2023年6月1日木曜日

鉄分補給シリーズ(その9) 芸予汽船・上島町営魚島航路①

 公開日2023/06/01

 [晴れ時々ちょっと横道]第105 鉄分補給シリーズ(その9) 芸予汽船・上島町営魚島航路


スタートは今治港。桟橋に見るからに速そうな快速船が停泊して出港を待っています。芸予汽船の今治港~土生港(因島:広島県)間総距離37.2kmに使われている快速船「第一ちどり」です。

「鉄分補給シリーズ」、今回も“鉄分”ではなく、“塩分”補給です。前回(その8)では今治港から今治市営せきぜん渡船に乗って岡村島に渡ったのですが、その時に今治港で見かけた芸予汽船の快速船があまりにカッコよく、乗ってみたいという衝動に駆られてしまったので、今回はその芸予汽船の快速船に乗って、弓削島(越智郡上島町)まで行ってみることにしました。そして、弓削港からは上島町営魚島航路に乗り換えて、魚島を目指します。

芸予諸島の主な島々です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


【芸予汽船】

芸予汽船は、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の伯方・大島大橋が開通する前年の昭和62(1987)に、それまで今治港と尾道港(広島県)を結ぶ芸予諸島航路を運航してきた愛媛汽船・因島汽船、それに周辺地方自治体の出資により設立された芸予観光フェリー株式会社を母体にしています。昭和63(1988)、撤退する愛媛汽船と因島汽船から航路を継承、今治港~友浦港(大島)~木浦港(伯方島)〜岩城港(岩城島)〜佐島港(佐島)〜弓削港(弓削島)〜生名港(生名島)〜土生港(因島)のフェリー航路と、今治港~早川港(大島)~熊口港(伯方島)~瀬戸港(大三島)の快速船の運航を開始しました。

平成11(1999)にしまなみ海道が全通すると、今治高速船が運航していた今治港~尾道港(広島県)間の快速船航路のうち因島以南を継承する一方、従来のフェリー便は大幅に縮小されました。その後も利用者の減少が続き、平成18(2006)年から20年にかけて今治港~土生港間のフェリー航路を順次廃止。平成19(2009)には芸予汽船株式会社へと社名変更し、現在は今治港~友浦港(大島)~木浦港(伯方島)〜岩城港(岩城島)〜佐島港(佐島)〜弓削港(弓削島)〜生名港(生名島)〜土生港(因島)(総距離37.2km)の快速船のみを運航しています。

今治港桟橋に芸予汽船の快速船「第一ちどり」が既に入港して、乗船準備を整えています。快速船「第一ちどり」は総トン数49トン。旅客定員は97名で、航海速力21.8ノット(時速約40km)。見るからに速そうな船型の船です。同型の僚船「つばめ」とともに、芸予汽船の今治港~土生港航路を担っています。かつては同型の船が水中翼船とともに今治港と尾道港や三原港を短時間で結ぶ芸予航路の「高速船」と称し、主力船として多数が運航されていましたが、現在は松山観光港〜広島宇品港を結ぶ石崎汽船と瀬戸内海汽船のスーパージェットのようなウォータージェット推進の双胴型水中翼船が航海速力32.0ノット(時速約60km)で瀬戸内海で運航されているので、さすがに「高速船」とは呼び難く、「快速船」と呼ばれるようになっているようです。でも、船らしい船型をしているので、私は好きです。

おやおやおやぁ〜、芸予汽船の土生港行きの乗船時刻を待っていると、メチャメチャ懐かしい船が入港してきました。芸予諸島航路が華やかかりし頃、今治港を頻繁に出入りしていた“芸予型”と呼ばれる船型のフェリーです。“芸予型”と呼ばれるフェリーは自動車搬入搬出用のランプウェイが前方の1箇所だけに設けられたフェリーで、主に芸予諸島の航路で数多く使用され、かつてはこの芸予型のフェリーがひっきりなしに今治港を入港出港していました。

船体の塗装もかつての愛媛汽船のままです。船名を見ると「第八おおしま」と書かれています。調べてみると、この「第八おおしま」は、かつて愛媛汽船(その後、芸予観光フェリー)の今治港〜土生港(因島)航路で主力船として活躍していた「第五愛媛」でした。しかし、前述のように、瀬戸内しまなみ海道の開通により利用客が落ち込んだため、同航路はフェリーによる運航を廃止。2008年からは協和汽船へ移籍し、船名を「第八おおしま」に変更し、今治港〜下田水港(しただみこう:大島)航路で活躍を続けたのですが、こちらの航路自体も2013年に休止(後に廃止)となり、お役御免に。かつて芸予航路で使われていた主力フェリーのうち、唯一現役で残っている最後のフェリーで、現在はイマダイコーポレーションに移籍して、チャーター船として今治港に籍を置き、主に四阪島への資材輸送や、今治市営せきぜん渡船や大三島ブルーラインのフェリーが点検や修理のためにドック入りした際の代船として、今も活躍しているようです。行き先表示を見ると「貸切」になっていたので、おそらく四阪島に資材輸送して戻ってきたところなのでしょう。

これから私が芸予汽船の快速船で辿る今治港〜土生港(因島)航路で、かつて主力船として活躍していた「第五愛媛」にここで出逢えるとは!! 懐かしすぎて涙が出そうになりました。何かいいことがありそうです()

かつて、愛媛汽船の芸予諸島航路で多く使われていた“芸予型”と呼ばれる船型のフェリー「第八おおしま」が、たまたまですが入港してきたのでビックリしました。調べてみると、唯一現役で残っている当時のフェリーで、現在はチャーターフェリーとして使われているようです。

芸予汽船の快速船「第一ちどり」土生港行きは、定刻の950分に今治港桟橋を出港しました。この船は因島の土生港まで行くのですが、私は途中の弓削島の弓削港で下船して、そこで魚島行きの上島町営魚島航路の魚島行きの乗り換え、魚島を目指します。

快速船は今治市営せきぜん渡船のように来島海峡を進むのではなく、来島海峡大橋(しまなみ海道)と並行するように燧灘(ひうちなだ)を北東方向に進みます。左舷に遠く来島海峡大橋が見えます。

今治港を出港した快速船「第一ちどり」は来島海峡大橋を左舷に見ながら、北東方向に進みます。

今回私が訪れた芸予諸島の島々です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


【友浦港…大島】

今治港を出港した快速船「第一ちどり」は左舷に大島を見ながら最初の寄港地である大島の友浦港(ともうらこう)を目指します。大島は、愛媛県今治市に属する面積41.89平方kmの島です。芸予諸島の中では比較的大きい島で、平成17(2005)に平成の大合併により今治市の一部となる前は越智郡吉海町と宮窪町の2町が置かれていました。島の北東部の宮窪地域は、中世に瀬戸内海を舞台として縦横に活躍した村上水軍(能島村上水軍)が本拠をおき、水軍遺跡や言い伝えも多数残っています。これにちなみ、宮窪港を会場に村上水軍にちなんだ水軍レースなどのイベントが行われるほか、村上海賊ミュージアムがあります。島の特産品は柑橘と鯛ですが、墓石用として全国的に有名な大島石の産地でもあります。島のあちこちに大島石の採石場があります。

しばらく大島を左舷に見ながら進みます。

大島は来島海峡大橋により今治市の陸地部と、また伯方・大島大橋で隣接する伯方島と結ばれていて、この2つの橋を含むしまなみ海道により四国本土及び本州と陸続きになっています。島内にはしまなみ海道の大島北と大島南の2つのインターチェンジがあり、現在では島外との交通はクルマ利用が一般的ですが、来島海峡大橋(しまなみ海道)が開通するまでは船しかありませんでした。そのため大島には下田水港(しただみこう)、友浦港、宮窪港、吉海港、早川港という5つの港があり、今治港等との間の航路で結ばれ、フェリーや高速船が頻繁に入出港していました。しまなみ海道開通後、それらの航路は次々と廃止され、現在、旅客港として機能を続けているのは、この芸予汽船の快速船が寄港する島の北東部にある友浦港と、島の北部にあり、間にある鵜島(うしま)経由で対岸の伯方島の尾浦港との間のフェリーが発着する宮窪港の2港のみになっています。

大島の友浦港です。快速船は港の手前で速度を落とすと、一度合図の警笛を鳴らし、乗船客がいないことを確認すると、再び速度を上げて、次の寄港地、伯方島の木浦港に向かいます。

今治港を出港して20分。1010分に、最初の寄港地である大島の友浦港に寄港するはずだったのですが、快速船は港の手前で速度を落とすと、一度合図の警笛を鳴らし、乗船客がいないことを確認すると、再び速度を上げて、次の寄港地、伯方島の木浦港(きのうらこう)に向かいます。“通過”ってやつです。さすがに快速船です。

大島(左側)と伯方島(右側)の間は狭い海峡になっています、ここには鵜島という島があるため船折瀬戸や宮窪瀬戸といった特に狭い海峡があり、文字通り船も折れるほどの潮流が川のように流れる海の難所です。そのうちの宮窪瀬戸に浮かぶ小さな島「能島」は村上水軍の本拠地のあったところです。

【木浦港…伯方島】

友浦港を“通過”して約20分。1030分に木浦港に着岸しました。木浦港のある伯方島は今治市に属する島で、平成17(2005)に平成の大合併により今治市の一部となる前は越智郡伯方町でした。島の面積は20.86平方km。しまなみ海道により四国本土及び本州と陸続きになっている島で、島の南西部にしまなみ海道の伯方島インターチェンジがあります。島内にはこの木浦港のほか、北浦港、熊口港(くまごこう)、尾浦港という計4つの港があり、それぞれ、北浦港は生口島(いくちじま)、熊口港は大三島、尾浦港は大島と、それぞれ向き合った対岸の島の港との航路で結ばれていました。木浦港のある木浦地区は島の東部にある集落ですが、民家が密集している島最大の集落で、かつてはここに伯方町役場が置かれていました。と言うか、地図をご覧いただくとお分かりいただけるように、伯方島の周辺は多島海・瀬戸内海の中でも特に島が密集してあるところで、周囲を大島、大三島、生口島、岩城島、生名島、佐島、弓削島といった島々に囲まれた中心に位置していることから、かつてこの伯方島木浦地区には、それら旧越智郡島嶼部の中心地として、そこを管轄する警察署、消防署、法務局出張所といった行政機関や電報電話局、郵便局、電力会社の営業所等が置かれていました。

伯方島の木浦港に寄港します。伯方島は「伯方の塩」で有名な島ですが、造船も盛んな島なのです。そして、伯方島はかつて私の帰省先だったこともありました。

大きな入り江の奥にある木浦港は離島の港とは思えないほど大きな規模の港で、港内に2つの大きな造船所のドックもあります。伯方島は「伯方の塩」の発祥の地として有名ですが、造船会社4社があるほか、内航船主体ながら船主が多く集まったところであり、海運と造船の島としても知られています。ここで出てきた“船主について少し解説しておきたいと思います。

2年前の20213月、エジプトのスエズ運河で台湾のコンテナ輸送・海運会社である長栄海運(Evergreen Marine Corporation)運航するパナマ船籍の超大型コンテナ船「エヴァーギヴン(Ever Given)」が座礁し、1週間近くも運河をふさぎ、400隻以上の船の運航に影響が出たという大きな事故が起きました。このコンテナ船「エヴァーギヴン」は今治造船の丸亀事業所が建造した全長約400メートル、総トン数219千トン、20フィート換算で20,124TEUというコンテナ容量を持つゴールデンクラスと呼ばれる世界最大級の超大型コンテナ船なのですが、この事故で一躍世の中で有名になったのが“今治船主”という言葉だったのではないでしょうか。このコンテナ船「エヴァーギヴン」の所有者(船主)は台湾の長栄海運ではなく、今治造船のグループ会社である正栄汽船(今治市)。したがって事故発生当初、「愛媛県今治市の会社が所有する大型コンテナ船が」というような報道が連日のように流されました。

海事産業には、下図に示すように、主に4つの業者が関わっています。船を建造する「造船会社」とその船を所有する「船主=オーナー」、船主から船を借りて貨物を運搬する「海運会社」、そして船主に融資をする「金融機関」です。上記のスエズ運河で座礁した「エヴァーギヴン」の例で言うと、船主が正栄汽船、海運会社が台湾の長栄海運ということになります。

海事産業の基本的構図

実は今治市は、香港、ギリシャ、北欧と比肩する「世界の4大海事集積地」の1つに数えられるほどの海事産業集積地の顔を持っています。今治の歴史を遡ると、古くから今治市周辺や瀬戸内海の島嶼部には皇室や公家、武家、寺社の荘園が多数あり、ここで生産される塩などを畿内へ運ぶ海上交通の拠点でした。特に、入り江の深い波止浜湾は船が潮流が変わるのを待つ「潮待ち」の港として最適で、海運業が大いに栄えました。大正11(1922)には今治港が四国で初めて外国との貿易に使用される開港場に指定されました。

今治市は人口約15万人の地方都市でありながら、海事関連企業は500社以上。携わる従業員数は計約1万人を数え、家族を含むと約3万人が暮らしています。日本国内最大の造船会社である今治造船をはじめ、造船業の会社が14社あり、市内に本社や拠点のある造船会社で国内の建造船の約3割を占めるという関係で、同市には舶用メーカーと関連企業が約160社もあり、造船関連の会社が圧倒的に多いのですが、その中で特筆すべきは船で海外との間で人やモノを運ぶ「外航海運」の会社が約70社もあるということです。こうした会社は「Imabari owner(今治オーナー、今治船主)」の名で世界中にその名が知られ、今治市の会社だけで日本全体の外航船の4割超の約1,050隻を所有しています。日本国内の貨物輸送に使われる「内航船」も今治市内に約190社が集中し、国内の約5%に相当する約240隻を所有しています。外航と内航を合わせると全国の約3割の船が今治市の会社、いわゆる今治オーナーの所有ということになります。このような背景から、首都圏以外で、大手メガバンクが県庁所在地以外の地方都市にこぞって支店を出しているのは、全国で唯一今治市だけだということを聞いたことがあります。

それら今治オーナーが特に多く集まっている地域が、今治市の波方地区とここ伯方島です。伯方島は今でも「伯方の塩」で全国的に有名ですが、幕末から明治にかけて盛んに塩田の造成が行われました。明治9(1876)に塩田の民有化が始まり、また塩の売買も自由化されたのを機に、製造業者から塩を買付け、持船で各地へ運ぶ海運業が盛んになりました。この中で伯方島では「北前通い」と称して、伯方島の塩田で購入した塩を積み、下関海峡から日本海へ出て、新潟へ運び、そこで塩を売り、米を安く購入し、それを北海道へ回送して一部の米を売却、さらに太平洋を航海して瀬戸内海に帰り、残りの米を売却することによって多額の利潤を得る海運業者が多数現れました。

この「北前通い」そのものは、明治38(1905)に塩の専売制が実施されるとともに姿を消したのですが、伯方島の海運業者は明治末期から大正にかけて、今度は機帆船導入の先駆者となって、日本国内の内航貨物輸送の中で大きな役割を果たしてきました。特に、第二次世界大戦後は、鋼船化の波にうまく乗り、タンカーの建造にも比較的早く取り組み、愛媛県内における航船主の中でも確固たる地位を占めてきました。加えて、伯方島に造船業が発達していたことも見逃せない要因でもあります。

伯方島にはばら積み貨物船(バルカー)を中心にコンテナ船も含めて約150隻を保有している日鮮海運をはじめ、幾つかの大手の今治オーナーが本社を構えています。それらの今治オーナーが保有する船舶のうち内航貨物船の多くは、この木浦港を母港としていることもあって、木浦港は離島の港とは思えないほど規模の大きな港になっているのです。かつては、お盆や年末年始の時期には、日本全国からここを母港とする数多くの内航貨物船が帰港してきて、この大きな港をビッシリと埋めていました。

木浦港です。今治オーナーが保有する船舶のうち内航貨物船の多くは、この木浦港を母港としていることもあって、木浦港は離島の港とは思えないほど規模の大きな港になっています。

実は私は若い頃、父の仕事の関係で3年間ほどこの伯方島の木浦が帰省先だったことがあります。私が就職してすぐの頃で、島での生活が物珍しかったこともあり、伯方島に帰省するのが楽しみでした。東京から帰省するには、まず東海道・山陽新幹線で福山駅まで行き、福山駅で山陽本線の各駅停車に乗り換えて尾道駅へ。尾道駅のすぐ近くにある尾道港から今治港行きのフェリーや高速船に乗り換えるというルートでした。まだしまなみ海道が開通する前のことで、当時の今治港〜尾道港航路はドル箱航路だったこともあり、愛媛汽船と瀬戸内海汽船がフェリーや高速船、水中翼船を1時間に1本程度の高頻度で運航していました。私は特に急いで帰省する必要もなかったので、芸予諸島の島々を巡るフェリーでの船旅を好んで利用していました。当時のフェリーは尾道港を出ると、重井港(因島)〜田熊港(因島)〜土生港(因島)〜弓削港〜佐島港〜岩城港〜木浦港(伯方島)〜友浦港(大島)〜今治港のルートだったように記憶しています。木浦港〜友浦港〜今治港間は、帰省した際に今治市の親戚の家を訪ねたり、遊びに行ったりするのに利用していました。乗り物マニアとしてはメチャメチャ楽しいルートでした。私の船好きも、本格的になったのはこの頃からです。

なので、この芸予汽船の船旅は私にとっては原点とも言える懐かしい船旅でもあるのです。そして、この伯方島の木浦も懐かしい場所の一つなんです。当時の伯方島の印象は、瀬戸内海に浮かぶさして大きくない離島と言っても、妙に豊かさが感じられる島だなということでした。それは農業や漁業といった第一次産業ではなく、造船業や製塩業、さらには海運業といった第二次産業や第三次産業が主体の島だったことによるものでしょう。

伯方島には目立った名所旧跡もなく、友人知人もいなかったことから、私は伯方島に帰省するとほぼ毎日のように釣り竿を担いで、魚釣りに出掛けていました。伯方島は周囲の島々との距離も近く、その隣接する島々との間の海峡は狭く、特に大島との間の船折瀬戸(ふなおりせと)、大三島との間の鼻栗瀬戸(はなぐりせと)、潮流が急なことで知られる海の難所となっています。海に難所ではあるものの魚の宝庫でもあり、チヌ(黒鯛)やメバル、アイナメ、カレイなどがよく釣れました。すぐ目の前の沖を行くフェリーや高速船、様々な種類の貨物船を眺めながら釣り糸を垂れる。まさに至福の時でした。ただ、クーラーボックス一杯釣ってくるので、母から「毎日毎日こんなにいっぱい釣ってきて、一体どうするつもりよ!」と叱られたものです()

木浦港に隣接して伯方造船のドックがあります。

そんな伯方島の木浦港を、思い出に浸る間もなく快速船は着岸後すぐに出港して、次の寄港地・岩城港(岩城島)を目指します。快速船の場合、フェリーのように自動車を乗降させるためのランプウェイの上げ下ろしの手間が必要ないので、着岸後、乗客の乗り降りが完了するとすぐに離岸し、次の寄港地に向かって出港します。

「第一ちどり」の船内です。私以外の乗客は皆さんサイクリスト。“ゆめしま海道”をサイクリングに行くのでしょう。船体後部は自転車の搬送スペースになっています。

【岩城港…岩城島】

伯方島の木浦港を1030分に出港した快速船は、僅か13分で岩城島の岩城港に着岸しました。岩城島は芸予諸島のうち上島諸島に属する面積8.95平方kmの離島で、属島として、赤穂根島(あかほねじま)と津波島(つばじま)などの無人島が幾つかあります。主要産業は、柑橘類を中心とした農業と造船業で、「青いレモンの島」をキャッチフレーズに掲げ、島特産のレモンを利用した産業振興策に取り組んでいます。また、岩城島には今治造船グループの1社である岩城造船所があり、石油製品運搬船等、特殊船建造技術を有する造船所で、最先端技術を駆使し世界に認められる船を建造しています。従業員500名余を擁する地場産業の雄って感じです。

次に岩城島の岩城港に寄港します。

この岩城島から先は行政区画としては今治市ではなく、越智郡上島町(かみじまちょう)になります。上島町は、瀬戸内海のほぼ中央、愛媛と広島の間に点在する芸予諸島の中でも愛媛県側では最も北東に位置している離島群です。中でも弓削島の東北東約4kmにある無人島の百貫島(ひゃっかんじま)は、愛媛県の最北端にあたります。上島町は陸地の面積は30.38平方kmと狭いものの、極めて広い海上区域を有しており、今治市だけでなく広島県尾道市、福山市、香川県観音寺市とも海上で隣接しています。

上島町は平成16(2004)に旧越智郡島嶼部の 弓削町、生名村、岩城村、魚島村の13村が合併し誕生した自治体で、愛媛県内では唯一の離島自治体です。いわゆる「平成の大合併」において、当初、上記の13村は他の島嶼部を含む越智郡全体で今治市と大合併する案や、広島県の因島市や瀬戸田町との越県合併をする案など幾つかの案で、将来の自分達の町の姿の想定と議論を、長い時間をかけて繰り返し行いました。結果的には、上島地域が極々小さな離島の集合体であること、岩城島、弓削島、生名島などは大三島や伯方島、大島といった旧越智郡島嶼部の島々よりも隣県広島県の因島(現在は尾道市の一部)のほうが距離的に近く(最も近い生名島の場合、因島との間はわずか300メートル)、この地域の造船業の中心地であった因島のベッドタウン的な傾向を持つようになっていたこともあって、因島の生活圏に属するという特長を踏まえて地域の特性を保存しようということになり、今治市との大合併に加わることを断念(残りの旧越智郡11 町村は今治市に編入されることになりました)。弓削町、魚島村、生名村、岩城村の4町村で合併する道を選びました。したがって、現在も越智郡に残っている自治体は上島町だけになっています。私は苗字が“越智”だけに、“郡”という称号付きで地名として残してくれているだけで嬉しいですし、ありがたいことだと思っています。

岩城造船所のドックが見えます。

この上島町を構成する主な島である弓削島、岩城島、生名島、そして佐島の4つの島は、現在はそれぞれ橋で繋がっていて、陸続きになっています。それが「ゆめしま海道」という愛称の付く「上島架橋」のルートです。上島架橋は、越智郡上島町の岩城島を起点とし、生名島、佐島を経て弓削島へと至る、愛媛県道338号岩城弓削線(延長約6.1 km)に架けられる弓削大橋、生名橋、岩城橋の3橋の総称のことです。前述のように、上島町は愛媛県内では唯一の離島自治体で、平成16(2004)に町が発足した時点では、弓削島、生名島、岩城島の3つ島とも、因島(広島県)や伯方島といった瀬戸内しまなみ海道が通る隣島との間にも橋がないので、「町外」との行き来はすべて海上交通に依存していました。1つの自治体としての一体感、アイデンティティの確立のためにも、この3つの島が橋で結ばれることが重要であると、町の発足当初から地元では捉えていました。それで建設されたのが「ゆめしま海道(上島架橋)」というわけです。

弓削島とその西側の佐島の間については、「弓削大橋(全長980メートル」が平成8(1996)に既に完成していたので、それを延長する形で、平成23(2011)に生名島と佐島を結ぶ「生名橋(全長515メートル)」が、そして昨年令和4(2022)320日に生名島と岩城島を結ぶ「岩城橋(全長916 メートル)」が完成し、沖合遠く離れる魚島を除き、上島町の主要な3つの島が橋で連結されることになりました。さらに、離島性の根本的解消のため、岩城島から伯方島までの間の新たな架橋による瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)への連結が地元では望まれているようですが、その完成時期については未定のようです。

快速船は岩城港を出港して、次の寄港地である佐島の佐島港を目指します。左舷に「ゆめしま海道」の岩城橋が見えます。岩城橋は全長916メートル、主塔の高さは137.5 メートルの斜張橋で、斜張橋としては日本でもトップクラスの規模の美しい橋です。

「ゆめしま海道」の3本の橋のうち、生名島と岩城島を結ぶ「岩城橋(全長916 メートル)」です。主塔の高さは137.5 メートルの斜張橋で、斜張橋としては日本でもトップクラスの規模の美しい橋です。

そうそう、岩城島と言えば、忘れてはならないものが一つありました。それがタムラ食品さんの『芋菓子』です。しまなみ海道周辺の住民や観光に来られた方は、岩城島のタムラ食品さんの芋菓子がお土産に一番だという方も多いではないでしょうか。前述のように、私は3年間、伯方島が帰省先だったこともあり、その味を知って以来、今も松山に来た際にはスーパーで買って、好んで食べています。そして、袋を開封したが最後、まさに「やめられない、とまらない」状態に陥ってしまいます。昔からの変わらぬ手法で、完全手作りされている岩城名産の「芋菓子」。一般的に「芋けんぴ」と呼ばれることが多いお菓子ですが、こちらのものは「芋菓子(いもがし)」です。実は私は父が転勤族だった関係で、小学校高学年の一時期、高知県の安芸市に住んでいたことがあります。高知県は「芋けんぴ」の本場で、そこで「芋けんぴ」の美味しさに目覚めたところがあるのですが、そんな「芋けんぴ」好きの私にとっても、美味しさNo. 1の「芋けんぴ」は岩城島のタムラ食品さんの「芋菓子」だと自信を持ってお勧めできます。サツマイモを油で揚げ、砂糖をまぶしただけの素朴なお菓子ですが、タムラ食品さんの「芋菓子」はサツマイモの自然な甘さが強い感じで、ついつい手がとまらなくなっちゃいます()

岩城島と言えば、忘れてはならないのがタムラ食品さんの『芋菓子』ですね。一般的に「芋けんぴ」と呼ばれることが多いお菓子ですが、こちらのものは「芋菓子(いもがし)」です。

【佐島港…佐島】

岩城港を出港してわずか7分。1050分に佐島の佐島港に近づきました。佐島は西に岩城島、北東に弓削島、そして北に生名島とまさに近距離で隣接する島で、これら有人4島を中心に上島諸島を形成しています。面積は2.67平方kmの小さな島です。柑橘類を中心とした農業の島で、漁業はさほど盛んではありません。かつては因島の造船所への通勤者も多く暮らしていました。弓削島との間には「ゆめしま海道」の弓削大橋が、また生名島との間には同じく生名橋が架かっており、陸続きになっています。

佐島港です。佐島港には乗降客はおらず、ここも速度を落として警笛を鳴らしただけですぐに速度を上げて、次の寄港地である弓削島の弓削港を目指します。

快速船には乗降客はおらず、佐島港でも速度を落として警笛を鳴らしただけですぐに速度を上げて、次の寄港地である弓削島の弓削港を目指します。佐島港を出るとすぐに「ゆめしま海道」の生名橋の下を潜ります。生名橋も全長515メートルの美しい斜張橋です。

佐島港を出ると、生名島と佐島の間に架かる“ゆめしま海道”の生名橋の下を潜ります。生名橋も全長515メートルの日本ではトップクラスの規模の美しい斜張橋です。次に寄港する港は弓削島の弓削港です。


【弓削港…弓削島】

佐島港を“通過”してから僅か7分。1057分定刻に弓削島(ゆげじま)の弓削港に着岸しました。私はこの弓削港で下船し、上島町営魚島航路の船に乗り換えます。私を含む数名の乗客すべてを下船させると、快速船「つばめ」は次の寄港地である生名島の生名港を目指して弓削港を出港していきました。次の生名港までの所要時間は僅かに6分。さらに生名港から終点の因島(広島県)の土生港(はぶこう)までは、こちらも僅か7分の1110分に到着します。弓削港から因島の土生港までで考えても13分です。弓削島をはじめとした上島町は因島の生活圏に属するということを書かせていただきましたが、まさにそんな感じです。弓削港は島の西側にあることもあり、目の前には弓削島と佐島を結ぶ「ゆめしま海道」の弓削大橋の美しい斜張橋が見えますし、狭い海峡を挟んで佐島、生名島、さらには因島が、まるで1つの島かのように密集して見えます。まさに多島海瀬戸内!って眺めです。

弓削島の弓削港に到着しました。私はここで下船し、魚島行きの上島町営魚島航路の船に乗り換えます。弓削港からは弓削島と佐島の間に架かる“ゆめしま海道”の弓削大橋が目の前に見えます。メチャメチャ美しい風景の港です。

私を含む全ての乗客を下ろした「第一ちどり」は、空船になっちゃいましたが、すぐに次の寄港地である生名港(生名島、そして終点の土生港(因島:広島県)に向けて出港していきました。生名港、そして土生港は、弓削港から目と鼻の先という感じの距離にあります。

弓削港で下船した乗客は全てサイクリスト。生名橋をバックに記念撮影をしているこの男性は富山県からやって来たのだそうで、“しまなみ海道”“とびしま海道”と走破して、この“ゆめしま海道”で芸予諸島完全走破です…とおっしゃっていました。今やこのあたりはサイクリストの聖地になっている感じですね。


弓削島は上島諸島の本島で、上島町役場と町議会があり、町政の中心地となっています。面積は8.61 平方km。主要産業は、農林業、漁業で、農業では柑橘(特に八朔)、漁業 では小型定置網漁、海苔養殖などが盛んで、マダイ、コウイカ、ウマヅラハギ、タチウオなどが特産品です。

弓削島は古くから製塩で栄えたところで、平安時代末期頃には後白河法皇の荘園「弓削島荘」として塩を献上していました。鎌倉時代になり後白河法皇ゆかりの寺院・長講堂に寄進され長講堂領となった後、東寺(京都市)に寄進され、同寺の荘園として室町時代まで塩を献上していました。今上天皇陛下は学習院大学在学中に「中世の荘園制度」をテーマに研究をなさっておられたのですが、昭和56(1981)に弓削島に来島され、弓削島荘について調査をなさいました(当時は皇太子徳仁親王)。弓削島荘は「塩の荘園」として歴史的にも知られています。

弓削島と言えば、全国にある海事教育機関である商船系高専5校のうちの1つ、国立弓削商船高等専門学校ですね。私もそうですが、この弓削商船高専によって弓削島の存在を認識したという愛媛県民も多いのではないでしょうか。

最近は瀬戸内海の美しい風景に魅せられて多くの欧米人の方々が瀬戸内海の島々に移住してきておられますが、この弓削島にもイギリスのカンタベリー・ミュージックの礎を築いたグループとして知られるプログレッシブロック・バンド「キャラヴァン(Caravan)」のキーボード奏者であったデイヴ・シンクレア(Dave Sinclair)さんが移住してきておられます。

https://www.dsincs-music.com Dave Sinclair公式HP

 

……②に続きます。②は明日6月2日に掲載します。

 




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