2023年5月5日金曜日

鉄分補給シリーズ(その8)今治市営せきぜん渡船②

 公開日2023/05/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第104回 鉄分補給シリーズ(その8)今治市営せきぜん渡船②


前回の最後は岡村島から安芸灘とびしま海道の3つの小さな橋を渡って広島県の大崎下島にまで来ました。②ではレーモンド松屋さんの『安芸灘の風』の2番の歌詞に登場する岡村島の隣島、大崎下島を歩き、歌詞に登場する順に写真付きで解説していきます。

まずはしつこくレーモンド松屋さんの歌う『安芸灘の風』をお聴きください。

https://youtu.be/DoQO4RDiRgQ 『安芸灘の風』ユニバーサル ミュージックジャパン公式YouTube


【御手洗の古い街並み】……瀬戸内海では1日に2回の海面の干満があり、東側の紀伊水道と西側の豊後水道の間で干満時間の微妙な差があることから、6時間毎に潮流の向きが逆転します。しかも、多島海・瀬戸内海では島と島の間の狭い海峡をその潮が流れるため、来島海峡をはじめ場所によっては10ノットを超えるような速い潮流が発生します。瀬戸内海はは穏やかですが、この潮流が問題なのです。エンジンの付いた船ばかりの現代でもこの潮流によって航路を変えたり潮待ちをする船がいるくらいなので、昔はなおさらでした。逆潮を避けるために、また潮に乗る(順潮)ために潮待ちの停泊が必要でした。

また、江戸時代に入り、大きな木綿帆が使われるようになると、船の帆走能力が一気に高まりました。それによって、多少の逆潮でも風さえよければ航海することが可能となり、潮流の比較的穏やかな沖合を一気に駆け抜ける航路が新しく開発されました。それが“沖乗り航路”です(それまでの瀬戸内海航路は船や帆が小さかったため、本州の陸地沿いを進む地乗り航路が主流でした)。それでも当時の海運は、風向きや潮の流れに大きく左右されたため、順風や順潮になるのを待つ必要がありました。岡村島と隣の大崎下島は隣接する島との関係で比較的潮流が緩やかな場所であったことから、江戸時代中期には岡村島の岡村港や大崎下島の御手洗港などは、沖乗り航路のための風待ち、潮待ちの港として整備され、大いに栄えました。

『安芸灘の風』の2番の歌詞に出てくる「御手洗(みたらい)」。ここは風待ち潮待ちの港町で、瀬戸内海のほぼ中央に位置していることから江戸時代中期以降、中継貿易港として人が集い、物が集まり、文化が育ちました。御手洗にはその栄華の跡が今も残っていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

「御手洗」と書いて「みたらい」と読む。私は今治が本籍地で、子供の頃から船も好きだったので、極々自然に読めていましたが、ふつうの人は「おてあらい」と読んでしまうでしょうね。難読地名と言えますね。御手洗という地名の由来は幾つかの伝承があるようです。

・神功皇后が三韓征伐の際にこの地で手を洗ったという伝承。

・菅原道真が大宰府に左遷された時、この地に船を着け天神山の麓で手を洗い口をすすぎお祈りしたという伝承。

・平清盛が上洛の時にこの地付近で嵐に遭遇した。清盛は手を洗い観音様に手を合わせたところ風波が止んだので、のちに清盛はこれを感謝し、草庵を立て行基作の十一面観音を安置し、この地を御手洗と命名したという伝承。

いずれにせよ、偉い人が絡んだ地名ということのようです。

御手洗には江戸時代にタイムスリップしたかのような古い町並みが今も残っています。


おやっ!?「越智医院」、明治時代の病院の跡で、看板の表記は右からの横書きです。大崎下島も昔は村上水軍の本拠地の一つだったところで、広島県といっても意外と「越智姓」が多いところです。現在は病院ではなく、お洒落なカフェになっています。

この大崎下島の御手洗は、西島秀俊さん主演の映画『ドライブ・マイ・カー』のロケ地の1つだったんですね。西島秀俊さんのファンの方にとって、ここ御手洗は聖地です。是非お越しください。

北前船の寄港地として日本遺産にも登録されているんですね。

その御手洗港の今です。定期航路もなくなり、すっかり寂れてしまっています。

日本遺産にも指定されている船主集落の建物です。歴史を感じさせる倉付きの立派な家です。

ここは江戸時代の船宿です。伊予国の大洲藩、宇和島藩が参勤交代等の際の船宿として使用していたところです。現在はカフェになっていて、ここで昼食をいただきました。

昼食をいただいた船宿の内部です。目の前に海が見えて、雰囲気がいいところです。


【大長港(おおちょうみなと)……大崎下島の中心部は、この大長(おおちょう)から小長(おちょう)にかけてです。大崎下島は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、風待ち潮待ちに適した天然の良港だったのですが、江戸時代に入って船舶が大型化され沖乗り航路が整備されると、島の南側を通る沖乗り航路からは距離があるため、約1km南側の岡村島との間の海峡の入り口にあたる御手洗に新たな港が整備され、御手洗のほうに繁栄が移りました。

大長港の建物の中です。大長港は隣接する小長港(おちょうこう)と合わせて、愛媛県の今治港と広島県の竹原港や三原港を結ぶフェリーや高速船の寄港地でした。しまなみ海道の開通によりそれら芸予航路がいっせいに廃止され、一気に寂れてしまいました。芸予航路で賑わった昭和の繁栄の跡が、今も残っています。

待合室です。幾つもの切符売り場が並んでいます。大崎下島は広島県ですが、待合室のベンチや周囲の壁に掲げられた看板には今治市の商店や病院の名前が多く見られ、今治市との繋がりを感じさせます。

現在、大長港からは竹原港行きの「しまなみ海運」の高速船が16往復運航されているだけです。時刻表を見ると、その高速船の寄港地にめばる一貫目といった気になる地名が並んでいます。漁業が盛んなところだったんでしょうね。

その竹原港行きのしまなみ海運の高速船が入港してきました。大崎下島の広島県側の対岸は竹原市。安芸灘とびしま海道が開通したと言っても、安芸灘とびしま海道の先は呉市。竹原市へは船でショートカットするほうが早いので、この高速船の需要はそれなりにあるようです。

大長港の全貌です。

こちらは大長港(おおちょうこう)からすぐのところにある小長港(おちょうこう)。ちょうど中の瀬戸大橋を潜って、小長港と大崎上島の明石港を結ぶフェリーが入港してきました。小長港にもしまなみ海道開通以前の昭和の時代の芸予航路繁栄の跡が残っていました。仁方〜今治航路や竹原〜今治航路など、行き先名は出ているのですが、時刻のほうは真っ白に塗りつぶされています。かつてはここにビッシリと船の発時刻が書かれていました。

船体の両端にランプウェイがあり、前後どちらの方向に進むことができる“神中型”と呼ばれる小型フェリーで、広島県でよく見かけるタイプのフェリーです。愛媛県では松山の高浜港と興居島を結ぶフェリーがこのタイプです。

小長港にもしまなみ海道開通以前の昭和の時代の芸予航路繁栄の跡が残っていました。


【みかん船】…大崎下島も柑橘の産地として全国的に有名なところで、特に「大長みかん」は高級みかんとして有名なブランドみかんになっています。

 

大長港から小長港にかけての海岸沿いにはみかん搬出用の一時保管のための蔵が幾つも建ち並んでいます。かつてこの港はみかんの搬出で賑わったんでしょうね。

JAの建物の前で大長みかんの販売を行っています。広島市内から安芸灘とびしま海道をドライブがてらやって来て、みかんを買って帰る人が多いようです。

そのJAの柑橘倉庫も海に面しています。安芸灘とびしま海道開通前までは、ここに貨物船を横付けして、みかんを全国各地に運んでいっていたんでしょうね。

現代の「みかん船」、軽トラです。白い車体の軽トラには、黄色い柑橘搬送用のコンテナがよく似合います。

【高燈籠】…御手洗に戻って高燈籠です。御手洗は江戸時代に入って船舶が大型化され、瀬戸内海航路も沖乗り航路が使われるようになったことで整備された港です。御手洗の街づくりが始まったのは寛文6(1666)。千砂子波止(ちさごはと)と呼ばれる防波堤が作られたのが文政11年〜12(1828年〜1829)のことです。千砂子波止ができると、その突端に目印となる灯明台が必要となりました。当時の庄屋金子 (三笠屋) 忠佐衛門が木製のものを寄進しましたが、暴風雨のために破損してしまったため、天保3(1832)現在の石製のものに造り替えられました。もともとは15 (4.5メートル) で、灯火の届く距離が3 (12km) にも及んだといわれています。この高灯籠は、明治12(1879)頃まで灯されていたといいますが、明治17(1884)の大高潮で波止ごと崩れてしまったため、一部補修されて現在の場所に移転されています。「太平夜景」と立派に刻まれた篇字は、御手洗の俳人で私塾を開業していた榊屋周助 (彭城久右衛門) によるものです。

現在の千砂子波止には、この高灯籠の姿を模した灯台が建っています。台風19号で先代の灯台が倒壊したため平成4(1992)に再建されたもので、当時全国でも珍しかったデザイン灯台です。海峡を挟んだ対岸に見えるのは岡村島。その右端が最初に訪れた観音崎です。すぐ目と鼻の先に見えるのですが、観音崎からこの御手洗まで橋を3つ渡って、約8km歩いてきました。 

この千砂子波止に守られているため、御手洗の港内の海は穏やかです。この高燈籠の場所に立ってみると、視界の右と左で潮の流れがまるで違っていることがよく分かります。で、御手洗港を出港するとすぐに沖乗り航路に乗れます。

天保3(1832)に造られた初代の石製の高燈籠です。元々は千砂子波止の突端に設置されていたのですが、明治17(1884)の大高潮で波止ごと崩れてしまったため、一部補修されて現在の場所に移転されています。

海に向かって伸びているのが江戸時代に作られた防波堤「千砂子波止」です。千砂子波止の突端にはかつての高灯籠の姿を模した灯台が建っています。この灯台は平成4(1992)に再建されたもので、当時全国でも珍しかったデザイン灯台です。

そのデザイン灯台です。狭い海峡を挟んだ対岸は岡村島です。

千砂子波止の表面はこのあたりの島でよく採れた石灰岩で覆われています。その一つ一つに手作業で石を割った跡が残っています。

港の前に船宿も建っていて、ここが風待ち潮待ちで栄えた御手洗の港だったことが分かります。

高燈籠の向こうに見える岡村島の観音崎。さぁ、ここからまた岡村港まで約9kmの道を歩いて帰ります。次のフェリーが出港する1615分までには岡村港に帰り着かないといけません。

実は岡村港から御手洗までは歩きでの移動でした。ネットでは岡村島でレンタサイクルが借りられるような記事もあったので、それを期待して行ったようなところはあるのですが、岡村島にはレンタサイクルは常備されてなく、事前予約して安芸灘とびしま海道の一番西にある下蒲刈島から持って来てもらう必要があったようなのです。で、それならば…ということで、歩いて大崎下島の御手洗まで行ってみようとなったわけです。岡村港のせきぜん渡船の職員さんからは「遠いよぉ〜」って呆れられましたが…。岡村港から3つの橋を渡って大崎下島の御手洗までの距離は約9km。往復で約18km。速歩ウォーキングを日課としている者としては決して歩けない距離ではありません。途中、休憩を入れて片道約2時間と見積もったのですが、実際には1時間45分で到着することができました。

昼食時間を含めて御手洗には1時間15分滞在して、1330分に御手洗を出発しました。戻りも約2時間と見積もったので、これなら1615分発の今治港行きのフェリーに十分に間に合います。

レーモンド松屋さんの『安芸灘の風』の3番の歌詞の最初に登場する【下蒲刈】は下蒲刈島のこと。江戸時代、朝鮮通信使が来日した際に盛大な歓迎の宴を開いたとされる【あかりの館】は下蒲刈島にあります。【であいの岬】と砂浜が美しい海水浴場の【恋ヶ浜】は上蒲刈島。【十文字山】は豊島にある展望台のことです。『安芸灘の風』には下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島そして岡村島と、瀬戸内海国立公園内の安芸灘諸島各島にある景色のいいデートスポットの地名が幾つも続きます。安芸灘諸島の、そして岡村島のご当地ソングとしては完璧ですね。で、3番の歌詞に登場する下蒲刈島、上蒲刈島、豊島の3島はあまりに遠いので、行くのを断念しました。

ちなみに、3番の歌詞に出てくる【あび漁】のあびとは、北極圏やユーラシア大陸の北部で夏季に繁殖し、冬季に南下して日本にやって来る渡り鳥のことです。カラスよりちょっと大きなサイズの水鳥で、日本では北海道以南の海上に渡来するのですが、瀬戸内海、それも安芸灘一帯には特に多くのあびが渡来することで有名です。かつて、渡来するあびの数は数千羽にも及んだとも言われ、豊島の南の海域にある「あび渡来群游海面」は、国の天然記念物に指定されています。そういうことから、あびは広島県の県鳥に指定されています。この「あび漁」について、面白いので少し解説します。

 

【あび漁】…“あび”は動物性の生きものをいろいろ食しますが、日本では小魚を主食とし、特に瀬戸内海ではイカナゴを主食としています。越冬のため渡来してきたアビは、3月頃に羽が抜け替わる換羽(かんう)”をします。換羽で一時的に飛べなくなる時期には、あびは外敵から逃げられませんので、安全な場所、そして飛んで行かなくても餌が豊富にある場所がふだんより一層必要になります。言い換えれば、あびが換羽する海域では水面下に餌となるイカナゴが多くいるということです。このイカナゴを狙っているのはあびだけではありません。海の底のほうにはタイやスズキが潜んでいます。この“あび”の習性を利用してタイやスズキを一本釣りで漁獲する安芸灘諸島の漁師の間で古くから伝わる伝統漁法が「あび漁」です。イカナゴは北半球の寒帯域から温帯域の沿岸部に棲む小魚で、沿岸付近の粒径0.5mmから2.0mmの細かく綺麗な砂泥底に棲息し、主にプランクトンを餌としています。産卵期は冬(12)から翌年の春(5)の間で、水深10メートルから30メートル付近の砂底に、粘着質の卵を産卵します。また、基本的に北方系の魚であるため、瀬戸内海のような温暖な水域では、夏季に砂に潜って夏眠を行うという特徴を持ちます。安芸灘諸島付近の沿岸は前述の上蒲刈島の「恋ヶ浜」に代表されるように美しい砂浜が多く、まさにイカナゴの棲息に適したところと言えます。まさに1番の歌詞に出てくる揺籠のような海と言えます。

で、“あび”が越冬のために北極圏やユーラシア大陸北部のシベリアあたりから渡来してくるのがだいたい毎年1月の上旬。その頃はイカナゴの産卵期にあたり、安芸灘諸島沖の海面は大量のイカナゴが群れをなして泳いでいます。それを目指してあびも渡来してくるというわけです。さらに、この時期はその時期はタイやスズキの産卵期でもあり、前述のように安芸灘の海底の地形は凹凸が多く、産卵や稚魚の生育に適していることから海底には多くのタイやスズキといった大型の魚も集まってきます。すなわち、餌となるイカナゴを追って、空中からはあびが、海中からはタイやスズキが集まってくるというわけです。したがって、“あび”がイカナゴを食している場所には必ずタイやスズキがいるというわけです。天然の魚群探知器というわけですね。しかし、最近では安芸灘諸島近海の“あび漁”の漁場を通航する船舶が多くなってきたこともあり、神経質な“あび”の飛来する数が激減してきており、「あび漁」も衰退しています。また、「あび漁」は、“あび”を驚かせないために手漕ぎの船で行わなければならず、重労働であり、後継者がいないということも衰退の原因の1つになっていると言われています。魚群探知器も小型で高性能になっていますからね。


途中、足の裏にできたマメが潰れるというアクシデントはあったものの、1515分、行きと同じく1時間45分で岡村港に着くことができました。日頃の速歩ウォーキングの成果が出たのかなと思っちゃいました。次の今治港行きのフェリーは1615分発。まだ1時間あるので、何か冷たいものでも飲むかと思い、岡村港2階の食堂兼喫茶店の「ちょうちょ島館」に上がってみると、入り口のドアのところに、なんと「レーモンド松屋 しま事務所」の看板が!

 

岡村港2階の食堂兼喫茶店の「ちょうちょ島館」です。入り口のドアのところに、なんと「レーモンド松屋 しま事務所」の看板が!

恐る恐る店内に入るとレーモンド松屋さんのポスター、それもサイン入りのポスターが何枚も貼られています。訊くと、この「ちょうちょ島館」の館長(ご主人)の船越清忠さんは安芸灘とびしま海道の岡村大橋開通記念としてレーモンド松屋さんに安芸灘とびしま海道イメージソング、すなわち『安芸灘の風』の作詞・作曲・歌唱を依頼した張本人なんだそうです。なので、偶然に分かったことなのですが、まさにこの岡村港の2階にある「ちょうちょ島館」が名曲『安芸灘の風』の正真正銘の発祥の地だということです。船越館長に『安芸灘の風』制作に至った経緯や裏話などをいろいろとお聞きすることができ、フェリーの出発時刻までの1時間はあっという間に過ぎてしまいました。

「レーモンド松屋 しま事務所」らしく、「ちょうちょ島館」の店内にはレーモンド松屋さんのポスターがいたるところに貼られています。

ここに飾られているギターはレーモンド松屋さんが『安芸灘の風』でメジャーデビューを果たした時に使っていたギターで、このコラムでもご紹介した公式YouTubeチャンネルのプロモーションビデオの中でも演奏しているギターの実物です。

続きは次回来た時に…と、再び岡村島を来訪することを約束して岡村港1615分発の船で今治港に帰ることにしました。帰りに乗船した船は今治市営せきぜん渡船のフェリー「第二せきぜん」です。この「第二せきぜん」は2003年に就航した総トン数179トンの小型フェリーです。見かけの形状はかつて芸予諸島の島々を結ぶ離島航路でよく見られた「芸予型(片頭型とも)」と呼ばれる車両の乗下船を行うランプウェイが船首の1箇所だけに設けられたフェリーなのですが、ところがどっこい、この船って、なにげに凄いんです!

なにが凄いのかというと、日本の内航旅客船史上に燦然と輝く日本初の「三胴型フェリー」なのです。主船体の両舷側に補助船体を備えたトリマラン構造と呼ばれる三胴構造にすることで、車両甲板を広く取れ、造波抵抗の減少により経済的で揺れにも強いという利点があります。来島海峡の強い潮流の中で運航する必要があるために選択された画期的な構造のフェリーで、日本初。その後、同種のフェリーは建造されていないことから、日本唯一の形状を持ったフェリーなのです。行きに乗ったウォータージェット推進の高速船「とびしま」といい3胴型フェリーの「第二せきぜん」といい、さすがに世界に名の知れた海事都市・今治の市営フェリーです。

 

今治市営せきぜん渡船のフェリー「第二せきぜん」です。日本初の「三胴型フェリー」で、来島海峡の強い潮流の中で運航する必要があるために選択された画期的な構造のフェリーです。

それにしても、この日は随分と歩きました。岡村港〜御手洗の往復に加えてもろもろ歩き、距離にして約22km、歩数にして約31千歩。1日に歩いた距離・歩数だと過去最高だったのではないでしょうか。それも速歩で。額を擦ったらジャリジャリしているので、なんだろうと思ったのですが、塩の粒でした。ずっと潮風に当たったからでしょうね。さすがにメチャメチャ疲れましたし、そのダメージはその後数日間残ったほどなのですが、気分は最高でした。

 

【追記】

あまりに楽しかったので、自宅に帰ってこんなものを作ってみました。今回のウォーキングの最終目的地であった御手洗港防波堤灯台、すなわち御手洗の「高灯籠」の縮尺1/100のペーパークラフトです。モデルになっているのは、現在、千砂子波止の突端に立つ平成4(1992)に再建されたデザイン灯台です。このペーパークラフトキットは公益社団法人 燈光会のホームページよりダウンロードさせていただきました。



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