2019年11月21日木曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その5)

しばらく歩いた先の幼稚園の園庭にある「吉田の松」です。樹齢260年のクロマツで、高島藩士 吉田式部左衛門が大坂城守備の任務を終えた折に持ち帰って植えたと言われています。
その「吉田の松」の横には江戸の日本橋を出てから52里目の「片羽の一里塚」があったことを示す石碑が立っています。塚自体はなにも残っていません。
甲州街道のゴール、下諏訪宿を目指して進みます。
おやおや、見上げるような急傾斜の長い階段の上に集落が見えます。諏訪湖に近いこのあたりならではの地形なのですが、あの集落にお住いの方は、この急傾斜の長い階段を毎日登り降りしているのでしょうか。還暦を過ぎて随分たつので、今の私には無理ですね。勢い、出不精に陥りそうです。
甲州街道は右手に高台を見ながら先を進みます。
緩く右にカーブするところに「指月庵」という看板が立っています。指月庵は、かつて温泉寺(この先にある高島藩諏訪家菩提寺)の隠寮(諏訪家別邸)として建てられたものです。寛政5(1793)に隠居所を普請し、以来、諏訪藩主が菩提寺である温泉寺に墓参りに訪れた際に、ここを休憩所として使用されたといわれています。その後、明治34(1901)までは温泉寺の所有でしたが、人手に渡り、のち大正6(1917)、製糸工業華やかかりし頃にシルク・エンペラーと言われた片倉家の所有となりました。庭園については、その中心となる石組が250300年前、江戸時代初期から中期に作られたものと推定され、当初は、温泉寺を借景として座敷より眺める座視観賞式庭園であったと言われています。庭園内には、「嘉永二年(1849)三月吉日」と刻まれた「解脱門」という石門があり、かつて藩主が温泉寺参道前からこの門をくぐり、隠寮へ入られたと伝えられています。現在の建物は当時の柱、梁等の一部をそのまま利用し、江戸時代の建築様式を取り入れ、再建されたものです。現在は長野県の名所の一つとして、庭園と茶室が公開されています。
そこから少し行った先の右手の高台に温泉寺があります。 高島藩初代藩主の諏訪頼水が没し、諏訪家菩提寺の頼岳寺に葬られた後、頼水の志を継いだ子で高島藩第2代藩主の諏訪忠恒が下諏訪町慈雲寺の泰嶺和尚を招いて開山、以来、この温泉寺が高島藩藩主代々の菩提寺となりました。明治3(1870)、火災により一部焼失したのですが、高島城から能舞台を本堂に、薬医門を山門に移築したのだそうです。境内からの諏訪湖の眺めは素晴らしいそうなのですが、旅程の関係で残念ながら訪れませんでした。ちなみに、ここにはなぜかこの寺には和泉式部の墓もあるのだそうです。 和泉式部のものとされる墓は中山道の御嶽宿の手前にもあり、小野小町と同様に各所に伝説が残り墓があるようです。何故そんなにあちこちにあるのか…などと野暮なことは言ってはいけません。和泉式部や小野小町は恋多き女性であったそうなので、彼女を慕う多くの殿方が各地に「和泉式部の墓」を建立したのではないか…と推定されます。
甲州街道を下諏訪宿を目指して進みます。
兒玉石(児玉石)神社です。「諏訪七石」と言われる7つの石の1つ、「児玉石」が祀られている神社です。自然崇拝が基本の諏訪大社の上社周辺には「御座石・御沓石・硯石・蛙石・小袋石・小玉石・亀石」という7つの石がそれぞれ祀られた神社があるのだそうです。この兒玉神社はその1つ「小玉石」が祀られている神社です。小玉石は、江戸時代の文献になると「兒玉(児玉)石」と変化しており、ここも同じ読みながら兒玉(児玉)神社と呼ばれるようになったとのことです。鳥居の向こうにデェ〜ンと置かれている大きな石が、その小玉石でしょうか。
先宮(さきのみや)神社です。先宮神社は伝承により境内前の小川に橋を架けないという特色を持つ神社です。確かに恒久的な橋はありません。この日はこのあたりで秋祭りがあり、子供神輿も通るので、安全のために仮の橋(と言うか、水路の蓋)がされていましたが、通常はこれも取り外されているようです。

祀られている祭神は高光姫命(たかてるひめのみこと)。別名「稲背脛命(いなせはぎのみこと)で、諏訪大社の祭神として祀られている建御名方神(たけみなかたのかみ)の姉と云われている神様です。伝承では姉の高光姫命が国譲りに逆らったので、弟の建御名方神は姉を幽閉するために橋を架けさせなかったということのようですが、どうなんでしょうね。古文書によると、先宮神社は、かつては諏訪湖岸に位置していたと書かれているのだそうです。そのことから、諏訪湖の水位が下がり、埋め立てられ、先宮神社の前を横切る街道(甲州街道)ができ・人家が集まってきたと考えられるので、この小川は必ずしも神代の時代からあったわけではなさそうなので、後年の創作ではないでしょうか。この先宮神社にも、諏訪地域の他の神社と同様、拝殿の四隅に御柱が建っています。
先ほどから笛や太鼓、鐘の音が聴こえています。この日はこのあたりの地区の秋祭りのようです。音がする方向を眺めてみると、子供神輿が通り過ぎていくところでした。神輿の行列が諏訪大社の木落としで見られるような持ち物を持っていたので、慌ててスマホのカメラを向けたのですが、残念ながら過ぎ行く後ろ姿しか撮影できませんでした。
街道は下諏訪町に入り、残りはわずかです。 家並が途切れたところでは諏訪湖の眺望が楽しめます。
これはこれは立派な古民家です。松本市を含め、長野県の中信、南信地域の古民家の独特な建築様式に「本棟造り」というものがあります。この本棟造りは、大きな切妻屋根を持ち、妻側に出入口があり、また大きな破風と格子窓があるのが特徴で、古くより豪農や庄屋などの地主階級、または豪商の館の多くがこの建築様式で建てられてきました。本棟造の屋根の頂点には、必ず「すずめ踊り」という特徴的な大きな棟飾りが付いています。これはもともと、米など収穫した穀物を食い荒らす雀などの鳥を脅すために、その天敵である鷹などの猛禽が羽を広げて飛んでいるところをかたどった、いわゆる「案山子」であったものが、いつの間にか意匠化され、その大きさが富の象徴になったといわれています。
大きなケヤキ()の古木が立っています。昔の旅人もこの木の日陰で、しばしの休憩を取ったのではないでしょうか。私達もここで水分補給の休憩をとりました。
ケヤキの巨木の傍らに、津島牛頭天王(ごずてんのう)と刻まれた石塔が立っています。津島とは愛知県津島市にある津島神社のこと。東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰といいます。中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、釈迦の生誕地に因み祇園精舎の守護神とされる「牛頭天王」を祭神としていました。昔の人は、競って自らが信仰する神の名を石に刻んで立てていたのでしょうね。その横には、ご存知、双体道祖神が祀られています。


……(その6)に続きます。

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