2018年12月3日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その7)


中ノ御門を入ってすぐのところにあるのが「大番所」です。この大番所は中ノ御門を警備するための詰所でした。中ノ御門の内側に設けられ、百人番所、同心番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸への最後の番所であり、警備上の役割は極めて重要なところであったと考えられています。この大番所も同心番所や百人番所と同様に江戸時代から残る貴重な遺構です。

この中ノ御門で各大名のお供は5人だけになります。


中ノ御門に入り大番所前を左に進むと、重厚な石垣に囲まれた坂道があります。現在はスロープになっていますが、かつてこの坂は雁木石段、すなわち前回【第7回】に訪れた清水御門で見られたような段差がマチマチの非常に登りにくい構造をした石段でした。その登りにくい雁木石段を徳川御三家も、加賀国金沢藩100石前田家の殿様をはじめ、全国各地の歴代大名も、大岡越前守忠相や遠山左衛門尉(金四郎)景元といったお奉行様も登って本丸に登城したわけです。


坂の途中に最後の門である御書院御門があります。この御書院御門と周囲の石垣は、慶長12(1607)に、大手御門と同様、伊予国今治藩初代藩主であった藤堂高虎が築いたものです。明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、万次元年(1658)に陸奥国二本松藩主・丹羽重之により再建されました。さらに文久3(1863)11月の火災で本丸御殿が焼けた時に、御書院御門も類焼して、焼失しました。現在は石垣が残るのみです。


前述のように、この御書院御門は中雀御門(ちゅうじゃくごもん)、または玄関前御門とも呼ばれていた江戸城本丸に向かう最後の関門です。大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示している写真は文久3(1863)11月の火災で焼失する以前に撮影された御書院御門の貴重な写真です。写真の右が本丸入口の御書院御門(冠木門)で、左が新門、左の櫓が書院出櫓(重箱櫓)、右が書院二重櫓です。


中雀御門とは、扉に真鍮の化粧金具を取り付けた鍮石門の由来によります。また四神思想に基づき、本丸の南にあるので、南の守護神である朱雀から名付けたとの説もあります。徳川御三家といえどもこの門前で駕籠を降り徒歩で玄関に向かいました。この御書院御門の警護は、御書院番の与力10騎、同心20名が鉄砲25・弓25を備えていました。渡櫓門を通過した右手に御書院番与力番所がありました。


この御書院御門の枡形の石垣には表面が割れ焼け焦げた痕が見えます。これは第3代将軍・徳川家光が建てた天守台(天守閣の土台)の石垣で使われた石です。この徳川家光の天守台は寛永12(1637)に筑前国福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と安芸国広島藩の第2代藩主・浅野光晟により伊豆石の安山岩を用いて築かれました。しかし、明暦3(1657)の明暦の大火で天守が焼け落ち、列火にまみれた天守台の石垣は損傷して再利用できず、この御書院御門前の枡形の石垣として加工転用されました。当時は板塀で覆い隠していたのだそうです。この石が丸く変形しているのは烈火の勢いが強すぎて、石の中に含まれる水分が膨張して炸裂したことによるのだそうです。明暦の大火の火の勢いを感じさせます。


この御書院御門から先は大名はすべての供の者を残し、たった1人で本丸に進むことになります。家来が持ってきた「肩衣(かたぎぬ)」という上半身に着る袖の無い上衣と「袴(はかま)」の組合せから成る裃(かみしも)を小袖の上から着て、刀(太刀)を家来に預けて、短い脇差だけを差して、茶坊主の案内で本丸へと進みました。


ちなみに、茶坊主は、決してお坊さんではありません。直参旗本の武士から選ばれ、世襲制でした。江戸城における剃髪した者は、上を同朋、下を坊主と言い、仕事は主に給士でした。文書を運んだり、掃除をしたり、時間を知らせたり、将軍と家族の身辺を世話したり、登城してくる大名の案内をしたりと様々でした。頭を剃っているのは、僧侶の場合、「方外(世間の外)」を意味していますが、江戸城の茶坊主もまた、同様の意味を込めて、剃髪していたわけです。男子禁制の将軍の家庭「大奥」を管理するためにはそういう例外的な存在が必要になりますから、そのようにしていたわけです。つまり、歌舞伎に出てくる「黒子」みたいなものです。また、「茶坊主」はある意味、蔑称ですが、決してお気楽な仕事ではありませんでした。かなり厳格なもので、古典の教養に深く、歌学や茶道に堪能で、道具の鑑定眼も確かでした。ですので、副収入も多かったようです。


先ほど大名は刀(太刀)を家来に預けて、短い脇差だけを差して本丸に進んだと書きましたが、例外的に大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示す10人の大名(刀持ち上がり大名)だけは控えの間まで太刀の帯刀が許されていました。


ここから右に入る脇道があります。ここは大名以外の老中、大目付、奉行が進む道でした。大名は御書院御門を抜けるとまっすぐに本丸御殿の玄関に進みました。


……(その8)に続きます。

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