2019年7月24日水曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その3)

昼食を終え、午後の甲州街道歩きのスタートです。

進行方向左手に鮎の友釣り用の囮鮎を売っている店があります。6月なので釜無川の鮎漁も解禁のようです。店の裏の木立ちの反対側に釜無川が流れています。この程度の雨でも上流の南アルプスではかなり強い雨が降っているはずなので、これから水量が増していくのではないでしょうか。
国道20号線脇の側道を歩いていくのですが、ここでちょっと七里岩の崖下のほうに寄り道します。
七里岩がドンドン迫ってきます。近づくとさすがに迫力がある断崖です。
屏風岩です。釜無川の侵食によってできた七里岩にはほぼ垂直になった断崖が幾つも連なってあるのですが、この屏風岩はわざわざ名前が付けられているようにその中でも群を抜いて高く、崖下との比高は3040メートルはあります。圧巻の光景です。
その屏風岩の崖下にポツンと小さな祠が立っています。九頭龍社です。
その近くに奇妙な形をした巨大な岩があります。老婆石です。老婆が顎を支えている姿に似ていることから「老婆石」と命名され、字を変えて「祖母石村」という地名になりました。老婆石の由来は、昔、釜無川の氾濫で家族を失った老婆が悲しみのあまり石になってしまったと言われています。しかし、私にはどう見ても老婆が顎を支えている姿には見えません。毎年820には、屏風岩前の九頭龍社と老婆石を提灯で結ぶ「提灯祭り」が行われているそうです。
一時的に雨が上がり、西の方向の空が明るくなってきました。通気性の悪いレインコートの中は蒸せかえっているので、汗ビッショリです。一時的にレインコートの上着を脱ぎ、身体を風に晒すことにしました。あ〜〜気持ちいい!!
国道20号線の側道に戻り、甲州街道歩きを続けます。その側道から屏風岩を見たところです。絶景ですね。
国道20号線の側道を歩きます。農道のようですが、これが旧甲州街道です。
南アルプスの方角を見ると、こちらも雲が少し切れて、近くの山の姿がハッキリと見えるようになってきました。本当なら素晴らしい山々の山容が見えるはずなのですが、984ヘクトパスカルの低気圧が接近してきているので、仕方ありません。
農道をしばらく歩き、国道20号線に合流します。
道路標識に「諏訪 46km」という文字が見えます。甲州街道の終点、下諏訪宿がドンドン近づいてきました。
七里岩の崖下の釜無川流域は一面の田圃や畑が広がっています。
稲作って素人目には水があればできる水耕栽培のイメージがあるのですが、実態はそうではありません。稲の生育に必要な主な養分はチッソ、リン酸、カリ、マグネシウム、カルシウムです。これらの肥料が必要となります。他にも微量要素として鉄、マンガン、亜鉛、銅、ホウ素、ケイ素などが必要ですが、これらの微量要素は山から引いてくる水に含まれているため、とくに肥料として与える必要はありません。で、これらの微量要素を多く含む水が確保できるところが昔から良質のコメ()の産地とされてきたところです。八ヶ岳が噴出した溶岩でできた七里岩がデェ〜ンと構えるこのあたりは、まさにそうしたら稲作に必要な微量要素の宝庫のようなところです。まさに自然の恵みです。このあたりの旧甲州街道沿いに白い漆喰造りの土蔵を備えたかつての豪農と思える大きく立派な建物の農家が幾つも建ち並んでいるのは、そのためなんでしょうね。

「神武天皇御神田入口」と書かれた道標が立っています。神武天皇は日本神話に登場する人物で、古事記や日本書紀では日本の初代天皇であり皇統の祖としている方です。このあたりの旧甲州街道の道筋は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰りに通った道筋とされているので、律令制以前の古代から開けていたと思われるところです。なので、神武天皇に関わる伝承が残っていてもおかしくはないですね。真実がどうかは別の話として。いずれにしても、このあたりは古代から質の高いコメの産地であったことだけは確かなようです。
その神武天皇が自ら田植えをなさったという田圃は、七里岩の崖下にある石垣で囲まれた上にある田圃です。
こちらからもその田圃に行けるようで、「神武天皇御神田入口」と書かれた道標が立っています。
「新府城跡→」の道路標識が立っています。ここから七里岩の台地の上に上がれる道路があり、新府城までは約1kmの距離だとのことです。
穴山橋で釜無川を渡ります。この穴山橋、往時は長さ10(18メートル)、幅8)2.4メートル)の木橋で、流失すると船渡しとなりました。穴山橋は少々の出水でも流失することが多く、平年で年45回、多雨の年は10回も掛け直したといわれています。さすがに七里岩を侵食した釜無川です。破壊力抜群です。この日は雨ですが、まだ釜無川の流量はさほど多くありません。これからですかね。この穴山橋は正面に「鳳凰三山」、右手前方に「八ヶ岳」、左手遠くには「富士山」が見える絶好のビューポイントだそうなのですが、この日はあいにくの雨で、それらの山々は残念ながらまったく見えません。
このあたりの地名は韮崎市穴山町。ここは中世には穴山郷が所在し、南北朝時代には甲斐国守護であった武田氏の一族である穴山義武が同地を本貫地とし、穴山姓を称しました。穴山氏は後に本拠を河内地方へ移し、甲斐における有力国衆となります。武田信玄の時代に、戦国時代最強と言われる武田家家臣団(武将)のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人を指して「武田二十四将」と呼ばれますが、その武田二十四将の中でも筆頭格で、南松院所蔵本をはじめ「武田二十四将図」として描かれた絵画や浮世絵等では常に信玄の傍らに配置されて描かれている武田家御一門衆の1人で重臣中の重臣であった穴山信君(穴山梅雪)は、この穴山氏7代目当主でした。前述のように、天正9(1581)3月、武田勝頼は予想される織田信長の侵攻に備えて、甲府盆地の西部に位置する七里岩の上の台地に新たに新府城を築城し、甲府城下町からの本拠移転を企図するのですが、その計画を提案したのが穴山信君(穴山梅雪)でした。『甲陽軍鑑』によれば、この際に、穴山信君(穴山梅雪)は穴山郷の一部を主君・勝頼に進上し、同じく七里岩の台地上に新府城の支城である能見城(のうけんじょう)を築城しています。
ちなみに、穴山信君(穴山梅雪)は武田勝頼が新府城に入城した後の天正9(1581)12月、勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らと衝突し、天正10(1582)2月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応。織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵されて織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられました。同年3月、武田勝頼の自害により武田家が滅亡すると、同年5月には信長への御礼言上のため徳川家康に随行して上洛。近江国安土城において織田信長に謁見しました。その後、堺を遊覧した翌日の62日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の死(いわゆる「本能寺の変」)を知り、家康と共に畿内から脱しようとしたのですが、その途上で落ち武者狩りの襲撃を受け、命を落としました。
穴山の地名の元となったのが、七里岩の侵食崖に見られる大きな穴です。おそらく侵食の途中で柔らかい土壌が削られ流れ出してできた穴だと思われます。
平安時代後期に甲斐国には甲斐源氏の一族が進出し、韮崎には武田氏が拠り、天然の要害であるこの七里岩には北杜市大泉町にある谷戸城などの中世城郭や砦が築かれました。戦国時代には戦国大名となった武田氏が信濃侵攻を行う際の中継地点にもなり、武田勝頼の時代には現在の韮崎市中田町には巨大な城郭・新府城が築城され府中の移転が試みられました。また、武田氏の滅亡後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱の舞台にもなり、韮崎市穴山町にはこの事件に関係する城郭として能見城の跡が残っています。

この天然の要害としての七里岩の軍事利用は近代においても続きます。韮崎市一ツ谷・祖母石両地区にある七里岩には第二次世界大戦中の地下壕が存在します。戦争が激化し都市部の空襲が相次いでいた昭和20(1945)37日に陸軍航空本部は本土決戦に備えて「生産組織疎開計画並びに実施状況」を発表し、軍事工場を地方都市の地下に疎開させる計画を立案しました。主に陸軍向けに輸送機や偵察機を生産していた立川飛行機は、東京都立川市にあった主力工場が空襲により壊滅的な被害を受けたため、この計画に基き航空本部に対して韮崎地区の七里岩断崖に大規模な地下壕を開削して地下工場を建設する計画書を提出しました。地下壕の建設は韮崎市水神町の青坂地下壕をはじめ、一ツ谷、祖母石など幾つかの場所で機械、機材を持ち込み大規模に行われたのですが、崩落や地下水の侵出により作業は難航し、建設途中に終戦を迎えました。


……(その4)に続きます。

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