2019年7月30日火曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その9)

この「甲州街道 台ヶ原宿」と刻まれた道標が立っているあたりが台ヶ原宿の江戸方(東の出入口)があったところです。台ヶ原宿は甲州街道では甲府と諏訪のちょうど中間地点にあたり、江戸・日本橋から41番目、4310町あまりの距離にあった宿場です。前の韮崎宿からの距離は4(16km)。甲州街道で一番長い宿間距離でした。江戸時代後期の天保14(1843)の宿村大概帳によると、台ヶ原宿の宿内の長さは930(1km)。宿内人口は670人、宿内総家数は153軒。本陣1軒、旅籠14軒で、脇本陣は設けられていませんでした(脇本陣は宿役人平右衛門宅を代用)。台ヶ原宿の起源は明らかになっていませんが、甲州街道が開設される以前から交通の要衝、集積地としての機能を果たしていました。甲斐国と信濃国の国境に位置し、比較的近距離にあった台ヶ原、教来石両宿と信濃国の蔦木宿は、人馬の継ぎ立てに関して申し合わせがなされていたという記録が残っているのだそうです。台ヶ原の名称の由来は、「此の地高く平らにして台盤の如く」というところから名付けられたのだそうです。現在の地名は山梨県北杜市白州町台ヶ原(旧北巨摩郡白州町台ヶ原)です。
鉄道の最寄り駅はJR中央本線の長坂駅か日野春駅。しかしながら、中央本線は七里岩の台地の上を通っているため台ヶ原宿までは6km以上の距離があります。明治期以降、鉄道開通に伴ってヒトとモノの流れが一変し、台ヶ原宿は宿場としての地位を失ったのですが、現在も当時の旅籠や商家の面影が偲ばれる古い街並みが街道沿いに約2 kmにわたって残されていて、「日本の道百選」の1つにも選ばれています。

土塀で囲まれたこのお宅もそのうちの1軒で、かなりの歴史を感じさせます。それにしても立派な松です。写真をご覧になるとお分かりいただけると思いますが、台ヶ原宿の宿内も諏訪方向に向けて緩い登り坂になっています。こうやってドンドン登っていきます。この日は約370メートルの高度差を登らないといけませんので。
なまこ壁の漆喰造りの土蔵のある家もあります。もう誰も住んでいらっしゃらないお宅のようですが、軒下に杉玉(酒林)がぶら下がっているので、造り酒屋かなにかを営んでいたお宅だったのではないかと推察されます。聞くと、岡村酒店という酒屋さんだったとのことです。
「立場跡と共同井戸跡」の案内表示が立っています。立場は宿場の出入口にあり、旅人・駕籠かき・人足・伝馬などが休憩する掛茶屋でした。この台ヶ原宿の立場は建坪が42坪あり、時には旅籠としても利用されていたと説明書きには記されています。
台ヶ原宿を南北に貫いて七里岩方向へと伸びるこの山梨県道606号台ヶ原長坂線も古道の手前で国道20号線から分岐した山梨県道617号台ヶ原富岡線と同様、かつては花水坂で七里岩を登り、七里岩の台地の上にある長坂に至る古道の1つで、地元ではこちらのルートのほうを花水坂と呼んでいるようです。
台ヶ原宿の本陣(小松屋)跡です。本陣は大名が陣を敷いた場所というところから命名されたもので、大名級の者が宿泊等に利用した屋敷です。したがって、規模は広大で、門を建て、玄関を設け、上段の間を有することで一般の旅籠と区別され、一般の旅籠には許されない書院造りの建築様式であったのだそうです。天明2年の記録によると、台ヶ原宿の本陣(小松家)の敷地は間口18(32.5メートル)、奥行き19(34.4メートル)351坪で、建坪は92坪であったのだそうです。敷地面積の割には建坪が若干小さな感じを受けます。
残念ながらこの台ヶ原宿の本陣(小松屋)の豪壮な建物は幕末の慶応3(1867)の大火で焼失してしまい、同年、地元の人達がその本陣(小松屋)の建物跡に秋葉大権現の石燈籠を建立したのだそうです。
その本陣(小松屋)の向かいには脇本陣の役割を代行した宿役人平右衛門の屋敷跡があります。この屋敷も慶応3(1867)の大火で焼失したそうなのですが、脇本陣の役割を代行しただけにかなり広い敷地です。
その宿役人平右衛門の屋敷跡の隣は今は台ヶ原宿ふれあい休憩所になっているのですが、かつてここには郷倉と高札場がありました。
郷倉とは、江戸時代、農村に設置された公共の貯穀倉庫のことです。本来は年貢米の一時的保管倉庫であったのですが、江戸時代中期以降は、毎年の生産物より一定量を備蓄して、凶作飢饉等非常の時に対応するために造られた食料(主にコメ)の備蓄庫として利用されました。のちには貸出しも行われたようです。郷倉の建物は村有,官有などがあって一定しませんが,敷地は免税地で,通常、村役人が管理していました。説明書きによると、「囲い籾(古いもの)は、毎年、新しいものに取り換えられた」のだそうです。また、「文化3(1806)の記録に『壱ヶ所貯穀有之』と記され、凶作の時に時価をもって極難の者に分売したとある。また、明和4(1767)には郷御蔵壱ヶ所、二間に三間の建物で敷地は除地であった。慶應2(1866)の大凶作、嘉永7(1854)の大地震のときに旧穀を借り受けたという。安政5(1858)の貯穀取調書上帳によると、籾47628(7.2トン)であった」とのことです。

高札場は改めて説明する必要はないと思いますが、幕府からの命令を板の札に墨で書いて掲示した場所で、幕府の権威を人々に認識させる役割を果たしていたところです。この台ヶ原宿の高札場は文化3(1806)の記録によると、その大きさは高さ2間余(3.6メートル)、長さ3(5.4メートル)、横7(2.1メートル)であったのだそうです。こんな地方でも、かなり大きなものだったのですね。

その高札場跡の前に軒下から大きな杉玉(酒林)がぶら下がった建物があります。甲斐国山梨県を代表する銘酒『七賢』でお馴染みの蔵元「山梨銘醸」です。山梨銘醸の創業は寛延3(1750)。初代蔵元・北原伊兵衛(屋号は中屋)が信濃国高遠で代々酒造業を営んでいた北原家より分家。白州の水の良さに惚れ込んで、甲州街道台ヶ原宿のこの地で酒蔵を起こしたことに始まります。天宝6(1835)には5代目蔵元 北原伊兵衛延重が、母屋新築の際にかねて御用を勤めていた高遠城主 内藤駿河守より竣工祝いに「竹林の七賢人」の欄間一対(諏訪の宮大工、立川専四郎富種の作)を頂戴しました。これが現在の銘柄名『七賢』の由来となっています。ちなみに、この「竹林の七賢」とは、三国志の時代末期、中国河内郡山陽の竹林で酒を酌み交わしながら清談を行った嵆康(けいこう)、阮籍(げんせき)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、山濤(さんとう)、王戎(おうじゅう)7人のことです。彼らは高級官僚としての定職に就いていたのですが、晩年、老荘道家の思想(道家)の影響を受けて礼教を軽視し、世俗に背を向けて、竹林で気ままな生活を送ったと伝えられています。
案内板を見るとかなり大規模な酒蔵のようで、この店舗の裏側が酒蔵になっています。
歴史を感じさせる中央に“通り土間”のある出桁造りの町家(商家)建築の店舗の隣に「明治天皇菅原行在所」と刻まれた石碑が立っています。明治13(1880)の明治天皇の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際に、明治天皇は台ヶ原宿では酒造業を営んでいたこの北原家で御1泊、宿泊をなされました。本来なら宿泊は本陣でなさるのですが、台ヶ原宿の本陣(小松屋)はその13年前の慶応3(1867)の大火で焼失してしまい、脇本陣の役割を代行した宿役人平右衛門の屋敷も同じく慶応3(1867)の大火で焼失してしまい、どちらも再建されていなかったので、この北原家の屋敷が代わりに使われ、ここで御1泊なされたとのことです。その天宝6(1835)に建築された北原家住宅は今もそのまま現存していて、平成12(2000)に山梨県指定の有形文化財に指定されています。その中は一部公開されています。内部も歴史を感じさせる立派な建物です。
山梨銘醸では代表銘柄である『七賢』をはじめ、販売している全銘柄の試飲ができるのですが、まだ午前中だし、これから夏の強い日差しの中を緩い登り坂が続く道を約15km歩かないといけないので、さすがに自重しました。団体行動なので、他の参加者の皆さんにご迷惑のかかるようなことだけは避けなければなりませんのでね。これは私以外の他の参加者の皆さんも同じだったようで、皆さん、試飲を諦めてお土産に購入されるだけにとどめておられました。
その『七賢』の山梨銘醸の前は問屋場の跡です。問屋場は人馬継ぎ立ての駅務を行う事務所であり、問屋、年寄、帳付け、馬差しの者が常勤していたところなのですが、交通量の多い時は名主などの台ヶ原村役人が手伝ったりもしていました。天明6(1786)の記録によると、敷地は間口7(12.7メートル)、奥行き28(50.9メートル)の敷地面積196坪。建坪は56坪で、貨客の多い時には旅籠としても利用されていたと記されています。この問屋制は慶応4(1868)に廃止されました。


……(その10)に続きます。

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