2019年1月17日木曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その11)

『大人の修学旅行2018in出雲松江』の2日目の朝は宍道湖に上がる朝日で目が覚めました。前日は雲が多く、「日本夕陽百選」にも選定されている宍道湖に沈む夕日を残念ながら楽しむことができなかったのですが、この日は朝から雲1つない快晴で、宿の窓のカーテンを開けると宍道湖越しに対岸の松江市の市街地の上を登ってくる朝日が見えました。残念ながら松江市の市街地からこの松江しんじ湖温泉までの距離が短く、湖面に映る朝日の長さは短かったのですが、それでも神々しさが感じられる素晴らしい風景です。出雲大社側からだと宍道湖の対岸にある松江市まで距離があるので、湖面に映る朝日の光の帯も長いと思われますので、さぞや神々しい風景ではないかと容易に想像できます。この風景を目にすると、出雲の国において数々の神話が生まれたのも、分かるような気がします。


全員揃っての朝食。前日あんなに遅くまで飲んで騒いでいたのに、朝になると皆さんケロッとして元気です。さすがさすが。朝が苦手な私は今年も一番最後に着席(遅れたといっても5分ほどですが…)。眼を覚ますために朝風呂にゆっくり入っていましたからねぇ〜。せっかくの温泉。朝風呂まで楽しみたいですから。ここはマイペースです。



朝食を済ませると、宿をチェックアウト。『なにわ一水』の送迎バスに乗って松江観光に出かけました。



松江市は島根県の東部(出雲地方)に位置する都市で、同県の県庁所在地です。北は日本海に接する島根半島、さらに宍道湖と中海、南は中国山地に挟まれた地域に広がり、松江藩の城下町を中心に発展してきた山陰最大の人口(20万人)を擁し、鳥取県の米子市とともに中海・宍道湖経済圏の中核を担っています。松江市の市街地は宍道湖から中海に注ぐ大橋川によって南北に二分され、北側が橋北(きょうほく)、南側が橋南(きょうなん)と呼ばれています。宍道湖畔、大橋川の両岸に築かれた町であることや松江城下の堀川(外堀、内堀)の保存状態も良いことから「水の都」と呼ばれています。

松江市は松江藩の城下町として発展してきた都市であることは前述のとおりです。松江市の歴史に関して、一般社団法人 松江観光協会のHPから抜粋して、一部加筆のうえ掲載します。

松江市南郊の大庭・山代・大草地域には多くの古墳群があります。山代二子塚古墳(94メートル)は出雲地方最大の前方後方墳です。風土記の丘の岡田山一号墳からは、「額田部臣」銘文入りの太刀(重要文化財)が出土しています。矢田町の平所(ひらどころ)遺跡から出土した埴輪の「見返りの鹿」(重要文化財)は、写実的で洗練された造形美を見せています。

奈良時代には大草町の六所(ろくしょ)神社周辺に出雲国の国府が置かれ、中央政府から派遣された国司が出雲国9(平安時代には10)を治めました。『万葉集』巻三には「出雲守門部王、京を思ふ歌」として「飫海(おうのうみ)の 河原の千鳥 汝()が鳴けば 吾が佐保河の 思ほゆらくに」という出雲国司として赴任した門部王(かどべのおおきみ)の歌が載っています。この飫海は現在の中海、佐保河は奈良の都を流れる川のことで、出雲国庁にあって遠く奈良の都をしのぶ望郷の歌とされています。東出雲町の阿太加夜(あだかや)神社境内にその歌碑が建っています。天平5(733)に編纂された『出雲国風土記』は、唯一の完本風土記として、残されています。出雲国府跡や竹矢町の出雲国分寺跡の遺構は復元され、往時の面影を偲ぶことができます。また、古墳や国府・国分寺の出土品は、「県立八雲立つ風土記の丘資料館」で見ることができます。

鎌倉幕府の成立によって、出雲国守護に補任された佐々木義清が入城した広瀬(島根県安来市)の月山富田(がっさんとだ)城は、南北朝時代には山名氏、室町時代には京極氏の居城となりました。富田城が最も華やかに歴史の舞台に現れたのは、京極氏の守護代であった尼子経久の時代です。尼子経久は守護の京極政経を追放し、戦国大名に成長しました。尼子経久の孫・尼子晴久は天文21(1552)、出雲・隠岐・伯耆・備前・美作など山陰・山陽8ヵ国の守護職につき、尼子氏として最大の範囲を領有支配しました。尼子晴久はさらに勢力拡大を図るため、安芸の毛利氏を攻めたのですが敗北し、さらに尼子義久の代になって毛利元就に侵攻され、永禄9(1566)、月山富田城は開城しました。

慶長5(1600)11月、関ヶ原の戦いに戦功のあった堀尾忠氏は、出雲・隠岐両国24万石の太守として、父・堀尾吉晴と共に、遠江国(静岡県)浜松から広瀬の月山富田城に入りました。しかし、月山富田城は中世の山城で、戦国時代には難攻不落を誇ったのですが、近世(江戸時代)になり軍事用の目的が薄くなると一気に時代遅れの城となってしまいました。近世には政治・軍事だけでなく、経済機能と多くの武士を住まわせる城下の構築を必要としていました。そこで堀尾吉晴・忠氏父子は幕府の許可を得て松江に移城することにしました。堀尾吉晴・忠氏父子が松江を選んだ理由は「交通の便に恵まれている」「城下町を形成することができる平地がある」等だったと言われています。当時、最大の交通手段だったのは船。宍道湖から大橋川、中海を通じて国内諸国はもとより、遠く海外まで見据えることができる要害の地・松江は、大きな飛躍と可能性を感じさせる地として堀尾吉晴・忠氏父子の目に映ったことは想像に難くありません。堀尾吉晴・忠氏父子は松江市の南に位置する床几山に登り、城地や城下の場所を選定したと伝えられています。しかし、慶長9(1604)、堀尾忠氏が28歳で急死、嗣子の忠晴は6歳であったため、祖父の堀尾吉晴が国政を補佐し、城と城下町の建設は慶長12(1607)に着工。5年の歳月をかけて慶長16(1611)に完成しました。

完成した松江城は、亀田山(28.4メートル)の低い丘陵上に構築された平山城です。天守は複合式で45階地下1階の望楼型。外壁は黒を基調とし、桃山時代初期の古式を伝える建築です。松江城天守は我が国に現存する12の天守の一つで、古さでは5番目、高さでは3番目、平面規模では姫路城に次いで2番目の威容を誇っています。

城下の町割りは、松江大橋の橋北の城に近い殿町・母衣町・内中原町・田町一帯を侍町、その外側の末次本町・茶町・苧町・東本町は町人町として形成されています。大橋川を挟んだ橋南の白潟本町・八軒屋町・天神町・灘町などは町人町、その南は足軽が住む雑賀町になっています。また、橋南の東側には、合戦のとき出城となる寺町があります。城は内堀で囲み、侍町の周囲には外堀(北田川・京橋川・四十間掘川・田町川)がめぐり、道路は鈎型路・丁字路・袋小路や勢溜(せいだまり)を設け、実践を意識した合理的・計画的な城下町になっています。

松江藩開府の祖である堀尾氏は3代で嗣子がなく断絶。寛永11(1634)に京極忠高が出雲・隠岐2ヶ国264千石の領主として、若狭国小浜から入封して、斐伊川・伯太(はくた)川の治水に努めたのですが3年で病没。これまた嗣子なく、断絶してしまいました。(ちなみに、私達が卒業した香川県立丸亀高校のある讃岐国丸亀藩初代藩主の京極高和は京極忠高の養子です。京極家は明治維新まで丸亀藩主を勤めました。)

寛永15(1638)、信濃国松本から松平直政(徳川家康の次男・結城秀康の三男)が出雲国186千石(隠岐は天領として幕府預かり)の藩主として松江城に入りました。これ以降、松江藩は親藩として明治維新まで続きます。この松平氏の時代は、度重なる天災や幕府への公務の出費などで藩財政が悪化していきました。第6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)は中老・小田切備中尚足を補佐役として「延享の改革」を実施したのですが成功せず、隠居して藩主の座を次男の治郷(はるさと)譲りました。第7代藩主になった松平治郷は家老・朝日丹波郷保を登用して「御立派の改革」といわれる藩政改革を行い、勧農抑商の政策によって藩財政は次第に好転していきました。また、松平治郷は“不昧(ふまい)”と号し、茶の湯を極め、名物茶器の収集、陶芸・木工芸などの振興を図り、茶道文化の成熟に寄与し、茶の湯と和菓子の文化を今に伝えています。

10代藩主・松平定安は美作国津山藩松平家より第9代藩主・松平斉貴(なりたけ)の養子として迎えられ、親藩として、長州征伐や鎮撫使事件など幕末の多難な時期の藩政に当たりました。明治2(1869)の版籍奉還の後、定安は松江藩知事となり、廃藩置県が行われた明治4(1871)まで務めました。

明治維新後、松江は島根県都となり、明治22(1889)に市制を施行しました。1890(明治23)8月、ギリシャ生まれのイギリス人ラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が島根県尋常中学校の英語教師として赴任し、のちに妻となる小泉セツと出会い、塩見縄手の旧武家屋敷で暮らし、翌年11月、熊本の第5高等学校に転任しました。ハーンは『知られざる日本の面影』を著わして日本文化を広く世界に紹介しました。

昭和26(1951)3月、ラフカディオ・ハーンの由縁をもって、松江市は住民投票を経て京都、奈良に次いで全国3番目の国際文化観光都市となりました。また、小泉八雲旧居や武家屋敷が並ぶ塩見縄手は、昭和48(1973)、松江市伝統美観保存条例の美観地区に指定され、昭和62(1987)には「日本の道百選」に選ばれています。

前述のように、松江市は「水の都」で「東洋のベネチア」とも言われています。築城の際に作られた内堀と外堀を巡る遊覧船の運航が平成9(1997)に始まりました。屋根つきの小船に乗って、そうした伝統美観地区の眺望や松江城を取り巻く自然を楽しむことができます。


その松江城の内堀と外堀を巡る遊覧船「松江堀川めぐり遊覧船」に乗船しました。松江城を取り囲む堀川は、慶長16(1611)の松江城築城の際に堀尾吉晴によって作られた内堀と外堀、すなわち人工の運河です。堀川は築城当時のままの姿を残しているところも多くあり、松江市の市内中心部のいたるところで見ることができます。かつては武士や殿様がお城に行くのに船を使ってこの堀川を通ったとされています。そんな松江城の堀川を約3.7km、約50分をかけてゆっくりと景色を楽しみながら船で巡るのが堀川めぐり遊覧船です。



船上から眺める松江の街並みはどこか懐かしく、水辺を彩る草花や水鳥が四季を感じさせてくれます。冬の風物詩であるコタツ船も好評なのだそうです。乗り込むと船の中央にはテーブルに布団がかけられていて、「おっ! コタツ船か!」と一瞬期待しちゃったのですが、残念ながら12月初旬のこの時期はまだコタツ船にはなっていませんでした。しかし、この布団がかけられたテーブルには意味、と言うか、別の利用法があって、それはすぐ後で分かります。

遊覧船への乗り場は3箇所(ふれあい広場乗船場、カラコロ広場乗船場、大手前広場乗船場)あり、私達はそのうちのふれあい広場乗船場から乗船して、大手前広場乗船場に向かいます。

まず新橋の下をくぐり、右折すると細い水路に入ります。ここからは松江城の内堀です。堀川めぐり遊覧船は全長約8メートル、幅約2メートルの小さな船ですが、幅ギリギリの狭い水路も通ります。進行方向の左岸は松江城です。両岸は石垣で覆われています。


 島根県庁が見えてくると、一旦、内堀を離れ、外堀(京橋川)に入ります。外堀に入るとちょっと川幅が広がります。




堀川めぐり遊覧船では、途中、17もの橋の下をくぐり抜けます。その17の橋の中には水面からの橋桁の高さがかなり低い橋もあります。そういう橋の下をくぐる時には、遊覧船は屋根を下げて橋の下をくぐるようにできています。すなわち「下がる屋根」です。屋根が下がってくると、それに合わせて乗船しているみんなで頭をさげるのですが、半端なく下がってくるので、その時には布団がかけられたテーブルに頭()を押し当てることになります。なるほど、この布団がかけられたテーブルはそういう使い方のためにあるのですね。この光景はとても面白く、みんな大興奮です。そういう屋根を下げないとくぐれない橋は4(うべや橋、甲部橋、新米子橋、普門院橋)あります。まずはその中の1つ、うべや橋の下をくぐります。



くぐり抜けると、屋根は元の高さに戻ります。堀川めぐり遊覧船の乗船場の1つ、カラコロ広場乗船場です。



 外堀(京橋川)の進行方向左岸は侍町、右岸には商家が建ち並んでいました。右岸にはそうした商家の荷降ろしのための船着場が幾つか昔のまま残っています。



京橋川を左折して米子川に入ります。この米子川も外堀の1つです。この米子川に入ると、甲部橋、新米子橋、普門院橋と屋根を下げないとくぐれない橋を次々と3つ連続してくぐります。その都度、屋根が下がったり上がったりします。



堀川めぐり遊覧船は松江市のさまざまな表情を見せてくれます。ふれあい広場乗船場を出て島根県庁あたりまでの内堀区間は松江城址の“自然豊かな松江”、外堀に入って京橋川沿いは市街地区間で“今の松江”、そして米子川に入ってからは江戸時代の風景が残る“昔の松江”とでも言うべき風景の区間に入ります。

船頭さんの説明によると、このあたりは梅雨の季節にはアジサイ(紫陽花)や花ショウブ(菖蒲)が咲き誇って美しいところらしいのですが、今は紅葉です。静かな川面に木々の紅葉が映って、とても印象的です。


 米子川を左折し、普門院橋の下をくぐります。この普門院橋が、最後の「屋根を下げないとくぐれない橋」です。



また、堀川めぐり遊覧船では、船頭さんが松江の城下町をいろいろと紹介してくれるので、次に行くスポットなどのことも事前に勉強できちゃいます。さらに撮影スポットなどで止まってくれるのでじっくりと写真を撮影することもできます。松江城を撮影するなら、この場所がベストの撮影スポットなのだそうです。



 北堀橋です。宝暦年代(1751年~1764)の城下町に橋が40あったそうで、その中の1つです。記録によると、当時の橋の長さは164(30.3メートル)、幅は2(3.6メートル)だったそうで、松江城と武家屋敷を結ぶ重要な橋でした。



この江戸時代そのもののような橋は宇賀橋です。宇賀橋の先は塩見縄手と言って、武家屋敷が建ち並んでいます。ここから先は内堀に戻ります。



 宇賀橋をくぐって左折し、北惣門橋をくぐると終点の大手前広場乗船場が見えてきます。進行方向右岸は松江城で、野面積みの石垣が見事です。



大手前広場乗船場に到着しました。大手前広場乗船場は松江城の大手門(正門)前にあります。大手前広場乗船場近くの「島根ふるさと館」に荷物を預け、次は国宝・松江城の見学です。




 ……(その12)に続きます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...