2019年7月22日月曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その1)




615()16()、甲州街道歩きの【第14回】韮崎宿蔦木宿に参加してきました。今回は前回(第13回】のゴールであった韮崎市役所前をスタートして、台ヶ原宿、教来石宿を経て蔦木宿まで歩きます。教来石宿と蔦木宿の間に山梨県(甲斐国)と長野県(信濃国)の県境(国境)があり、いよいよ甲州街道の終着地・下諏訪宿のある長野県(信濃国)に入ります。

この日(615)は四国の南海上にある前線を伴った低気圧(中心気圧984ヘクトパスカル)に向かって暖かく湿った空気が流れ込み、西日本と東日本を中心に大気の状態が非常に不安定となり、広い範囲で風が強まって断続的に激しい雨が降るあいにくの天気となりました。中心気圧984ヘクトパスカルというと、温帯低気圧とは言え、ちょっとした台風並みの勢力の低気圧です。気象庁の発表によりますと、翌16日の朝までの24時間に降る雨の量は東海で150ミリ、四国と中国地方、近畿、関東甲信、東北で120ミリと予想され、さらに、17日朝までの24時間に北陸で100ミリから200ミリ、東北と北海道で100ミリから150ミリのまとまった雨が降る見込みとのことでした。
 いつものように帰宅近くの さいたま新都心駅前を観光バスで出発したのですが、埼玉県地方は日付けが変わったあたりから雨が降り出し、出発時点で既に本降りの雨。スマホで雨雲レーダーの様子を確認したのですが、前線に沿った日本列島のすぐ南の海上を中心に四国から関東地方の広い範囲で強い雨域が確認できます。天気図を確認すると中心気圧984ヘクトパスカルというちょっとした台風並みの勢力の強い温帯低気圧は勢力を保ったまま四国沖から紀伊半島に上陸して岐阜県、長野県を通って新潟県で日本海に抜けると予想されています。今回歩く区間はその低気圧の移動予想コースのすぐ東側にあたり、こりゃあこの日はどしゃ降りの中での悲惨な街道歩きになるな…と覚悟しました。昔の人は台風の直撃を受けたり大雪が降ったりという極端な気象条件でない以上、雨合羽や蓑笠をつけて旅をしたわけで、現代の旧街道歩きもそれに準じます。これまで旧中山道歩きや旧甲州街道歩きに30回以上参加したのですが、雨に降られたのは2日間だけ。それも時間雨量5ミリ以下の弱い雨で、道中ずっと雨だった日は1日もありません。旧甲州街道歩きでは14回目にして今回が初めてです。「晴れ男のレジェンド」も、もはやこれまでか…。雷の危険さえなければヨシとしなければいけないかな…と思っているくらいでした。

観光バスは中央自動車道の談合坂サービスエリア(SA)で休憩を取り、韮崎を目指します。談合坂SAは、本降りの雨の中、この日も多くの観光バスが停まっています。果樹王国である甲府盆地は、ちょうど今、サクランボの収穫時期を迎えています。おそらくサクランボ狩りツアーに向かう観光バスなのでしょう。この雨で、参加者の皆さんのお顔も曇っています。旅行の印象ってお天気次第でガラッと変わってしまいますからね。お気の毒さまです……って、これからこの雨の中を10km以上歩く私が言っても説得力がないっか(苦笑)
この雨で行楽客の足も遠のいているのかたいした渋滞にも巻き込まれることもなく、さいたま新都心駅前を出発してから約2時間半。午前1030分過ぎに前回【第13回】のゴールだった韮崎市役所前に到着しました。途中、バスのフロントガラスに激しく雨粒があたる区間もありましたが、笹子トンネルを抜けて韮崎に近づくにつれて雨は小降りに変わってきました。高い山に遮られて気流の流れが変わり、それに伴ってお天気がガラッと変わることってよくあることなのですが、甲府盆地の南側には日本最高峰の独立峰である富士山(標高3,776メートル)をはじめ、日本第2位の高峰である北岳、山脈名の由来である赤石岳を筆頭に9山の標高3,000メートルを超える峰が屏風のように立ちはだかる南アルプス(赤石山脈)の山々があるので、なおのことです。このくらいの雨ならなんとか苦もなく歩けるでしょう。
雨の中なので簡単にストレッチ運動を済ませて長野県道・山梨県道17号茅野北杜韮崎線の韮崎市役所東交差点を西に向けて出発しました。雨は降り続いているのですが、時間雨量1ミリ以下程度のほんの小雨なので、大したことはありません。今回はどしゃ降りの中での街道歩きを覚悟していたので、雨具はいつものポンチョタイプの雨合羽ではなく、登山用の上下セパレートタイプのレインコートを用意しました。8年前に登山を始めようと思って購入したものなのですが、過去に一度、八ヶ岳登山で1時間ほど雨になり(雲の中に入り)使用しただけで、ずっと押入れの中にしまっていたものです。久し振りに押入れの中から引っ張り出して持ってきました。この程度の雨なら、いつものポンチョタイプの雨合羽でもよかったかもしれません。このブログにも掲載している写真はいつもスマホ(iPhone)を使って撮影しており、今回は前日にそのスマホの防水カバーを購入して用意してきたのですが、それも不要と判断しました。幸いなことに、その程度の雨でした。
進行方向右手には七里岩と呼ばれる高台がずっと連なっています。この高台は約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流(溶岩流?)によってできた平坦な台地で、西側を流れる釜無川と東側を流れる塩川によって侵食され、両川沿いに連なる高さ10メートルから40メートルの断崖を形成しています。この台地は幅約2km、長さが約30kmもある細長い形をしていて、約30kmという長さから「七里岩」と呼ばれています。また、その長く伸びる七里岩を上から見るとニラ()の葉のように見え、その先端()に宿場町が位置していたことから、韮崎という地名が付けられたという説があります。旧甲州街道は、その七里岩の西側に連なる高さ10メートルから40メートルもある侵食崖のすぐ下を、釜無川に沿って歩きます。七里岩の長さは約30kmということなので、この甲州街道歩きの【第14回】ではゴールである蔦木宿付近までずっと進行方向右側に七里岩を見ながら歩くことになります。極めて特徴的な風景です。
長野県道・山梨県道17号茅野北杜韮崎線はこの先で武川 国道20号線方面への道が分岐します。このあたりが韮崎宿の諏訪方(西の出入口)でした。
この道路が旧甲州街道で、韮崎宿の諏訪方を出た先である証しが進行方向左手に立っています。馬頭観音の石仏です。
長野県道・山梨県道17号茅野北杜韮崎線はここから青坂と呼ばれる少し急な坂道を登り、七里岩の上に登っていきます。この道路は現在「七里岩ライン」と呼ばれ、七里岩の台地の上を走り、現在は平成の大合併により北杜市となった旧須玉町、高根町、大泉町、長坂町を経て八ヶ岳の麓にある小渕沢町に至ります。この道路は釜無川の氾濫で甲州街道が通行不能になった際に、迂回路として整備された道筋で、信州往還(甲州街道原路)、あるいは甲州道中裏道とも呼ばれました。JR中央本線や中央自動車道も韮崎市を過ぎるとこの七里岩の台地の上へと登り、長野県へと通じています。いっぽう、旧甲州街道と現代の甲州街道である国道20号線は台地の西側の崖下を流れる釜無川に並行して伸びています。また、台地の東側の崖下を流れる塩川に並行しては佐久甲州往還()が伸びていました。この佐久甲州往還()は現在の国道141号線に相当します。
先ほど、「七里岩ライン」(長野県道・山梨県道17号茅野北杜韮崎線)が、かつては釜無川の氾濫で甲州街道が通行不能になった際に、迂回路として整備された道筋で、信州往還(甲州街道原路)、あるいは甲州道中裏道とも呼ばれたということを書かせていただきましたが、この七里岩の台地の上には、近世においては、信州往還(甲州街道原路)のほか逸見路(へみじ)や「信玄の棒道」といった交通手段が存在し、それぞれ甲府から信州までの道を結んでいました。このうち「棒道(ぼうみち)」は、武田晴信(信玄)が開発したとされている軍事用道路で、八ヶ岳南麓から西麓にかけての甲信国境(甲斐国と信濃国の境)を通る道路で、荒野にまっすぐ一本の棒のように伸びていたので、棒道と呼ばれるようになったとされています。武田信玄と言えば「風林火山」。「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」の最初の「疾きこと風の如く」を実現していたのが、棒道でした。越後の虎・上杉謙信との間で北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦い、いわゆる「川中島の戦い」に向かう武田信玄率いる戦国時代最強と言われた武田軍団は、この青坂を登り、七里岩の上から伸びる棒道を通って、信州善光寺平にある千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地・川中島に向かって行軍していったのでしょうね。
その七里岩の台地の上はほぼ平坦な地形になっています。現在、台地の上は一面の田畑が広がっているそうなのですが、かつてそこに武田勝頼の居城・新府城(しんぷじょう)がありました。この青坂から約3kmほど行ったところです。

新府城は七里岩の上の台地、現在の韮崎市中田町中條に築城された平山城で、本丸のあったあたりの標高は522メートル。西側は高い侵食崖になっていて、その比高は72メートル。七里岩の特徴を活かした難攻不落の天然の要害でした。

元亀4(1573)412日、武田信玄が西上作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第20代当主となった武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で織田信長・徳川家康連合軍の前に大敗北。その後、領国再建のため相模国の後北条氏との間で甲相同盟を結んだものの、天正6(1578)313日、越後国で上杉謙信が病死するとその後の家督相続争い、いわゆる御館の乱に巻き込まれて甲相同盟はあえなく破綻。翌天正7(1579)、後北条氏の北条氏政が徳川家康と同盟を結んだため、徳川・後北条氏連合軍との戦いが繰り返されます。いっぽうで、予想される織田信長の侵攻に備えて、天正9(1581)3月には甲府盆地の西部に位置するこの七里岩の上の台地に新たに新府城を築城し、同年年末には武田勝頼が入城し、祖父である武田信虎が築城した躑躅ヶ崎館・要害山城の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始しました。新府城は武田家御一門衆で甲斐河内領・駿河江尻領を領する穴山信君(穴山梅雪)が勝頼に対して築城を提案し、普請をしたのはNHK大河ドラマ『真田丸』で有名になった真田信幸(信之)、信繁(幸村)兄弟の父・真田昌幸とされています。

新府城は武田家の甲州流築城術の集大成とも言える非常に大規模な城郭だったと言われています。「人は城、人は石垣、人は堀/情けは味方、仇は敵なり」。これは武田信玄の逸話や武田家に伝わる軍学を記した『甲陽軍鑑』の一節です。「人は城…」というフレーズから、武田信玄は城を築かなかった戦国大名…という印象を持つ人も多いのではないかと思います。しかし、信玄の父の武田信虎が築城した居城であった躑躅ヶ崎館とそれに隣接する要害山城や、武田二十四将の1人、真田昌幸の居城・岩櫃城、同じく小山田信茂の居城・岩殿山城といった難攻不落の城郭を作る戦国時代随一の築城名人という側面を持っていました。武田信玄は当時としては最も発達した城郭を築いていました。ではなんで城のイメージが薄いかというと、信玄が築いた城は山城や土の城(中世城郭)ばかりだったからでしょう。織田信長は天下統一を目指す過程で、天守が空高く聳える石垣の城、いわゆる近世城郭を創出しますが、信玄の時代はまだ石垣をもたない中世城郭が主流でした(織田信長が最初の近世城郭とされる安土城を築いた頃には、武田信玄は既に他界していました)。先ほど「最も発達した城郭を築いた」と書いたのは、「中世城郭として”最も発達した」ということです。武田家の城の特徴は地形を巧みに利用している点です。周囲を山に囲まれた甲斐国だけに、武田家の城は山城がほとんどです。山城が地形を利用するのは当たり前のことですが、信玄が多用したのは「河岸段丘」。河岸段丘は何千年・何万年という非常に長い時間を経て河川が削り取った階段状の地形のことで、崖に接して城を築けばそちらから攻めることはほぼ不可能であり、高い防御力を発揮します。また、河川の水運と河川沿いの交通網を管理・警備しやすいというメリットもあります。釜無川を直下に見下ろす七里岩の断崖の独立丘陵の上に、石垣を用いず、土塁と空堀により築城されたこの新府城は、そうした武田家の甲州流築城術の集大成とも言える城郭でした。

武田勝頼が甲府府中の躑躅ヶ崎館から新府城への本拠移転を開始してまもなくの天正10(1582)2月、武田信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が織田信長に寝返り、これを期に織田信長・徳川家康連合軍が満を持して信州甲州の武田領に侵攻。織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始しました。武田軍の将兵は次々と寝返り戦線はあえなく崩壊、織田信長・徳川家康連合軍は怒涛の進軍で韮崎の新府城に迫ってきました。唯一、組織的な抵抗を見せたのは武田勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけでした。その高遠城も落城し、木曽戦線に続いて伊那戦線も崩壊。高遠城落城の知らせを受け、同年3月、武田勝頼はまだ未完成の新府城に放火して逃亡。小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城を目指して落ち延びました。その後、笹子峠の手前の駒飼の地で小山田信茂謀反の知らせを受け、天目山に追い詰められて武田勝頼は自害。甲斐武田一族は滅亡することになります。

その後、天正10(1582)6月、本能寺の変で織田信長が討たれた後に空白地帯となった甲斐国・信濃国・上野国(現在の山梨県・長野県・群馬県)という非常に広い範囲で、徳川家康、北条氏直、上杉景勝、木曾義昌、真田昌幸などが勢力を争ったいくつもの戦い、
いわゆる「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」の際には、徳川家康がこの新府城跡に本陣を構え、籠城しました。

天正壬午の乱は、同年、徳川・北条同盟が成立し、武田遺領のうち甲斐国・駿河国は徳川家康が領することで終結し、家康は甲府府中の躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としました。天正11(1583)、家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城(舞鶴城)の築城に着手しました。それにより、武田勝頼の居城だった新府城は完全に廃城となり、今は土塁と空堀などの遺構が残っているだけなのだそうです。昭和48(1973)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化されています。また、本丸があった跡地には藤武稲荷神社が建立されているのだそうです。

前述のように、旧甲州街道は七里岩の上は通らないので、残念ながらその悲運の城・新府城には立ち寄れませんでした。青坂は登らず、国道20号線を目指して七里岩の崖下を進みます。


……(その2)に続きます。

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