2018年6月24日日曜日

甲州街道歩き【第1回:日本橋→内藤新宿】(その2)


甲州街道は現在の国道で言うと、国道20号線(東京都中央区日本橋〜長野県塩尻市)とほぼ同じルートを辿っています。現在首都圏に住んでいる人にとって「甲州街道」と言えば、国道20号線でも四谷四丁目交差点で新宿通りと分岐して新宿駅南口を通って府中、八王子方面に延びる道路という認識でおられる方が大半かと思いますが、実は旧甲州街道及び国道20号線はこの日本橋が起点なんです。

ちなみに、国道20号線は中央区の日本橋を出てから千代田区の桜田門交差点までは国道1号線(東京都中央区日本橋〜大阪市北区梅田新道交差点)と重複します。日本橋を出ると国道1号線は中央通りを南方向に進むのですが、すぐに日本橋交差点のところで右折し、永代通りと呼ばれる道路となり、西方向(JR東京駅の方向)に進みます。この日本橋交差点は東海道との追分(分岐点)になっていて、中央通りを銀座方面に直進する道路(国道15号線)が旧の東海道です。
 


ここからは往来の多い永代通りを進みます。街道歩きと言うと、この直前までは信州の佐久平や木曽の鄙びた山の中ばかりを歩いていたので、近代都市東京の明るく華やかな通りを歩くとやたらと眩しく、私達リュックを背負った街道歩きの一団は場違いな感じも受けそうです。ですが、こうした近代都市の中にも江戸時代の甲州街道の痕跡が幾つも残っていて、それを見つけるのが楽しみです。中山道の時にも日本橋を出て、甲州街道とはまったく別のルートを通って最初の宿場である板橋宿まで歩いたのですが、その時にも近代的な東京の街並みの中に幾つもの江戸時代の旧街道の痕跡を目にしました。その時はまだ街道歩きに慣れていなかったので、ただただ「へぇ〜」って思うだけだったのですが、あれから3年、今は街道歩きの楽しみ方が分かり、近代的なビルが立ち並ぶ風景を見ても旧街道で栄えた当時の姿が頭の中でなんとなくイメージできるようになってきているので、見える景色がまるで違ってくるだろうと期待しています。

街道歩きをやるようになって、興味を持つようになったのが江戸時代です。なかでも徳川家康が利根川と荒川という2本の巨大河川を付け替えるという信じ難いような一大土木工事プロジェクトを行い、一面の湿地帯から一躍人口100万人という当時世界最大の人口を誇る巨大都市へと変貌を遂げた人工都市・江戸  (明治維新後の東京ではなく、あくまでも『江戸』です)。この『江戸』は理系(エンジニア)の私の好奇心を大いに擽ぐる対象になっています。これも利根川と荒川に沿った中山道を歩いてみたからこそです。最近も以下の2冊の本を読んだところです。


1冊は門井慶喜さんが書かれた『家康、江戸を建てる』(祥伝社)。この本は歴史書ではなく小説です。本の帯には「江戸を建てた」職人達の熱い奮闘記という文字が書かれています。そのあらすじは…同じく本の帯にはこのように書かれています。

天正18(1590)、家康は関白・秀吉から関東240万石への国替えを要求された。そこは水浸しの低湿地ばかりが広がる土地だった。家臣団が猛反対するなか、家康は「関東には未来(のぞみ)がある」と居城を江戸にして、街づくりに着手する。家康、49歳の決断だった。家康はまず水害をもたらす元凶を取り除くことから手をつけた。無名の伊奈忠次を指名し、“江戸に水を運ぶ利根川を曲げてしまう”大胆な策を採用した。(「第一話  流れを変える」より)
慶長小判づくりや江戸城の石垣づくり、天守づくり、神田上水の整備………江戸の基礎(インフラ)づくりは、名もなき職人たちの技術を結集させたものなのだ!

名もなき職人に光をあて、巨大な人工都市“江戸”建設の逸話が随所に散りばめられた傑作時代小説です。エンジニアにとってはたまりません!   さすがに第155回直木賞の候補作ともなった作品です。エンジニアでなくとも、まぁ〜、『ブラタモリ』と『プロジェクトX』が好きな人には絶対に楽しめる連作集です。小説なので読みやすく、一気に読めます。絶対のお薦めです。


もう1冊はテレビの歴史番組でもお馴染みの新進気鋭の歴史学者で国際日本文化研究センター准教授の磯田道史さんが書かれた『徳川がつくった先進国日本』(文春文庫)。この本は磯田道史さんが出演されNHK教育テレビで平成2310月に4回にわたって放送された番組「さかのぼり日本史」をもとに作った単行本「NHKさかのぼり日本史 ⑥ 江戸 ”天下泰平”の礎」を文庫化したものです。

巻頭の「はじめに」の中で、「落とした財布が世界で一番戻ってくる日本。自動販売機が盗まれない日本。リテラシーが高い日本人――これは明らかに“徳川の平和”の中でできあがったものだ」と磯田さんは断言しています。では、なぜこの国の素地は江戸時代に出来上がったのか。この本では4つのターニングポイントを挙げて、それを読み解いていきます。

1つは、1637年の島原の乱。島原の乱によって武力で抑えるだけが政治ではない、「愛民思想」が芽生え、武家政治を大転換しました。
2つめは、1707年の宝永地震。新田開発のために環境破壊が進み、結局は自然からしっぺ返しを受けることを学びました。その教訓から、豊かな成熟した農村社会へと転換していきました。
3つめは、1783年の天明の飢饉。天候不順が続き、各地で凶作が続くと、商業に興味が向き、農村を捨てて都市へ流れ込む人口が急増。その結果、農村は後荒廃し深刻な事態を招きました。そこで人民を救うという思想に基づいた行政が生まれていきました。
4つめは、1806年~1807年、11代将軍家斉の時代に起こった露寇事件。ロシア軍艦が突如、樺太南部の松前藩の施設を襲撃、ことごとく焼き払いました。翌年4月にもロシア軍艦二隻が択捉島に出現し、幕府の警備施設を襲撃しました。二度にわたるロシアの襲撃事件は、幕府に大きな衝撃を与え、結果的に開国か鎖国下の議論を活発化させ、国防体制を強化させていきました。この事件をきっかけに「民の生命と財産を維持する」という価値観と「民を守る」という政治意識がつくりあげられていた確立されました。

このように、江戸時代には、内乱、自然災害、外国の侵略など数々の重大な危機に次々と見舞われました。にもかかわらず、なぜ平和は保たれたのか。そこには、血生ぐさい戦国の風潮から脱し、民を慈しみ、人命を尊重する国家へと転換していった為政者たちの姿があり、徳川の幕藩体制によって先進国化していったというわけです。このあたりの徳川幕府の行った数々の功績(業績)は明治維新後、明治政府によって封印されてしまったようなところがあり、現在の歴史の教科書には1行も書かれていません。まぁ〜、現政治体制を正当化するために、それ以前の政治体制を悪かったものにしてしまう…それが政治というものなのでしょうが…。そうした中、この本はまったく新しい視点で江戸時代を眺めることのできる内容になっており、江戸時代における真の日本の姿をイメージする上で、貴重な参考資料となると思います。これもお薦めの1冊です。

やはり「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」……これに尽きます。


呉服橋交差点です。現在、呉服橋は外堀通りと永代通りが交差する交差点の名称になっていますが、江戸時代、ここには江戸城の外濠に面して呉服橋門があり、後藤橋と呼ばれる外濠を渡る橋が架かっていました。門の外側には幕府御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤橋の名称はこの呉服商の後藤縫殿助に由来します。また、呉服橋とも呼ばれました。この周辺は第二次世界大戦前までは地名も呉服橋13丁目と呼ばれていましたが、戦後外濠は埋められてしまい、橋と同様に地名も消失してしまいました。

ちなみに、この呉服橋を右へ曲がり、外堀通りをほんのちょっと進んだところに、先ほど日本橋に行く途中で寄り道した「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」の建つ一石橋があります。

私達は永代通りを直進します。呉服橋交差点を過ぎ、まもなくJR東京駅という丸の内トラストタワーの手前のところで左折し、路地裏のような細い道に入っていきます。驚くことに、これが昔の甲州街道です。「中山道六十九次・街道歩き」もそうでしたが、この旅行会社の街道歩きツアーは極力、旧街道の跡を忠実に辿るので、時々、ビックリするような道を歩かせてくれます。それが魅力です。


 この細い道を少し進んだところにあるのが、“遠山の金さん”こと、名奉行・遠山金四郎景元で知られる「北町奉行所」の跡です。TVドラマの『遠山の金さん』で、番組の終了間近になって悪人達のほぼ全員が金さん一人の手によって気絶させられ、その気絶した悪人達を同心達が捕縛するため「御用だ!!御用だ!!  北町奉行所だ!!  神妙にせぃ!!」と言いながらその場に駆けつける。後日、その捕縛された悪人達がお白洲に曳き出され、吟味に掛けられるのですが、奉行の遠山金四郎景元が「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座ぁ~!!」の掛け声と太鼓の音と共に登場するところがこの北町奉行所でした。



江戸時代における町奉行の役割は、町人地における警察、司法、行政、消防など多岐に渡り、南北2つの奉行所が月番(月替わり)で任務を行なっていました。原則的に町奉行の定員は南北の奉行所それぞれ2名体制でしたが、元禄15(1702)〜享保4(1719)の間だけは1名増員されており、一時的に、鍛冶橋門内(東京駅八重洲南口付近)に中町奉行所が設置されていた時期もありました。町奉行の下に付く与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずつという限られた人数でした。ちなみに、遠山の金さんと並ぶ名奉行・大岡越前守忠相(大岡越前)がいた南町奉行所は現在のJR有楽町駅前に置かれていました (ちなみに、遠山金四郎景元も北町奉行を勤めた後、大目付を経て、南町奉行に就任しています。また、大岡忠相は遠山景元より100年ほど前に活躍した人物です)


 

奉行所の呼称はあくまでも設置されていた場所によるものであり、管轄区域を示すものではありません。したがって、上記のように限られた人員で当時世界最大の人口(100万人)を誇る大都市江戸全体の行政、警察、司法、消防などを取り仕切っていました。さぞや重労働だったように思えます。TVドラマの『遠山の金さん』では、北町奉行、遠山金四郎景元が裁きの途中でそれまでの謹厳な口調とはガラリと変わった江戸言葉で、「やかましぃやい! 悪党ども!!  おぅおぅおぅ、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事をぬかしやがってこの桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と一喝しながら片肌脱ぐと、そこには桜吹雪の彫り物が…ってのがお約束の定番になっているのですが、これはあくまでも後世の人が講談や歌舞伎、小説、映画やテレビの時代劇で作り上げられたフィクションに過ぎません。

実際、遠山金四郎景元が北町奉行としてTVドラマで描かれているような名裁きをしたという具体的な記録はほとんど残っていません。そもそも前述のように江戸時代は現代のように三権分立が確立していない時代で、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅していました。言わば町奉行は東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であって、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかありませんでした。なので、激務の合間に自ら潜入捜査を行い、事件の真相と黒幕を突き止める…なぁ〜んてこと、とてもじゃあないけど、できるような話ではありませんでした。やったとしたら、大都市江戸の行政が滞ってしまって、大変なことになった筈です。ただ、遠山金四郎景元は青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたという伝聞が残っています。これが有名な「桜吹雪」に繋がります。また、当時から裁判上手だったという評判は残されており、名裁判官のイメージの元になったエピソードも幾つか存在します。

それにしても、そんな限られた人数で、当時世界最大の大都市だった江戸行政・司法全般を担っていたとは。見方を変えると、それだけ当時の江戸って治安が良かったってことなのでしょうね。打ち首獄門の死刑囚に対しても処刑前にその姿を晒す「晒しの刑場」が日本橋のところにあったり、市中引き回しの上…なんて面倒くさいこともやったりしたのも、悪いことをするとこうなるよ…ということを民衆に知らしめるということで、治安の引き締めを行ったということなのでしょう。ある意味合理的で、素晴らしいことだと私は思います。

まったくの余談ですが、TVドラマ『遠山の金さん』で主人公の北町奉行・遠山金四郎景元を演じた俳優さんは中村梅之助さん、市川段四郎さん、橋幸夫さん、杉良太郎さん、高橋秀樹さん、松方弘樹さん、松平健さん、さらには最近ではスペシャル番組でTOKIOの松岡昌宏さんなどがいらっしゃいますが、私は断然松方弘樹さんが好きでした。なんと言っても、“遊び人の金さん”として松方弘樹さんが一番粋でしたし。

さらに余談ですが、私が大好きだった藤田まことさん主演のTVドラマ『必殺仕事人』シリーズ。その中で藤田まことさんが演じた中村主水(なかむらもんど)は北町奉行所の定町廻り同心という設定でした (すなわち、ここが勤務先だったのですね)。定町廻り同心とは江戸の町奉行所配下の役人の名称で、同じく江戸市中を巡回して警備と犯人の探索逮捕を行う臨時廻り、隠密廻りとともに「三廻り」と総称された捕り物(警察)の花形でした。通常江戸を4コースに分け、中間(ちゅうげん)1人と23人の岡引(おかっぴ)きを引き連れて歩き、髷(まげ)を小銀杏(こいちょう)に結い、竜紋裏の黒羽織を着流して、腰に大小と朱房(しゅぶさ)の十手を背中に挟んでいました。途中各所の番所(木戸番、自身番)に立ち寄り、事件および懸案事項の有無を尋ね、必要とあれば犯人逮捕に向かいました。

定町廻り同心は江戸では6名で組織し、南北両町奉行所あわせて12人の同心で勤めていました。広い江戸市中の取り締まりをこの少ない人数で行うことは困難なことで、実際の取り締まりは同心の支配下にあった岡っ引や地域におかれた番所(木戸番・自身番)などが担っていたようです。劇中では中村主水は典型的な「昼行灯」として描かれていましたが、まぁ〜、激務このうえない役職だったわけで、“裏稼業”をやってる時間などなかったのではないでしょうか。南北両奉行所が月替りで業務にあたっていたので、裏稼業は非番の月にでもやっていたのでしょうかねぇ〜? 

また、中村主水は仲間からは主に「八丁堀」と呼ばれていました。現在、東京メトロ日比谷線とJR京葉線に八丁堀駅がありますが、そのあたりの地名です。当時は現在の八丁堀から日本橋茅場町、日本橋兜町までを含めた広い範囲を通称して八丁堀と呼んでいました。神田と日本橋との境界となっていた堀の長さが約8(873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀の名称に由来して町名がつけられたのだそうです。江戸時代の初期には、この一帯には多くの寺が建立され、寺町を形成していたのですが、寛永12(1635)、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられ、その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになったといわれています。中村主水も八丁堀組屋敷に住んでいる設定になっていたということのようです。

それにしても、主にエレキギターやトランペットが軽快に主旋律を奏でる『必殺仕事人』シリーズのオープニングテーマ曲や劇中曲はどれも実に素晴らしい名曲揃いでした。聴いているだけでテンションが上がってきます。作曲は平尾昌晃さん。さすが、いい“仕事”をなさっておられます。

加えて、『大岡越前』、『木枯らし紋次郎』、『水戸黄門』もそうでしたが、芥川隆行さんの独特の節をつけたナレーションがとにかく秀逸でした。実は私、時代劇って大好きなんです。


北町奉行所の東方には寛永13(1636)に築かれた江戸城の外堀がありました。現在この地域の外堀は常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残るだけですが、JR東京駅周辺は昭和30年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名称などに名残りを留めている程度です。この北町奉行所跡にはかつて存在した外堀をイメージした石積みが再現されています。その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時のままの形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴が見られます。

また北町奉行所跡には敷地の北東部の溝から発掘された角を削り面取りした石が展示されています。これは風水的に屋敷の鬼門にあたる艮(うしとら:北東)の方角を護る呪術的な意味が込められていると言われています。

北町奉行所の項、「これにて一件落着!  

こんなペースで書いていたら、このブログ、いつまで経っても終わりません。日本橋をスタートしてからどれほども経っていませんし。それにしても、ここ3年ほど中山道を歩き、肥えてきた街道歩きの目を通して眺めてみると、東京ってなんて興味深く楽しいところだろう…と思えてきます。広島の大学を卒業して東京に出てきて40年。このあたりもすっかり見慣れた光景ではあるのですが、さすがに元の「江戸」。こういう面白い痕跡が幾つも残っているのですね。見える景色が変わってきて、飽きません。東京に出てきて、良かったなぁ〜って思えてきます。

この3年間の私の変化って、ブログ『おちゃめ日記』にも現れています。20166月に掲載された『おちゃめ日記』の「中山道六十九次・街道歩き【第1:日本橋→板橋】」の内容のなんとアッサリしていることか…()

http://www.halex.co.jp/blog/ochi/20160613-7913.html 中山道六十九次・街道歩き【第1:日本橋→板橋】(その1…第1回は(その4)まで続きます。


……(その3)に続きます。





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