2019年1月15日火曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その9)

前述のように、古代出雲歴史博物館には、荒神谷遺跡より出土した国宝を含む銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個、加茂岩倉遺跡より出土した国宝の銅鐸39個等が展示されています。


銅剣、銅矛、銅鐸と書きましたが、正しくは青銅(せいどう)製の剣、矛、鐸です。青銅(bronze ブロンズ)とは、銅(Cu)を主成分として錫(スズ:Sn)を含む合金のことです。砲金と呼ばれることもあります。本来の青銅は光沢ある金属で、その色は黄金色など添加物の量によって微妙に異なります。しかしながら、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じながら緑青と変化していきます。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり一般的に言われるところの青銅色になります。

青銅には、適度な展延性と鋳造に適した融点の低さや流動性があり、鉄が銅よりも安価かつ大量に供給されて普及する以前には、最も広く利用されていた金属でした。銅は柔らかくてとても道具として使えないのですが、錫(スズ)を混合することにより銅より硬くなり、研磨や圧延などの加工ができるようになります。また木炭を使った原始的な炉でも熔解できたので、古代には斧・剣・銅鐸などに広く使われました。青銅は紀元前3000年頃、初期のメソポタミア文明であるシュメール文明で発明されたとされています。イラン高原は、銅と錫、燃料の木材が豊富で、また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られたと考えられています。

古代は金属器というと青銅の利用がほとんどだったのですが、より硬く、より安価な鉄の製造技術が確立すると、多くの青銅製品は鉄製品に取って代わられ、青銅器の時代から鉄器の時代へと移行していきました。また、貴金属製品としても金や銀、その合金のほうが主流となりました。しかしながら鉄より錆びにくく加工が容易であることから、例えば建築物の屋根葺板、あるいは銅像といった用途では鉄器時代以降、現代に至るまで長く使われています。特に大砲の材料としては19世紀頃まで用いられていました。これは大砲のような大型の製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったためで、青銅を砲金と呼ぶのはこれに由来します。しかし、19世紀以降の製鉄技術の進歩によって、鉄製大砲へ移行することとなりました。

日本へは紀元前4世紀頃、鉄とともに九州へ伝わったと考えられています。国内での生産が始まったのは紀元前1世紀頃。ちなみに鉄も青銅と同時期に日本に伝わったのですが、製造・加工技術の確立に時間を要し、鉄の国内での本格的な生産(製鉄)が始まるのは紀元後5世紀頃だと推測されています。2世紀には青銅を用いた大型の銅鐸なども作られ、その製造・加工技術は世界的に見てもかなり高い水準に達していました。初めは剣や矛といった武器にも青銅が使われていましたが、その後、鉄の製造・加工技術が確立していくと実用の道具としては鉄製品が主に用いられるようになったため、青銅製品の使用は主に祭器が中心となっていきます。このあたり、工学部出身のエンジニアとしての好奇心が大いにくすぐられるところです。

荒神谷遺跡より出土した358本の銅剣(国宝)です。紀元前2世紀から紀元後1世紀という弥生時代に作られたものです。1本の長さは50cm前後とそれほど大きなものではありませんが、こうして並べて展示されていると、その量がいかに膨大なものであるかが分かります。


こちらは同じく荒神谷遺跡より出土した16本の銅矛(国宝)です。これも紀元前2世紀から紀元後1世紀という弥生時代に作られたものです。剣や矛といった武器類は、初めは実戦に使えるものであったようですが、日本ではほぼ同時期に鉄器や製鉄技術も伝来しており、武器や実用道具は性能に優れた鉄器にとって代えられていきました。そのため、青銅器は実用品としてはあまり使わないようになり、武器の形をした祭器に変わっていったと考えられています。


こちらは荒神谷遺跡から出土した6個と、加茂岩倉遺跡より出土した39個の銅鐸(国宝)です。これも紀元前2世紀から紀元後1世紀という弥生時代に作られたものです。荒神谷遺跡から出土した6個の銅鐸は、16本の銅矛とともに埋められていました。銅鐸がいったい何に使われたか、どういう性格のものかは現時点では明らかになっていないのですが、稲作の豊穣を祈る祭りに用いられるものだったのではないかという見方が有力です。弥生時代後期になると北部九州地方では銅矛、瀬戸内海沿岸地方では銅剣、近畿地方では銅鐸が祭祀の時の重要な祭器として使われたと言われています。

   
これは加茂岩倉遺跡より出土した銅鐸で、表面にウミガメが描かれています。


このほか、両遺跡から出土した青銅製の銅鏡や各種道具類が展示されています。


「岡田山1号墳に葬られた有力豪族の活躍」と題して、弥生時代後期、この出雲地方を統率した額田部臣(ぬかたべのおみ)が中国大陸からの外交使節を迎える様子が、ジオラマで再現されています。


こちらは6世紀後半、太刀や馬具が最も煌びやかであった時期の出雲地方西部の大豪族の装いを、上塩冶築山古墳(出雲市)の出土品から再現したものです。身につけた冠や太刀、馬に付けられた馬具は、いずれも大和朝廷への奉仕に対して与えられたもので、彼が出雲地方西部で最高位の豪族であることを大和朝廷が認めるものだったと考えられています。


安来市の大成古墳、松江市の上野1号墳、雲南市の神原神社古墳から出土した古墳時代前期(3世紀)から中期(4世紀)にかけての太刀です。この頃になると製鉄の技術も相当に進化したようで、鉄製の太刀です。


雲南市の神原神社古墳から出土した鉄製品の数々です。古墳時代前期(3世紀)に作られたもので、武器のほか、斧や鎌、錡(のみ)、錐(きり)等の農耕具があります。これは、ここに眠る人物が、これらの工具を使って生産される農作物や加工産品の物流を握る大きな力を持っていたことを物語っていると考えられます。


島根県仁多町の常楽寺古墳から出土した埴輪です。6世紀中頃のものと考えられています。男子像埴輪は「つば付きの帽子」を被っています。また女子像埴輪は粘土板で作られた髷で頭を覆い、供物を捧げ持っています。こうした人物埴輪は松江市の岩屋後(いわやあと)古墳でも出土しており、出雲地方の有力古墳の埴輪には、地域を越えた共通性が見られるのだそうです。


「須恵器子持ち壺」です。この須恵器子持ち壺は親壺の肩に子壺を付け、親壺を器台に乗せた独特の形をしています。出雲地方では親壺や子壺に底がない特色のある子持ち壺が見られ、出雲型子持ち壺と呼ばれています。この出雲型子持ち壺は、石棺式石室とともに古墳時代後期(5世紀)における出雲地方東部の古墳祭祀を特徴づけるものなのだそうです。


「再解釈される神話」ですか…。確かに、奈良時代、『古事記』や『日本書紀』は律令国家の正統性を語るための書物であり、そこに描かれる神話もその影響をまぬがれませんでした。やがて仏教的な世界観が浸透すると、神々は仏教と関連づけられるようになります。江戸時代後半になると、『古事記』は国学者たちによって、日本の「穢れのない真実」を見出すための書として活用されました。さらに近代になると、天皇を中心とした国家の拠りどころとして扱われるようになりました。このように時代によって神話の解釈は微妙に異なっています。なので、科学技術の発達した現代においては、それに沿った解釈、言ってみれば『理系の観点からの解釈』があってもいいわけで、“神話のふるさと”とも言える出雲地方に来たこともあり、是非そういう観点で『古事記』や『日本書紀』に描かれた日本神話を読み返してみるのも面白いかも…って思っています。


古墳時代中期(西暦300年代)から奈良時代(西暦700年代)あたりまでの土器や道具類です。その土器や道具類から、その当時から出雲地方と全国各地との間で活発な交流・交易があったことが判明しているのだそうです。

  
これは律令時代(西暦700年代)の遺跡から出土した品々です。この展示の中で私が注目しているのは「木簡」です。これは短冊状の細長い木の板で、荷物の送り主と宛て先を記す“荷札”として長く使われてきました。したがって、これを読み解くと、当時の物流の状態が解る極めて貴重な資料です。時間があればこれだけでもじっくりと見ていたかったのですが、バスの出発時間が迫っていたので、残念ながら諦めました。さすがに出雲です。とにかく、この古代出雲歴史博物館には見るべきものがたくさんあります。



……(その10)に続きます。

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