2019年11月26日火曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その10)

下社春宮を後にして上社に回ります。諏訪大社は諏訪湖を挟むように、諏訪湖南岸に上社、諏訪湖北岸に下社があり、遠く離れているため、実質的には別の神社となっています。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はありません。さらに上社には前宮と本宮があります。その中でも前宮は、諏訪大明神、すなわち建御名方神 (たけみなかたのかみ)が最初に居を構えた地として有名です。まずはその上社前宮を訪れました。
諏訪大社上社の前宮は、本宮から東方面に約2km離れたところにあり、旧鎌倉街道に沿った国道152号線の途中の山の手にあります。諏訪大社といったら、上社の本宮や下社の春宮・秋宮のイメージが強いのですが、前述のように、諏訪大明神(建御名方神)が最初に居を構えたのがこの上社の前宮付近、国道152号線から入って一段と高くなったところで、この一帯は「神原(ごうばら)」と呼ばれていて、かつては祭事の中心地でもありました。従って、諏訪大社のはじまり、諏訪信仰発祥の地といったら「上社の前宮」と言っても過言ではないところで、前宮は本宮に対し、それより“前にあった宮”の意味とも考えられているのだそうです。上社前宮は、本宮や下社の春宮・秋宮に比べると参拝者がそれほど多くなく、静かで荘厳な雰囲気が漂っています。本殿は石畳を登って行きますが、「こちらが諏訪大明神が最初に居を構えた地なのか!」と思うと、感慨深いものがあります。
前宮の本殿は、前述のように諏訪大明神(建御名方神)が最初に居を構えた地であり、その居館は「神殿(ごうどの)」と尊称され、諏訪信仰発祥の地です。本殿は昭和7(1932)に伊勢神宮の古材をつかって建てられたものです。
諏訪大社というと御柱が有名ですが、この前宮もご神域の四隅には、千数百年の歴史をもつ御柱が数えで7年ごと(6年に1)に建て替えられて立っています。諏訪大社の4社いずれも御柱を見ることはできますが、4本すべての御柱を触れてまわれるのは、この上社の前宮だけです。
上社前宮の「四之御柱」付近には、御手洗川上流の山の中から湧き出した「水眼(すいが)」の清流が流れています。前宮のご神域を流れる清流のことを水眼(すいが)”と呼び、古くからご神水として大切にされてきたのだそうです。中世においては、前宮の重要神事の際にこの川で心身を清めたと記録されているのだそうです。
なお、前宮には、内御玉殿(うちみたまでん)、十間廊、鶏冠社、若御子社(わかみこしゃ)といった見どころもあるそうなのですが、時間の関係でパスさせていただきました。

続いて上社の本宮を訪れました。こちらが上社本宮への参道です。広々とした参道で、脇には土産物屋さんも並んでいます。本宮には、北参道、東参道、西参道の三本の参道があり、こちらが北参道で、一番大きな参道となります。
上社本宮は赤石山脈北端に位置する守屋山北麓に鎮座する神社で、その社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されています。ちなみに、この守屋山は古来から上社の神体山とされています。かつては本宮を主として上諏訪一帯の中心地であったのですが、近世以後は中心地は北方の高島城城下町のほうに移り、そちらに甲州街道の上諏訪宿も設けられました。この上社本宮も幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式の神社で、徳川家康が造営寄進したと伝えられる四脚門など貴重な建造物が数多く残っており、そのうちの16棟の社殿群は国の重要文化財に指定されています。

諏訪大社4社のうちの1社なので、社殿の四隅に御柱と呼ばれる大木が建ち、幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等、社殿の配置にも独特の形を備えています。 中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も4社の中で一番多く残っています。また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されています。

境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う2棟の茅葺きの建物があります。本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。軒からはどんなに晴天の日でも最低3粒は水滴が落ちるといわれ、諏訪の七不思議の1つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。

本宮の昔の建物は極彩色が施されておりましたが、天正10(1582)に織田信長の兵火のため、山中に逃れた神輿の他はすべて焼失してしまいました。この時まず仮殿が作られ、順次再建されていったのですが、社殿は元和3(1617)に完成しました。その後約200年を経て高島藩主諏訪家により社殿の改築が計画され、諏訪立川流の立川和四郎2代目富昌が上社棟梁となり、天保2年から9(1838)までの8年の歳月を要して、現在の社殿が落成しました。この社殿は立川流の代表的建築物と言われています。なお、旧殿の拝殿は嘉永2(1849)に郡内の富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定されています。

本宮最古の建物は四脚門で、慶長13(1608)に徳川家康が家臣の大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。

神楽殿は文政10(1827)に建立されたもので、色々な神楽が連日行なわれていたようですが、残念なことにその神楽は現在絶えています。

北参道にある正面鳥居です。後ろには深い緑が広がっています。この正面鳥居は平成15(2003)に造営された比較的新しいものです。この鳥居のある北参道は第二次世界大戦中に開設されたものです。一礼して鳥居をくぐります。
明神湯です。温泉の出る手水で、諏訪の温泉の源泉とされています。無色透明のアルカリ性で、温度は約60℃。飲める温泉として平成23(2011)に認可されました。
社殿の前に御柱が立っています。これは4本の御柱のうちの一の御柱です。上社の御柱では一番大きな柱になります。本宮一の御柱の後ろには「御沓石(おくついし)」と呼ばれる石があり、その脇には「天逆鉾(あめのさかほこ)」が突き刺さっています。
御柱の右手、鳥居を背にして正面には石段が延びていて、そこを上がると拝殿があります。鳥居を背にして左手にも道が延びています。

その御柱の前に雷電爲右エ門(らいでん ためえもん)の銅像が立っています。雷電為右衛門は江戸時代の力士で、254102分という通算成績を誇り、大相撲史上最強の力士と言われています。身長197cm、体重170kgもあったといわれていて、今見ても巨人のような体格です。ちなみに、この銅像のモデルは昭和の時代の名横綱・柏戸、佐田の山、富士錦の3人だそうですが、この誰よりも大きい体格です。雷電の出身地は信濃国大石村(現在の東御市)だそうで、当地と直接の繋がりはないようなのですが、諏訪大社の祭神は相撲と関連があるらしいので、まったく無関係でもないようです。現在でも神事として奉納相撲が行われているそうです。
雷電為右衛門の銅像の後ろには清祓池があります。池の中央には2羽の鶴がいます。後ろには奉納された酒樽も見えます。

雷電為右衛門の銅像の前に境内案内図が立っています。それによると、正式な参拝の順路はここから左手の道をぐるっと回り、二の御柱が立つところにある入口御門から入るようです。真っ直ぐに石段を上がるとすぐに拝殿なのですが、その正式な順路に従って進みます。
境内案内図の近くには、諏訪大社のご由緒書きがあります。
文政10(1827)造営された神楽殿(国の重要文化財)です。殿内に神楽殿建立と同時に奉納された大太鼓があります。この大太鼓は一枚皮が使われ、一枚皮では日本一のものとのことです。また、この大太鼓は元旦の朝にのみ打つことになっているのだそうです。
国の重要文化財に指定されている天流水舎(てんりゅうすいしゃ)と呼ばれる建物です。
神楽殿の横に奉納相撲が行われる土俵があります。
安永2(1773)に造営された五間廊で、国の重要文化財に指定されています。
元禄3(1690)に造営された勅使殿で、これも国の重要文化財に指定されています。この勅使殿では数々の神事が行われました。
たくさんの木が茂る参道を進みます。樹齢約1,000年と言われる大欅(ケヤキ)の巨木が立っています。境内でも最古の樹木の1つだそうです。
二の御柱と入口御門です。入口御門は文政12(1829)に造営されたもので、これも国の重要文化財に指定されています。
ここから木々の向こうに三の御柱が見えます。
南東方に立つ南鳥居(二之鳥居)です。こちらが東参道になります。前には御手洗川があり、橋が架けられています。かつてはこの鳥居が本宮の正門とされていました。
南鳥居から入口御門を見たところです。
入口御門から続く布橋と呼ばれる回廊です。古くは大祝のみが渡り、布が敷かれたのだそうです。この布橋も国の重要文化財に指定されています。
布橋に隣接する絵馬堂です。堂内には全国から寄進された絵馬や額が飾られています。かなり古いのではないかと思われるものばかりです。夥しい数の絵馬に混じって御柱祭で使ったメド梃子が架けられています。この絵馬堂は国の重要文化財の附指定を受けています。
摂社の大国主社です。諏訪大明神(建御名方神)の御父神の大国主命を祀る神社で、古事記によると、建御名方神は大国主命の第二子と記されています。
四脚門です。前述のように、この四脚門は、慶長13(1608)、徳川家康が大久保長安に命じて建立させたもので、本宮最古の建物です。もちろん国の重要文化財に指定されています。現在は重要な祭事においてのみ開かれるのだそうです。
四脚門の向こう側には本宮の拝殿が見えます。この門のちょうどまっすぐ先に、神様が降りて来たと言う「硯石(すずりいし)」があるそうなのですが、ここからは四脚門に隠れて見ることができません。また、四脚門の左右には東西の御宝殿があります。東御宝殿と西御宝殿は、ちょうど境内の真ん中に位置していて、御柱祭が行われる寅年と申年ごとに、交互に建て替えが行われる社殿です。このうち東後宝殿(写真では左側)からは必ず日に3滴雫が落ちるといわれています(諏訪大社七不思議の1つ)。

拝殿へと続く塀重門を抜けて参拝所に進みます。本宮は境内の造りがかなり変わっています。塀重門をくぐると、正面が宝物殿、右手が授与所、左手が参拝所で、その先に拝殿があります。本宮はこの場所で参道が横を向いている(そっぽを向いている)ことから「大きく願いごとをしなければ聞いてくれない」とも言われているそうです。
参拝所は拝殿から斎庭を隔てて位置しています。これ以上先には進めません。

右手にあるのが勅願殿(祈祷所)です。元禄3(1690)に建立された建物で、神体山である守屋山に向かって祈願するための建物と言われているのですが、元々は拝殿に向いていたという説もあるのだそうです。
拝殿です。拝殿の後ろには幣殿、左右には片拝殿が続く「諏訪造」と呼ばれる独自配置で、いずれも国の重要文化財に指定されています。
ここから四の御柱が見えます。後ろは深い緑に覆われています。勅願殿の後方は、落葉樹の自然林として、長野県の天然記念物にもなっている森です。
写真左は上社に伝わる宝物が保管・展示されている上社宝物殿、その右手が待合所と参集殿です。
塀重門の外には高島神社があります。この高島神社に祀られている祭神は諏訪氏中興の祖と言われる諏訪頼忠、頼水(高島藩初代藩主)、忠恒(同第2代藩主)の親子3代です。
上社本宮を後にして、諏訪湖畔を通り、この日の昼食会場である下諏訪町の下社春宮近くにある食祭館に向かいます。諏訪湖が間近に見えます。
これはカリン(花梨)ですね。湖畔に何本も植えられています。ちょうど実がなっているところのようで、袋が被せられています。
昼食後、観光バスの出発時間まで足湯「神の湯 和楽」で街道歩きで疲れた足をほぐしました。諏訪大社下社秋宮の手を清める手水もこんこんと湧き出る温泉だったように、ここ下諏訪は古くから「神の湯」として親しまれてきた温泉場でした。「神の湯」の名のとおり、下諏訪温泉には、次のような神話に彩られた由来があります。
「諏訪大社御祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)の妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、諏訪大社上社から下社へお渡りになる際に上社に湧き出る湯を綿に含んだ湯玉をお持ちになり、下社前へ供えるとそこから湯が湧き出し、それが下諏訪温泉の始まりと伝えられ(湯玉伝説)ています。湧き出した場所が下諏訪温泉で、その神話に基づいて「綿の湯」と名付けられました。」……とのことです。神代の時代に遡るのですね。現在、下諏訪温泉の源泉は25ヶ所あり、総湧湯量は毎分5100リットル。共同浴場が10ヶ所と、ここ「神の湯 和楽」を含め、足湯が5ヶ所あります。泉温は50℃以上。足をつけると、ちょっとどころか、かなり熱いです。

足湯に浸かりながら、ご一緒してきた人達と江戸の日本橋を出発してから19ヶ月、16回に渡る『甲州街道歩き』のことを振り返って、あれこれお話しさせていただきました。

とうとう終了しちゃいました。前述のように、シリーズとしての街道歩きはしばらくお休みです。う〜〜〜ん………、ティアラロスに続いて、今度は『街道ロス』にしばらく陥りそうです。


――――――――〔完結〕――――――――

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