2023年6月4日日曜日

四国遍路を世界遺産に(その2)

 公開予定日2023/09/08

 

[晴れ時々ちょっと横道]第108 四国遍路を世界遺産に(その2)


【四国遍路の世界遺産登録に向けて】

前述のように、最近はおそらく世界最長の巡礼路ではないかということで話題になり、古くから巡礼の文化を持つ欧米の方々が、白衣(はくえ)に遍路笠、金剛杖などの遍路装束で遍路道を歩く姿を多く目にするようになりました。ニューヨーク・タイムズが選ぶ「2015年に行くべきベスト52の場所」の13番目に日本で唯一選ばれたのは「Shikoku(四国)」。その中では四国遍路が取り上げられ、写真には第45番札所の海岸山岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)の参道(遍路道)が使われていました。

 

45番札所の岩屋寺です。

岩屋寺に向かう遍路道(旧道)です。


昨年、その岩屋寺を訪ねた際に出会ったフランス人のお遍路さんご夫婦に、「なんで四国遍路のことを知ったのですか?」と尋ねたところ、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)への巡礼路を歩いている時に知り合った友人に、極東(Far East Asia)日本に世界で一番長い素晴らしい巡礼路(Camino)があると聞いたので、はるばるやって来た」(英語での会話だったので、そんな感じ)という答えが返ってきました。スペイン北西端のガリシア州にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)はバチカン、エルサレムと並ぶキリスト教(カトリック)の三大巡礼地の1つとされるところです。そのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路とは、フランス各地からピレネー山脈を越えてスペイン北部を通りサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路のことです。

このサンティアゴ・デ・コンポステーラの“サンティアゴ”とは、イエスの十二使徒の一人である聖ヤコブのスペイン語読み。ヤコブは、紀元44年、時のユダヤ王アグリッパに迫害され最期は斬首され、十二使徒中、最初の殉教者となり、聖ヤコブと呼ばれるようになりました。ヤコブを斬首したもののキリストの復活を知るアグリッパ王はヤコブの復活を恐れ、その地に遺骸を埋葬することを許しませんでした。聖ヤコブの死を悼んだ弟子のテオドロとアタナシオはその遺骸をこっそり小舟に乗せ風に行く先を任せた所、たどり着いたのはガリシアのパドロンの港、イリア・フラビア。弟子たちはその地に聖ヤコブの遺骸を埋葬しましたが、時の流れの中、いつしか聖ヤコブの亡骸は行方不明になり存在も忘れされたものになってしまいました。月日が流れ、813(814年という説もあります)、星の導きで聖ヤコブの墓が見つけられ、その場所にアストゥリアス王国(イベリア半島にかつて存在した王国)国王のアルフォンソ2世が教会を建て、カンポ(野原)とステーラ()を合わせた意味のコンポステーラという地名が付けられたと言われています。最初にコンポステーラを目指してサンティアゴ巡礼をしたのはアルフォンソ2世で、オビエドがその起点であったことから、オビエドからの道は今でもPrimitivo(プリミティボの道)と呼ばれて、特別視されています。10世紀後半からイスラム教を国教とするオスマン帝国の台頭などでエルサレム、ローマなどへの巡礼が困難になり、ヨーロッパの人々はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼に目を向けるようになりました。ヨーロッパ各国とスペインを結ぶ道はローマ帝国時代に築かれていたため、その道に沿う形で徐々に巡礼路が整備されていき、12世紀には年間50万人もの巡礼者がサンティアゴ・デ・コンポステーラの地を訪れたと伝えられています。今もサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼者の数は毎年30万人以上と言われています。

先ほどの岩屋寺で出会ったフランス人お遍路さんの回答の中に聞き慣れない“カミーノ(camino)”という単語が出てきたので、「caminoって何?」と訊くと、なんだオマエcaminoを知らないのか?って感じの顔をされて、「roadwayのことだよ」という答えが返ってきました。すぐにネットでcamino の語源を調べてみると、スペイン語で王の道(The Royal Road)とのこと。最初にコンポステーラを目指してサンティアゴ巡礼をしたアルフォンソ2世が辿った道ってことなのでしょう。そういう意味で、四国遍路における遍路道”と同じで、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼にあたっては辿るべき“特別な道”ってことなのでしょうね、きっと。

サンティアゴ・デ・コンポステーラに関しては、1985年にまず「サンティアゴ・デ・コンポステーラ旧市街」がUNESCO (ユネスコ:国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されました。次に、巡礼路のうちスペイン国内の道が、1993年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミオ・フランセスとスペイン北部巡礼路」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、さらに、フランスの巡礼路の一部と途上の主要建築物群についても、「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として1998年に別途世界文化遺産に登録されました。このように計3つが世界文化遺産に登録されています。


四国遍路の世界遺産登録の参考にするべく、熊野古道を訪れてきました。


“道”が世界文化遺産に登録されている例としては世界でもう1箇所あって、それが日本の紀伊半島にある熊野古道です。ここは2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。紀伊山地は三重県、奈良県、和歌山県をまたいでおり、最高峰は八経ヶ岳(はっきょうがたけ:標高1,915メートル)です。山岳仏教や熊野信仰、仏教や山岳仏教に加えて密教などが習合した修験道が栄えました。紀伊山地の霊場と参詣道はそれぞれ文化的景観として高く評価されています。参詣道が世界遺産として認定されたのは、巡礼道で知られる「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」関連の上記2件に続き3件目となりました。

四国の遍路道もサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路や熊野古道に劣らないほどの文化的価値と歴史を持ったもので、距離に関してはその両者をはるかに凌ぐ世界最長。しかも、キリスト教やイスラム教(聖地メッカへの巡礼が有名)の巡礼にみられるような最終目的地を目指す「往復型」の巡礼路と異なり、四国遍路は四国一円に展開する「回遊型」の長距離巡礼路であるという大きな特徴を持ちます。

そこで、この四国に根付く、世界に誇るべき文化遺産である「四国八十八箇所霊場と遍路道」を世界文化遺産に登録するべく、四国4県と関係市町村・関係団体は2006年度から世界遺産登録に向けた取組みを実施しています。200611月に、四国四県で文化庁に共同提案したのですが継続審査となり、200712月に、今度は四国四県と関係市町村(57市町村)が共同で再提案を行いました。この再提案は20089月の文化庁の文化審議会文化財分科会(世界文化遺産特別委員会)で審議され、「カテゴリー1a」の評価をいただき、提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきものと分類されました。また、このときに次の2つの課題を文化庁から出されました。1つ目は札所や遍路道を文化財として保護すること(資産の保護措値)で、もう1つは世界遺産にふさわしい価値の学術的証明(普遍的価値の証明)です。これを受けて、20103月には世界遺産暫定リスト入りを目指して、四国4県と関係市町村・関係団体が中心となった「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会が設立されています。

世界遺産の日本国内版とも言えるものに「日本遺産」があります。日本遺産は日本各地の複数の文化財で構成される歴史的及び文化的ストーリーを文化庁が認定するもので、その2015424日に行われた初回の認定18ヶ所の中に「四国遍路〜回遊型巡礼路と独自の巡礼文化〜」が選定されました。選定理由は「弘法大師空海ゆかりの霊場を巡る四国遍路は、四国を全周する全長1,400kmにも及ぶ壮大な回遊型巡礼路であり、1200年を超えて発展継承され、今なお人々により継続的に行われている。地域住民の温かい“お接待”を受けながら、国籍や宗教・宗派を超えて行われる四国遍路は世界でも類を見ない巡礼文化である」というもの。この日本遺産への認定を契機に、「四国八十八箇所霊場と遍路道」も世界遺産登録に向けての機運が高まったようなところがあります。

愛媛大学でも法文学部と教育学部の教員の皆さんが中心となって2000年に「愛媛大学 四国遍路と世界の巡礼研究会」を結成し、これまで20年以上にわたって学際的共同研究を続けてきています。こうした四国遍路と世界の巡礼に関する長期にわたる研究活動を行っている組織はほかに類例がなく、全国で唯一の研究拠点となっています。そして、20154月には、四国遍路の歴史や現代の実態を解明するとともに国際比較研究を行うことを目的として法文学部附属の『四国遍路・世界の巡礼研究センター』が設立され、四国遍路の世界遺産登録に向けて文化庁から出された課題の1つ、世界遺産にふさわしい価値の学術的証明(普遍的価値の証明)の面で後押しとも言うべき研究を行っています。

 

愛媛大学法文学部の建物内に『四国遍路・世界の巡礼研究センター』が置かれています。 

『四国遍路・世界の巡礼研究センター』の掲示板に平成28(2016)618日の愛媛新聞1面トップに掲載された記事の切り抜きが貼られていました。私はこれを目にして、横峰寺路を歩くことにしました。

「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会では、四国遍路の世界遺産登録に向けて文化庁から出されたもう1つの課題「札所や遍路道を文化財として保護すること(資産の保護措値)」を最大の課題であると認識されているようです。文化庁の文化審議会文化財分科会(世界文化遺産特別委員会)から指摘された課題は、正確には「構成資産の大半が文化財として保護されておらず、資産の範囲も広域に及ぶことから、文化財の指定・選定を含めた保護措置の改善・充実に向けた取組み等が不可欠」というものでした。このうちの「文化財としての保護」に関しては、「国指定の史跡」の選定という制度があります。「史跡」とは、日本の文化遺産保護制度において保護対象となる文化財の種類の一つである記念物の中で、貝塚、古墳、集落跡、城跡、旧宅などの“遺跡”に該当するものの中から、歴史上または学術上の価値が高いと認められ、将来にわたって継続した保護が必要であると判断されたもののことです。文化財保護法には、文部科学大臣、すなわち国が「史跡」および「特別史跡」の名称で指定することができると規定されています。また、地方公共団体においても、国の指定を受けていないものに対して、それぞれの条例に基づいて「○○県史跡」「○○町指定史跡」といった名称で指定を行っています。調べてみると、四国遍路に関する国指定の史跡としては2010年に徳島県内の遍路道(阿波遍路道)が指定されたのを皮切りに、現在42ヶ所が指定されています。その内訳は「遍路道:26ヶ所」、「境内:16ヶ寺」です。


【遍路道:26ヶ所】

1. 12番 焼山寺道 約4.3km (徳島県神山町)

2. 12番 焼山寺一宮道 約1.0km(徳島県神山町)

3. 18番 恩山寺道 約0.4km(徳島県小松島市)

4. 19番 立江寺道 約0.5km (徳島県小松島市)

5. 20番 鶴林寺道 約1.3km (徳島県勝浦町)

6. 21番 太龍寺道 約4.0km (徳島県勝浦町)

7. 21番 太龍寺かも道 約1.3km (徳島県阿南市)

8. 22番 平等寺いわや道 約2.7km (徳島県阿南市)

9. 22番 平等寺平等道 約1.3km (徳島県阿南市)

10. 31番 竹林寺道 約0.7km(高知県高知市)

11. 32番 禅師峰寺道 約0.3km(高知県高知市)

12. 36番 清龍寺道塚地峠 約1.6km (高知県土佐市)

13. 40番 観自在寺道 約1.5km(愛媛県愛南町)

14. 42番 佛木寺道 龍光寺西の尾根 約0.5km (愛媛県宇和島市)

15. 44番 大寶寺道 約0.8km(愛媛県西予市)

16. 44番 大寶寺道 約0.2km(愛媛県久万高原町)

17. 45番 岩屋寺道 約6.1km(愛媛県久万高原町)

18. 46番 浄瑠璃寺道 約1.2km (愛媛県久万高原町)

19. 60番 横峰寺道 湯浪休憩所~五丁石~頂上 約2.2km (愛媛県西条市)

20. 65番 三角寺奥之院道/別格13番札所仙龍寺 約3.8km (愛媛県四国中央市)

21. 八幡浜街道笠置峠越え 約1.6km(愛媛県八幡浜市・西予市)…九州方面からの巡礼者を四国遍路と結ぶ道

22. 八幡浜街道夜昼峠越え 約1.9km(愛媛県八幡浜市・大洲市)…九州方面からの巡礼者を四国遍路と結ぶ道

23. 66番 雲辺寺道 約2.2km (徳島県三好市)

24. 72番 曼荼羅寺道 約0.9km (香川県善通寺市・三豊市)

25. 82番 根香寺道 約2.3km (香川県坂出市・高松市)

26. 88番 大窪寺道 約1.5km(香川県さぬき市)      

……延長距離は約46.1km

 

【境内:16ヶ寺】

1. 4番 大日寺境内(徳島県板野町)

2. 5番 地蔵寺境内(徳島県板野町)

3. 14番 常楽寺境内(徳島県徳島市)

4. 20番 鶴林寺境内 (徳島県勝浦町)

5. 21番 太龍寺境内 (徳島県阿南市)

6. 22番 平等寺境内(徳島県阿南市)

7. 36番 清龍寺境内(高知県土佐市)

8. 稲荷神社境内及び第41番 龍光寺境内 (愛媛県宇和島市)

9. 43番 明石寺境内(愛媛県西予市)

10. 44番 大寶寺境内(愛媛県久万高原町)

11. 45番 岩屋寺境内(愛媛県久万高原町)

12. 46番 浄瑠璃寺境内(愛媛県松山市)

13. 49番 浄土寺境内(愛媛県松山市)

14. 60番 横峰寺境内 (愛媛県西条市)

15. 75番 善通寺境内 (香川県善通寺市)

16. 86番 志度寺境内(香川県さぬき市)


なかでも、20166月に指定された愛媛県内の2つの遍路道、第42番 佛木寺(ぶつもくじ)道と第60番 横峰寺(よこみねじ)道について、国の文化審議会は「いずれも遺存状況が良好で、伊予における遍路道の実態を考える上で重要」と評価したとされています。私は愛媛大学の『四国遍路・世界の巡礼研究センター』を訪ねた際にこの四国遍路に関する国指定の史跡の存在を知り、四国遍路の世界遺産登録について考えるにあたっては、まずこの国の史跡に指定されている遍路道を歩いてみるのが手っ取り早かろうと思い、第60番 横峰寺道を歩いてみることにしました。横峰寺に関しては境内も国の史跡に指定されておりますし。

 

【第60番 横峰寺道】

横峰寺道は、第59番札所 国分寺(今治市国分4丁目)から第60番札所 横峰寺(西条市小松町石鎚)に至る区間の遍路道で、国の史跡に指定されているのは横峰寺北西の「湯浪(ゆうなみ)休憩所」付近から「五丁石」を経て頂上にある境内までの山道約2,200メートルの区間です。道際には舟形や角柱形の丁石とともに「文化12(1815)」や「文政2(1819)」と刻まれた江戸時代の遍路墓(病気や事故により遍路の途中で亡くなった方の墓)も残っています。でも、お遍路初心者にしては選んだ道がキツすぎました。この横峰寺道、四国遍路一番の難所と言われるところで、標高約270メートルの湯浪休憩所から標高約760メートルの横峰寺への標高差約500メートルを距離約2.2kmの急な山道で登る、平均勾配約230‰(パーミル)、平均斜度約13度。これはもう巡礼というよりも登山。修行そのものといった感じの遍路道なのです。正直めちゃめちゃキツかったです。実際、この遍路道、霊山である西日本最高峰・石鎚山の登山道の1つになっています。僅か2.2kmの道を、登り約2時間、下りでも1時間15分ほどもかかってしまいました。四国遍路一番の難所と言われるわけが、よぉ〜く分かりました。この横峰寺道は中央構造線が作り上げた断層崖を登っているってことのようです。しかも、このあたりは中央構造線のすぐ南側に位置する三波川変成帯なので、結晶片岩の一種である緑色片岩の塊があちこちにゴロゴロと露呈しています。遍路道ではなく登山道の分類で考えてみても、かなりワイルドな部類に入りそうな登山道です。また路面もほとんどが緑色片岩。濃い緑色をした緑色片岩の上にコケ()が生えて、周囲は緑色の幻想的な雰囲気の世界です。


国の史跡に指定されている第60番札所横峰寺に向かう遍路道(横峰寺道)です。昔からの遍路道が今も残っています。

東温市と西条市の境にある峠・桜三里付近を源流として瀬戸内海に注ぐ二級河川・中山川の支流・妙谷川の源流が渓流になって遍路道のすぐ横を流れています。渓流の音が気持ちいいです。流れている水は透き通っています。

岩が露呈しています。ちょっとワイルドな道になってきました。

このあたりは中央構造線のすぐ南側に位置する三波川変成帯なので、一面緑色片岩で覆われています。路面も緑色片岩。濃い緑色をした緑色片岩の上にコケ()が生えて、周囲は緑色の幻想的な世界です。

横峰寺道には、横峰寺までの距離を示す丁石が幾つも置かれています。横峰寺道の丁石はその名のとおりほぼ1(109メートル)ごとに立てられていて、残りの距離が分かるので、歩いていて励みになります。

しかし、木々の中を行く遍路道、実に味わいがあって、素晴らしかったです。この横峰寺道を歩く1ヶ月前に、既に世界遺産に登録されている熊野古道も訪れてみましたが、熊野古道と比べてもまったく劣ってはいません。むしろ歩きがキツい分、修行の道としては、この横峰寺道のほうが格が数段上かもしれないと私は思いました。なので、横峰寺道に限って言えば、世界遺産に登録できるポテンシャルは十分にありそうです。横峰寺は白雉2(西暦651)に役小角(役行者)によって創建された寺院であると伝えられていて、それから1,300年以上、キツい山道ではありますが、四国遍路が始まる以前から何十万人、いや、もしかしたら四国遍路加えると何百万人もの人が修行のために歩いた道だけに、霊験あらたか…って感じでした。私も登っている途中に思うところがいっぱいありました。

横峰寺の山門が唐突に見えてきました。登り初めて約2時間(あまりに急な山道で途中何度も休んだので)、達成感がハンパないです。前述のように、ここまで登ってくる途中で思うところがいっぱいあったのですが、この山門が唐突に見えた瞬間にハンパない達成感とともに思ったことは、「途中どんなにキツくても、投げ出すようなことはせず、前を向いて一歩一歩進んでいけば、必ずゴールに辿り着ける!」ということです。言葉にすると当たり前のように思えることですが、それを骨身に沁みて、改めて実感することができました。これが、悟りを開くためにこの遍路道(横峰寺道)で学ぶ一番の修行ってことなんでしょうね。


横峰寺の山門が見えてきました。登り初めて約2時間。ついに辿り着きました。達成感がハンパないです。ここまでの遍路道で悟ったこと、「途中どんなにキツくとも、一歩一歩前へ進んでいけば、必ずゴールに辿り着ける!」


【第60番札所 石鎚山横峰寺】

西日本最高峰である石鎚山(標高1,982メートル)は、古くから山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもありました。弘法大師が24歳の若い頃に書いたとされる著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食) 轗軻(苦行練行)たり」と、この山中で修行した時の様子を記しています。

四国八十八ケ所霊場第60番札所 石鎚山横峰寺は真言宗御室派の寺院で、石鎚山岳信仰にも深く関わりを持つ霊場です。その創建については明確な史料を欠いていますが、一説によると白雉2(西暦651)に修験道の開祖といわれる役小角(えんのおづぬ:役行者(えんのぎょうじゃ)とも)が横峰寺から西へ登山道をさらに600メートルほど登ったところにある石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたといわれており、その姿を石楠花(しゃくなげ)の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされています。また、延暦年間(782年〜806)には石仙仙人という行者がこの地に住んでおり、桓武天皇(在位781年〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられています。


横峰寺の境内です。横峰寺は石鎚山に近いところにあり、写真左手の急な斜面を登っていった先に石鎚山があります。


弘法大師がこの寺及び星ヶ森で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806年〜810)のこととされ、この時、やはり蔵王権現が現れたのを感得、堂の建物を整備して霊場としたとされています。横峰寺に所蔵されている金銅蔵王権現御正体(みしょうたい:愛媛県指定有形文化財)は鍍金銅製で、平安時代末期頃に製作されたものと推定されており、その頃までには石鎚山を信仰の対象とする山岳信仰の霊場として成立していた可能性が高いとされています。また、弘法大師が役小角(役行者)に倣って石楠花の木に刻んだとされる大日如来坐像が本尊として安置されています。以来、神仏習合の別当寺として栄えてきたのですが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は一度廃寺となったのですが、明治42(1909)になって、檀信徒の協力によりようやく復興され、今日に至っています。また、星ヶ森は今でも石鎚山の西の遥拝所となっています。


「右 大頭道(おおとみち)」「左 石鎚山道」と刻まれています。登ってきた遍路道は石鎚山の登山道の一つです。どうりでキツイはずです。

石鎚山横峰寺は、愛媛県西条市小松町石鎚にあり、境内は石鎚山系の山々の北側中腹(標高約760メートル)にあります。四国霊場八十八ヶ所の札所のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所と言われてきました。また四国遍路における3番目の「関所」でもあります。関所とは、悪いことをした人、邪神を持っている人は、弘法大師のお咎めを受けて、ここから先へは進めなくなるとされている場所のことで、四国遍路の中では次の4ヶ寺が、その関所とされています。第19番札所 橋池山立江寺(徳島県)、第27番札所 竹林山神峰寺(高知県)、第60番札所 石鎚山横峰寺(愛媛県)、第66番札所 雲辺寺山雲辺寺(香川県)

元々は横峰寺に向かう道としては私が登ってきた遍路道(登山道)である横峰寺道と、横峰寺から第61番札所の香園寺へ下る遍路道の2本の道路しかなかったのですが、昭和59(1984)にその第61番札所の香園寺へ下る比較的勾配がなだらかな遍路道に沿うように愛媛県道12号西条久万線から分岐する林道が完成して、現在は境内から約500メートル離れた林道の駐車場まで車で来ることができ、容易に参拝ができるようになりました (ただし、林道区間は冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となり、また大型観光バスは通年で通行ができません)。したがって、昔からの遍路道のまま残っているのは横峰寺道のほうだけです。

私はここまで湯浪休憩所から急な横峰寺道(遍路道)を登ってきたのですが、途中、1人のお遍路さんとも行き合いませんでした。途中で出会ったのは野生のサル()とコロコロと太ったタヌキ()だけでした。残された足跡も1人か2人のものだけで、今ではほとんどのお遍路さんがこの国の史跡に指定されている歴史ある遍路道を利用していないようです。しかし、寺の境内まで登ってくるとお遍路さんの姿が何人もいました。皆さんお遍路装束がまったく乱れておりません。私は半袖ポロシャツ姿だったのですが、ここまで登ってきただけで、汗でグチャグチャドロドロの状態です。皆さん、観光バスか自家用車で林道の駐車場まで来られて、そこから大師堂の脇までの約500メートルの道を歩いて登ってこられたんですね。その道は舗装された比較的なだらかな道になっています。近くにあんなに素晴らしい国の史跡に指定された遍路道があると言うのに、もったいないっ! 繰り返しになりますが、この駐車場に続く大師堂脇の道は次の第61番札所の香園寺へ続く遍路道でもあります。ということは、私がくぐった横峰寺の山門はほとんどの方が通らないままということを意味します。実際、納経所からさほど離れていないにもかかわらず、山門を見に来たお遍路さんは皆無でした。それももったいない! 山門から遍路道を見るだけでも、思うところはいっぱいあるはずです。国の史跡に指定されている遍路道なのですから。


61番札所の香園寺へは大師堂脇の道を下っていきます。また、この道を進むと駐車場があり、その先は林道と県道が通っています。なので、第61番札所までは舗装された道路です。 

実は横峰寺までの遍路道を登ってくる途中で、こういうものを見かけました。小さな聖母マリア像です。どう見ても欧米人のキリスト教徒のお遍路さんが置いていかれたもので、どうも欧米人のお遍路さんのほうがこの遍路道を歩く割合は多いようです。


横峰寺への遍路道(横峰寺道)の途中で、聖母マリア像が置かれているのを見かけました。どう見ても欧米人のお遍路さんが置いていったもので、欧米人のお遍路さんのほうがこの遍路道を歩かれるようです。 

くわえて、横峰寺の本堂脇に次のような案内看板が掲げられていました。見る人が見たら、いろいろなことが読み取れる案内看板です。上記の欧米人のキリスト教徒のお遍路さんが置いていかれたと思われる聖母マリア像と合わせて考えてみると、“巡礼”と“巡拝(順拝)”の違いが四国遍路の世界遺産登録において、どうも混乱を招いているように思えてきます。すなわち、多くの日本人お遍路さんがやっているのは巡拝(順拝)。いっぽう、欧米人が求めているのは巡礼。キリスト教もイスラム教も一神教の宗教なので、欧米人遍路の場合には信仰対象である一仏、一尊、一神の辿った道を追体験として歩く“巡礼”が主に求められているように思われます。前述の岩屋寺で出会ったフランス人のお遍路さんご夫婦も、「日本に世界で一番長い素晴らしい巡礼路があると聞いたので、はるばるやって来た」と言っていましたし。彼等の大多数は残念ながら弘法大師をはじめとした四国遍路の宗教的なことにはほとんど興味はなくて、ただ単純に巡礼路を歩くことのほうだけが主たる目的で来日されている傾向のようです。

日本遺産ではなく世界遺産への登録を目指すのであれば、申し訳ないけれど、基本的に多神教である日本人の独自文化をベースとして考えるのではなく、世界で多数派を占める一神教の考え方をベースとした評価基準で考えて申請したほうが受け入れられやすいのではないか…と思われます。すなわち、我々が慣れ親しんでいる“巡拝(順拝)”ではなく、純粋に巡礼の視点で捉え直して検討してみる必要があるのではないか…ということです。

 

横峰寺の本堂脇にかかっていた案内板。見る人が見たら、いろいろなことが読み取れる納経所の案内看板です。


……(その3)に続きます。


『四国遍路を世界遺産に(その3)

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