このように壮大な天守閣こそ再建されなかったものの、この本丸には豪勢な御殿が幾つも建っていました。江戸城の中心であるこの本丸は、南北約400メートル、東西約120メートル、最大幅約200メートルという広大な敷地の周囲に高石垣と濠をめぐらした約4万坪の高台でした。そこに約130棟、建坪にすると約1万1,000坪(約3万6,000平方メートル)、サッカー場約4面分というオール平家(1階建て)の建物(御殿)がズラリと建ち並んでいました。敷地じゃあないですよ。建て坪です。
本丸御殿は、大きく「表」・「中奥」・「大奥」という3つの空間にわかれていました。「表」は幕府の中央政庁で、将軍の謁見など公的な儀式を行う場所であり、また諸役人が詰め政務を執る江戸幕府の政庁(最高執務機関)でもありました。「中奥」は将軍が起居したり、政務を執る将軍の公邸。「大奥」はTVドラマなどでも有名なように、将軍の御台所(正室)を中心に側室や後宮の女官が生活する将軍の私邸、生活場所でした。前述の建て坪約1万1,000坪(約3万6,000平方メートル)の本丸御殿のうち、「表」と「中奥」が合わせて約4,700坪(約1万5,000平方メートル)、「大奥」が約6,300坪(約2万1,000平方メートル)でした。
「表」の中心は400畳の大広間でした。この本丸表御殿は400畳の大広間だけでなく、次のような建物で構成されていました。
1.御書院御門(中雀御門)=本丸表御殿の正門で、中雀門からが江戸城本丸となります。
2.能舞台=公の儀式に能を上演する場でした。
3.大広間=400畳の巨大な広間で儀式・公式行事を執り行なう場でした。
4.松之廊下(松之大廊下)=『忠臣蔵』で有名な吉良上野介の殺傷事件が発生したところです。
5.柳之間=大名登城時の控の間の1つでした。
6.蘇鉄間(そてつのま)=大名登城時の供侍(ともざむらい)の待機場所でした。
7.虎之間=本丸を警備する書院番の詰所でした。
8.遠侍(とおさむらい)=御徒(おかち:お目通りできない将軍警備の下級武士)の詰所でした。
9.目付衆御用所=旗本・御家人を監督する役人(目付衆)の執務所です。
10.帝鑑之間=大名登城時の詰所でした。
11.白書院=公式行事用の部屋でした。
12.菊之間=警備護衛役のトップである番頭の詰所でした。
13.雁之間(かりのま)=大名登城時の詰所でした。
14.芙蓉之間=勘定奉行、寺社奉行、町奉行の詰所でした。
15.黒書院=公式行事用の部屋です。
16.御用部屋=老中・若年寄の詰所でした。
17.台所=将軍の食事を用意するところでした。登城した大名にはは各藩邸から弁当が届きました。
18.台所前三重櫓=表御殿台所前にあった三重櫓です。石垣だけが現存し、本丸展望台となっています。
ここが老中や若年寄、大目付、勘定奉行、寺社奉行、町奉行たちの控えの間であった芙蓉之間や御用部屋があったところです。先ほど御書院御門の先で、老中や大目付、奉行たちの玄関は他の大名達とは異なって脇道のようなところを進んできたと書きましたが、その脇道がここに出てきて、ここが玄関で、ここに控えの間がありました。
ちなみに、大名と異なり、老中や大目付、勘定奉行、寺社奉行、町奉行たちは毎日登城していました。土曜日曜もありません。激務でした。なので、彼等は月替わりでの勤務でした。江戸の町奉行には北町奉行と南町奉行の2名(中町奉行が置かれていた時代もあります)がいて、月替わりの当番制でした。当番の月は毎日登城し、非番の月は役宅で激務の疲れをただひたすら癒していました。当番の月は毎日登城していたので、あまりに忙しすぎて、TVドラマの『大岡越前』や『遠山の金さん』のように南町奉行大岡越前守忠相や北町奉行遠山左衛門尉(金四郎)景元が直接お裁きを下すことなどまずあり得ませんでした。裁判官の役割は吟味方という部下の与力の仕事で、大岡越前守忠相の場合、享保2年(1717年)に南町奉行の職に就いてから元文元年(1736年)に寺社奉行に異動するまでの19年間で大岡越前守忠相が直接手を下して裁いた事件の数は僅か3件に過ぎなかったと言われています。余談ですが、大岡越前守忠相は享保2年(1717年)に南町奉行の職に就いてから寛延4年(1751年)に病気による依願により寺社奉行を御役御免になるまでの34年間、月替わりとは言え、毎日、大雨が降っても大雪が降っても江戸城に登城し続けたわけです。それだけで凄い!!の一言です。
また、大手御門の門前の下馬のところで、大手御門から登城できるのは徳川御三家や御三卿、四品(朝廷から与えられる官位が従四位以上)の大名、禄高10万石以上の大大名に限られ、1万石から10万石のその他大勢の大名や直参旗本は大手御門ではなく内桜田御門(桔梗御門)から登城したということを書きましたが、本丸御殿内で将軍に拝謁する順番を待つ大名の控えの間に関しても、大名の出自・武家官位・城郭の有無・家格・禄高(石高)に将軍家との親疎の別などが複雑に絡み合って7席に決められて、厳然とした差が設けられていました。数字的に分かりやすい禄高(石高)に関しては、10万石以上が「大大名」、5万石以上が「中大名」、5万石以下1万石までを「大名」と呼ばれていました。この家格や武家官位、禄高(石高)等に応じて、前述のように登城に同行する家臣の人数や服装までもが細かく定められていました。このように、江戸城に登城すれば、大名達はいやがうえにも、自分の家格というものをまざまざと見せつけられていたのです。
江戸城の本丸御殿は慶長11年(1606年)に完成以降、何度も地震や火災により倒壊・焼失し、そのたびに再建されたというのは前述のとおりです。最後に焼失したのは文久3年(1863年)のことで、それ以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西の丸御殿に移したため、現在、本丸御殿跡は広大な芝生の広場になっています。
江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、天皇がその奏上を勅許した大政奉還があったのは慶応3年10月14日(1867年11月9日)のことですから、文久3年(1863年)というのはその4年前、まさに幕末のことです。
2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』では、宮﨑あおいさん演じる主人公の篤姫(天璋院)が、堀北真希さん演じる和宮(第14代将軍徳川家茂の御台所)を助けて、燃え盛る大奥から脱出し、西の丸御殿に入るシーンがありました (今年のNHK大河ドラマ『西郷どん』をはじめ、幕末期を描いたTVドラマ等では、何故かほとんど描かれることはありませんが…)。
謹慎中の第15代将軍徳川慶喜から対薩長の戦略を一手に任され、江戸の町が戦場として大火にならないようにと後を託された幕臣・勝海舟と、江戸に進駐してきた新政府軍の総参謀・西郷隆盛が田町の薩摩藩上屋敷(江戸藩邸)において交渉を行い、慶応4年(1868年)4月11日、江戸城無血開城を果たした時、江戸城本丸は焼け跡のままで1つの建物も残っておらず、残っていたのは西の丸御殿だけでした。
なので、慶応4年7月17日(1868年9月3日)、明治天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸の地で政務を執ることと、それに伴って江戸を東京とすることを宣言した後、同年10月13日(新暦11月26日)の1度目の東幸で江戸城に入城してこれを東京城と改称した時も、入城したのは本丸御殿ではなく西の丸御殿でした。
その後、明治12年(1879年)、太政官による造営令で、明治新宮殿と主要官庁の建設用地の選定が行われたのですが、同年6月に「本丸は新宮殿建設に不適当」と早々に決定されました。調査により周囲が甚だしく壊頽しており、多額の造成費用を要するという結果が出たためです。本丸はもともと低丘地で、周りの濠の開削土で10メートル以上の嵩上げを行い、その周りを石垣で寿司の軍艦巻のように仕上げているためでした。仮に地盤が強固であれば、桜田濠・半蔵濠・千鳥ヶ淵で見られる石垣のように基礎部の腰巻石垣と上部の鉢巻石垣で仕上げられるのですが、そうではありませんでした。加えて、江戸時代の地震で何度も崩壊した高石垣を積み直した記録も残っていましたから。なので、明治新宮殿は地盤が強固な西の丸に建てられることになり、現在も皇居の宮殿は西の丸にあるのです。
その後、本丸は日比谷入江を埋め立てた日比谷公園の軟弱地盤と同様に主要官公庁の建設地とすることも断念して、岩盤の安定した霞ヶ関が選定され、霞が関が主要官庁街となったのだそうです。さらに、霞が関よりも頑強な地盤のところに国会議事堂は建てられました。それで、現在、本丸御殿跡は広大な芝生の広場になっているわけです。
本丸御殿の跡は一面の芝生の広場になっているのですが、その周囲には様々な植物が植えられています。ツワブキの群生です。ツワブキはキク科ツワブキ属に属する常緑多年草(冬でも葉が緑のままで、1年や2年で枯れること無く、よく生き残れる草)で、艶のある大きな葉を持っており、毎年秋から冬に、キクに似た黄色い花をまとめて咲かせます。そのため「石蕗の花(つわのはな)」は、日本では立冬(11月8日頃)から大雪の前日(12月7日頃)までの季語となっています。この本丸御殿跡だけでなく、現在江戸城内では随所でツワブキの花が咲いているのが見られるのですが、この本丸御殿跡の群生が一番大きいそうです。
桜といえば「ソメイヨシノ」が有名ですが、ソメイヨシノは江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成されたエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生まれたサクラの中から、特徴のある特定の一本を選び抜いて接ぎ木で増やしていったクローン種です。実際に桜の名所の8割はソメイヨシノなのですが、実は桜には自生種9種をはじめとして変種、交配種もあわせると600以上の種類があるのです。そのうちの1つ、「鬱金(ウコン)」です。この鬱金は大変珍しい黄緑色の桜です。花弁は15~20枚程度。いわゆる飲酒時に飲むウコンと花の色が似ていることから名づけられました。この鬱金の花は、4月下旬に黄緑色だったのがだんだんと薄くなり、日が経つにつれてピンク色に変化していくのだそうです。
現在、本丸御殿の跡には今上天皇陛下・皇后陛下お手植えの果樹が何本も植えられています。
これは「ヨツミゾガキ(四つ溝柿)」です。ヨツミゾガキは主に静岡県駿東郡長泉町で生産されている柿で、先が尖り四角張っており、四方に浅い溝が入っているため、この名が付いているのだそうです。10月、11月が旬で甘柿よりやや小さめの渋柿です。渋抜きをすると独特の甘みが出て、果肉が柔らかくみずみずしい味わいがあるのだそうですが、今上天皇陛下・皇后陛下お手植えの果樹だけに採るのは御法度で、眺めるだけです。
こちらは「ロクガツナシ(六月梨)」です。ロクガツナシは我が国で古くから栽培されてきたナシの古品種です。群馬県の原産とされ、江戸時代後期には栽培の記録が残っているのだそうです。
「キシュウミカン(紀州蜜柑)」です。現在、一般的に「みかん」と認識されているウンシュウミカン(温州蜜柑)と違い各房に種があり、果実の直径は5cm程度、重さは30〜50 グラム内外と小ぶりのミカンで、西日本では小ミカンと呼ばれています。かつてはみかんといえばこのキシュウミカンを指すのが一般的だったのですが、小ぶりで種があり食べづらいこと、酸味が強いことなどの理由が一般消費者に敬遠され、代わりに種がなく甘みが強いウンシュウミカン(温州蜜柑)に急速に取って代わられ、現在では最盛期の頃と比べ作付面積は極端に少なくなっています。15世紀〜16世紀頃には紀州有田(現和歌山県有田市・有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられ、東日本ではキシュウミカンと呼ばれるようになりました。また江戸時代の豪商である紀伊國屋文左衛門が、当時江戸で高騰していた小ミカンを紀州から運搬し富を得たとされる伝説でも有名です。
「クネンボ(九年母)」です。クネンボは東南アジア原産の柑橘の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされたのだそうです。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭)があります。江戸時代にキシュウミカン(紀州蜜柑)が広まるまでは江戸の市中で出回る柑橘はこのクネンボが中心だったようです。また、クネンボは日本の柑橘類の祖先の1つとなっています。ウンシュウミカン(温州蜜柑)とハッサク(八朔)はクネンボをベースとした交配種であるなど、クネンボは日本の柑橘の在来品種の成立に大きく関与している品種とされています。
「サンボウカン(三宝柑)」です。サンボウカンは江戸時代の文政年間(1818年〜1829年)に和歌山藩士野中為之助の邸内にあった木が原木とされています。非常に珍しかったので藩主の徳川治宝に献上したところ、「三宝柑」の名称をつけて、藩外移出禁止を命じ、一般人の植栽を許可しなかったのだそうです。名前の由来は、その珍しさ故に三方に載せて和歌山藩の殿様(徳川御三家の1つ紀州徳川家)に献上されていたことから付けられたと言われています。現在は和歌山県湯浅町栖原地区で主に生産され、「栖原三宝柑」と呼ばれているのだそうです。果実の形状としてはダルマ形でデコポンに似て果底の部分が膨らんでいます。果皮は柔らかくて剥きやすいのですが、かなり厚く果肉は少なく、種が非常に多いという特徴があります。
「エガミブンタン(江上文旦)」です。エガミブンタンは、江戸時代に今の長崎県で偶発的に実生苗から発生した品種といわれています。現在は長崎県の一部で生産されておりますが、生産量は少ないようです。果実は平均800g程度で、平戸文旦よりも果皮色は淡い色で、食べやすいのですが果皮が厚い品種です。
……(その10)に続きます。
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