2023年6月4日日曜日

四国遍路を世界遺産に(その1)

 公開予定日2023/09/07

 

[晴れ時々ちょっと横道]第108 四国遍路を世界遺産に(その1)


石手寺の三重塔です。三間三重の塔で、高さは24.1メートル。鎌倉時代末期に建立された建物で、均整がよく取れた当時の建物の特色を今に伝える貴重なものであることから、国の重要文化財に指定されています。


四国と言えば“お遍路さん”で知られる四国八十八ヶ所霊場巡り、いわゆる『四国遍路』ですね。私がここで言うまでもないことですが、『四国遍路』とは徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県からなる四国を全周して、弘法大師(空海)が人々の災難を除くためや人々の心の悟りの場として開いたとされたり、所縁があるとされる88ヶ所の古くからの歴史のある札所霊場(寺院)を巡る全長約1,400kmにも及ぶ壮大な寺院巡拝の総称のことです。遍路の基となる「思想・信仰」とそれを実践する「場」、そしてそれを支える「地域」の3者一体となったものが四国遍路の文化であり、遍路の主体が僧侶等から一般民衆へと広がり、1000年を超える長い時代、継承されてきました。

 特に、「お接待」に見られる巡拝者をあたたかくもてなす思いやりや心遣いなどの「心の文化」は、特に四国の民衆が、宗派をこえて長い時間をかけて創り上げてきた貴重な文化です。四国遍路は、現在、歩き遍路のほか、様々な交通機関を利用して多くの人々が宗教や宗派を超え、それぞれの思いを込めて巡拝する現代にも続く生きた文化遺産と言えるものです。

 室町時代以降に正式に定められたとみられる現在の88ヶ所の寺院と急峻な山や深き谷を巡り、その間にある仏堂を残らず巡る総行程1,400kmにも及ぶ世界一長いとも言われる遍路道を歩いて巡礼(巡拝)することは修行で、「四国遍路」、あるいは単に「遍路」と呼ばれ、さらには「四国巡礼」、「四国巡拝」などという表現もあります。また他にも単に「八十八ヶ所」、「お四国さん」、「本四国」などの表現もあります。ちなみに、地元四国の人々は巡礼者のことを親しみを込めてお遍路さんと呼んでいます。また、札所に参詣することを打つ、地元の人間が巡礼する“お遍路さん”に親切にすることを“お接待”と呼びます。

 この総行程1,400kmにも及ぶ世界一長いとも言われる巡礼路である四国遍路道ですが、愛媛県はそのうち500km以上と四国4県で最も長い区間を有しています。くわえて、忘れてはならないのが、四国遍路そのものが愛媛県と大変に所縁の深いものであるということです。

 

【衛門三郎】

この四国遍路は弘法大師(空海)が始めたものという認識が一般的になっているように感じていますが、実はそうではありません。四国八十八ヶ所霊場の88の寺院は弘法大師が開いたり、所縁があったりする寺院であることは否定はしませんが、それらの寺院を歩いて巡る(巡礼する)ということを始めたのは弘法大師ではなくて、実は伊予国浮穴郡荏原郷(現在の松山市恵原町)の衛門三郎なのです。そのあらすじを以下に示します。


石手寺の山門(仁王門)に続く参道の脇には、石手寺に深い所縁を持つ衛門三郎の像が置かれています。弘法大師の前で許しを請う姿でしょうね。


時は天長年間(西暦824年〜834)。伊予国を治めていた河野氏の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者がいました。衛門三郎は地元で権勢を奮っていましたが、欲深く傲慢、領民からの人望も薄かったといわれています。ある時、衛門三郎の大きな屋敷の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、「何日も泊まるところがなくて困り果てております」と頼んだのですが、主人の衛門三郎は憐れと思いつつもその汚らしい風体を見て家人に命じてその僧を追い返しました。翌日も、そしてその翌日もと、何度も僧は現れました。8日目、衛門三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹の箒で叩き落とし、鉢は8つに割れてしまい、僧も姿を消してしまいました。実はこの僧こそは弘法大師(空海)だったのです。


衛門三郎の屋敷の跡とされる松山市恵原町の文殊院です。


衛門三郎には8人の子供がいたのですが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまいました。悲しみに打ちひしがれていた衛門三郎の枕元に弘法大師が現れ、衛門三郎はやっとその時のみすぼらしい身なりの僧が弘法大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと深く後悔しました。

衛門三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、弘法大師に詫びをいれるため弘法大師の姿を追い求めて弘法大師所縁の四国中の寺院を訪ねる旅に出ました。これが四国遍路(四国巡礼)の最初です。衛門三郎は20回巡礼(順打ち)を重ねたのですが弘法大師に出会うことができず、弘法大師に何としても巡り合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにして巡礼を続けました。しかし、その途中、阿波国の焼山寺(徳島県名西郡神山一度町:第12番札所)近くの杖杉庵(じょうしんあん)で病に倒れてしまいました。死期が迫りつつあった衛門三郎の前に突然弘法大師が現れ、衛門三郎はついに弘法大師に出会うことができました。衛門三郎は今までの非を泣いて詫び、弘法大師が「この世の果報は既に尽きているが、来世に願うことはあるか」と問いかけると、衛門三郎は「願わくば、故郷伊予国の一族総本家である河野家の世継ぎとして生まれ変わり、人々の役に立ちたい」と託して息を引き取りました。その時、弘法大師は路傍の小石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせました。これは天長8(西暦831)10月のこととされています。


徳島県神山町の第12番札所焼山寺の近くの杖杉庵にある弘法大師と衛門三郎の像です。


その翌年、伊予国の領主、河野息利(興利:おきとし)に長男の息方(興方:おきかた)が生まれたのですが、その子は左手を固く握って何日も開こうとしませんでした。息利は心配して河野家の菩提寺である安養寺の僧を呼び祈願をしてもらったところ、どうしても開かなかったその手がようやく開き、その手の中から『衛門三郎再来』と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたとされています。この石は玉の石と呼ばれ、石手寺の寺宝となっています。


石手寺の境内です。66,000平方メートルの広大な寺域には、鎌倉時代末期に建立された本堂や三重塔、訶梨帝母天堂、護摩堂、鐘楼(袴腰造)など国の重要文化財に指定された建築物が立ち並び、その数は四国遍路の中で屈指を誇ります。

文保2(1318)に建立された石手寺の山門(仁王門)は二層入母屋造りの立派な建物で、運慶の傑作ともいわれ、国宝に指定されています。また、仁王門内に安置されている木造金剛力士立像は鎌倉盛期運慶派の特徴を示していると言われており、国の重要文化財に指定されています。


衛門三郎の生まれ変わりとされる河野息方(興方)15歳で家督(河野家7代目)を継ぎ、後に伊予国の領主となってからは、領民を慈しみ善政を施したとされています。河野氏は白村江の戦い(西暦663)において水軍大将を務めた小千守興(越智守興:おちのもりおき)の子・河野(越智)玉澄を祖とし、天正13(1585)、豊臣秀吉の四国征伐において、河野通直が小早川隆景の説得を受けて降伏するまで900年以上の長きに渡って伊予国を治めた有力豪族です。平安・鎌倉・室町と時代が移り変わり、幾多の氏族が栄枯盛衰を繰り返す中で、これだけ長く、しかも一時期は伊予国守護として統治を続けることができたということは、河野氏による統治がいかに善政であったかを物語っているように思えます。これも衛門三郎の再来とされる河野息方(興方)の教えによるものでしょうか。


石手寺の寺伝によれば、神亀5(728)に伊予国の太守であった越智玉純が夢によってこの地を霊地と悟り、熊野十二社権現を祀ったのが始まりとされています。そのためか、お参りする前に手や口を清める『手水舎』には「折敷に揺れ三文字」の河野氏を含む越智氏族の家紋(大山祇神社の社紋)が刻まれています。

おそらく、衛門三郎は弘法大師の姿を追い求めて四国中の寺を巡っている際、金銭もなくなり野宿を重ねて心身ともに疲れ果て、時にはどこかの屋敷の門前で一夜の宿を願いますが、行く先々で断られ、この時、これがかつての自分であったと気づき、心底打ちひしがれたのではないでしょうか。また反対に、何軒かでは「どうぞお休みください」と泊めてもらえたこともあったのではないかと思われます。この困っている人を見かけた時に温かい手を差し延べる優しさに触れ、心の悟りを得て、これからは人助けをしたいと強く思ったのかもしれません。これが四国遍路による真の修行というものかもしれません。実際、弘法大師も、延暦16(西暦797)12月、自身が24歳の時に書いたとされ、今も高野山金剛峯寺に伝えられて国宝に指定されている出家宣言書(自伝)『三教指帰(さんごうしいき)』の中で、自身も四国の山野を野宿しつつ徘徊した際に同様の境遇に置かれたことから「自他兼利済」という菩提心を起こすに至ったと書かれておられます。この「自他兼利済」とは、自分も他人も両方が幸福になる道を歩むことこそが発心(悟りを得るための第一歩)であるという教えです。

このように、伊予国を治めていた河野氏の一族で伊予国浮穴郡荏原郷(現在の松山市恵原町)の衛門三郎が弘法大師の姿を追い求めて弘法大師所縁の四国の寺院の数々を巡った事が四国遍路の始めとされていることから、実は四国遍路は愛媛が発祥の地と言えようかと思います。この衛門三郎の逸話はいささかできすぎの部分もありますので、どこまでが真実であるのかは定かではありませんが、少なくとも伊予国守護であった河野氏が四国遍路の開祖に深く関わっていたということだけは十分に考えられることだと、私は思っています。また、鎌倉時代中期から後期を代表する僧侶で、踊りながら南無阿弥陀仏と念仏を唱える「踊り念仏」を広めたことで知られ、時宗の開祖となった一遍上人は、石手寺にほど近い松山市道後の宝厳寺(ほうごんじ)で誕生したとされ、河野氏一族の出身なので、もしかするとそのあたりもなにか影響しているのかもしれません。時宗の宗紋は河野氏(越智氏族)の家紋と同じ折敷に三文字紋(隅切三とも)ですし。一遍上人も寺院に依存しない一所不住の諸国遊行で布教を行ったことで有名で、そのあたり四国遍路と繋がるところがあります。

 

【武田徳右衛門】

四国遍路と大変に所縁の深い愛媛県人(正しくは伊予国人)のもう1人が武田徳右衛門です。武田徳右衛門は第81回から第85回まで5回に渡って掲載した「伊予武田氏ってご存知ですか?」でご紹介した伊予武田氏の一族です。戦国時代最強の武将は誰か?と問われれば、『甲斐の虎』の異名を持つ武田信玄の名前を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。その甲斐武田氏の傍流の武田氏が幾つかあり、そういう中に愛媛県にも「伊予武田氏」という一族がいました。その伊予武田氏は現在の今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)にあった龍門山城を居城に朝倉一帯を治めていた豪族でした。その伊予武田氏は、天正10(1582) 128日、伊予武田氏の居城である龍門山城が村上(来島)通総の奇襲を受け落城し、伊予武田氏第7代の武田信勝が討ち死にしたことで武門としては終焉を迎えたものの、武田信勝の嫡男である武田真三郎信吉(幼名:富若丸。当時16)は伊予武田氏の菩提寺である朝倉 水之上(みずのかみ)の龍門山無量寺が匿って隠棲。10年間養育の後、当時の伊予国今治領113千余石の領主であった福島正則に召し出され、福島正則の推挙で水之上郷の代官(大庄屋役)を勤めました(この水之上を中心とした朝倉一帯は、江戸時代に幕府直轄の“天領”となります)。この武田真三郎信吉から始まる天領水之上郷の大庄屋役としての武田氏ですが、当然のこととして時代を経るにつれ分家が幾つも枝分かれしていきます。その分家筋の中に生まれたのが武田徳右衛門です。


今治市朝倉の無量寺にある武田徳右衛門の墓です。

武田徳右衛門は、愛媛県越智郡朝倉村上乃村の生まれとされています。現在も今治市の富田地区を中心とした地域に府中二十一ヶ所霊場というものがあって、根強い信者を擁しているといわれていますが、この府中二十一ヶ所霊場の開創者が武田徳右衛門です。この武田徳右衛門のもう一つの大きな業績に四国八十八ヶ所霊場の遍路行をする人達のための遍路道の整備、すなわち、丁石(道標)の建立があります。彼は僧侶ではなく、また格別信仰心が深かったわけでもなく、元々はごく平凡な一人の農民でした。その彼の身に不幸が次々と降りかかりました。天明元年(1781)夏、長男七助が急死したのを始めとし、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと天明元年から寛政4(1792)までの11年間に、愛児一男四女を次々と失ったのです。その相次いだ不幸による悲しみの重さが彼自身を、そして彼の人生を大きく変えるきっかけとなったようです。彼がそこで出会ったものがお大師様であり、四国八十八ヶ所霊場遍路の旅だったようです。

そして、武田徳右衛門は、寛政6(1794)に「四国八十八ヶ所丁石建立」を発願し、農繁期を除いては、ほとんどを寄付勧募と丁石建立に専念し、13年間を要して文化4(1807)に大願成就したと言われています。丁石は本来の意味では1(109メートル)ごとに建てられる道標の石のことですが、武田徳右衛門の建立した丁石は1丁ごとではなく、ほぼ1(4km)ごとに遍路道の主たる地点に建立されていました。そして、弘法大師の尊像を刻み、◯◯寺まで里と次の札所までの距離を明記していたという特徴がありました。そこには「里数がわかれば目的地(次の札所)への到着時間が予測できるし、それはまた宿の確保にも役立つだろう」という当時としては画期的なアイデアが盛り込められており、遍路道の途中の至るところにこの丁石(道標)を建立することで、お遍路さんの不安感をぬぐい去ろうとしたものであったのであろうと推定されます。これも、自ら遍路を重ねた経験から得た知恵の一つなのでしょうね、きっと。その意味で、現在まで続く四国遍路の遍路道を最初に確定させたのは、武田徳右衛門ということになろうかと思います。武田徳右衛門の手によって建立された丁石(道標)は、現在でも四国内で130基ほど現存しているのが確認されているのだそうです。その武田徳右衛門の墓も水之上の無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓の中にあります。ちなみに、我が家・朝倉越智家の菩提寺もその無量寺です。


60番札所の横峰寺に向かう遍路道(横峰寺道)で見掛けた“丁石”です。


【伊予鉄道】

四国遍路と大変に所縁の深い愛媛県人(法人)として忘れてならない存在が伊予鉄道です。ご存知伊予鉄道は明治20(1887)に創立された愛媛県松山市に本社を置く鉄道・軌道事業の老舗企業ですが、その伊予鉄道は昭和19(1944)、三共自動車を合併して自動車部を設け本格的にバス事業に参入しました。その後、昭和26(1951)の道路交通法改正で「一般貸切旅客自動車運送事業」が設けられると、伊予鉄道も戦後の好景気で増えてきた団体旅行客をターゲットに、貸切バス事業に力を入れました。そんな中、大ヒットとなったのが、昭和28(1953)に始めた四国八十八ヶ所霊場(札所)を巡る貸切バスツアーでした。この「お遍路バスツアー」は、今でこそたくさんのバス会社や旅行代理店で取扱いがありますが、実は伊予鉄道、正しくは伊予鉄バスが元祖なのです。その証しとして、伊予鉄道(伊予鉄バス)は企業として四国八十八箇所霊場会の公認先達第一号となっています。このあたりは以下をご覧ください。

https://www.iyotetsu.co.jp/sp/bus/kashikiri/junpai.html 伊予鉄道公式HP

https://iyotetsublog.com/2022/04/15/post-2016/ 伊予鉄道公式ブログ「伊予鉄バスとお遍路さん」

この伊予鉄バスが始めた四国八十八ヶ所霊場巡拝ツアーバス(現在伊予鉄バスでは『四国八十八ヶ所順拝バス』の呼称を使っておりますが…)の功績は極めて大きなもので、四国遍路を信心深い一部信者や修行僧のものから、広く一般庶民でも手軽に行えるものに門戸を一気に広げること(大衆化)に大きく貢献したと私は思っています。「四国遍路」は、一般的に88全ての札所を徒歩で巡る徒遍路(かちへんろ)”の場合は、順調にいっても一巡に40日から50日程度かかるといわれていますが、団体観光バスツアーを利用した車遍路の場合はそれが11日から13日程度と大幅に短縮され、札所から次の札所までの間は自分の足で歩かなくてもバスに乗っていれば連れていってくれますし、弘法大師や衛門三郎のように宿泊する場所を心配する必要もなくなりました。


私の世代にとっては、伊予鉄の観光バスと言えばこの塗装ですよね。私が蒐集しているバスコレクションです。

1970年のジャンボジェット機(ボーイング747型機)の登場がそれまで一般庶民にとって高嶺の花であった航空旅行、特に海外旅行の大衆化を可能にした航空史に残る画期的な出来事だとよく言われますが、この昭和28(1953)に伊予鉄バスが始めた四国八十八ヶ所霊場巡拝ツアーバスも四国遍路の大衆化を可能にしたという点で、四国遍路にとって画期的な出来事だったのではないかと、私は思っています。これにより、それまで秘境と言われていた場所にある札所のすぐ近くまで観光バスが行けるように道路の整備が行われ、自家用車やオートバイ利用の“車遍路”も急増し、四国遍路は全国的に有名になり、現在では年間約 15万人〜20万人もの人々が四国遍路を行っておられます。また、最近はおそらく世界最長の巡礼路ではないかと話題になり、古くから巡礼の文化を持つ欧米の方々が、白衣(はくえ)に遍路笠、金剛杖などの遍路装束で遍路道を歩く姿を多く目にするようになりました。


私の松山市の実家からは第48番西林寺から第51番石手寺までの4ヶ所の札所がウォーキング範囲にあります。そのうちの1つ、48番札所の西林寺です。

48番西林寺から第49番浄土寺に向かう遍路道に立つ道標です。

49番札所の浄土寺です。


この伊予鉄バスが始めた四国八十八ヶ所霊場巡拝ツアーバスが残したものは、単に四国遍路の大衆化ということだけでなく、四国遍路に大きな“トレンド?”の変化をもたらしたということも挙げられようかと思います。その“トレンド”の変化とは巡拝(順拝)という概念の確立と浸透です。伊予鉄バスの場合、バスツアーの名称は『四国八十八ヶ所順拝バス』と、巡礼ではなく順拝という名称を用いています。初めた当初は巡拝という名称を用いていたそうなのですが、札所を順序だててお詣りしていくのだから順拝のほうがいいのではないかということになり、途中で“順拝”に変更し、それ以来、今もなおその伝統を受け継いでいるようです。

もともと“巡礼”も“巡拝”も、日常的な生活空間を一時的に離れて、宗教上の聖地や霊場、聖域、寺院に参詣礼拝し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動ということでは同じ意味の言葉でした。しかし、“巡礼”はより宗教色が強く、しかも、イスラム教のメッカやキリスト教のエルサレムといった聖地巡りのように、信仰対象が一仏、一尊、一神に限定された聖地、霊場巡りの意味合いが強いように思われます。これに対し、四国八十八ヶ所霊場の場合は、観音信仰だけに限らず、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、不動明王など各霊場(札所)の本尊はそれぞれ異なります。つまり、四国遍路の信仰対象は特定の一仏、一尊に限定されたものではないので、四国遍路の場合は巡拝とも呼ぶのが相応しいという解釈もできようかと思います。実際、各札所の寺院等で構成される四国八十八ヶ所霊場会では、巡拝に統一しているようです。ただ、すべて信仰対象となる弘法大師の足跡、所縁の霊場を巡る信仰の旅だという側面から捉えれば、巡礼と言うこともできようかと思います。


49番浄土寺から第50番繁多寺に向かう遍路道は墓地の中を突っ切って延びています。

50番札所の繁多寺です。


とは言え、かつては四国遍路において“巡礼”か“巡拝”かの区分は曖昧なところがありました。各札所(寺院)を参拝するという意味では巡拝ですし、その札所(寺院)を弘法大師や衛門三郎のように歩いて巡る旅というのは宗教的に修行の意味合いの強い巡礼と呼ぶべきものでしたから。それが明確に区分されるようになったのが戦後。道路網の整備とモータリゼーションの急速な進展、特に四国八十八ヶ所霊場巡拝ツアーバスの登場だったのではないかと私は分析しています。すなわち、88全ての札所を徒歩で巡拝する徒遍路の場合が巡礼。団体観光バスツアーや自家用車等を利用した“車遍路”の場合が“巡拝”という定義です。で、おそらく伊予鉄道が“巡拝”の絶対的な切り札として注目したのが「納経」という儀式。納経(御朱印)は、本来、各札所でご本尊さまとお大師さまにお経を読経や写経等により奉納し、ご縁を結ばせていただいた「しるし」にいただく神聖なものです。それが近年、スタンプラリー化しているような風潮さえ見て取れ、巡拝がどちらかと言えば観光や娯楽の意味合いが強くなってきているような印象を受けます(あくまでも、私個人の印象によるものですが…)。まぁ、四国遍路の大衆化により仕方がない部分も大きいのですが…。

 

……(その2)に続きます。


『四国遍路を世界遺産に(その2)

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