2022年6月12日日曜日

鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路②

 公開予定日2022/11/04

[晴れ時々ちょっと横道]第98回 鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路② 


中島の西中港に上陸して驚いたのが、感動するくらいに海水が透明で、綺麗なことです。水深10メートルくらいの海底がハッキリ見えます。瀬戸内海の海水が綺麗過ぎて栄養分が足りず、魚介類が住めなくなっているという「瀬戸内海綺麗すぎる問題」という笑えない状況が地元ではこのところ話題になっているようですが、瀬戸内海のど真ん中にある中島にやって来ると、それがよく分かります。とにかく綺麗過ぎて、海水が透明です。

中島の西中港に上陸しました。ここから同じく中島の大浦港へは陸路で向かいます。

中島の西中港に上陸して驚いたのが、感動するくらいに海水が透明で、綺麗なことです。水深10メートルくらいの海底がハッキリ見えます。

西中港から南側の海岸線を見たところです。ここでも海水が綺麗に透き通っているのがお分かりいただけるかと思います。右側に見える島は怒和島です。

西中港の周辺には人家がほとんどありません。あるのはミカン畑だけです。で、西中港の前に立っているのは「中島西中学校跡」の石碑。この中島西中学校は昭和47年に中島の東側にある中島中学校と統合され、廃校になったようです。その後は地域住民のためのゲートボール場と、西中港になっています。西中学校跡なので西中港なのか、このあたりが西中島と呼ばれていたので西中港なのかは分かりません。おそらく後者なのでしょう。

西中港の前に立っているのは「中島西中学校跡」の石碑です。

中島は柑橘の島として全国的に有名な島です。温州みかんだけでなく、伊予柑やレモンなどいろいろな種類の柑橘が栽培されています。

これはレモンです。

こちらは伊予柑かな。

中島は忽那諸島で一番面積の広い島なので、愛媛県道41号中島環状線という県道が島の周囲を循環しています。一周をグルッと回ると30km以上もあるので、ここは迷わず中島汽船が運行する路線バスに乗って島の東側にある大浦港(中島港)を目指すことにしました。

大浦港へは中島汽船が運行する路線バスを使って移動します。

路線バスに乗ってノォ〜ンビリと車窓の景色を楽しみたいと思っていたのですが、この中島汽船の路線バスの運転手さん、ほとんど対向車もない道路だということもあってか制限速度いっぱいでやたらととばしてくれます。くわえて、島の海岸線はリアス式に入り組んでいて、県道もカーブがやたらと多いので、落ち着いて風景を楽しめません。ただ、カーブを曲がるたびに景色が目まぐるしく変わります。総じて綺麗です。

路線バスは島の海岸線に沿って走ります。車窓の風景は瀬戸内海と忽那諸島の島々なのですが、フェリーと違い、海岸線のカーブを曲がるたびに目まぐるしく変わります。

こういう小島()もあります。この大きな岩は島の西岸、神浦地区にあり、「城」と呼ばれています。ふだんは海に阻まれて近づくことはできませんが、干潮時のみ歩いて渡ることができるのだそうです。さすがに「城」と呼ばれるだけのことはある大岩です。

「城」と呼ばれる大岩です。

西中港を出て走ること約20分。路線バスの終点の大浦港に到着しました。この大浦港は中島の主港であり、この大浦港の周辺が中島の中心地です。約20分も乗車したのに、西中港から大浦港までの運賃が160円。今どき本当か!?と思ってしまいました (実は西中港と大浦港の間には本数が11本しかないものの山をトンネルで抜けて島を横断する路線バスも設定されていて、その路線だと距離が驚くほど近いんです)路線バスが到着してすぐに、松山市の高浜港行きの高速船が出港していきました。この高速船に間に合わせるために、運転手さんはあれだけとばしてくれてたのかなぁ〜。私は乗らないのに。

終点の大浦港に到着しました。路線バスが到着してすぐに、松山・高浜港行きの高速船が出港していきました。

大浦港には三津浜港行きのフェリーも停泊しています。大浦港と松山市の港との間は中島汽船が運航する東線航路の15往復の高速船と、同じく5往復のフェリーが結んでいます。

中島汽船のフェリーが停泊しています。

中島の観光案内図です。「みかんと太陽とトライアスロンの島 中島へようこそ」の文字が目につきます。中島では1986年から毎年8月下旬に姫が浜ビーチを中心にトライアスロンの大会が開催され、全国から集まった約500人の選手達が熱い戦いを繰り広げます。大会開催時には島の有志が島外からの出場選手を自宅に泊めるなど、島中が一丸となって大会を盛り上げるのだそうです。なるほど、島の道路に交通量は少ないし、周囲は海だし、トライアスロンの大会を開催するには絶好の場所ですね。

中島の観光案内図です。

大浦港周辺の集落です。いかにも島の漁港町って風情の佇まいです。

いかにも昔の漁港町って風情の佇まいです。


忽那島八幡宮という由緒正しそうな神社を見掛けたので、立ち寄ってみました。忽那島八幡宮は、神社由緒によると、「遠く上代の昔、吾が祖族、万里浪を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住みて、相慕ひ、その妣の神、稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。茲に藤原の長者、奈良平安の御代に及び、八幡大神の神託を畏み、この島を開拓き、氏神と斎き祀りて、明光霊徳七島に亘り、祖孫相励みて、至誠南朝に薫り、色変えぬ巨松、連なりて栄光を語る。夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて、祖霊相寄るの聖地。千古斧入らしめぬ杜茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき美し島と栄えて、恩頼ここに神にと共にありぬ。」と書かれているので、少なくとも奈良時代からここに鎮座し、この中島を中心とした忽那諸島一帯を治めた忽那水軍の総鎮守であった由緒正しき神社のようです。主祭神として祀られている稲田姫は、スサノオノミコト(素戔嗚尊)のヤマタノオロチ(八岐大蛇)退治の際に登場するクシナダヒメ(櫛名田比売)のことです。

忽那島八幡宮の鳥居です。

鳥居を潜って最初に目に入ったのが、忽那島八幡宮の御神木になっている樹齢千年といわれるクスノキ()です。メチャメチャ立派です。この御神木のクスノキがあまりに立派だったので、それに惹かれて立ち寄ったようなところがあります。このクスノキだけでなく、この忽那島八幡宮の境内には、島内を代表する暖地植物と山地植物が約300種繁茂し、松山市の特別天然記念物になっています。なるほど鬱蒼とした林です。

鳥居を潜って最初に目に入ったのが、忽那島八幡宮の御神木になっている樹齢千年といわれるクスノキ()です。

忽那島八幡宮の拝殿と神殿の周囲には、樹齢数百年単位のサカキ()やナギ()、マキ()、ムク()などの巨木が何本も根を下ろしています。

忽那島八幡宮の拝殿です。

これはサカキ()です。

忽那島八幡宮の神殿です。

これはムク()です。


忽那島八幡宮を出て、中島中学校を目指します。立派な門構えの家があります。その立派なお宅の表札に「忽那」の文字が書かれています。忽那氏は11世紀頃に京からこの中島(当時は忽那島)に流されてきた藤原家の一族がこのあたり一帯を開拓して中世武家となった一族だと言われています。中島ではよく見かける苗字です。

立派な門構えの家があります。その立派なお宅の表札に「忽那」の文字が書かれています。


江戸時代、瀬戸内海交通の要衝であった忽那諸島の島々は大洲藩領と松山藩領とに二分されていました。大洲藩領には睦月島・怒和島・中島の大浦・小浜(おばま)・粟井・宇和間(うわま)6ヶ村が属し、松山藩領には興居島・野忽那島・二神島・津和地島・中島の長師・宮野・神浦・畑里(はたり)・饒(にょう)・吉木(よしき)・熊田(くまだ)10ヶ村が属していました。同時に、忽那諸島そのものの呼び名も従来の忽那島という呼び名は大洲藩だけのものになり、松山藩では風早郡(現在の松山市北条周辺)の島方の意味で風早島と呼ぶようになりました。参勤交代時に長浜港や串港から海路を利用していた大洲藩では、ここ大浦に忽那嶋代官屋敷を起き、最初の寄港地にしていました。忽那嶋代官屋敷の建物は残っておらず、石組みのみが残されているとのことだったのですが、残念ながら辿り着けませんでした。その後、安永9(1780)、中島の粟井村・小浜村・大浦村の半分が幕府直轄の天領となり、忽那諸島の領域は一層複雑になって、双方の領民間の対立の要因ともなったとされています。

あらかじめ調べておいたそういう島の歴史を頭に入れながら、大浦周辺を歩きます。

中島中学校に向かう道です。弟はここも歩いたのでしょうか。

しばらく歩くと、ミカン畑の向こう側に中島中学校の建物が見えてきました。亡き弟が最初に赴任した中学校で、今回私が訪れてみようと思い立った場所です。「松山市立中島中学校」という表札が出ています。弟が在勤中はまだ松山市に合併されていなかったので、「温泉郡中島町立中島中学校」でした。校訓でしょうか。「自主 勤勉 礼儀」と刻まれた石碑が立っています。そのせいかもしれませんが、中島の島内を歩いていると、すれ違う島民の方々から「こんにちは」と声をかけていただくことが多かったように思います。

ミカン畑の向こう側に中島中学校の建物が見えてきました。亡き弟が最初に赴任した中学校です。


「松山市立中島中学校」という表札が出ています。弟が勤務した当時は「中島町立中島中学校」でした。

校訓でしょうか。「自主 勤勉 礼儀」と刻まれた石碑が立っています。

「なかじま中」の文字が船体に書かれたボートが何艇かあります。このボートを使うクラブ活動でもあるのでしょうか? はて?


「なかじま中」の文字が船体に書かれたボートが何艇かあります。


学校の裏手に回ってみました。「覇気ある中中生」。“中中”とは“なかちゅう”と読むのでしょうね。弟が在勤したのは今から四半世紀前のことなので、もしかしたら校舎はその後建て直されたものかもしれません。不審者と間違えられてはいけないので、校内には立ち入りませんでした。


学校の裏手に回ってみました。


学校の周囲は柑橘畑です。美味しそうな伊予柑が実っています。柑橘の花が咲く頃には、中学校もいい香りが漂っているのでしょうね。


学校の周囲は柑橘畑です。美味しそうな伊予柑が実っています。

中島中学校の隣に「青潮寮」という建物があります。二神島や津和地島、怒和島といった忽那諸島の他の小さな島の生徒さん達の寄宿舎のようです。離島の中学校ならではの施設ですね。この日は土曜日だったので、生徒さん達もそれぞれ家族が暮らす島に戻っているようで、人がいる気配がありません。

中島中学校の隣に建つ寄宿舎「青潮寮」です。


こちらは中島小学校。中島中学校の野球部は中島小学校のグラウンドを使って練習していたと聞いたような記憶があります。それってここでしょうか。

中島小学校のグラウンドです。

中島中学校を訪れた後は、トライアスロンのランやバイクのコースにもなっている県道の歩道を、ただひたすら歩きました。おそらく弟もこの道を歩いて練習したでしょうから。

中島中学校を訪れた後は、トライアスロンのランやバイクのコースにもなっている県道の歩道を、ただひたすら歩きました。

海越しの遠くに白く雪化粧した石鎚山の山容が確認できます。ここからも石鎚山が見えるのですね。さすがは西日本最高峰、標高1,982メートルです。

海越しの遠くに白く雪化粧した石鎚山の山容が確認できます。


鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路③は、明後日(6月14日)に掲載します。


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