2018年12月6日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その10)

ここからちょっと本丸御殿跡を離れます。


「富士見櫓」です。富士見櫓は江戸城のほぼ中央、江戸城本丸東南隅に位置し、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓です。明暦3(1657)の明暦の大火で天守が焼失した後に、天守閣の代わりとして使用された三重櫓です。繰り返しになりますが、 「櫓(やぐら)」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っているだけです。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。前述のように、明暦の大火で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。江戸城本丸では現存する随一の櫓ですが、残念ながら柵があって近づくことができません。


初代のものは慶長11(1606)、本丸造営工事の際に建てられました。現存する三重櫓は、明暦3(1657)の明暦の大火での焼失後、万治2(1659)に再建されたものです。どの角度から見ても同じような形に見えることから、「八方正面の櫓」の別名がありました。天守閣焼失後には天守の役目を果たしたことから、「代用天守の櫓」ともいわれています。

富士見櫓の上からは、その名の通り富士山をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾(品川沖など=現在の東京港)が見え、さらには将軍は両国の花火などをこの富士見櫓から眺望したと言われています。富士見櫓が建つ場所は、天守台(標高30メートルほど)についで高い場所(標高23メートルほど)に位置し、眺望的には江戸城のなかでも一等地で、徳川家康の江戸城築城以前、太田道潅の築城した望楼式の「静勝軒」があったのは、この富士見櫓の場所ではないかと推定されています。
「わが庵は 松原つづき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る」

という歌を太田道灌が残しているからです。まさにその歌にぴったりのところです。


富士見櫓の石垣は主に伊豆半島から運ばれてきた安山岩を野面積み(のづらづみ=自然石をそのまま積み上げた石垣)の手法で積み上げたもので、シンプルながら関東大震災でも崩れなかった堅牢さを誇り、城造りの名手と謳われた加藤清正による普請と推測されています。石垣上には、石落し仕掛けが設けられています。その南側の櫓の屋根が描く曲線はとても優美で、見られることを強く意識したデザインになっています。石垣の高さは14.5メートル、櫓の高さは15.5メートル。櫓は大正12(1923)の関東大震災で損壊しましたが、大正14(1925)に主要部材に旧材を用いて補修されています。

江戸時代中期以降、お茶壺道中(幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運んだ行事)で運ばれてきた宇治茶はこの富士見櫓に収められました。また、幕末の慶応4(1868)、幕府軍(上野彰義隊)との戦いで新政府軍の指揮官・大村益次郎は、この富士見櫓から上野寛永寺の堂塔が炎上するのを見て勝利を確信したといわれています。

明治4(1872)、明治新政府は本初子午線の基準を京の改暦から東京の富士見櫓に移し(その後、明治19年に国際基準のグリニッジ子午線を採用)、明治5(1873)、工部省測量司が開始した三角測量の三角点を東京府内13ヶ所の最初にこの富士見櫓に設置しました。

立派なクロマツ(黒松)とケヤキ()の並木の中を本丸御殿跡に戻ります。


センリョウの木が赤い実を付けています。


ここが『忠臣蔵』の冒頭で播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が幕府高家の吉良上野介義央に対して差していた脇差で切りかかるという刃傷事件を起こしたことで有名な「松の大廊下(松の廊下)」があった場所です。元禄14(1701)のことです。


「松の大廊下」は江戸城本丸御殿内にあった大廊下の1つで、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50メートル、幅4メートルほどの畳敷の廊下でした。江戸城中で2番目に長い廊下で、廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから、この名前がつけられたといわれています。「松ノ御廊下(まつのおんろうか)」とも呼ばれます。

うっかりして写真を撮るのを忘れていましたが、松の大廊下跡近くに、少し高台になっている場所があります。その上に建てられているのが「富士見多聞」と呼ばれる多聞櫓です。多聞(多門とも)とは長屋状の建物構造をした櫓のことで、かつて江戸城本丸には15棟の多聞櫓がありましたが、富士見多聞はその中の唯一の現存遺構です。この反対側には蓮池濠があり、こちらからは分かりませんが、水面から富士見多門までの石垣は、高さが約20メートルにもなる長大な石垣となっています。富士見多聞の中には鉄砲や弓矢が納められていました。戦時においては、ここから蓮池濠側の敵を狙い撃てるようになっていました。

またここには「御休息所前多聞」と刻まれた石標もあるのだそうです。御休憩所とは「本丸中奥にある将軍の私的な居間のことで、中奥は将軍が政務を執ったり、日常生活をする場」と説明されています。本丸御殿中奥の御休憩所の前にあった多聞櫓ということなのでしょうね。なお、このあたりの石垣が周囲よりも一段高くなっているのは、徳川家康が築いた慶長天守閣が築かれていた頃に天守曲輪があったからだそうです。


これも皇室の茶畑です。あくまでも観賞用で、この葉を摘んで煎じてお茶にすることはないのだそうです。


明治時代の本丸御殿跡はかなりの部分が焼け跡のまま残っていたのですが、明治4(1872)、正確な時間を知らせるために、この本丸御殿跡に午砲台(通称:ドン)が設置され、昭和4(1929)に廃止されるまで、50年以上も「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。週休2日制が一般的になる以前、半日勤務の土曜日のことを「半ドン」と言っていたのは、この午砲台の大砲が正午の号砲を鳴らすと勤務終了だったことにちなむものです。


これは立派な枝ぶりの桜(ソメイヨシノ)並木です。桜の開花シーズンには見事な光景になるとこの枝ぶりを見るだけで想像できます。


「石室 」があります。この石室は、江戸城の抜け穴とか、金蔵という説もあるそうですが、実際は火災や地震などの非常時に備えて大奥の調度品や文書類など、貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられています。また、この石室には富士山の氷が切り出されて保存されていました。江戸時代、将軍や御台所は「カキ氷」こそなかったものの、「カチ割り氷」で真夏の暑い時期も涼を取っていたそうです。

今は一面の芝生の広場になっていますが、このあたりが「本丸中奥(なかおく)」と呼ばれていたエリアでした。「中奥」は将軍の官邸、すなわち、現在の首相官邸的な場所で、将軍の住居で、ここで歴代の将軍が書類に目を通すなどしていました。本丸中奥は主に次のような建物から成っていました。

19.地震之間(じなえのま)=ここだけは堅牢な耐震建築が施された建物で、地震発生時等、いざという時の将軍の避難場所でした。
20.御休息=将軍の寝室です。
21.湯殿=将軍の風呂です。
22.井呂裏之間(いろりのま)=将軍が従者と憩う場所でした。応接間ってことですね。
23.御座之間=将軍の日常生活の部屋、すなわちリビングルームのようなところでした。
24.奥能舞台=将軍が上覧する能の舞台があったところです。
25.側用人の部屋=将軍の身のまわりの世話をする側用人の控え部屋です。
26.奥坊主部屋=将軍に茶をいれたり、大名の接待役の坊主の控え部屋です。


皇室の竹林です。珍しい種類の竹が植えられています。


これはキッコウダケ(亀甲竹)です。名前の通り、節が亀の甲羅のような模様になっています。


こちらはキンメイモウソウチク(金明孟宗竹)です。中国の江南地方から渡来した「モウソウチク(孟宗竹)の突然変異種です。桿は黄金色で、鮮やかな緑色と黄色の縦縞が交互に節を彩ります。昭和45年頃に自生しているのが確認され、その後雑木の伐採などの環境整備を行った結果、昭和52年頃には約700本にまで増え、現在でもその数を増やしているのだそうです。現在、キンメイモウソウが確認されているのは福岡県、高知県、宮崎県など西日本の数ヶ所で、このうち宮崎県北川町の祝子(ほうり)川竹林や、福岡県久留米市の高良(こうら)竹林のキンメイモウソウチク(金明孟宗竹)が国の天然記念物に指定されています。近年、京都府京田辺市の佐牙(さぎ)神社近くの竹藪でも、自生しているのが見つかったそうです。大変に珍しい竹です。初めて見ました。


タチバナ()です。日本に古くから野生していた日本固有の柑橘(カンキツ)類で、実より花や常緑の葉が注目され、マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれたと言われています。皇室をはじめ、日本文化と深く関係した樹木で、その実や葉、花は井伊家や黒田家の家紋のデザインや各種文様に数多く用いられ、近代では文化勲章のデザインに採用されてもいます。一年に一度の女児のための祭事、「雛祭り」。女の子の健やかな成長を願って飾る雛人形を飾る際に欠かせないのが「桜」と「橘」の木花です。お内裏様とお雛様の2体の雛人形に向かって右側に桜を、東側に橘を飾ることが一般的とされ、「左近の桜」「右近の橘」と称されることでも知られています。


……(その11)に続きます。

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