2018年6月28日木曜日

甲州街道歩き【第1回:日本橋→内藤新宿】(その6)


四谷(四ツ谷)が近づいてきました。四谷と言えばSophia University、上智大学ですが、久し振りにその上智大学の姿を見て、ビックリしてしまいました。なんと地上17階、地下1階建ての白亜の近代的な建物に大変貌を遂げているではありませんか!  愛称は「ソフィアタワー」というらしいです。竣工したのは昨年(2017)。ここ数年、四谷にご縁がなくて四ツ谷駅に降りたこともなく、東京メトロ丸ノ内線で四ツ谷駅を通る時も、窓の外を見ることがなかったので、久し振りに見て、本当にビックリしてしまいました。古い上智大学の校舎群、都心部にありながら、ゆったりとした空気が漂う感じがして私は好きでした。

 

東京に出て来た当初、東京の風景の何もかもが新鮮で、休みのたびにあちこちブラついて東京の雰囲気を楽しんだのですが、特に新鮮だったのが東京の都心にある私立大学の雰囲気でした。大学を卒業したてでしたからね。私が卒業したのが地方の国立大学、しかも男だらけの工学部だったので、その対極にあるかのような雰囲気(校風)の東京の私立の大学はとにかく新鮮でした。目がクラクラしそうで、学生さん達が羨ましくも思えましたね。中でも上智大学の雰囲気は私の中では抜きん出ていましたね。カトリック系の大学ってこんな感じなんだぁ〜って思ったものです。(私のキャラクターには合いそうもない印象ではありましたが…。)

ソフィアタワーは低層部(2階〜6)を大学施設、高層部(7階〜16)をテナントオフィスで構成した、都市型キャンパスの新しい可能性を秘めた複合施設で、オフィスビル部分(1階店舗部分および高層部)にはテナントとして株式会社あおぞら銀行の本社が入居しています。テナント賃料で得られる収益は、海外からの留学生や遠方出身の学生への支援を目的とした奨学金等として活用するのだそうです。都心部にキャンパスを持つ大学としては、こういう経営も十分にありかな…と私は思います。隣接するカトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)とのマッチングも考えて建てられた建物のようで、地域の街並みとも一体化しているように思います。

JRの四ツ谷駅です。四谷(電車の駅名は四ツ谷)にはJR中央線と総武線、そして東京メトロ丸ノ内線と南北線という4つの路線の駅があるのですが、驚くのは東京メトロ丸ノ内線の四ツ谷駅です。なんと地下鉄であるにもかかわらず、JR中央線・総武線のホームよりも高い所にあり、立体交差しているのです。実は立体交差の部分は皇居外側の埋立地で、JR(旧国鉄)の線路と駅が堀割りの谷底に立地していたため、後から高架で丸ノ内線の駅が造られたという経緯があります。それまで地下鉄はずっと地下を走っているものだ…という先入観を持っていたので、東京に出てきてこの光景を初めて目にした時、本当に驚いてしまいました。

 

地下鉄が地上に顔を出すのは丸ノ内線の駅ではほかにも茗荷谷駅と後楽園駅が地上に立地しており、御茶ノ水駅付近も地上に顔を出しますが、JR中央線と総武線の線路の下を走ります。東京メトロ銀座線では地下鉄の渋谷駅が高架のJR山手線の渋谷駅のさらにその上を跨ぐように立体交差しており、なんと渋谷駅ビルの地上3階を発車して地下に潜っていきます。これは改めて周囲の地形を考えてみるとなるほど…と思えるのですが、最初に見た時は正直衝撃でした。ホント田舎モンでした。


まったくの余談ですが、私が大学1年の時に流行った歌にフォークグループの「猫」が歌った『地下鉄にのって』がありました。作詞が岡本おさみさんで、作曲が吉田拓郎さん。吉田拓郎さんはご自身でも歌っておられます。その1番には「今 赤坂見附をすぎたばかり  新宿までは まだまだだね」という歌詞があり、2番には「今 四谷を通りすぎたばかり」という歌詞がありました。明らかに丸ノ内線を歌った歌ですね。

JR四ツ谷駅の隣に「四谷見附」の跡があります。日比谷見附のところでも書きましたが、見附とは街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。この四谷見附は両側を高い頑丈な石垣で固められ、そこに黒々としたガッチリ構えた見附門があったと言われています。この門は六ツ時(午後6時頃)には容赦なく扉が閉められたのだそうです。


四谷見附橋を渡ります。前述のように現在は谷底をJR中央線と総武線の線路が通っていますが、かつてここは江戸城の外濠の堀割りでした。なので、このように橋が架かっていました。橋の上にはその説明書きと明治元年(1868)、さらには明治30年代の四谷見附付近の写真が掲載されています。大変に興味深い写真です。




この四谷見附橋はJR中央線と総武線の電車を撮影するのに絶好なポイントの1つです。当時の私は斉藤哲夫さんが歌う「いまのキミはピカピカに光って」をバックに宮崎美子さんのピチピチ水着姿が印象的だった伝説のテレビCM(1980)に刺激を受けて、ボーナスでミノルタ(現コニカミノルタ)の一眼レフカメラ「X-7」を購入したばかりで、このポイントで当時国鉄だった中央線と総武線の電車を撮影したことがあります。当時の中央線はオレンジ色、総武線はカナリア色をした車体の103系直流通勤電車が主体で、中間に非冷房の車両も挟んだ編成もあったように記憶しています。


宮崎美子さん、今でも女優として、またその博識ぶりが買われてクイズ番組の回答者としてテレビに登場されているお姿を時々拝見しますが、私達の世代にとっては、やっぱり「いまのキミはピカピカに光って」です!  とにかく、宮崎美子さんがメチャメチャ可愛らしくて、強烈なインパクトがあったテレビCMでした。もともと“撮り鉄”ではなく、写真撮影は苦手だった(カメラにまったく興味のなかった)私がそのミノルタの一眼レフカメラ「X-7」を購入しちゃったくらいですから。


四谷見附橋を渡り終えたところで左折し、国道20号線(新宿通り)に戻っていきます。


 

JR四ツ谷駅の裏に歌碑が建っています。「福羽美静歌碑」と刻まれています。福羽美静(ふくば びせい)って方を存じ上げていなかったのでその場でネットで調べてみると、幕末期の石見国津和野藩士で国学者、歌人だった方のようです。子爵で、貴族院議員も長く務められた方です。何故その福羽美静の歌碑がこの四谷に建っているのかは、分かりません。


国道20号線(新宿通り)を新宿方向にただ黙々と進みます。




四谷と言えば「四谷怪談」、「お岩さん」です。四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる実際の事件をもとに創作された怪談のことです。基本的なストーリーは「貞女だった岩が夫の伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者の四代目 鶴屋南北によって作られた歌舞伎『東海道四谷怪談』や、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活躍した落語家の初代 三遊亭圓朝の創作した怪談『四谷怪談』などで有名になりました。怪談の定番とされているのですが、折に触れて舞台化・映画化されているため、実は様々なバリエーションが存在します。基本的なあらすじは以下の通りです。

時は元禄時代、物語の舞台は江戸の四谷。御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門の一人娘である「お岩」は、容姿・性格ともに難があり、なかなか婿を得ることができませんでした。浪人の伊右衛門は、仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として入り、このお岩を妻にしました。愛があっての結婚ではありませんでしたが、次第にお岩は伊右衛門に惹かれていきます。

しかし、近くに住んでいた金持ちの伊藤喜兵衛という男の孫娘お梅が、男前であった伊右衛門に惚れ込んでしまったのです。可愛い孫娘のため「どうにかして孫娘の婿に」…と考えた喜兵衛は、お金に物を言わせ伊右衛門に言い寄ります。初めは断っていた伊右衛門でしたが、段々とお金に目がくらんでいき、気持ちが変わっていきました。そこで喜兵衛は、お岩に少しずつ毒を盛るよう伊右衛門に指示。伊右衛門はそれを実行すると、知らずに毒を飲み続けたお岩の髪はバラバラと抜けおち、顔は醜くただれていきます。

その姿を鏡で見たお岩は絶叫し、錯乱状態に陥り、その果てにショックで死んでしまうのです。そうして幽霊となったお岩は、毎夜毎夜、伊右衛門の枕元に現れては、「うらめしや〜、うらめしや〜」と立ち続ける……このようなストーリーが一般的なのではないでしょうか。

これが鶴屋南北の代表的な歌舞伎『東海道四谷怪談』全5幕では、基本となる前述のお岩伝説に不倫の男女が戸板に釘付けされて神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられ、かなりオドロオドロしい怪奇な話に変貌します。お岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死んだり(二幕目・伊右衛門内の場)、お岩と別に惨殺した小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたものが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見てお岩の執念に驚いたり(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられたり(大詰・蛇山庵室の場)…と、怪奇色がテンコ盛りで満載で訳がわからなくなるような内容となります。

ただ、こういうストーリーゆえに「お岩さん=祟り」のイメージだけが勝手に一人歩きして、人々の間で定着してしまっているような気がしています。

四谷三丁目交差点を左折し、外苑東通りを少し進み、左門町交差点の手前を左側に入った四谷左門町に、その「四谷怪談」のお岩と深い縁のある「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」が、道を挟んで両側に建っています。まず、こちらが於岩稲荷田宮神社です。



於岩稲荷田宮神社に掲げられている由緒書きには、実に意外なことが書かれてあります。

この四谷の於岩稲荷田宮神社は田宮家の跡地に建てられたもので、お岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれています。お岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の江戸入府とともに駿府から江戸に移住してきた御家人でした。一人娘のお岩と、婿養子に入った伊右衛門は近所でも評判の仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活をお岩が奉公に出て支えていたともいわれています。お岩が田宮神社を勧請した後に生活が急に上向いたと言われており、そのことがこの辺りの住民の信仰の対象となりました。

江戸の四谷の御家人・田宮又左衛門とその娘・お岩。そして婿養子に入った伊右衛門。まさに四谷怪談の登場人物そっくりです。ただ、異なっているのはお岩と伊右衛門が近所で評判の仲のよい夫婦であったという点です。田宮家の菩提寺である妙行寺には田宮家の過去帳が残されていて、田宮家2代目伊右衛門の妻で寛永13222(1636329)に死亡した『得証院妙念日正大姉』という法名を贈られた女性がお岩だとされているのだそうです。なんと、お岩と伊右衛門は仲のよい夫婦だったのです!!  ここからどうやってあの恐ろしい「四谷怪談」が生まれてきたのか…大いに謎が残ります。

さらに、これが正しいとすると、本物のお岩さんがお亡くなりになったのが寛永13(1636)。元禄年間とは1688年から1704年までの期間のことですから、お岩さんがお亡くなりになってから50年以上も後のことです。さらに、四代目 鶴屋南北が本格的に歌舞伎の台本を書き始めたのが享和3(1803)のこと。初代 三遊亭圓朝が真打(しんうち)に昇進したのが安政2(1855)のことですから、亡くなられて約200年が経ってから勝手に名前を使われ、自分が死んでから50年以上後の元禄時代を舞台を移した怪談話に登場させられるわけです。しかも、毒は盛られるは、顔は醜くただれさせられるは、発狂して殺されちゃうは、幽霊となって夜な夜な出てこらされるは、色男の極悪人にさせられちゃうは…ってことになるわけで、ご両人にとっては酷く迷惑な話なのではないでしょうか。

とは言え、火のないところに煙は立たない…って言いますが、仲がいいと評判だったお岩さんと伊右衛門さんの間で、もしかすると“何か”があったのかもしれません。それが地元(四谷)に伝わる伝承として残り、200年間のうちにある事ない事の尾ひれがビッシリとくっ付いていき、とうとう怪談にまでなっちゃった…とも考えられます。

さらにさらに、謎ってことでいうと、四代目 鶴屋南北によって作られた歌舞伎の題名自体も謎ですよね。『東海道四谷怪談』って、四谷を通っているのは甲州街道であって、東海道ではありません!  にもかかわらず、何故『東海道四谷怪談』って題名なんでしょうね?   そして、誰もこのことに対して「違うじゃん!」ってツッコミを入れないんでしょうね。謎です。

於岩稲荷田宮神社は明治12(1879)の火災によって一度は焼失して中央区新川に移ったのですが、今度はそこが第二次世界大戦の戦災で焼失。戦後、この四谷の旧地に再興されたものです。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院ですが、境内に「お岩さま縁の井戸」というものがあります。この間の経緯に関しては、元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物がなくなって困った地元の有志達が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時、本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが現在の陽雲寺の成り立ちと言われています。地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げた背景には、於岩稲荷は歌舞伎俳優はもとより、お岩の浮気に対して見せた怨念から男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰も集めたため、賽銭のほかに土産物などで地元経済が潤ったからだと言われています。間違っていたら大変に申し訳ないのですが、現在の於岩稲荷田宮神社は、要は歌舞伎や落語、講談等で有名になった「四谷怪談」絡みの単なる便乗商法の産物ってことなのかもしれません。

こちらが於岩稲荷陽運寺です。


於岩稲荷陽運寺の「お岩さま縁の井戸」というのがこれです。


と言うことで、この於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺には、本物のお岩さんと、歌舞伎や落語で創作されたフィクションのお岩さんの両方が祀られているってことで、あとは参拝する人の気持ち次第ってことなのでしょう。実際、現在、この於岩稲荷田宮神社は都内有数のパワースポットとしても知られていて、「縁結び」「縁きり」などの祈願に訪れる人が後を絶たないのだそうです。この日もパワースポット巡りをしていると思われる若い女性が何人も訪れていました。

おやっ!  赤地に白で「奉納  於岩稲荷田宮神社」と染め抜かれた幟に「人間国宝  講談師  一龍斎貞水」の文字があります。講談とは演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能の一つです。私は古典落語が好きで、時々は寄席に行って落語を聴くことがあるのですが、15年ほど前の一時期、講談にはまったことがあります。はまるキッカケとなったのが、この人間国宝 六代目 一龍斎貞水先生の講談を聴いたことでした (落語の真打には敬称として“師匠”を付けますが、色物・講談の真打の場合には“先生”を付けるのが伝統です)



一龍斎貞水先生は昭和14(1939)のお生まれですから今年で79歳。昭和30(1955)16歳で五代目 一龍斎貞丈に入門し、昭和41(1966)27歳で真打に昇進し、六代目 一龍斎貞水を襲名。平成14(2002)、講談師初の人間国宝に認定されています。「怪談の貞水」の異名を持ち、照明や音響、大道具などを効果的に用いた「立体怪談」を得意としています。

私はその後、前の会社(NTTデータ)で本社の営業企画部長として、NTTデータが毎年夏にお客様企業や金融機関のトップご夫妻をお招きして開催する「サマーフォーラム」の事務局長も務めさせていただいたのですが、北海道の札幌で開催したサマーフォーラムで行う講演の講師にこの六代目 一龍斎貞水先生をお招きしたことがあります。「講演なんてどうでもよいので、師匠の四谷怪談を是非VIPの皆様がたの前でご披露してください!」ってお願いして。いくらVIPの方々と言っても、日本の伝統芸能、それも人間国宝の技にナマで触れることって滅多にないことですからね。で、照明や音響、大道具などを札幌に持ち込んでいただき、人間国宝技の立体怪談で「四谷怪談」を演じていただきました。夏の札幌で聴く四谷怪談、さぞや涼しく感じられたことではないでしょうか。この意表を突いた企画は大成功で、参加いただいたお客様からも一様に「大変良かった」というご評価をいただきました。

私は最初の出演依頼の時を含め何度か一龍斎貞水先生と直接お会いしてお話をさせていただく機会があったのですが、人間国宝ということで職人肌の取っつきにくい方じゃあないか…との先入観があったのですが、実際にお会いしてみると、とぉ〜っても親しみやすい気さくなオッチャンでした。ここで師匠のお名前を目にしたからには、また近いうちに(本拠の)湯島天神のほうに先生の講談を聴きにいこうと思います。

聞くと、芸能界には、四谷怪談、お岩さんを題材とした歌舞伎や映画などを制作する際には、お岩さんの祟りを恐れて、役者やスタッフは必ずお参りしてから撮影したり演じたりする…といった暗黙のルールが存在するのだそうで、当然のこととして六代目 一龍斎貞水先生はこの於岩稲荷田宮神社に幟を奉納なさったんでしょうね。お岩さんを殺しちゃって、そのお岩さんが幽霊となって出てくる話が高く評価されて、人間国宝にまで上り詰められたわけですから。そこに到るまでに、(話の中で)お岩さんを何度殺したことか…。せめて幟くらいは奉納しないと、お岩さんに祟られますよ()





四谷三丁目交差点まで戻り、甲州街道歩きを再開しました。


……(その7)に続きます。









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