2本のケヤキが門柱のように聳えているところがあります。ここが本丸御殿の玄関だった場所です。
江戸城の本丸御殿は慶長11年(1606年)に完成しましたが、その後何度も地震や火災により倒壊・焼失し、そのたびに再建されました。
記録に残っているだけでも、
• 元和8年(1622年)改築
• 寛永14年(1637年)新造
• 寛永16年(1639年)焼失
• 寛永17年(1640年)再建
• 明暦3年(1657年)焼失…明暦の大火
• 万治2年(1659年)再建
• 弘化元年(1844年)焼失
• 弘化2年(1845年)再建
• 安政6年(1859年)焼失
• 万延元年(1860年)再建
• 文久3年(1863年)焼失
と、再建・焼失を何度も繰り返しています。
天守閣も、初代将軍徳川家康による慶長12 年(1607年)建造の天守閣(慶長天守閣)、第2代将軍徳川秀忠による元和9年(1623年)建造の天守閣(元和天守閣)、第3代将軍徳川家光による寛永15年(1638年)建造の天守閣と代替えごとに3度建造されています。特に第3代将軍徳川家光の代に建造された天守閣は江戸幕府の権威を象徴する我が国最大規模の天守閣で、「寛永天守閣」と呼ばれています。
慶長8年(1603年)、江戸幕府が開府して徳川家康は江戸城の大改修工事に着手しました。慶長11年(1606年)、筑前国福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と安芸国広島藩の第2代藩主・浅野光晟によって天守台礎石が築造。翌慶長12年(1607年)に駿府城天守や名古屋城の造営に携わった大工頭・中井正清によって、初代の江戸城天守閣「慶長天守閣」が完成しました。連立式の天守は白漆喰壁の鉛瓦葺きで、「雪をいただく富士山のよう」と評判になりました。江戸城は征夷大将軍の居城で、本丸まで攻め込まれても天守曲輪が独立して戦える日本最強の城でした。しかし、防御施設の役割よりも権威の象徴として諸大名や家臣、民衆から崇められることを目的としていたようなところがありました。
慶長10年(1605年)、家康から征夷大将軍の座を譲られ第2代将軍となった徳川秀忠は、特に元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中に据えて幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮していきました。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し(徳川御三家の誕生)、自身の子・忠長に駿河・遠江・甲斐を与えるなどのことを行いました。また、公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固め、為政者としての手腕は高く評価されたのですが、どうしても偉大な父・徳川家康の忠実な後継者であるという印象が強く、影が薄い存在ではありました。そこで、手を付けたのが天守閣の建て替えでした。元和8年(1622年)、本丸御殿中奥西に位置した慶長天守を破却。天守だけは自分の思いを遂げるという強い決意のもと、本丸の拡張という名目で、元和9年(1623年)、大奥西に隣接した桔橋門前(現在の天守台のある場所)に新たな天守閣「元和天守閣」を建造しました。
徳川秀忠は「元和天守閣」が完成すると、思いを達成したのか同元和9年(1623年)に上洛をして参内。将軍職を嫡男・家光に譲りました。寛永9年(1632年)、徳川秀忠が死去。第3代将軍徳川家光は旗本を中心とする直轄軍の再編に着手。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立しました。寛永12年(1635年)には武家諸法度の改訂を行い、大名に参勤交代を義務づける規定を加えました。対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していきました。幕府の基盤が安定したのはこの第3代将軍徳川家光の代で、世の中も大いに潤いました。徳川家光も数万のお供を従えるため巨大な費用がかかる日光東照宮参詣を3度、同じく大軍を従えた上洛を3回行うなど、徳川家光1代で500万両以上の膨大なお金を使ったと言われています。
寛永15年(1638年)、代3代将軍徳川家光は、父秀忠の建てた元和天守閣を破却し、新しい天守閣の建造に着手しました。家光は父よりも祖父家康を敬愛しており、父の遺物を破却することに躊躇はなかったと言われています。天守台石垣は、祖父家康が建造した慶長天守閣と同じく筑前国福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と安芸国広島藩の第2代藩主・浅野光晟、天守閣の一重は備後国福山藩初代藩主の水野勝成、二重は山城国淀藩初代藩主の永井尚政、三重は和泉国岸和田藩主の松井康重、四重は丹波国篠山藩主の松平忠国、五重は山城国長岡藩主の永井直清と7名の大名に命じた大掛かりな修築でした。建造された天守閣は元和天守閣を上回る大規模な木造建築で、天守台石垣の上に5層5階、最上階に鯱鉾を置き、唐破風と千鳥破風を配し、外壁を銅板張で仕上げた江戸幕府の権威を象徴する我が国最大規模、当時は世界最大規模ともいわれたほどの壮大な天守閣で、「寛永天守閣」と呼ばれました。さらに徳川家光は父・秀忠の築いた日光東照宮の社殿の大規模な改築も行いました。
ところが寛永天守閣も完成して幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受けることになりました。さらに正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に徳川家光は体制の立て直しを迫られることになります。
そのさなかの慶安3年(1650年)、第3代将軍徳川家光は病気となり、江戸城内で死去。嫡男・家綱が将軍職を継承し、第4代将軍徳川家綱となりました。その7年後の明暦3年(1657年)に発生したのが明暦の大火です。
明暦3年(1657年)1月18日、未明から春特有の北西の風が強く、しばらく雨も降っていなかったので江戸市中には土埃が舞い上げているような状態でした。午後2時頃、本郷円山町の本妙寺から出火した火は、駿河台、日本橋、深川方面に延焼。翌19日午前8時頃に鎮火しました。ところが、正午に小石川伝通院前の新鷹匠町から再び出火。北は駒込、南は芝方面にまで延焼しました。さらに午後8時ごろ3度目の火の手が麹町付近から上がり、城の北西からの強風に煽られ、内濠を越えて江戸城内に延焼してきました。第3代将軍徳川家光が造営した、当時、世界最大規模ともいわれたほどの壮大な天守閣「寛永天守閣」も二層目の窓の扉留具のかけ忘れが原因となって扉の隙間から火災旋風が侵入。瞬く間に天守閣全体が火焔に包まれました。さらに本丸の要所に配置されていた櫓や多聞に保管した大筒や鉄砲の弾薬に引火。これを機に寛永天守閣をはじめ本丸御殿、二の丸と主要な建物が全焼してしまいました。しかし、途中で風向きが変わり、西の丸御殿は罹災を免れ、本丸の避難先となりました。
翌20日の早朝に大雪が降り、ようやく鎮火したのですが、3度の連続した大火により、江戸城をはじめ大名屋敷500、社寺300、武家地と江戸の町の八百八町を全て焼き尽くしました。明暦の大火は焼死者10万数千人とも言われ、江戸期最大の被害をもたらした災害でした。
第4代将軍徳川家綱は、直ちに再建を計画。すると、加賀藩前田家は天守閣の再構築を申し出ました。それには訳がありました。元和6年(1620年)の大阪城の天下普請の際、加賀の穴太衆は総指揮を執った藤堂高虎に石積みの落度をきつく咎められ名誉失墜していたのでした。前田家では技術向上のため公儀穴太頭の戸波駿河や近江坂本の穴太衆を多数召し抱えて、名誉回復の機会を伺っていたのでした。加賀藩前田家は加賀領内から5,000人の人夫を徴用。万次元年(1658年)に鍬始めを行い、藩主前田綱紀が陣頭指揮を執る総力を傾けた手伝普請によって、瀬戸内海の天領小豆島や犬島産の御影石(花崗岩)を用いて天守台を築きました (南側の小天守台は伊豆産の安山岩で築かれています)。再建された天守台礎石の高さは寛永天守閣の7間から5間半と3メートルほど低くなっています。
ところが天守台が完成して、いよいよ天守閣の構築に取り掛かろうとした矢先に、第4代将軍徳川家綱の後見人で叔父にあたる幕府重臣で陸奥国会津藩初代藩主であった保科正之(徳川秀忠の4男)から、天守閣の再建について、待ったがかかりました。保科正之からの「織田信長が岐阜城に築いた天守閣が発端で、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言を第4代将軍徳川家綱は聞き入れ、天守閣の再建は後回しにされました。この保科正之の提言の根底には、これまで秀忠、家光と代替りのたびに、ともに父親との確執から天守を破却して、50年で3度も天守閣を建て替えるという愚挙を重ねてきた幕府のありようを見かねて阻止したというのがあったと推察されます。また、保科正之には、もはや豪勢な天守閣によって幕府が天下を威嚇する時代ではなくなった…との考えがあったともいわれています。さすがは日本史上屈指の名君との呼び声も高い保科正之です。
(ちなみに、徳川秀忠の4男で徳川家康の孫にあたる保科正之は幕府より松平姓を名乗ることを何度も勧められたのですが、養育してくれた信濃国高遠藩主・保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓で通しました。第3代の正容の代になってようやく松平姓と葵の御紋が使用され、親藩に列しました。この陸奥国会津藩の上屋敷が大手御門に最も近い現在の和田倉噴水公園のところにあったのも分かる気がします。そして陸奥国会津藩松平家の最後の藩主が、幕末期、京都守護職を務めた松平容保でした。)
明暦の大火で寛永天守閣が焼失した後に、天守閣の代わりとして使用されたのが富士見櫓です。三重の櫓ですが、江戸城のほぼ中央に位置しており、この場所は天守台についで高い場所(標高23メートル)であったことから、この富士見櫓が選ばれたのだそうです。で、第4代将軍徳川家綱が「以後はこの富士見櫓を江戸城の天守と見做すべし」と宣言してしまったことから、(その1)の和田倉噴水公園のところで書きましたように、これ以降諸藩では再建も含め天守閣の建造を控えるようになり、事実上の天守閣であっても、徳川将軍家に遠慮して、「御三階櫓」と称するなど高さや規模の制限を自主的に設けるようになりました。
江戸時代から天守閣が現存する城は全国で12あり、このうち弘前城(文化8年(1811年)に竣工)、備中松山城 (天和3年(1683年)に竣工)、丸亀城(万治3年(1660年)に竣工)、松山城(安政元年(1854年)に竣工)、宇和島城(寛文11年(1671年)に改修竣工)の5つの城の天守閣がそれにあたり、禄高のわりには天守閣が小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。以下の写真は伊予国松山藩久松松平家15万石の居城・松山城です。平山城で本丸御殿に三層の小さな天守閣が築かれています。15万石と言えば大大名に分類されます。それでもこのサイズの天守閣です。これより大きな天守閣を建てようものなら、武力強化により幕府転覆の疑いありと見做されて、それを理由に改易させられてもおかしくないくらいの雰囲気がありました。
天守閣を再建する代わりに幕府が取り組んだのが、江戸市中の復興で、その象徴が両国橋の建設でした。
江戸城外濠内濠ウォーク【第1回:両国→御茶ノ水】の(その1)でも書きましたが、「明暦の大火」では、前述のように瞬く間に外堀以内の江戸市中のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、10万人以上と言われる焼死者を出す未曾有の大惨事となりました。これは、当時、仙台藩伊達家を仮想敵国として捉えていた江戸幕府が江戸防備上の面から隅田川への架橋は奥州街道(日光街道)が通る千住大橋以外認めていなかったことにありました。前述のように市中から出火した火は折からの北西からの強風に煽られて次々に延焼。人々はその迫り来る火の手から逃れるように隅田川河畔に殺到したのですが、その隅田川には北にある千住大橋以外に橋が架けられていなかったことから逃げ場を失った多くの江戸市民が激しい火勢に飲まれ、10万人を超えると伝えられるほどの死傷者を出してしまうことになりました。関東大震災、東京大空襲、東日本大震災などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災による被害です。
この未曾有の大惨事を引き起こした「明暦の大火」は江戸幕府に大きな衝撃を与えることになり、事態を重く見た時の老中・酒井忠勝らの提言により「明暦の大火」を契機に江戸の都市構造の一大改造が行われました。徳川御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社の多くが移転しました。また、市区改正が行われるとともに、防衛のためそれまで千住大橋の1橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が次々と行われ、隅田川の東岸に深川などの市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進みました。さらに、防災への取り組みも行われ、市内各地に火除地や延焼を遮断するための防火線として広小路が設置されました。この広小路に関しては現在でも上野広小路などの地名として残っています。さらに、幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励しました。もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸の街はその後もしばしば大火に見舞われたのですが、これらの都市改造の成果により、その後は「明暦の大火」ほどの被害は出さずに済みました。
このことは江戸庶民のみならず、全国の庶民の心を一気に掴み、徳川幕府への信頼感は揺るぎないものとなり、その後200年以上も江戸幕府が、そして平和な時代が続くきっかけともなりました。
ちなみに、武で抑えるのではなく、民に向けて善政を施せば、幕府の地位は安泰である…という手応えを掴んだ第4代将軍徳川家綱は、「城下の復興を優先させる」として“延期”した天守閣の再建を再開することはありませんでした。保科正之が天守無用論を唱えて40年後、第6代将軍徳川家宣と第7代将軍徳川家継に仕えた側用人・間部詮房と儒学者・新井白石が、正徳2年(1712年)、天守閣の再建計画を推し進めたことがありました。再建案は寛永天守閣の図面を基に天守台石垣の上に5層5階、最上階に鯱鉾を置き唐破風と千鳥破風を配し、外壁に銅板張で仕上げた壮大なものでした。しかし、この再建計画は、正徳2年10月、第6代将軍徳川家宣が逝去したことで中断。再度俎上に上がったものの、今度は正徳6年(1716年)に第7代将軍徳川家継が逝去。この間、新井白石らが失脚したことによって実現には至らず、保科正之の提言を尊守すべくその後の歴代将軍もこれに倣い継承されたため、天守閣が再建されることはありませんでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿