至る約43キロメートルです。この上水は江戸市中への飲料水の供給という本来の目的のほか、武蔵野台地の各地に分水され、飲料水、灌漑用水、水車の動力等に幅広く活用されました。


明治31(1898)、東京の近代水道創設に伴い、杉並区和泉町から淀橋浄水場の間に新水路が開削されたため、和泉町から四谷大木戸までの下流部は導水路としての役割を終え、余水路として使用されることとなりました。その後、大部分が暗渠化され、現在は公園や道路として使われています。


このモニュメントは明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用して、ほぼ原寸大で再現したものです。このモニュメントの下を潜って、この日の街道歩きをスタートしました。

四谷大木戸は前回甲州街道歩きの【第1回】で通りました。この【第2回】でも随所で玉川上水の跡に出くわすことになります。玉川上水は甲州街道のプロローグの重要なキーワードです。


文化服装学院は大正8(1919)に創設されたファッション専門の学校で、最近は文化学園大学、文化ファッション大学院大学、文化外国語専門学校も併設して、随分と大きな学校になっています。日本のファッション界に多くの人材を輩出していて、卒業生には、コシノジュンコさん、コシノヒロコさんの姉妹、高田賢三さん、山本耀司さん、ドン小西さん、ピーコさんといったファッションには疎い私でも存じ上げているような日本を代表するファッションデザイナーやファッション評論家の皆さんがいらっしゃいます。




文化服装学院の前を通り過ぎ、新宿副都心の超高層ビル群を右手に見ながら、新宿の喧騒を背に甲州街道(国道20号線)を西に進みます。



箒銀杏(ほうきいち)です。この大きな銀杏の木を少し離れたところから見ると、箒を逆さにして立てたように見えるところから箒銀杏と呼ばれています。樹齢は約200年と推定されますが、近くを流れる玉川上水によって育てられてきたと考えられます。かつて渋谷区内には名のついた巨木、銘木が数多くありましたが、都市化と戦災によって枯れてしまい、初代のものはこの箒銀杏のみとなってしまいました。この木にちなむ特別な伝説は伝えられていませんが、根本にある天満宮の小祠から、この近くを流れていた玉川上水に架けられた橋を天神橋と名付けました。



この説明板には「渋谷区教育委員会」の文字があります。ここは新宿駅のすぐ近くなのですが、実は渋谷区なんです。この謎を解くには、新宿区と渋谷区の起こりについて知る必要があります。それは明治維新以降の江戸から東京に変わっていく歴史を知ると言うことです。

江戸時代末期(幕末)の慶応4(1868)3月から4月にかけて明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた交渉により、江戸城の新政府への引き渡しが行われ、江戸の街は新政府軍の軍政下に置かれました。同年424日に江戸開府事務が始まり、軍は同年71日に江戸府を、同年78日に「江戸鎮台」を設置するとともに、それまで江戸の街の行政と司法を担ってきた北町奉行所、南町奉行所を廃止し、町奉行管轄地を管掌する市政裁判所を旧南町奉行所に設けました。同年93日の「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」により、江戸府は東京府に、江戸鎮台は「鎮将府」に改称されました。改称当時の読み方は「とうきょう」ではなく「とうけい」だったのだそうです。同年(明治元年:98日に改元)102日に、江戸城幸橋門内(現在の千代田区内幸町1丁目)の大和郡山藩上屋敷を接収して東京府庁を開庁し、同年1017日に、東京府職制が公布され、行政と司法の分離が行われ、市政裁判所から府へ事務が移されました。(東京府庁は明治27(1894)、有楽町に新庁舎が完成したために、そこに移転されました。)

明治2(1869)48日に、朱引内の各町を人口1万人を1区として区分けしたうえで、その区を「番組」と名づけ、既市街地約90平方キロメートルに50番組を置きました。この朱引(しゅびき)とは、江戸幕府が江戸の範囲を示すために使った用語であり、地図上に朱線で囲った地域として示されたことに由来します。一般に「大江戸」として認識されているのが、この朱引の範囲内のことで、現在の山手線の内側と隅田川東岸の下町地域(墨田区および江東区)を合わせた地域にほぼ一致します。なので、墨田区や江東区にお住いの皆さんは「でやんでぇ〜! こちとら江戸っ子なんでぇ〜!」ってやたらと威勢がいいわけです。江戸幕府が江戸の範囲として認めた朱引の内側ですからね。そんじょそこらのどこの馬の骨かも分からない東京モンと一緒にされちゃあ困るってことなのでしょう()

明治4(1871)4月、4ないし5の旧町または7ないし8の旧村をして1区と改めて、再び区分けを行い、先に定めた番組を2年で廃止します。同年829日、廃藩置県が実施され、東京府は京都府、大阪府とともに三府の一つとされます。この三府は首都あるいはその代替地とされました。この廃藩置県によりそれまでの東京府をはじめ現在の関東地方に存在していた各県がいったん廃止され、武蔵国荏原郡と豊島郡、および多摩郡、足立郡、葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする新しい東京府が改めて設置されることとなりました。ただし多摩郡に関しては横浜に居留する外国人の遊歩区域が一部含まれるので東京府への移管は難しいとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申が受け入れられ、翌明治5(1872)に全域が神奈川県の管轄とすることに変更されました。

旧来の東京府の区域については、6つの大区の下に97の小区を置く「大区小区制」が敷かれました。廃止各県からの行政の移管は順次行われました。これら新たに東京府に編入された区域は当初は旧県時代の区割りのまま呼ばれていたのですが、明治6(1873)318日に5つの大区を設けて、東京府は総計11大区103小区となりました。また、明治5(1872)、東京府は「戸籍法」の定めるところにより新府域に組み込まれながらも地名の判然としなかった旧耕地等にも「有楽町」、「霞ヶ関」、「三田」などの新しい町名を冠し、地券を交付しました。

明治11(1878)、静岡県から伊豆諸島を編入するとともに大区小区制を廃し、「郡区町村編制法」により旧府域に15区を設置しました。同時に、旧葛飾郡域を「南葛飾郡」、旧足立郡域を「南足立郡」、旧多摩郡域を「東多摩郡」にそれぞれ改称させ、なおかつ旧豊島郡を南豊島郡と北豊島郡の南北2郡に分け、旧荏原郡を復活させて都合6郡を設けました。このうち東多摩郡と南豊島郡は明治29(1896)に合併されて豊多摩郡となります。明治22(1889)51日に東京府内15区を東京府から分立して市制を施行し東京市としたのですが、市制特例によりしばらくは東京市長は府知事が兼ねていました。

明治25(1892)、当時の内海忠勝神奈川県知事と富田鐵之助東京府知事は、当時神奈川県に属していた西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡の東京府への移管を井上馨内務卿に建言しました。これらの地域は現在の多摩地域と世田谷区の一部にあたります。前述の通り多摩地域は当初東京府と入間県(現在の埼玉県の一部)に分属していたほか、東京府への移管の議論は以前からあったもので、理由は玉川上水の水利権の管理および奥多摩地域の水源確保のためとされています。翌明治26(1893)2月、「東京府及び神奈川県境域変更に関する法律案」が可決し、同年41日、多摩地域は神奈川県から東京府へ編入されてほぼ現在の東京都の境域がここで確定しました。

大正12(1923)91日、関東大震災が発生。98日、報知新聞(現在の讀賣新聞)が「大阪で遷都論沸く」と報じたことで日本国内は大混乱をきたし、その混乱を鎮めるために、912日、宮内省が関東大震災直後ノ詔書として「…東京ハ帝國ノ首都ニシテ……」と発表。東京が日本の首都であるとはっきりと明記されたのは、実はこの「関東大震災直後ノ詔書」が最初です。それまでは、東京府は京都府、大阪府とともに三府の一つとされ、この三府は首都あるいはその代替地…と法律上で明記されていただけでした。このように、関東大震災を契機として、名実ともに東京府が日本の首都となったわけです。

当初、江戸時代の朱引の範囲内の15区で分立した東京市ですが、都市の急速な成長に伴い、周辺の郡部の町域にまで生活圏が拡大してきたことから、昭和7(1932)101日、東京市には周辺82町村が編入され、渋谷区や淀橋区など20の区が新たに発足し、東京市は35区となりました。東京市域が大幅に拡大したため、以降「大東京市」などと表現されることもあります。

渋谷区が発足したのもこの時で、それまでの東京府豊多摩郡の13町が東京市に編入されることになり、同郡の渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町の3町をまとめて「渋谷区」とされたものです。この際、豊多摩郡の残りの10町は、24町ずつまとめられ、「中野区」、「杉並区」、「淀橋区」として再編されました。淀橋区は豊多摩郡淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町4町の町域をもって発足したものです (この時、まだ新宿区は誕生していません)

昭和18(1943)1月、第二次世界大戦における戦時体制構築のため、東京府地域の政治・経済の統制強化を目的として政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され、同年71日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置されました。都制の導入により東京府東京市は廃止され、旧市域は東京都35区となりました。一方、東京府下で市制を施行していた東京府八王子市と東京府立川市はそれぞれ東京都八王子市と東京都立川市となりました。

東京の35区が22(のち23)に移行したのは昭和22(1947)のことです。昭和21(1946)、東京都35区の数を減らすことを目的とした区域再編問題を議論するために東京都が設置した諮問機関である東京都区域整理委員会が現行の23区とほぼ同じ22区移行案を答申しました(練馬区はのちに板橋区から分離するため、この段階での区数は22でした)。この答申は翌昭和22(1947)315日に都議会で東京都制第141条として可決成立。これにより、それまでの四谷区、牛込区、淀橋区の3区をひとつに合併してできた行政区が新宿区というわけです。

もともとが朱引の範囲内の江戸だった四谷区、牛込区の2区と昭和の時代になって以降に新しく旧郡部の奥多摩郡から編入された淀橋区という歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルとなるものがまったく存在せず、また3区の合併であったため事情を複雑にしていました。合併案そのものに反対する声が大きく、合併が決まってからも大田区のような合成区名をつけることも難しかったことから、区の名称を何にするかで大揉めに揉めたという経緯があるようです。当時、区名としては、四谷区(四谷)、戸山区(牛込)、武蔵野区、山手区、早稲田区(牛込)、市谷区(牛込)、富士見区、花園区(四谷)、柏木区(淀橋)などが候補に挙がっており (カッコ内は推した旧区)、当初は四谷怪談などで全国的に知名度があるということで四谷区が新しい区名として採用される見込みだったのですが、最終的には甲州街道の宿場として全国的にも有名になっていた内藤新宿から新宿区と命名されることに落ち着きました。

渋谷区も新宿区もこのような経緯で発足した区であり、実は行政機構としての歴史は比較的浅いわけです。また、昭和7(1932)に周辺82町村が東京市に編入された時に発足した渋谷区はもともとが奥多摩郡の3町ですから、比較的まとまっているのですが、問題は新宿区。前述のように、もともとが朱引の範囲内の江戸だった2区と奥多摩郡から編入された1区という3つの区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在することになりました。まぁ〜これが新宿の魅力を生み出している源泉と言えなくもないですが…。

とは言え、渋谷も新宿もそこに鉄道の駅ができたことで、その後、大きく変貌し、特に新宿区は新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げていくことになりました(新宿区という命名は大正解だったと私は思いますね)。この新宿駅のあるところは元の淀橋区。もともとは豊多摩郡内藤新宿町と呼ばれていたところです。ちなみに、江戸四宿と呼ばれた五街道の宿場は江戸幕府が江戸の範囲として認めた朱引のすぐ外側に設けられていました。東海道の最初の宿場である品川宿は荏原郡品川町ですし、中山道の板橋宿は北豊島郡板橋町、奥州街道と日光街道の千住宿は南足立郡千住町でした。

旧街道全盛期の江戸の人口は約100万人。現在の東京都の人口はその14倍近い約1,374万人。東京23区だけに限っても947万人。今年は明治維新から150年ですが、その間にこれほど成長したわけです。なので、現在の東京のことだけを見て江戸を捉えてはいけないのです。江戸にタイムスリップするためには、少なくとも江戸時代になんと呼ばれていたかという地名の歴史から入る必要があります。旧地名とそこの成り立ちを調べる…、これは街道歩きの基本です。

右手、そして左手からも首都高4号新宿線の高架が迫ってきて、ここからはその首都高4号新宿線の高架下を進むことになります。現在の甲州街道は昭和40年代に拡幅工事が行われ、加えて道路の中央に首都高速の高架道路が走るようになり、なんとも味気ない道路になってしまいましたが、これも時代の趨勢というものです。仕方ありません。


諦聴寺です。真宗大谷派の寺院で、山号を聖徳山と号します。歴史は僧了誉が万治元年(1658)に四谷に創建し、その後駿河国清水への移転を経て、享保年間に新宿の初台近くに移転したといわれています。首都高と新宿パークタワーが重なるところにあり、こんなところにお寺が…と少し驚きます。この諦聴寺には、渋谷区指定有形文化財の「木像聖徳太子立像」があります。この像は、聖徳太子の十六歳の姿を表したものだそうです。前を通過します。 



諦聴寺のすぐ隣にある浄土真宗東本願寺派の寺院「柴山 正春寺」です。このあたりの地名は初台。この地名の由来は、代々木村に太田道灌が作った8ヶ所の砦のうち、一の砦(狼煙台)のあった場所ということから、初台と呼ばれるようになったといわれています。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母であった土井昌勝(秀忠政権における老中として絶大な権勢を誇った土井利勝の弟)の妻が、徳川家康関東転封直後の天正19(1591)にこの地に200石を拝領して領地としたことから「初台局(はつだいのつぼね)」と名乗るようになりました。その初台局の娘で3代将軍徳川家光の乳母を務めた梅園局(うめぞののつぼね)が、母の菩提寺として創建したのがこの「正春寺」なのだそうです。どうも土井家は乳母という地位を活用して江戸幕府初期の権力を握っていった感じですね (史実としては徳川家光の乳母は春日局(斎藤福)が有名ですが、記録に残っている限りでは梅園局という乳母もいました)



初台の交差点です。ここで山手通り(東京都道317号環状六号線)と交差します。この山手通りの地下を首都高速中央環状線が通っていて、新宿で地上に上がってきた(あるいは下る)その首都高速中央環状線の道路が左右から首都高4号新宿線の高架に合流します。西新宿ジャンクション(JCT)ですね。交通量は半端なく多いです。



超高層ビルが建ち並ぶ新宿副都心もそろそろはずれ。京王新線の初台駅前には新国立劇場と高層のオペラシティビルが建っています。下の写真でバックに建つ超高層ビルが東京オペラシティビルです。


この東京オペラシティですが、この東京オペラシティが建つ場所にはもともと電電公社(NTT)の淀橋電話局、京王帝都バス新宿営業所、小田急百貨店配送センター、東京工業試験所(新国立劇場部分)などが存在しました。このため、東京オペラシティビル株式会社の事業者には、もともとこの地に所縁の深かったNTT系のNTT都市開発、京王電鉄など、複数の企業が名を連ねています。また、NTT東日本の本社ビルが隣接しているほか、東京オペラシティのオフィス階にはNTTグループの関連企業も多く入居しています。

電電公社の淀橋電話局と言えば、ここはかつて東名阪ルートと言って首都東京と西日本各地を結ぶ極めて重要な関門電話局(ゲート局)1つだったところで、市外交換用の超大型の電話交換設備(D70形ディジタル電子交換機)が何台も設置されていました。私は20歳代の後半、電電公社技術局と言う部署で、ディジタル伝送装置の開発を担当していたのですが、この淀橋電話局が大容量ディジタル伝送装置(M20形ディジタル多重伝送装置)の商用試験地だったので、ここにしばらく詰めて仕事をしていたことがあります。あの時は装置内のディジタル素子が発する大量の発熱の処置で、淀橋電話局に連日のように泊まり込み、泣きそうになったのを覚えています。この発熱の問題は装置を収納する架(ラック)の奥行きをバックツーバック(背中合わせにする)に連結し、装置上部に排気のためのファンを取り付けることで、実用化に向けての最大の問題を解決することができました。今も高集積の素子を使う装置では、そうだと思います。35年ほど前の話です。あの当時とはすっかりこのあたりの景色は変わりました。

東京オペラシティに隣接して新国立劇場があります。この甲州街道歩きでは前回【第1回】に帝国劇場と国立劇場の前を通りましたが、3つ目は新国立劇場です。



ここまでの区間、甲州街道ではバスタ新宿に出入りする色とりどりの各社の高速バスの姿を多く見かけます。バスマニアにとってはたまらない区間です。それって、中央自動車道を経由する新宿・池袋発着の高速バスが高速道路の乗り降りに利用するこの首都高速4号新宿線の初台出入口があるためです。それにしても次から次に高速バスが走っているものです。先日、FM東京を聴いていると高速バスを利用する旅番組が流れていましたが、最近、高速バスが人気のようです。高速道路網が整備されて高速バス網も拡大。さらにはバスも改良されて、乗り心地も以前と比べて随分と良くなりましたからねぇ〜。




……(その2)に続きます。




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