2019年7月28日日曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その7)

坂道を石塔石仏群のところまで下ってきて、ここから旧甲州街道歩きの再開です。右手には七里岩が続いています。旧甲州街道も七里岩と同様、ちょっと高台を通っていて、その間には豊かな田園地帯が広がっています。田植えを終えたばかりの田圃が青々として爽やかです。その田園地帯を国道20号線が伸びています。
道路脇にホタルブクロ(ツリガネソウ)が咲いています。ホタルブクロは、キキョウ科の多年草で、初夏に大きな釣り鐘状の花を咲かせます。
おいおいおい、せっかく坂道を登って高度を上げてきたのに、ここから下り坂で徐々に高度を下げていきます。この日は高度差約370メートルを登っていくのですが、この先もこのようにアップダウンを何度も何度も繰り返しながら少しずつ高度を上げていくのでしょうね。単純に高度差約370メートルをただひたすら登っていくというわけではなく、坂道を登る高さの総和はおそらくその2倍近くになるということで、この区間の厳しさを感じます。前方に上三吹の集落が見えてきました。
三吹の地名の由来となった三富貴(みふき)神社です。創建年代は不詳ですが、元は諏訪神社と称していました。その後、故あって三富貴神社と改めました。武田家代々の御祈願所として崇敬され、万休院のところで名前が出てきた武田四天王の1人・馬場信房(馬場信春)を輩出した馬場氏もこの近くの根古屋に居館を構えて、近くの中山の頂上にある中山砦の警固のため諏訪神社(現在の三富貴神社)を尊敬していたとされています。武田家没落後は徳川家もまた崇敬するところとなり、地頭秩父彦兵衛に社殿の再建修覆を仰せつけたと言われています。三富貴神社の面白いところは参道が大きく左にカーブしながら神社にいたるところ。写真の右手に伸びる道が参道で、手前の旧甲州街道下に鳥居があります。真っ直ぐ神社に向けて参道を伸ばしても問題がないところだけに、このカーブは何か意図があってのことだと思われますが、よく分かりません。
「南無阿弥陀仏」の題目碑をはじめとした石塔石仏群です。この石塔石仏群の中で目立つのが「甲子」と刻まれた甲子塔(きのえね様)です。庚申塔のところで述べた干支による60の組み合わせのうち、甲子(きのえね)は第1番目であるため、「ものの始まり」に喩えられます。子待・甲子待は甲子の日に甲子講の人達が集まって、大黒天の掛け軸を掛けて礼拝し、子の刻(午前0時から午前3)頃まで酒肴とともに歓談する(ドンチャン騒ぎをする)行事のことです。甲子塔は60年ごとに巡ってくる甲子の年(始まりの年:還暦)に、その供養として建立されたものがほとんどです (ちなみに、最も新しい甲子の年は昭和59(1984)です。我等が阪神タイガースの本拠地、阪神甲子園球場はその前の甲子の年、大正13(1924)に竣工したので、甲子園と命名されました)。甲子は「ものの始まり」の意味から、豊作祈願・招福などがその信仰の中心です。
甲子塔は文字塔が多く、「甲子」「甲子塔」「子待塔」「大黒天」などがあり、神道的表現としては「大国主命(おおくにぬしのみこと)」「大己貴命(おおなむちのみこと)」「大黒主神」などと表現する場合もあります。石像塔では打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、米俵を踏まえる大黒天の姿が刻まれる場合がほとんでです。

講の人達が集まってドンチャン騒ぎをするということでは「庚申待」と「甲子待」は似ていますが、庚申待が朝まで一晩中大騒ぎするのに対して、甲子待は子の刻(午前0時から午前3)頃までということで、いくぶん健全だったようです()

上三吹の集落に入っていきます。
ラベンダーのようですが、これはムラサキサルビアですね。こうした路傍の草花は街道歩きに癒しを与えてくれます。
旧甲州街道は国道20号線を横切って伸びています。
上三吹の集落にも歴史を感じる古く大きな建物が幾つも建ち並んでいます。
旧甲州街道一里塚跡の石柱が立っています。この一里塚も甲府府中を起点としての一里塚で、これは甲府府中から7里目の一里塚で「七里塚」とも呼ばれています。
上三吹の集落のはずれに石塔石仏群が祀られています。
進行方向右手に尾白川(おじらがわ)が見えてきました。尾白川は、釜無川の支流で、山梨県の北杜市を流れ、この先で釜無川に合流します。尾白川は甲斐駒ヶ岳の古来からの登山道である黒戸尾根ルートの七丈小屋上流の北東の沢を源とし、鋸岳の稜線下の、同じく源流である本沢と合流し、途中、尾白川渓谷を形成し甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根ルートの登山口である竹宇駒ヶ岳神社あたりから扇状地を形成しています。古(いにしえ)より源流である甲斐駒ケ岳をはじめとした白州の山中には身体の色が白黒で、尾が白い神馬が住んでいて、その霊験で白と黒(善と悪)を明らかにしていました。この人界を律する神馬が住む霊境とされるところを源とする川であることから、尾白川と呼ばれました。尾白川は「白州・尾白川」として、昭和60(1985)に日本名水百選の1つに選定されています。
初夏のこの時期、道路脇にはずっと草花が咲いて、癒されます。
振り返って見たところです。振り返って見たほうがその道が登っているのか下っているのかが分かりやすいのですが、上三吹の集落を出てからずっと緩斜面を登ってきています。
国道20号線に合流し、尾白橋で尾白川を渡ります。2日目のスタートポイントの武川町農作物直売センター駐車場を出てから約4km。実はこのあたりが本来の1日目のゴールでした。前日は雨の中での歩きということでウォーキングリーダーさん(旅行会社)の判断でここから4kmほど手前の武川町農作物直売センター駐車場で街道歩きを切り上げたのですが、この日この区間を歩いてみて、その判断が妥当だったってことを納得しました。路面が舗装されているとは言え、アップダウンのあるこの区間を雨の中で歩くのは大変でした。また、雄大な富士山の姿を含め、周囲の南アルプスをはじめとした山々の風景を楽しめたのも、この約4kmの区間を2日目に回してくれたからこそのことでした。
尾白橋で尾白川を渡った先の花水坂入口交差点(三叉路)で国道20号線を横断します。この花水坂入口交差点で国道20号線から右に分岐する道路は山梨県道617号台ヶ原富岡線で、この交差点からすぐのところで釜無川を花水坂橋で渡ると、花水坂という風流な名前の付いた坂道にかかります。
この花水坂は、甲州五道九筋の1つで、かつては甲斐国と信濃国を結ぶ重要な道の1つでした。七里岩の上の台地を「逸見(へみ)の台地」と呼ぶのですが、七里岩は釜無川に落ち込む断崖に囲まれ、長い間人々の往来を拒み続けてきました。その昔、七里岩の崖下にある武川筋と崖上にある逸見筋を結ぶ路は、2ヶ所だけでした。その1つは、韮崎近くの穴山からくだる「尻こすり」という小さな沢道で、あと1つは、ここ日野から逸見に向かう「日野坂(またの名を花水坂)」の2つだけでした。

この日野坂(花水坂)は七里岩のうち最もなだらかな場所を通るため、古代から道が開けていました。この花水坂から眺める富士は、南部町の西行峠、笛吹市の御坂峠と並び「甲斐富士見三景」の1つとして古くから人々に親しまれてきました。最も美しい季節は春。巨大な松の中に山桜が咲き盛り、それが深沢川の川面に移り、花水坂という風流な名前のとおりの絶景となるのだそうです。古代、あの日本武尊(やまとたける)も東征の帰りにこの坂を通り、山水の極美、富士山と桜、岩と清流の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。日本武尊が休息したとされる場所は「休み平(やすまんていら)」といい、現代でもこの一帯にはこの地名が残っています。ちなみに、この花水坂を登った先にある七里岩の台地の上の地名は北杜市長坂町(旧北巨摩郡長坂町)。この「長坂」という町名のは、花水坂に由来するといわれています。 

甲州街道は残念ながらその「甲斐富士見三景」の1つ花水坂を通らないので、絶景と言われる花水坂からの富士山の姿を拝むことはできません。国道20号線もこの花水坂入口交差点から登坂車線が用意されているようなかなり斜度の大きな急坂にかかります。この坂道の先が台ヶ原宿のある白州町台ケ原です。


……(その8)に続きます。

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