2022年6月4日土曜日

鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線①

 

公開予定日2022/10/06

 [晴れ時々ちょっと横道]第97回 鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線①


鉄分補給シリーズ、今回取り上げるのは、伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線、すなわちバス路線です。前回第96回の最後に「次はどこに乗りに行こうかな?」と書いたので、愛媛県内に予土線や伊予鉄道のほかに魅力的な鉄道路線があるんかいな?と思われた方もいらっしゃったかと思いますが、ご心配なく。愛媛県内には乗り鉄”“降り鉄の私の好奇心を大いにくすぐってくれる極めて魅力的な路線が幾つも残っています。

鉄道マニアというと鉄道だけが趣味の対象と思われがちですが、決してそういうことはありません。私は鉄道と同じくらいに、バスや船、飛行機など他の公共交通機関も大好きなのです。言ってみれば、“公共交通機関マニア”ってところですね。まぁ〜、私に限らず、“乗り鉄”“降り鉄”を趣味のジャンルとしている鉄道好きの中には、鉄道にはじまって守備範囲の異様に広い“公共交通機関マニア”の方が多いようです。

私が船、特に瀬戸内海で運行されているフェリー好きになったのは三津浜港や高浜港、松山観光港を出入りするフェリーですし、飛行機好きになったのは松山空港を離着陸する飛行機の迫力に魅了されてからです。当時、松山空港を離着陸する飛行機は、東亜航空(東亜国内航空を経て日本航空に吸収合併)が運行する乗客16人乗りでイギリスのデ・ハビランド社製の DH.114 ヘロンや、全日本空輸(ANA)が運行する乗客40人乗りでオランダのフォッカー社製の F27 フレンドシップ、乗客60人乗りで国産のYS-11といったプロペラ機ばかりでしたが

で、路線バスはと言うと、かつて国鉄バス(現在のJR四国バス)が国道33号線経由で松山駅〜高知駅間で運行していた松山高知急行線や、昭和40(1965)から昭和52(1977)まで国道11号線経由で松山市駅〜高松駅間で運行していた四国急行バス(同区間を国鉄バスも北四国急行線として運行していました)。さらには、伊予鉄道、瀬戸内運輸、宇和島自動車が運行する県内の地域間特急バスに心踊らされて以来のことで、実は隠れバス好きなんです。

愛媛県には県内の地域間を一般道を使って結ぶ特急バス路線が、今も幾つかあります。

まず、中予地方と東予地方を結ぶ路線としては、まずは松山・今治~大三島線。かつては伊予鉄バスと瀬戸内運輸の共同運行路線で、海沿いの国道196号線経由で松山市駅と今治桟橋間を結んでいたのですが、平成11(1999)のしまなみ海道開通後は大三島まで路線延長されています。さらに、伊予鉄バス撤退後の平成20(2008)からは瀬戸内運輸単独の運行で、高縄半島を横断する国道317号経由へ経路変更がなされています。また、国道11号線経由で松山市駅と新居浜駅間を結ぶ松山・新居浜特急線。この路線も伊予鉄バスと瀬戸内運輸の共同運行路線です。

中予地方と南予地方を結ぶ路線としては、国道56号線と国道197号線を経由して松山市駅と大洲駅前・八幡浜港、さらには愛媛県の、いや四国の最西端、犬の尻尾のように細長く真っ直ぐに海に突き出した佐田岬(さだみさき)半島の先端近くにある三崎港口を結ぶ伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線(現在は伊予鉄南予バスに運行管理を委託しています)。それと、国道56号線経由(現在は一部の区間で松山自動車道を経由)で南宇和郡愛南町の城辺、宇和島バスセンター などと松山市駅、さらには道後を結ぶ宇和島自動車の運行する宿毛・城辺宇和島松山・道後線があります。

私は父が今治市、母が新居浜市の出身で、今治市や新居浜市、西条市といった東予地方に親戚も多いことから、伊予鉄バスや瀬戸内運輸の松山・今治~大三島線や松山・新居浜特急線には子供の頃から乗る機会が多く、私にとってはお馴染みの路線なのですが、これまでまったく乗るご縁がなかったのが、南予方面へ行く伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線と、宇和島自動車の宿毛・城辺宇和島松山・道後線でした。松山市内でこの路線のバスを見かけるたびに、一度全線を乗破してみたいと思い続けてきました。で、「思い立ったが吉日」ということで、この憧れの2つの路線バスの全線乗破を敢行してみることにしました。まずは伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線です。

前述のように、この伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線は、国道56号線と国道197号線を経由して松山市駅と大洲駅前・八幡浜港、さらには佐田岬半島の先端近くにある三崎港口を結ぶ路線バスです。松山市駅を出ると国道56号線に沿って走り、途中、伊予松前、伊予市、中山、内子、五十崎駅前、大洲駅前、大洲営業所、ここから国道197号線に入り、八幡浜駅前、八幡浜港、佐田岬メロディーライン(国道197号線)を経由して、伊方ビジターズハウス等を経て、終点の三崎港口に至ります。運行距離は約100km。時刻表上の所要時間は約3時間。高速道路を経由せずに一般道だけを走行する路線バスとしてはかなりの長距離路線です。

便数は13往復ながら、松山から四国の西の玄関口である八幡浜港、さらには四国の西の端に突き出た日本一細長い半島である佐田岬半島の先端近くにある三崎港に直行するなかなか便利な路線です。八幡浜港からは豊予海峡を挟んだ対岸の大分県の臼杵港行きの宇和島運輸、九四オレンジフェリー、また別府港行きの宇和島運輸のフェリー、また三崎港からは佐賀関港行きの国道九四フェリーのフェリーに乗船することができ、九州に渡るのに便利な路線と言えます。特に、国道九四フェリーの三崎港〜佐賀関航路は四国九州間の最短航路(31km)で、松山から九州に渡る際には、伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線と国道九四フェリーの組み合わせが最速なのではないか…と思います。

伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線に使用されている車両は現在主に2車種。1つは高速バスにも使用されている日野自動車製の大型バス「セレガHD」。もともとは松山〜神戸・京都間といった関西方面昼行路線や松山〜高松・徳島・高知間の四国島内路線用として活躍していた車両で、現在は乗車券発行機の設置や運賃表示器の改修等が施されたうえで八幡浜・三崎特急線の専用用車両として使われています。もう一車種が日野自動車製の中型バス「メルファ」。こちらはサイクルバスになっていて、バス前方に装着された可倒式自転車ラックにより1車両につき2台まで自転車が積載可能という特徴があります。四国最西端に細長く突き出た佐田岬半島を貫く佐田岬メロディーラインは絶景ポイントが多く、サイクリングには最適なところですので、サイクリングの愛好者にとっては嬉しいサービスになっています。八幡浜・三崎特急線はこの2車種のバスで、13往復のうち1.5往復ずつを運行しています(このほか、共通運用されている松山・新居浜特急線の日野自動車製初代セレガFシリーズの車両が時折使われることもあるようです)1.5往復ずつなので、日によって使用車種が異なります。で、この日私が乗車した910分松山市駅発のバスは中型バス「メルファ」、すなわちサイクルバスのほうでした。私は自転車を携行してはおりませんが、全国的にも珍しいバスなので妙に嬉しい。やったぁ~!って、子供のように胸が高まります()


伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線のサイクルバス。使用車種は日野自動車製の中型バス「メルファ」です。


910分、定刻に松山市駅4番のりばを出発しました。この4番のりばは宇和島自動車の宿毛・城辺宇和島松山・道後線も使用します。松山市駅で乗り込んだ乗客は、私を含め3名。人混みを避けるため、乗車したのが平日だったということもありますが、ちょっと寂しいです。私以外の2名の乗客は伊予市までに降りてしまい、結局のところ終点の三崎港口まで通しで乗車したのは、私1人だけでした。なので、残念ながら、前方に装着された可倒式自転車ラックを使用するところは、見ることができませんでした。

前方の車窓を楽しもうといつものように左側最前列の席に座ろうとしたのですが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための三密回避策として最前列の座席は使用禁止。おまけに、運賃表示用のちょっと大きめのディスプレイが前方上部に設置されているので、ちょっと視界は悪いです。まぁ、仕方ないですね。


この日の行程図です。伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線は、国道56号線と国道197号線を経由して松山市駅と大洲駅前・八幡浜港、さらには佐田岬半島の先端にある三崎港口を結びます。終点の三崎港口からはレンタサイクルと徒歩で佐田岬灯台を目指します。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


松山市駅を出ると、バスは松山市駅前のロータリーを回り、千舟町通りを通り、済美高校前交差点を左折して国道56号線に入ります。ここからはしばらく国道56号線を走ります。


国道56号線に入ると、伊予鉄道高浜線、次に郡中線の線路を踏切で渡ります。


江戸時代、伊予国(現在の愛媛県)には東海道や中山道といった五街道のように幕府が直轄する主要街道はありませんでした。しかし、各藩の城下と城下を結ぶ街道や金毘羅街道、そして遍路道や村と村を結ぶ往還と呼ばれる幹線道路は存在していました。こうした幹線道路のうち藩の中心地から発する街道には一里塚が設けられ、旅人の標識となっていました。松山から八幡浜に到る道は「八幡浜道」と呼ばれていました。その途中にある大洲城下町までの部分がいわゆる「大洲道」で、松山を出ると、松前(伊予郡松前町)から郡中(伊予市)を通り市場(伊予市)から山に入り、犬寄(いぬよせ)峠を越えて中山・佐礼谷・内子・新谷を経て大洲城下町に到っていました。さらに、宇和島藩領の八幡浜に到るためには、夜昼(よるひる)峠を越えて西に進まねばならなくて、その大洲と八幡浜の間の道は「大洲往還」と呼ばれていました。すなわち、「八幡浜道」=「大洲道」+「大洲往還」ということが言えようかと思います。

ちなみに、『角川日本地名大辞典』によると、大州城下町から延びる幹線道路、すなわち街道にはもう1本あって、それが鳥坂(とさか)峠を越えて宇和島藩領の卯之町(現西予市宇和町)に入る「大洲街道」で、卯之町からは法華津(ほけつ)峠を越えて南下し宇和島城下に至る「宇和島街道」と繋がっていました。このように周囲を高い山々で囲まれた大州盆地にある大州城下町からは、どこに行くにしても難所となる峠を越える必要がありました。

現在の国道も基本的に昔の街道に沿って伸びています。国道56号線は松山を出ると、「大洲道」「大洲街道」「宇和島街道」のルートで宇和島に至っています。いっぽう、大洲から分かれて八幡浜に至る「大洲往還」は国道197号線のこの区間に相当します。なので、八幡浜・三崎特急線のバスは昔の「大洲道」「大洲往還」の「八幡浜道」を走っていくことになります。


出合大橋で重信川を渡ると、松山市から伊予郡松前町に変わります。

伊予鉄郡中線と一緒に重信川を渡ります。

ほどなく伊予市に入ります。ここから伊予市です。


バスは松前(伊予郡松前町)、郡中(伊予市)と第96回の「鉄分補給シリーズ(その3):伊予鉄道郡中線」でご紹介した町を通り、JR予讃線が海線(愛ある伊予灘線)と山線(新線)2線に分岐するJR向井原駅を過ぎたあたりの向井原交差点を直進し、その先で緩く左にカーブして、山のほうに入っていきます。この向井原交差点を右折すると、その先で伊予灘(瀬戸内海)に沿って伊予市双海町、大洲市長浜町を経由して八幡浜に至る国道378号線、通称:夕やけこやけラインに合流します。距離から考えると1990年代に伊予灘沿いに海岸を埋め立てて別線を作る改良工事が行われたこの長浜経由の国道378号線を使うルートのほうが短く、八幡浜港にも三崎港にも早く着けるのではないかと思いますし、道路脇に立つ九四国道フェリーの看板もそちらのルートを推奨するように案内しているのですが、八幡浜・三崎特急線は松山と内子や大洲を結ぶ都市間連絡路線でもあるので、昔からの国道56号線ルートのほうを進みます。


向井原交差点で伊予灘(瀬戸内海)に沿って長浜を経由して八幡浜に至る国道378号線へ向かう道路が分岐します。右にJR予讃線の海線(愛ある伊予灘線)と山線(新線)が分岐する向井原駅が見えます。


しばらくJR予讃線(山線)の線路を左横に見ながら進みます。JR予讃線は長らく下灘駅や串駅など伊予灘の海岸線を走り長浜駅を経由して大洲駅に至るルートだったのですが、昭和61(1986)に向井原駅から分かれ、内子駅、新谷駅を経由して大洲駅に至る短絡ルートの新線が完成すると、特急をはじめとした多くの列車はこの新線経由に変わりました。この新線には犬寄峠を越える四国最長の犬寄トンネル(長さ6,012メートル)をはじめ多くのトンネルが介在するため、国道56号線を走るバスの車窓から見られるような山峡の風景はほとんど楽しめません。ちなみに、平成26(2014)から伊予市駅から長浜経由で大洲駅に至る海回り区間(もともとの予讃線区間)に「愛ある伊予灘線」の愛称が付けられました。

大平駅を過ぎたあたりで線路から離れて犬寄(いぬよせ)トンネルに入ります。現在はトンネルになっていますが、江戸時代はこのトンネルの上に大洲道の犬寄峠がありました。当時は松並木の続く大洲道で一番の難所とされ、狭い所では幅員わずか一間(1.8メートル)程度であったと伝えられています。当時の峠の標高は329メートルでした。旧伊予郡中山町と旧双海町(現在はどちらも伊予市)との境に位置し、松山平野の南端、四国山地の北端に位置します。この犬寄峠は国道56号線を松山市方面から宇和島市・大洲市方面へと向かった場合、最初に越える峠(トンネルとしても最初のトンネル)で、この位置関係から、中予地域(松山地域)と南予地域(愛媛県の南部地域)とを分かつ峠だと言われることもありますが、実は峠の南の一部も行政区画としては伊予市の一部(:伊予郡中山町)であり、中予地方に属します。


しばらくJR予讃線(山線)の線路を左横に見ながら進みます。

犬寄トンネルで犬寄峠を貫きます。

現在の犬寄峠にさしかかります。現在の犬寄峠の標高は290メートルです。


犬寄トンネルを抜けると伊予市中山町です。ここは200541日に隣接する伊予市、双海町と合併して伊予市の一部となるまでは伊予郡中山町でした。松山市中心部から国道56号の犬寄トンネルを抜けて約27km南下した地点にあり、大洲市中心部からも約27kmとほぼ中間に位置しています。犬寄峠が分水嶺になっていることから、ここを流れる中山川は肱川の上流の1つとなっていて、南西に向かって流れています。中山町はその中山川流域にほぼ相当する盆地にあります。そのため、行政区画の地域としては、愛媛県中予地域に含まれていますが、水系としては南予地域に含まれる肱川水系に属しています。農林業が主体の町で、日本三大栗の1つに数えられることもある中山栗の産地として知られています。また、最近は町内全域で美しいホタル()の乱舞を楽しむことができるホタルの町としても脚光を集めています。


犬寄峠からは下り坂。ここからはホタルの町として知られる伊予市中山町(旧伊予郡中山町)に入ります。

伊予市中山町の中心部を抜けたところで、JR予讃線の高架の下を潜ります。ここからはJR予讃線の線路を右に見ながら進みます。

一級河川・肱川の上流の1つ、中山川が横を流れています。清流と言っていいほど、水が澄んでいます。


国道56号線は中山川に沿って大洲に向かって下り、喜多郡内子町に入ります。行政区画としては、ここからが南予地域となります。この内子町については第67回の「伊予八藩紀行【大洲藩】(その3)」でご紹介させていただきました。その再掲になりますが、喜多郡内子町は県都松山市から南西に約40km。一級河川・肱川の支流である小田川に沿った盆地にある人口15千人ほどの小さな町です。古くから大洲道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町です。江戸時代から明治時代にかけては和紙と木蠟の生産で大いに栄え、特に木蠟は品質の高さで海外でも高く評価されるほど名を馳せ、最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蠟生産は衰退したのですが、当時の繁栄ぶりを伺わせる漆喰塗りの重厚な商家が数多く建ち並ぶ町並みが、今でも八日市・護国地区に残っています。この歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在でも地元の人々の努力により保存されています。ノスタルジックな旅が大好きな方には絶対お薦めの場所です。


内子町の中心部に入ります。漆喰塗りの重厚な商家が数多く建ち並ぶ歴史的情緒溢れる町並みはは、この先にあります。

松山自動車道の内子五十崎インターチェンジのすぐ横を通過します。


中山川はこの内子で東から流れてきた肱川の支流の1つである小田川と合流し、小田川となります。内子の次は五十崎(いかざき)駅前に停車します。現在は隣接する喜多郡内子町と合併して内子町になっていますが、もとは喜多郡五十崎町と呼ばれていたところです。小田川が町の中心部を北から南方向に流れていて、その流域は比較的平坦な沖積盆地となっています。古くから農林業で栄えた町ですが、伝統産業として、江戸初期からの歴史を持つ手漉き和紙(大洲和紙)で知られています。この大洲和紙は寛永年間に大洲藩主加藤泰興が当時在村の土佐藩浪人に命じて藩の御用紙を漉かせたのがはじまりで、今日までその技が受け継がれています。また、典型的な中山間地ながら、近年は清流小田川と大凧合戦の里として、観光中心の町づくりを進めてきています。なかでも特筆すべきはパラグライダー。町の西側にパラグライダー基地のある神南山が、南側には大登山が横たわっており、地理的・気象等自然条件的に西日本最高のコースの1つであるとされています。そのため、県外からも愛好家が多く集まり、パラグライダー・ハンググライダーの町としても全国的に有名になってきつつあります。


JR五十崎駅です。国道56号線は五十崎駅付近でJR予讃線の線路の下をくぐります。


五十崎の次は新谷(にいや)。ここは江戸時代に大洲藩の支藩で伊予八藩の1つである新谷藩が置かれていたところです。新谷藩は、元和9(1623)、大洲藩第2代藩主・加藤泰興の弟・直泰が幕府より1万石で分知の内諾を得て成立した藩です。大洲藩との内紛の後、寛永16(1639)に藩内分知ということで決着し、寛永19(1642)に陣屋が新谷に完成しました。藩内分知は本来は陪臣の扱いではあるのですが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例でした。


さすがに石高1万石の新谷藩が置かれたところ。急に田圃が広がります。

十夜ヶ橋交差点で松山自動車道と国道56号線バイパス、大洲道路が分岐しますが、バスはこのまま国道56号線に進みます。


新谷を過ぎると、肱川を肱川橋で渡り、右折していったん愛媛県道234号大洲保内線に入り、左手に大洲のシンボル、冨士山が見えてくると、いよいよ城下町・大洲の市内に入っていきます。ちなみに、冨士山は「とみすやま」と読みます。標高は320メートル。富士山に形が似ていることから山の名前が付けられたとされています。そして、大洲と言えば「肱川あらし」ですね。肱川あらしとは、初冬の朝、大洲盆地で発生した濃い霧が肱川を下り、白い霧を伴った冷たい強風が河口を勢いよく吹き抜ける現象のことです。日本最大の断層帯である中央構造線が瀬戸内海(伊予灘)沿いに走り、海岸線から僅かに10kmちょっと離れただけのところにできた周囲を高い山で囲まれた標高の比較的低い盆地。この大洲盆地の特殊な地形が生んだ世界でも極めて珍しい、奇跡のような気象現象です。私も噂には何度も聞いているのですが、一度も実際には見たことがないので、是非一度、肱川あらしをこの目で見てみたいと思っています。

肱川あらしに限らず、大洲盆地はその地形的特性から濃い霧が発生しやすいところです。濃い霧が発生した時に、大洲盆地の中央に聳えるこの冨士山の山頂にある展望台から、大洲盆地を一面に覆う“雲海”を、是非眺めて見たいとも思っています。さぞや幻想的な風景ではないかと期待できます。まぁ~、大洲盆地の雲海を確実に見るためには、前日から気圧配置や気温の変化、瀬戸内海の海水温など、さまざまな気象データを念入りにチェックして、濃い霧の発生予測をしないといけませんけどね。


大洲のシンボル「冨士山(とみすやま)」です。富士山に形が似ていることから山の名前が付けられたとされています。


県道とはいえ、さすがに歴史のある城下町、大洲市街は道幅の狭い区間を進みます。


県道とはいえ、さすがに歴史のある城下町、大洲市街は道幅の狭い区間を進みます。


大洲に関しては、第66回の「伊予八藩紀行【大洲藩】(その1)」で紹介させていただきました。その再掲になりますが、大洲は、愛媛県の西部、南予地方に位置し、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した大洲藩の旧城下町で、古い街並みが残っているところから「伊予の小京都」とも呼ばれています。大洲藩は、現在の大洲市を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩で、藩主は外様の加藤家。石高は6万石でした。

洲は一級河川・肱川の中下流域にあり、特に旧大洲地域は肱川と矢落川とが合流する地点で盆地を形成しています。さらにその下流に向かっては谷を形成しつつ、長浜地域にて伊予灘に注ぎ込みます。山は、肱川支流の河辺川源流では標高1,000メートルを越える地点もあるのですが、それ以外は日本最大の断層帯である中央構造線の南側にあることから500800メートルの比較的なだらかな山々が連なっています。この肱川は下流で川幅が狭まっていることから、大洲盆地でボトルネックとなり、大雨が続くと増水しやすく、過去に何度も氾濫を繰り返し、浸水被害に見舞われてきました。その反面、肱川の氾濫により、大洲盆地は肥沃な土壌に恵まれ、古くからそれなりに豊かな土地でした。また、大洲盆地は、伊予国を南北に繋ぐ大洲道と大洲街道、さらには宇和島街道の結節点にあり、また東にはなだらかな四国山脈の山々の間を抜けて土佐国に繋がる街道が伸びていました。さらには、北側の肱川河口には瀬戸内海(伊予灘)に面する藩港の長浜があり、同じくすぐ西側には大洲の外港とも言える宇和海に面する八幡浜(旧宇和島藩)もあり、大洲は歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にありました。この大洲も歴史的情緒溢れる町並みが残っていて、私は好きな街の1つです。


JR大洲駅前に停車します。

右側に肱川と大洲城が見えます。まさに水郷大洲を象徴する素晴らしい風景です。


バスは大洲営業所で少し停車。松山市駅を出発してからここまで約1時間半。ちょうど全行程の半分です。渋滞もなく、伊予市バス停以降は乗客の乗降もなく、ここまで順調過ぎるくらいに順調に走ってきたので、ここでちょっと時間調整も兼ねてトイレ休憩です。


バスは大洲営業所で少し停車しました。松山市駅を出発してからここまで約1時間半。ちょうど全行程の半分です。


鉄分補給シリーズ(その4):伊予鉄バス八幡浜・三崎特急線②は明後日(6月6日)に掲載します。













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