2018年7月12日木曜日

甲州街道歩き【第3回:仙川→府中】(その4)


飛田給駅入口交差点を右折し、旧甲州街道歩きの続きに戻ります。



飛田給駅の近くに薬師堂があります。貞享年間(1684年〜1687)に仙台藩士で医師であった松前意仙が諸国の仏閣を訪ねて遍歴し、飛田給を生涯の地と定めて庵を結んだが始まりと言われています。松前意仙は薬師如来に帰依する心が篤く、衆生の済度を発願して自ら像身約140センチメートルの石造の薬師如来立像を刻んで安置したと伝えられています。はじめは露天に晒されていたのですが、弘化4(1847)にお堂が創建されて堂内に安置されたと言われています。そう言えば、西光寺の常夜燈が建立されたのも弘化3年、何か関係があるのでしょうか。 


薬師堂の境内には、村人によって築かれた意仙の行人塚があります。薬師如来像を彫り上げ、大願成就した意仙は、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦(かね)の止んだ時は、我が命の尽きた時である…」と言い残して穴の中に入り、端座叩鉦誦結三昧の末、元禄15(1702)に入定したといわれています。行人塚の改修工事の時に、遺骨の存在が確認されているといわれています。

   
左手奥に見える白いヘルメットの道路工事の誘導員さんが立っている道が江戸時代初期の甲州街道でした。この道筋は品川街道と呼ばれ、府中の大國魂神社のくらやみ祭りで使う海水を品川沖で汲んで府中まで運んだ道が発祥とされています。近世では筏道とも呼ばれ、多摩川を下った筏師達の在所への帰り道でした。江戸時代の初期には、ここから東府中までの道が甲州道中の一部として使われていたと考えられています。今では、交通量が少ないため、旧甲州街道の抜け道的存在の道路になっています。



江戸時代中期以降の甲州街道を進みます。おや、3月中旬のこの時期でもサザンカの花が咲いています。



飛田給を過ぎたあたりから府中市に入ります。



東京都府中市は市域全域が多摩川中流域の河岸段丘の上の武蔵野台地の上にあり、市内を東西に走る府中崖線と国分寺崖線というの2本の崖線と浅間山(標高約80メートル)付近を除けば、ほとんどが平坦な土地で、可住地面積率は99.7%と市域のほとんどが居住に適した平地となっています。

市域には旧石器時代の朝日町遺跡や縄文時代の武蔵野公園遺跡、浅間山前山遺跡、天神町遺跡、新町遺跡など多くの遺跡や古墳が発掘されていて、古代より人が住んでいたことが分かっています。大化の改新後、国司が東国に派遣された際、武蔵国造(くにのみやつこ)の根拠地であった大宮(埼玉県)一帯を避けて、比較的早くから屯倉が設置され、古来交通に産業に重要な役割を受持った多摩川中流域に面するこの府中の地に武蔵国の国府が置かれました。国府は大國魂神社付近にあったと推定され、発掘調査によって大国魂神社の東隣に国衙(こくが:国の役所)の一部と推定される遺跡が発見されています。このように武蔵国の国府が置かれた地であることから、古くから武蔵国の国府という意味で「府中」と呼ばれており、それが地名となっています。この東京都府中市以外の国府所在地と区別するために「武蔵府中」とも呼ばれることもあります。国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に放射状に交通網が発達し、交通の要衝になっていきました。

鎌倉時代にも中世の鎌倉街道上道が市域を通っていたことから交通の要衝地域として重要な地位を占めており、末期(1333)には鎌倉幕府の存亡をかけて新田義貞と鎌倉幕府軍が争った大きな合戦の舞台ともなりました(分倍河原の戦い)。江戸時代に入ると甲州街道沿いが整備されて鎌倉街道上道との交差点周辺を中心とした宿場町として、また近在の物資の集散地として発展しました。周辺の大部分は天領で、開拓と用水の整備が進み、田畑の耕作も盛んでした。 

明治時代には北多摩郡の郡役所が置かれるなど、北多摩郡の中核地を担いました。大正時代には京王電気軌道、玉南電気鉄道(後に合併して京王電鉄)、南部鉄道(現在のJR南武線)、国鉄(現在のJR)武蔵野線、多摩鉄道(現在の西武鉄道多摩川線)という複数の鉄道が、昭和に入ってからは、日本製鋼所東京製作所、東芝府中事業所、日本小型飛行機など工場が相次いで設置され、さらに軍の施設(現在の航空自衛隊府中基地)が置かれ飛行場が設置されるなど、かつて盛んであった農業の割合より工業・商業が増えていき、現代の府中を形作っていきました。第二次世界大戦後も府中は行政機関や病院群、大企業の研究開発拠点や工場が数多く集積し、東西南北への複数の鉄道路線が交差する多摩地域の主要都市として発展を続けています。

それまでの東京府(後に東京都)北多摩郡府中町が隣接する多磨村と西府村と合併のうえ市制を施行して府中市となったのは昭和29(1954)のことで、東京都内の市部では6番目の市となりました。


車返団地入口交差点のマンション前の空き地に嘉永5(1852)に建造された常夜燈が建っています。台座には「村内安全」、燈籠には「秋葉大権現」と刻まれています。かつてこのあたりは下染屋と呼ばれていた集落でした。街道歩きも慣れてくると分かるのですが、こうした常夜燈が立っているところは、たいてい街道の追分(分岐点)か大きな神社の参道の入り口にあたるところです。これ、基本です。この常夜燈が立つ角を入ったところに下染屋神明社という古い神社があります。おそらく、この常夜燈はその下染屋神明社への参道の入り口を示す常夜燈なのではないでしょうか。この下染屋神明社は鎌倉時代の弘長年間(1261年〜1264年)の創建とも伝えられ、昔々、日本武尊の御衣を染め、入れた瓶を埋めた地に明神を勧請したのがその起こりであると伝えられています。相殿の稲荷社は、文永年間(1264年〜1274)の中頃の創建とされ、神明社と合わせて祀られたものです。文永年間と言えば、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国及びその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻、いわゆる元寇のうち、1度目の元寇である文永の役(1274)が行われた時代のことです。

旧甲州街道をさらに先に進みます。


天台宗の寺院、神明山金剛寺観音院です。この観音院の創建年代等は不詳とのことですが、は文化・文政期(1804年から1829)に編纂された武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』に、「境内年貢地、街道にあり、神明山と號す、天台宗、多摩郡世田谷領深大寺村深大寺の門徒、客殿四間半に六間半、本尊正観音、立身の木像長二尺五寸許、開山開基詳かならず」と書かれているのだそうです。



旧甲州街道沿いに設置された説明の石碑によると、このあたりの下染屋の地名は、調布で織られた木綿を染めたところ、あるいは鎌倉時代に染殿があったところであることがその由来であるのだそうです。調布における木綿という生産物の開発が周辺地域に関連技術の展開と繋がりを生み出したということなのでしょうね。現在でも神明社の秋祭りには、「染殿神社御祭礼」の提灯が掲げられるのだそうです。



 西武鉄道多摩川線の線路を踏切で渡ります。



西武多摩川線は、東京都武蔵野市の武蔵境駅と府中市の是政駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線です。俗に、旧路線名から是政線とも呼ばれることもあります(多摩川線は路線名の変遷が激しい路線で、西武鉄道に吸収された後、多摩線→是政線→武蔵境線→多摩川線に変更されて今に至っています)。他の西武鉄道の路線群とは直接の接続がない孤立路線で、JR中央線の武蔵境駅から南西方向に延びており、路線距離は8.0km、全線単線で、起終点駅含み駅数は6駅と短い鉄道路線です。もともとは多摩川河原で採取した川砂利を運搬する目的で、明治43(1910)に設立された多摩鉄道によって開業した路線です。

大正6(1917)に境駅(現・武蔵境駅)〜北多磨駅(現・白糸台駅)間、大正8(1919)に北多磨駅〜常久駅(現・競艇場前駅)間、大正11(1922)に常久駅〜是政駅間と全線が開業したのですが、昭和2(1927)()西武鉄道に合併され、同社の多摩線となりました。砂利輸送のおまけであった旅客輸送に対しては昭和4(1929)に参拝客の増加していた多磨霊園の至近に多磨墓地前駅(現・多磨駅)を開設し、ガソリンカーによる運行を開始。その後車両を増備し日曜祭日彼岸時には武蔵境駅〜多磨墓地前駅間を15分毎の頻発運転を開始しました。また、第二次世界大戦中は中島飛行機の工場への引き込み線があり、沿線工場への貨物輸送にも利用されました。昭和25(1950)に電化され、多摩川での砂利採掘が昭和39(1964)に禁止されたことに伴い、昭和42(1967)に貨物輸送を廃止しました。その後は主に沿線にあるアメリカンスクール、多磨霊園、多摩川競艇場のアクセス路線として活用されてきました。近年は沿線の宅地化が進み、また東京外国語大学、警察大学校、警視庁警察学校が多磨駅に近い関東村跡地に建設されたことから、輸送需要が増えつつあります。

ちなみに、上記の説明の中に「()西武鉄道」という表現がありましたが、これは現在の西武鉄道が、現在の西武池袋線系統の路線を開業していた武蔵野鉄道が、現在の西武新宿線系統の路線を開業していた()西武鉄道(元々の社名は川越鉄道)を昭和20(1945)に吸収合併してできた会社(西武農業鉄道、翌年に西武鉄道と改称)であることから、敢えてそういう表現をしているものです。

踏切横に「旧陸軍調布飛行場 白糸台掩体壕 →200m」という表示が出ています。掩体壕(えんたいごう)は第二次世界大戦中に、空襲から戦闘機を守り、隠しておくための格納施設として造られたもので、いわば、飛行機の防空壕とでも言えるものです。資料によると、旧陸軍調布飛行場の周辺には、計130基もの掩体壕が設置されましたが、戦後、ほとんどが取り壊されました。現存しているのは、府中市と三鷹市に2基ずつの計4基が残っているだけで、非常に貴重なものです。この白糸台の掩体壕は鉄筋コンクリート造りのドーム型で、入口の幅は12.3メートル、高さ3.7メートル、奥行き12メートル。この大きさで造られたのは、調布基地に配備されていた首都防衛のための主力機であった旧陸軍三式戦闘機「飛燕」(翼長12.0メートル、全高3.7メートル)を格納するためでした。数字だけを見ても、実際に「飛燕」が納められた状態では、まったく周囲に余裕がない、ぎりぎりの大きさだったことが分かります。これも貴重な歴史遺産です。


陸軍三式戦闘機「飛燕」は第二次世界大戦に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジンを装備した航空機です。この液冷エンジンは、当時、同盟国であったドイツ空軍の主力戦闘機であったメッサーシュミットBf 109Eに搭載されていたダイムラー・ベンツ社製DB 601航空エンジン(1000馬力級)を川崎航空機社(現在の川崎重工業)でライセンス生産したもので、空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身な外形デザインを持っているのが特徴です。昭和18(1943)に制式採用され、3,000機以上が生産されたのですが、基礎工業力の低かった当時の日本にとって構造が複雑な液冷エンジンは生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされ続けた戦闘機としても知られています。そうした機体であっても無段変速のスーパーチャージャー付きの液冷エンジンと、液冷エンジン機特有の空力学的に滑らかで縦に細長い長方形の胴体形状と非常に頑丈な機体構造、さらには高アスペクト比(細長い)の主翼による空力性能の良さにより急降下の制限速度が850km/時と当時の日本軍の戦闘機の中ではずば抜けて速く (例えば、零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/h、零戦52型甲でも740km/h)、搭載しているドイツ製の20mm機関砲が抜群の破壊力と信頼性を持っていたことで、高高度からの一撃離脱戦法では非常に効果を発揮しました。この優れた降下制限速度という特性を活かして、高高度を飛行して襲来する米軍のボーイングB-29戦略爆撃機を迎撃できる当時唯一の日本軍戦闘機でもありました。この陸軍三式戦闘機「飛燕」は調布飛行場を基地とし帝都防衛の任にあたった陸軍飛行第244戦隊にも集中配備され、主に首都圏に高高度で進入してくる米軍のボーイングB-29戦略爆撃機の迎撃等で活躍しました。実際、陸軍飛行第244戦隊の隊長であった小林照彦少佐はB-29など爆撃機を6機撃墜しています。

そうそう、府中で国土防衛といえば、この先の京王線東府中駅から少し北に入ったところに航空自衛隊の府中基地があります。航空自衛隊の基地といってもヘリポートがあるだけで滑走路はないのですが、平成24(2012)まではこの府中基地に航空自衛隊のすべての戦闘機部隊および高射部隊、警戒管制部隊などの防空戦闘部隊を一元的に指揮・統括する組織である航空総隊司令部及び作戦情報隊、防空指揮群が置かれていて、首都圏のみならず国土防衛のための最重要拠点の1つでした。現在、航空総隊司令部及び作戦情報隊、防空指揮群は在日米軍横田飛行場に移転し、府中基地には気象予報、気象観測及び気象情報の収集、伝達等の各業務を実施する航空気象群の群本部と中枢気象隊、気象通信隊、及び航空管制を任務とする部隊である航空保安管制群本部等が配置され、基地司令は航空気象群司令が務めています。すなわち、私達、気象に関わる者にとって、結構馴染みのあるところです。
  
旧甲州街道(東京都道229号府中調布線)をさらに先に進みます。


しばらく進み、不動尊前交差点を左折します。ここから旧甲州街道は東京都道229号府中調布線から分かれます。「東郷寺通り」という表示が出ています。この東郷寺通りを道なりに進み、多磨霊園駅の手前(東側)で京王線の線路を渡った先に聖将山東郷寺という日蓮宗の寺院があります。この東郷寺ですが、その名が示すように、この寺はもともと日露戦争の日本海海戦で有名な東郷平八郎元帥の別荘地だったところです。東郷平八郎元帥がお亡くなりになって以降、東郷平八郎元帥を慕う人々によってここに寺院が建立されました。東郷平八郎元帥の別荘の建物は今でも東郷寺の境内に残っています。境内の東側にある山門は昭和15(1940)に建立されたものですが、簡素ながらも力強さを感じさせる荘厳かつ巨大なもので、東京都選定の歴史的建造物に指定されています。また、ベネチア国際映画祭など海外でも絶賛された巨匠・黒澤明監督の名作映画『羅生門』に登場する門のモデルになったといわれています。今回は時間の都合で訪れませんでしたが、機会があれば是非訪れてみたいと思っています。ちなみに、東郷平八郎元帥の墓は、この近くの多磨霊園にあります。



このあたりは現在は白糸台1丁目という地名になっていますが、かつては上染屋という地名でした。その上染谷に入ったあたりに染屋不動尊があります。この染屋不動尊には国宝に指定されている阿弥陀如来像が安置されています。この阿弥陀如来像は新田義貞が鎌倉に討ち入るために挙兵した元弘3(1333)に馳せ参じた里見義胤が捧呈したと伝えられています。

このあたりは昭和29(1954)に合併して府中市になるまでは北多摩郡多磨村でした。このあたりにその多磨村役場がありました。


ここで飛田給の薬師堂のところで分岐した江戸時代初期の甲州街道が左から合流します。初期の甲州街道は直進ですが、その後に整備された旧甲州街道は右折します。



現在は若松町という名称になっていますが、このあたりはかつて常久(つねひさ)と呼ばれる集落でした。ここまでの下染屋、上染屋、常久の集落はいずれも元々は多摩川のほとりにあったのですが、度重なる洪水を避けて旧甲州街道沿いの現在地に移ったといわれています。常久公園の奥に常久八幡神社があります。

「品川街道」という道路標記が立っています。前述のように、この府中までの江戸時代初期の甲州街道は府中の大國魂神社のくらやみ祭りで使う海水を品川沖で汲んで府中まで運んだ道が発祥とされているので、昔は「品川街道」と呼ばれていました。その時の名残りですね。


江戸の日本橋から数えて7里目の常久一里塚の跡です。この常久一里塚の別名は「しながわ道の一里塚」と言うらしいです。さすがに一里塚そのものは残っていませんが、立派な石碑が立っています。



 閑静な住宅街の生活道路のようですが、これが旧甲州街道です。


左手から線路が近づいてきて、私達が歩く道路のすぐ横を駅に進入する電車が速度を落としながら通り過ぎていきます。京王線の東府中駅です。旧甲州街道はこの東府中駅の構内を斜めにかすめるように延びていたようなのですが、現在は駅の外側に沿って歩きます。



京王線の東府中駅前の三叉路を直進します。この東府中駅から京王電鉄競馬場線が分岐します。京王電鉄競馬場線は東府中駅と府中競馬正門前駅を結ぶ路線距離が0.9 kmと非常に短い鉄道路線です。路線名のとおり、東京競馬場へのアクセスを目的として敷設された路線で、東府中駅付近を除く路線のほとんどが府中市八幡町内にあり、途中で武蔵国府八幡宮の参道を横切っています。京王電鉄京王線の線路を踏切で渡り、Y字形に分岐する京王線と競馬場線の間を競馬場線の線路に沿って歩きます。



京王線と競馬場線の線路が左右に遠ざかっていくと、落ち着いた街並みの道に変わります。





……(その5)に続きます。




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