2019年11月17日日曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その1)

929日、このところ趣味としている『甲州街道あるき』の最終回【第16回:茅野下諏訪追分】に参加してきました。今回(16)は前回(15)のゴールだった茅野市の頼岳寺の駐車場を出発し、上諏訪宿を経て、甲州街道の終点である下諏訪宿内にある中山道との合流地点(追分)まで歩きます。昨年の1月に江戸の日本橋をスタートして1年と9ヶ月。全16回。ほぼ毎月にように尺取り虫のように距離にして532420(210.8km)の距離を歩き、いよいよ45宿目の宿場で終点である下諏訪宿に到着します。

615()16()に歩いた前回【第14回】韮崎宿蔦木宿も、714()15()に歩いた【第15回】蔦木宿茅野も2回連続であいにく梅雨前線が日本列島のすぐ南の海上に停滞していて、おまけに低気圧が接近する中での街道歩きで、事前の予想では降りしきる大雨の中を歩くのかと覚悟したほどだったのですが、いずれも、日中、歩いている間はほんの霧雨程度でたいした雨にはならず、夜間、ザァザァ降りになるという天気で、「晴れ男のレジェンド」ぶりを遺憾なく発揮させていただきました。
この日(929)も日本列島の上を前線が停滞し、南の海上を台風18号が西進している関係で、前線に近い東日本も大気の状態が不安定になることが予測され、長野県地方の天気予報はここ数日ずっと「曇り時々雨」でした。この日のコースは山道でもないので途中は雨でもいいけど、せめてゴールの時くらいは雨が降らないでいてほしいなと思いながら前日に四国松山から戻りその日を迎えました。午前8時にさいたま新都心駅前を観光バスで出発した際には天気予報どおりに低い雲が垂れ込めていたのですが、小仏トンネルを抜けて山梨県に入ったあたりから空は明るくなり、途中、富士山もその雄大な姿を見せてくれました。

さすがに秋の行楽シーズンに入り、途中、トイレ休憩で立ち寄った談合坂サービスエリア(SA)ではブドウ狩りにでも行くのでしょうか、色とりどりの観光バスが停まっています。
おやっ、ポルシェやフェラーリといった「スーパーカー(古いか)」の一団が停まっています。なかなかカッコいいですねぇ~。この後、スーパーカー軍団はブロロロロという大きなエンジン音を轟かせてサービスエリアを出ていきました。
観光バスは談合坂サービスエリアを出て、一路、この日の街道歩きの出発点である茅野市を目指します。空は徐々に青空の割合が多くなり、車窓には南アルプスの山々がクッキリと見えてきました。これまでなかなか拝むことができなかった甲斐駒ケ岳も、そして八ヶ岳も綺麗に見えます。やっぱ、甲州街道ではこれらの山々が見えないと“らしく”ありません。
今回(16)は茅野市の頼岳寺の駐車場がスタートポイントでした。ここからは基本下り坂で、諏訪湖畔にある上諏訪宿、下諏訪宿を目指します。この日はゴールの下諏訪宿の中山道との合流点まで歩くというので、スタート前に全員で「全員でゴールするぞ! エイエイオーッ!!」の掛け声をかけました。
高島藩初代藩主・諏訪頼水が創建した頼岳寺はJR中央本線の線路の先にあります。頼岳寺は前回【第15回】の最後に訪れました。
頼岳寺の駐車場から国道20号線に出て諏訪湖を目指すのですが、すぐに茅野上原郵便局のところで右折して、細い道に入ります。ここは「甲州道中渋沢小路」と呼ばれる道路で、ここがかつての旧甲州街道です。JR中央本線の線路の下を潜ります。
頼岳寺の門前から伸びる道路と合流し、北へ向かいます。
旧甲州街道の証とも言うべき石塔石仏、石灯籠などが集められて祀られています。ここは甲州街道と大門峠を越えて佐久へ向かう大門街道との追分(分岐点)1つだったところだそうです。
さすがに長野県。リンゴの樹に真っ赤な実が幾つもついています。美味しそうです。
この石灯籠の下部の柱(竿と言います)の部分に「象頭山」の文字が刻まれています。象頭山とは四国の象頭山(ぞうずさん)は、香川県の西部の善通寺市に位置する山で、隣の琴平山と合わせた山の形が琴平街道から眺めた時に象の頭を思わせることから、その名前が付けられました。その象頭山(琴平山)の中腹には金刀比羅宮(ことひらぐう:通称 金毘羅さん(こんぴらさん))が鎮座していることから、この石灯籠は江戸時代に庶民の間で伊勢神宮に次ぐ憧れだった金毘羅参りを果たしたこの近隣の方が、金毘羅参りを果たした証しとして寄進したものと思われます。私はその象頭山が間近に見える香川県丸亀市の中学校と高校を卒業したので、一気に親近感が湧いてきます。
この石灯籠の柱(竿)には象頭山のほかにも「白雲山」の文字も刻まれています。この白雲山とは上野国(群馬県)にある妙義山を山の1つのことで、中腹に妙義神社があるので、その妙義神社にも参拝したということなのでしょう。さらにはそれでも足りずに「日本之總社」という文字まで刻まれています。日本にある全ての神社という意味で、大小様々な神社に参拝することを趣味のようにしていた方なのでしょう。信心深いというよりも、きっと旅行を趣味にしていた方なのではないでしょうか。こういうところにも親近感を覚えます。
火燈(ひとぼし)公園です。今はふつうの児童公園になっているのですが、「火燈(ひとぼし)」とは何か謂れのありそうな公園名です。公園に入ったところに、その説明板が立っています。その説明板によると……
「神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)のタ、頼重院の裏山、前山の峰に近い 「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。この鳥居火は、『太古からの仕来り』で、いつから行われていたのかは明確ではないが、文化15(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は、天正6(1578)の御柱年に、上社及び下社の大規模な御造営をしており、この時上社の御造営にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、買の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を、大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。 現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に、火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。 」

と書かれています。なるほどぉ〜。

頼重院です。頼重院は、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を代々務める諏訪氏の総領・諏訪頼重の菩提寺として創建されました。天文11(1542)、信濃国侵攻を目論む武田信玄との戦いに敗れた諏訪頼重は甲府にて無念のうちに自害。諏訪頼重の墓は甲府の東光寺にあるのですが、境内の古い石塔群の中からは諏訪頼重の供養塔が発見されています。これは諏訪一族が頼重の首を持ち帰り、この寺に埋葬して菩提を密かに弔ったものと考えられています。また境内では、武田氏に滅ぼされた諏訪頼重の凄まじい怨念が砕いたと伝わる「割石」などがあるのだそうです。
これは足湯でしょうか。さすがに温泉地・諏訪です。道路脇に何気なく足湯があります。地元の人が日常的に使っているのでしょうね。
諏訪らしさというと神社にも。神戸(ごうど)神社です。小さな祠があるだけの村の鎮守様といった神社なのですが、その四方には諏訪大社と同じように4本の御柱が立っています。


……(その2)に続きます。

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