2022年5月4日水曜日

鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線②

 公開予定日2022/08/05

[晴れ時々ちょっと横道]第95回 鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線②


【廃止された森松線】

松山市の出身者で、私と同世代以上の方と伊予鉄道の話をすると、必ずと言っていいくらいに話題に登場してくるのが、昭和40(1965)に廃止された横河原線の支線・森松線です。50年近く前に廃線になったとは言え、今も森松線のことを懐かしむ松山市民、松山市関係者が大勢いらっしゃることを実感しておりますので、ここで触れないわけにはいきません。

森松線は横河原線で松山市駅を出て2つ目の「いよ立花駅」を起点に終点の森松駅までの総延長約4.4kmの短い路線でした。途中駅は「石井駅」ただ1駅。この石井駅は「椿神社(お椿さん)」の最寄り駅でした。全線の開業は明治29(1896)。横河原線が外側(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間で開業した明治26(1893)3年後のことで、終点の横河原駅まで延伸した明治32(1899)3年前のことでした。開業当初は軌間(線路幅)762mmの軽便鉄道規格でしたが、昭和6(1931)1,067mmに改軌。昭和40(1965)に廃止されるまで全線で単線非電化の路線でした。

横河原線と同様、小型の蒸気機関車(坊っちゃん列車)L字型の車体を持つ小型のディーゼル機関車が34両の小型の客車を連結して1時間に1本程度がトコトコ走る路線で、普段は乗客も少ない影の薄い路線だったのですが、沿線の椿神社の例大祭の時には臨時列車が出るなどしてデッキから溢れそうな乗客を乗せて大活躍しました。まさに椿神社の参拝客や例大祭のためにあったような路線で、私と同世代以前の松山市民にとっては「お椿さんに行く時に乗った列車」として深く思い出に刻まれているのではないでしょうか。

第二次世界大戦後、併走する国道33号線が拡張整備されるとバス路線に乗客を奪われることになります。1時間に45本運行されるバスに対し、1時間1本の鉄道では勝負にならず、乗客の数は半減しました。結局乗客数を挽回する方策は見つからず、森松線は昭和40(1965)に廃止となりました。しかし、皮肉な事に廃止後は森松線沿線の宅地化が急速に進んで住民が増大。重信川を挟んで森松の南に隣接する伊予郡砥部町も大きく発展した結果、あまりのモータリゼーションの進み具合に国道33号線の渋滞が日常慢性化する事態となります。ここで定時輸送のできる鉄道(森松線)が残っていれば十分に乗客の受け皿になったと思われ、伊予鉄道さんには申し訳ないけど、この森松線の廃止は大きな経営判断ミスだったのではないかと、私は思っています。ただ、森松線と並行して走っていた国道33号線が、森松線の軌道敷跡を利用して早期に拡幅工事を行い、道路交通量を増やしたことがこの森松線沿線や砥部町の宅地化が急速に進んだ一因とも考えることができ、今となってはどっちがよかったのかの評価は分かれるところではあります。

横河原線いよ立花駅を起点に、その伊予鉄道森松線の跡を探ってみました。

 

【いよ立花駅】

横河原線で松山市駅から2つ目の「いよ立花駅」です。かつてこの駅から支線の森松線が分岐していました。いよ立花駅は明治26(1893)に伊予鉄道が横河原線を開業した際に設置された駅で、開設当初は漢字で「伊予立花駅」という駅名でした。このいよ立花駅、その気になって眺めてみると、森松線が走っていた頃の名残りがいたるところに残されています。その名残りにつきましては、以下の写真をご覧ください。

いよ立花駅です。現在の駅舎とホームは森松線が廃止された後の昭和42(1967)に全面的に大規模改修されたものです。

いよ立花駅付近の踏切から横河原方向の線路を撮影したものです。横河原線は比較的直線の区間が多いと書きましたが、中でも一番長い直線区間はいよ立花駅と2つ先の北久米駅間で、約2.5kmの直線区間が続きます。遠くを見ると線路が上り勾配になっていることが分かります。横河原線は13.2kmで約100メートルの標高差を登ります。

森松線廃止後の大規模改修においては横河原線の線路の位置を大きくずらしたようで、現在の1番線の線路(写真左手)がかつての森松線の線路があったところのようです。いよ立花駅の横河原線の線路は不自然に南側(写真左手)に湾曲しているようにも見えるのですが、それはこの大規模改修の名残りなのでしょうね。

元々の伊予立花駅は単式の1番線ホームと、島式の23番線ホームの23線の構造をしており、対面している島式の12番線が横河原線ホーム、単式の3番線が森松線ホームでした。現在は島式の12番線ホームだけになっていますが、地方鉄道の途中駅にしては無駄に広い構造になっています。

駅の北側です。かつてここには道後鉄道の道後駅だった建物を移築した駅舎が建っていました。現在は駅前広場、というか路線バスの停留所になっています。

駅前の歩道橋の上から東側を眺めたところです。現在は横河原線の線路になっている1番線ホームからの線路は、ここから緩やかに右にカーブし、現在のバス停や駐車場の中を突っ切るように森松の方向へ分岐していたことが見て取れます。現在、駐車場となっているあたりは、かつて留置線が設けられていたところで、横河原線や森松線で運行されていた蒸気機関車やディーゼル機関車、客車の車庫になっていたと思われます。バス停の前の道路が旧の国道33号線です。

いよ立花駅の東側の駐車場(かつての車庫?)の裏から、旧の国道33号線のすぐ東側を細い1本の道路が走っています。ほぼ直線に延びる道路なのですが、微妙に道路の両側がクネクネしています。おそらく森松線の線路跡なのではないでしょうか。この道路はすぐに旧の国道33号線と合流します。

 

【石井駅跡】

森松線はいよ立花駅を出るとほぼ国道33号線の東端を沿うように延びていたのですが、国道の拡幅工事で線路は完全に国道に飲み込まれてしまい、線路の跡らしきものはいっさい残っていません。

森松線唯一の途中駅であった石井駅は国道33号線の椿神社入口交差点の北東付近にあったとされています。残念ながら、現在は遺構は全く残されていません。椿神社入口交差点は、名前のとおり、椿神社と通称される伊豫豆比古命神社の参道入口でもあります。赤い“一の鳥居”が建っているのが見えます

 

国道33号線の椿神社入口交差点です。かつて石井駅はこのあたりにありました。ここは椿神社(伊豫豆比古命神社)の参道入口で、赤い“一の鳥居”が建っているのが見えます。

松山市民から「椿神社」や「お椿さん」と呼ばれて親しまれている『伊豫豆比古命神社』です。「伊豫豆比古」の読み方については、神社では「いよずひこ」としていますが、「いよづひこ」と読んでいる例も多いようです。祭神は、

・伊豫豆比古命(いよずひこのみこと・男神)

・伊豫豆比売命(いよずひめのみこと・女神)

・伊与主命(いよぬしのみこと・男神)

・愛比売命(えひめのみこと・女神)

伊与主命(伊予主命とも)は久味国(くみこく:現在の愛媛県松山市東部から東温市、久万高原町周辺に相当)の初代国造で、伊豫豆比古命は伊与主命の祖神。伊豫豆比売命は伊豫豆比古命の、愛比売命は伊与主命の奥方神とされています。ちなみに、愛媛県の県名はこの4体の神のうちの1体「愛比売命」から名づけられており、都道府県名で神様の名前を使用しているのは愛媛県のみです。

社伝によると、この神社は孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37(1962)には御鎮座2250年祭が、平成24(2012)には御鎮座2300年祭が行われたほどの古い歴史を持つ神社です。その昔、この神社一帯は海で、海を意味するの脇にある神社、すなわち「つわき神社」が時が経るにおいて「つばき神社」に変化したと言われています。また、神社の周りに藪椿をはじめとした各種の椿が自生していたことからも、「椿神社」と呼ばれるようになったという説もあるようです。この椿神社一帯の現在の標高は約3040メートル。そこが2300年前までは海だったとは俄かには信じがたいのですが、南海トラフ付近で発生した超巨大地震の影響で中央構造線の北側が隆起した痕跡がこの近くの伊予郡砥部町にあるので(砥部衝上断層:国の天然記念物)、そういうことも、さもありなんとも思えます。

毎年、旧暦17日〜9日に行われる伊豫豆比古命神社の春季例大祭は「椿まつり」あるいは「お椿さん」と呼ばれ、「伊予路に春を呼ぶ祭り」とされています。3日間の祭りの期間中、毎年数十万人が参拝し、参拝者の数では四国一の大祭と言われています。私も子供の頃、両親に連れられて毎年のように「椿まつり」に来ていました。昔、この近くを走っていた伊予鉄道森松線の石井駅から神社までの参道は出店で溢れ、綿菓子や飴を買って貰うのが楽しみでした。ただ、あまりの参拝客の多さに迷子にならないように、父か母にしっかり手を握られていたので、それが痛かった思い出もあります。

 

松山市民から「椿神社」や「お椿さん」と呼ばれて親しまれている『伊豫豆比古命神社』です。

【森松駅跡】

かつて森松線の終点だった森松駅の跡です。森松線はこの手前で国道33号線(新道)から分岐し、旧の国道33号線に沿って延びていました。森松駅の跡は、現在は伊予鉄バスの森松営業所になっています。この建物は廃線の翌年の昭和41(1966)に森松バスターミナルとして整備されたもので、元の駅舎は廃線時に取り壊され、駅舎のあった場所に森松出張所の建物が建てられました。

現在、国道33号線沿いに伊予鉄バスの森松・砥部線が走っています。鉄道の森松線営業当時から走っていたバスの並行路線で、松山市駅から森松までほぼ廃線跡をそのまま路線バスが走ってくれています。この森松・砥部線、日中は15分間隔、終バスは23時近くと、地方の路線バスとしては異例とも思える高頻度運行のバスで、それだけ需要が多い路線だということです。時刻表や次から次へとやってくる路線バスを眺めていると、(鉄道の)森松線が廃止されずに残っていたらと、鉄道マニアとしてはどうしても思ってしまいます。


森松駅の跡は、現在は伊予鉄バスの森松営業所になっています。

伊予鉄バス森松営業所の中の様子です。バスの停留所ながら出札窓口が作られており、ベンチの置かれた待合室は鉄道駅を意識した作りとなっています。

砥部方面の乗り場です。伊予鉄バス森松・砥部線は日中は15分間隔、終バスは23時近くと、地方の路線バスとしては異例とも思える高頻度運行のバスで、それだけ需要が多い路線だということが分かります。

旧の国道33号線に面したバス停は砥部方面行きのバス停です。

建物の裏手にも乗降の乗り場があり、乗客用のベンチが置かれています。建物裏手のバス停は松山市駅方面行きの乗り場で。す。12線式の電車のホームのようです。

営業所の裏手の敷地です。現在は車庫としてバスが何台か駐車していますが、森松線の営業当時にはこちら側に単式ホーム1面があり、またその外側には機関車や客車が留置できる引き上げ線もありました。

建物裏手のバス停から松山市駅行きのバスが出てきました。

JR四国バスの久万高原線の路線バスがやって来ました。このバスは森松の隣りの伊予郡砥部町を経て、上浮穴郡久万高原町まで運行されているのですが、この路線はかつての国鉄バスの松山・高知急行線で、JR四国の栄光のドル箱路線でした。松山〜高知間が高速道路経由になったので、現在はJR松山駅と久万高原駅を一般型の路線バスで結んでいます。

森松駅のすぐ傍を一級河川の重信川が流れています。旧の国道33号線はここで重信橋(通称:森松橋)で重信川を渡り、伊予郡砥部町に入っていきます。松山市森松町~伊予郡砥部町の境を流れる重信川に架かる重信橋は明治38(1905)に完成しました。明治時代の重信橋は木鉄混合の下路トラス橋であったそうなのですが、昭和23(1948)に洪水によって一部が流失してしまったため、旧日本海軍が所有していた鋼材等を用いて昭和25(1950)に現在の鉄橋に架け替えられました。昭和57(1982)には下流側に国道33号バイパスの重信大橋が開通したので、今は旧の国道として県道になっています。

この重信橋が架かっているところは、かつては重信川の渡しがあり、砥部や久万、さらには高知県方面から陸路運ばれてきた物資は、ここで渡し船に乗せられて松山市側に運ばれてきていました。その物資を松山市街中心部に運ぶために敷設された鉄道が伊予鉄道森松線ということだったようです。なので、森松線も横河原線同様、貨物輸送主体の路線だったようです。

 

重信川に架かる旧国道33号線の重信橋です。
重信橋から見た重信川の上流側です。

 

次回(その3)は今回の鉄分補給シリーズの最終回。(その3)では松山市駅から南西方向に延びる郡中線を取り上げます。


2022年5月2日月曜日

鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線①

 公開予定日2022/08/04

[晴れ時々ちょっと横道]第95回 鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線①


愛媛県の県都・松山市の中心部にある松山市駅を拠点に郊外電車や市内電車を運行する伊予鉄道。このうち郊外電車は松山市駅を起点に北西方向に高浜線、南西方向に郡中線、東方向に横河原線といういずれも約10km3路線が放射状に延びているということは、鉄分補給シリーズ(その1)の高浜線のところで書かせていただきました。次に取り上げるのは横河原線です。私の実家の最寄り駅は横河原線の北久米駅で、実は伊予鉄道の中では私が一番利用することの多い路線です。

 

【伊予鉄道横河原線】

横河原線は松山市街の中心部に位置する松山市駅を起点に、松山平野(道後平野)の東の端に位置する横河原駅(東温市横河原)を結ぶ延長約13.2kmの路線です。この横河原線の歴史も古く、伊予鉄道が最初に手掛けた高浜線を松山駅(現在の松山市駅)〜三津駅間で開業した明治21(1888)5年後、高浜駅まで全通させた明治25(1892)の翌年の明治26(1893)に、外側駅(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間が高浜線に続く2番目の路線として開業しました。終点の横河原駅まで延伸したのは明治32(1899)のことで、120年以上の歴史を誇っています。

横河原線路線図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

 
【石手川公園駅】

その横河原線開業当時に作られた設備が、今でも現役で使われています。それが、松山市駅を出て次の駅、「石手川公園駅」です。この石手川公園駅は片面ホーム11線の無人駅ですが、ホームが石手川を跨ぐ鉄橋「石手川橋梁」の上にあるという全国的にも珍しい特徴を有しています。そして、この駅を支える鉄道橋は橋長35.8メートルのピン結合式錬鉄製ポニー型プラットトラス橋。明治時代中期、イギリスから大量に輸入された同タイプの橋梁(橋桁)が全国の鉄道網の構築を支えました。この石手川橋梁は横河原線が開業した明治26(1893)に建造されたものです。日本の鉄道の黎明期を支えたピン結合式錬鉄製ポニー型プラットトラス橋ですが、その後ほとんどの橋梁が架け替えられており、竣工当時のまま同一位置で移設されずに使われている橋梁としては、この伊予鉄道の石手川橋梁が日本最古の橋とされています。そのため、平成24(2012)にはこの鉄道橋(石手川橋梁)が土木学会選奨土木遺産に認定されています。

ちなみに、横河原線は、開業時、軽便鉄道規格の軌間762mmで線路が敷かれました。この石手川橋梁も当初は軌間762mmに合わせた桁幅だったのですが、昭和6(1931)に現在の1,067mmに軌間が改軌された際に拡幅されています。

元々の駅のホームは駅の横河原側の地上部分にあったのですが、横河原線が電化され、編成長が長くなったために駅のすぐ松山市駅側にある鉄橋の上までホームを延ばしたようです。現在は18メートル級車両4両編成が停車可能なホームになっています。

ホームの陸上部分です。18メートル級車両2両ぶんほどの長さしかありません。なので、3両目以降は橋の上(川の上)に停車します。ホームの反対側は歩道橋になっています。

鉄橋の上の部分のホームは危険を感じるほどに狭いです。左側の鉄骨に土木学会選奨土木遺産の認定証が取り付けられています。

橋桁を支えるイギリス積み煉瓦橋脚。左右の橋台も煉瓦が積まれています。

ホームからは下を流れる石手川が直に見えます。なかなかワイルドです。

石手川公園駅の下を流れる石手川は、実は人工の河川なのです。

松山城を築城し、松山の城下町を整備した豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人の加藤嘉明(松山藩初代藩主)は当初は伊予国正木城(現在の伊予郡松前町)城主で10万石の大名でした。慶長5(1600)、加藤嘉明は関ヶ原の戦いで東軍(徳川軍)に味方し、石田三成の本隊と戦って武功をあげ、その戦功により20万石に加増。翌慶長6(1601)、道後平野(松山平野)の中にポツンと立つ勝山の山頂(海抜132メートル)に本格的な防御態勢を有する平山城(平地にある丘陵や山に造った城)を建造する許可を徳川家康より得て、築城に着手しました。当時の道後平野一帯は伊予川(現在の重信川)と湯山川(現在の石手川)という2つの河川がたびたび氾濫を繰り返す一面の荒れ地(河原のような湿地帯)でした。なので、松前に城があったわけです。

勝山への築城にあたり、加藤嘉明は、重臣(家老)足立重信を普請奉行に任じ、『伊予川等の氾濫を防ぎ、要害に備え、城下町の繁栄を促し、近在の田畑の灌漑に活用できるように改修せよ』と命じました。

足立重信は、美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、若年で加藤嘉明に小姓として仕え、文禄四4(1595)、主君・加藤嘉明の転封に伴い伊予国松前(正木)城に入った後、文禄・慶長の役(俗に言う朝鮮征伐”)に従軍して幾多の戦いで活躍し、慶長5(1600)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、石田三成側に応じた毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢が松前城に来襲したのを撃退する手柄を立てました(三津浜夜襲)。これらの戦功によって家老に任ぜられ、5,000石の所領を与えられました。この足立重信、勇猛果敢な猛将というだけでなく、文武両道を供えた極めて優れた武人でした。その才能は武術・兵術よりも土木技術、プロジェクトマネジメントにあったように思います。

主君・加藤嘉明から伊予川をはじめとした河川の改修を命じられた足立重信は、すぐに綿密な地形調査を行い、湯山川(現在の石手川上流部)の流れを変えて、これを伊予川(現在の重信川)と合流させるという大規模な河川改修工事を計画しました。

足立重信は、まず、勝山の南麓を流れていた湯山川の流路を南方向に変え、その末流を伊予川に合流させる方法を考えました。また、流れを変えることで旧流路を城の堀として活用し、城の防衛線を築くことを狙ったわけです。この大改修で困難を極めたのは、湯山川の流路を南に変更させることでした。そこで、現在、岩堰と呼ばれている場所にかつてあった数十メートルの巨大な岩石を切り崩し、その巨大な岩を使って流れを堰き止め、それにより河川の流路を少し南方に変えてしまうという途方もない計画を立てました。発破(ダイナマイト)も重機もない時代のことです。数十メートルもある巨大な岩を切り崩すわけですから、さぞや大変な作業だったことでしょう。

しかし、足立重信達は卓越した手腕によりこの離れ業を見事にやってのけ、湯山川の流路を南方に変えることに成功しました。下流には余土の出合大橋のところで伊予川(重信川)に合流するまでの約12kmに渡って新たな流路を開削し、そこに高い堤防を築きました。この人工の河川は「石手川」と呼ばれ、その後、湯山川のまま残っていた岩堰より上流の部分も合わせて石手川と総称して呼ばれるようになりました。この河川の付け替えという大土木工事により、見事水害を防ぎ、流域に五千町歩(5,000ヘクタール)にも及ぶ広大な耕作地を生み出し、さらには松山城の防衛線()を作り、城下町の建設用地を築くことにも成功しました。この功績により、伊予川は足立重信の名前をとって「重信川」と改称されました。日本の一級河川の中で、人名から名称が付けられた河川はこの重信川が唯一です。

現在、その足立重信により開削された人工の河川・石手川の堤防(土手)は、石手川公園駅周辺から石手寺付近の新石手川公園まで全長約2kmにわたって緑地化された公園(石手川緑地)として整備され、松山市民の憩いの場となっています。公園として整備されている場所にはソメイヨシノやヨウコウザクラ、シダレザクラなど約900本の桜の木が植えられ、桜が咲き誇る頃には多くの花見客で賑わいます。


石手川の土手は緑地化された公園(石手川緑地)として整備され、松山市民の憩いの場となっています。桜が咲き誇る頃には多くの花見客で賑わいます。

鉄道橋(石手川橋梁)のすぐ松山市駅側の石手川の土手には、もう1つの土木学会推奨の土木遺産があって、それが伊予鉄道煉瓦橋です。この煉瓦橋は横河原線の線路を石手川の堤防(土手)の上を通すために嵩上げしているところに作られた鉄道橋です。腰壁の煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる特殊な物です。くわえて、鉄道の線路が橋下を通る道路とやや斜めに交差していますので、相互の角度に合わせるために、アーチ上部の煉瓦を1段ごとにずらして調節を図る凝った造りとなっています。この煉瓦橋も横河原線が外側駅(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間で開業した明治26(1893)に作られたもので、建築から130年近く経った今も現役で使われています。愛媛県内最古の煉瓦橋といわれており、平成15(2003)に松山市より「景観形成重要建造物」に指定され、平成24(2012)に土木学会選奨土木遺産として認定もされました。


土木学会推奨土木遺産に認定されている煉瓦橋です。この煉瓦橋も明治26(1893)に作られたもので、今でも現役です。

【伊予鉄道開業の背景】

高浜線、郡中線、横河原線という伊予鉄道郊外線の3本の路線のうち、高浜線が電化されたのは昭和6(1931)のことで、同年に全線の複線化も行われました。郡中線は今も単線のままですが、電化・高速化は昭和25(1950)になされています。そうした中で最後まで非電化のまま残されていたのが横河原線でした。1950年代の初頭まで小型の蒸気機関車(坊っちゃん列車)牽引の客車による運行が続いていました。小型のディーゼル機関車への転換により近代化が図られたのが昭和29(1954)のことで、電化されたのは昭和42(1967)のことです。したがって、昭和31(1956)生まれの私が子供の頃は、濃緑色をした小型のL型車体のディーゼル機関車が34両の小型の客車を牽引して、松山平野(道後平野)の田園地帯の中をトコトコ走っていました。

横河原線の電化・高速化が遅れた理由は、伊予鉄道設立のそもそもの目的に深く関係します。(その1)でも述べましたように、伊予鉄道は明治20(1887)に設立され、会社設立の翌年の明治21(1888)に松山(現在の松山市駅)〜三津間で運行を開始しました。そのため、日本で初めての軽便鉄道、中四国地方で初めての鉄道という名誉ある歴史を有しています。また、現存する日本の私鉄としては南海電鉄に次いで2番目に古い歴史を有しています。このように、四国の一地方都市を走る地方私鉄ではありますが、どうして明治維新から僅か20年後という明治20年代にこれほどまでの鉄道網が敷設されたのかについては、ある明確な理由があります。それは松山市の地形です。


松山平野(道後平野)の地形図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


これは松山市民でも気づいている人が少ないことなのですが、実は松山市街中心部の標高は3040メートルと意外と思えるほど高いのです。現在、私は関東地方でも海岸線から遠く離れた埼玉県さいたま市に住んでいるのですが、そのさいたま市の最も高い地点の標高が約20.5メートル。平均の標高だと5メートル程度です。なので、松山市より断然低いのです。埼玉県で市街中心部の標高が松山市と同じ3040メートルのところを探してみると、埼玉県北部の熊谷市がそれに当たります。したがって、平坦な関東平野にある熊谷市までと違って、松山市の場合は海岸線からの距離が短いので、海から急激に坂道を登って市街中心部に至るということになります。松山市の海の玄関である三津浜港、高浜港と松山市街中心部の間にはこの標高差による急な坂道がありました。当時は荷車を人や馬や牛が牽引するのが陸上輸送の中心でしたので、この標高差は物流において極めて大きな障壁になっていました。そこで目をつけたのが鉄道というわけでした。標高差という大きな課題の解決のために、鉄道という当時の最先端技術を取り入れた創業者の小林信近翁をはじめとした松山の先人達の進取の精神に、敬意を表します。

この鉄道による標高差の克服は、横河原線の場合にも当てはまります。終点の横河原駅の周辺の標高は約140メートル。松山市街中心部よりも100メートル以上も高いところにあります。松山市街の真ん中に高く聳える松山城の本丸の標高が約132メートルですから、140メートルというのは松山城の本丸よりも高い標高のところだというわけです。

で、ここでもこの標高差が物流において極めて大きな障壁になっていました。横河原は松山平野(道後平野)の最東端に位置します。横河原駅まで行ってみると、目の前に四国山地の高い山々が迫ってきます。横河原からは桜三里という峠で高縄半島を横切り、西条市や新居浜市、そして香川県方面に向けて国道11号線(昔の讃岐街道)が延びています。また黒森峠で四国山地を横断して久万高原町や高知県方面に向けて国道494号線(昔の黒森街道)が延びています。このように、横河原は讃岐街道の宿場町であると同時に、松山市にとって山を越えて運ばれてくる物資の陸の玄関のようなところでした。

かつては峠道を越えて陸路 横河原にまで運ばれてきた様々な物資は、ここから一級河川・重信川の水運によって松山市街中心部まで運ばれていたのですが、それを鉄道によって置き換えようと敷設されたのが横河原線という訳です。しかも、地図を見ると、横河原線は讃岐街道(旧の国道11号線)という昔からの街道筋から(すなわち、古くから人が住んでいたところから)少し離れたところを田園地帯を突っ切るように線路を敷設したように見えます。そのため、直線区間が比較的多いという特徴があります。おそらく開業当初は旅客輸送などまったく念頭になく、貨物輸送主体で敷設されたのでしょう。それが横河原線の電化が遅れた最大の理由だと考えられます。

ということで、横河原線沿線の宅地開発がなされ沿線住民(電車利用者)が急激に増えていったのは、横河原線全線が電化・高速化された昭和42(1967)以降のことだと言えます。そのため、沿線には比較的新しい住宅街が続いています。これが横河原線の特徴です。

 

【横河原駅】

横河原線の終点、横河原駅です。横河原線は全線単線で、離合可能な島式の12線のホームを持つ駅が多いのですが、終点の横河原駅は11線の構造になっています。横河原駅は松山平野(道後平野)の東の端に位置し、南側には日本最大の断層帯である中央構造線が形成した四国山地の山々が真っ直ぐ屏風のように連なって東西方向に延びています。また東側には、高縄半島の1,000メートルを超える高縄山脈の山々が目の前に迫っています。まさに松山平野(道後平野)の東の端って感じのところです。駅前は広いロータリーになっていて、かつてはここに貨物の集積所があったのではないか…ということが、容易に推察されます。


終点の横河原駅に到着しました。横河原駅は11線の構造になっていて、到着した電車はすぐに高浜行きとなって折り返していきます。

横河原駅で出発の時間を待つ高浜行き3000系電車です。松山平野(道後平野)の最東端に位置する横河原駅の背後には高い山々が迫っています。

横河原駅の駅舎です。明治32(1899)の横河原線全通時に開業し、116年間使われた初代駅舎は平成27(2015)に取り壊され、翌平成28(2016)に現在の2代目駅舎となりました。

横河原駅の駅前には、もとは旅籠か問屋であったと思われる町屋造りの木造家屋があり、かつてここに物資の一大集積所があった面影が今も残っています。

横河原駅の近くの不思議な踏切です。常時遮断機は下りていて、通過する時は「左右の安全を確認後、遮断ざおを押し上げてご通行願います」という表示が出ています。通常、そんなことをしたら危険ということで道路交通法上では取り締まられちゃうのですが、ここではこれが交通ルールのようです。(ただし、横断できるのは人だけで、クルマは通れません)

横河原駅のすぐ近くを一級河川・重信川が流れています。まさに文字通りの「横は河原」です。かつては山を越えて運ばれてきた様々な物資は、ここから船に乗せ、水運で松山市街中心部に運ばれていたのでしょう。


旧国道11号線の横河原橋から見た重信川です。

重信川を横河原橋で渡ったところです。道路標識に「↑高松」と書かれています。この道路は旧の国道11号線で、江戸時代は讃岐街道と呼ばれる四国最大の幹線道路でした。讃岐街道は松山城の北西にある札之辻が起点で、高縄半島の付け根を西から東へと横切り、小松(現・西条市)へ抜け、瀬戸内海の海岸線沿いを香川県の丸亀市付近まで進み、そこで琴平街道と合流して琴平町の金毘羅神社まで繋がっていました。

【梅本駅】

横河原駅から松山市駅方向に戻ります。この梅本(うめのもと)駅が松山市の一番東の端にある駅です。ここから先、横河原駅までは東温市になります。梅本駅は昭和10(1935)に開業した駅で、開業当初はもう少し松山市駅寄りに駅があったのですが、昭和56年(1981年)に現在の位置に移転してきました。国立病院機構四国がんセンターの最寄り駅で、駅名の表示は「梅本駅 四国がんセンター前」になっています。

線路のすぐ脇を通っている道路は愛媛県道209号美川松山線。上浮穴郡久万高原町と松山市を結ぶ県道で、この手前の松山市平井町で旧国道11号線(現在の愛媛県道334号松山川内線:かつての讃岐街道)と合流します。この愛媛県道209号美川松山線、松山市側から行くと、重信川の支流である拝志川を遡り、松山平野の南側に屏風のように立ちはだかる皿ヶ峰(標高1,271メートル)を越えて久万高原町に至る県道で、残念ながら県道としては未完成区間が残っていますが、このルートで県道を通そうとするということは、かつてこのルートが久万地域と松山市を結ぶ重要な物流ルートの1つだったのではないか…ということは、容易に想像できます。このルートを使って久万地域から運ばれてきた様々な物資は、当時の物流拠点となっていた次の平井駅まで運ばれていたのではないかと思われます。


梅本駅です。開業当初はもう少し松山市駅寄りに駅があったのですが、昭和56年(1981年)に現在の位置に移転してきました。

線路のすぐ脇を通っている道路は上浮穴郡久万高原町と松山市を結ぶ愛媛県道209号美川松山線です。愛媛県道209号美川松山線はこの先で横河原線の線路を離れ、南方向、皿ヶ峰方向に曲がっていきます。

【平井駅】

平井駅です。横河原線は明治26(1893)に外側(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間が開業。終点の横河原駅まで延伸したのは明治32(1899)です。そのかつての終点がここ平井駅でした。また、横河原線は昭和42(1967)に全線が電化・高速化されたのですが、その直前の半年間ほどはこの平井駅が電化区間の終点でした。開業当初の駅名「平井河原」の名称から推察されるように、平井駅のそばを重信川の支流である小野川が流れていて、かつてはここも松山市街への水運の拠点の1つだったところです。この平井駅周辺から東の東温市一帯は麦作をはじめとした穀倉地帯で、この平井駅はそこで獲れた作物の集積地だったようです。くわえて、前述の皿ヶ峰を越えるルートで久万地域から運ばれてきた様々な物資もここに集められたようです。横河原線はここから松山市駅にかけて、かつての讃岐街道(旧国道11号線)の南側に沿って延びています。

松山市内には正岡子規の句碑が多いのですが、平井駅の駅舎横にも正岡子規の句碑が建っています。

「巡礼の 夢を冷すや 松の露  子規」

この句は明治24819日、折りから帰省中の子規が松山中学の同級生である太田正躬、竹村鍛と3人で温泉郡川内町(現東予市)の唐岬(からかい)、白猪(しらい)の2滝の見物に出かけた際、平井駅近くの平井町畑中の老松(兜松)の下で憩っている時に詠んだ句なのだそうです。

平井駅は島式12線のホームを持つ駅ですが、その外側に留置線が1本あります。ここがかつての終点だった名残りと言えます。

同じく平井駅。こちらは上の写真の反対側、横河原駅方面です。松山市駅方面高浜行きの電車が入線してきました。

平井駅の駅舎は開業当時のものが今も改修を繰り返して使われており、改札とホームの間には構内踏切が設けられています。

巡礼の 夢を冷すや 松の露  子規

【北久米駅】

ちょこっと余談。私の実家の最寄り駅である北久米駅です。横河原線は比較的直線の区間が多いと書きましたが、中でもこの北久米駅から2つ先のいよ立花駅間の約2.5kmは一番長い直線区間になっています。北久米駅が開業したのは、横河原線が電化・高速化された昭和42(1967)のことです。


北久米駅です。駅は島式12線の構造をしています。

北久米駅に高浜行きの610系電車が入線してきました。この610系電車は1995年にアルナ工機で2両編成2(4)が製造された久々の伊予鉄道の自社発注車両です。東京メトロ日比谷線直通の東武鉄道20000系に準じたステンレス製車体の3扉車両です。2編成のうちの1本は「みきゃんパーク梅津寺」の可愛いラッピングが施されて運行されています。

続いて、鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線②を掲載します。



2022年4月30日土曜日

鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線②

 公開予定日2022/07/08

 [晴れ時々ちょっと横道]第94回 鉄分補給シリーズ(その1):伊予鉄道高浜線②


【三津駅】

続いて三津駅です。三津駅は古町駅・松山市駅とともに明治21(1888)1028日の伊予鉄道開業時に設置された駅で、四国で最初に開設された鉄道駅の1つです。開業当時はこの三津駅が伊予鉄道の終点でした。文豪・夏目漱石が明治28(1895)に愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任してきた時、最初に松山の地に降り立ったのが三津浜港。そして、この三津駅(当時の名称は三津停車場)から小説『坊っちゃん』の中で「マッチ箱のような汽車」と表現した伊予鉄道の列車に乗って松山市駅(当時の駅名は外側駅)に向かいました。

三津駅の現在の駅舎は3代目で、平成21(2009)に竣工したものです。昭和初期に建築とされた2代目駅舎はアール・ヌーヴォー風のエントランスや半木骨造りと呼ばれる独特の建築様式が利用者や周辺住民に親しまれ、存続を希望する声が大きかったので、3代目駅舎はその2代目駅舎の雰囲気を色濃く残す建物となっています。

現在の三津浜駅は島式プラットホーム12線の構造になっていますが、その島式のプラットホームの幅がやけに広いことに気がつきます。さすがに伊予鉄道開業時に終端駅だった名残りでしょうね。かつては貨物積み込み用に何本かの側線もあったのではないか…と、容易に想像できます。

この三津駅は、松山市における重要港湾の1つである三津浜港の最寄り駅です。瀬戸内海交通の重要拠点とされる松山港には現在は松山観光港、高浜港、三津浜港、堀江港、松山外港、今出港という6つの港があるのですが、そのうち最も古くから整備されていた港湾が三津浜港でした。三津浜港の歴史は古く、室町時代に対岸に城(港山城)を築いて水軍の拠点(軍港)とした河野氏の頃まで遡り、皇族行幸の際に船を泊めたため御津(みつ)と呼ばれるようになりました。江戸時代には松山藩の参勤交代における外港としても使用され、舟奉行・町奉行が設置されていました。明治39年(1906年)、高浜港が開港し、定期航路の大部分が高浜港に移動してからは、三津はむしろ商業の町として発展することになりました。このように、この三津駅から三津浜港にかけての一帯は、江戸時代から昭和の時代にかけて松山の海の玄関口、そして商業の中心地として栄えた地域で、当時の古い町並みが今も残されています。ちなみに、三津浜港は現在も山口県の柳井港へ向かう防予フェリーのほか、忽那諸島の島々を結ぶ中島汽船のカーフェリーの発着する港となっています。

三津駅から三津浜港にかけての一帯は江戸時代から昭和にかけて松山の海の玄関口として栄えた地域で、当時の古い町並みの雰囲気が今も残されています。

三津浜港近くにある石崎汽船旧本社です。大正14(1925)築の鉄筋コンクリート2階建ての建物で、設計したのは愛媛県庁本館や萬翠荘(旧久松伯爵本邸)も手掛けた木子七郎。正面が左右対称形をしており、バルコニーやレリーフなど洋風の意匠が施された当時としては超ハイカラな建物です。国の登録有形文化財に指定されています。

三津浜港です。忽那諸島の島々を結ぶ中島汽船のカーフェリーが出航を待っています。

この三津浜地区に非常に興味深い乗り物があります。それが「三津の渡し」です。「三津の渡し」(別名:須崎の渡し)は松山市の三津浜港内で運航されている渡し舟で、約500年の歴史を誇っています。正式名称は「松山市道高浜2号線」。航路は松山市の“市道”になっており、松山市都市整備部道路課が運営しています。全長約9メートル、定員10名余りの小型動力船が三津浜の西性寺前と港山地区との間の約80メートルの距離を結んでいます。運航時間は7時から19時で、年中無休。運行区間は公道であるため、運賃は無料です。ふだんは通勤・通学などの市民の足として利用されているのですが、対岸までの短い距離を往復する姿はどことなく風情があり、最近ではテレビの旅番組や雑誌等で取り上げられることも多く、観光スポットとして注目されるようになってきています。その起源は室町時代にまで遡り、港山側にあった港山城への物資輸送のために利用したのが始まりとされています。江戸時代の俳人・小林一茶も句会に参加するために乗船したと言われています。また、松山を舞台とした映画『がんばっていきまっしょい』においては、田中麗奈さん演じる主人公の女子高校生が通学に利用するシーンが登場します。


「三津の渡し」(別名:須崎の渡し)です。航路は約80メートル。1分ほどの乗船で、すぐに対岸に着きます。

お好み焼きといえば関西風や広島風のお好み焼きが有名ですが、松山にも「松山市民のソウルフード」と呼ばれることもある独自のお好み焼きがあります。それが三津浜焼きです。昭和の中頃まで松山の海の玄関となっていた港町・三津浜には約30軒のお好み焼き屋さんが軒を並べ、昭和の時代からの庶民派ご当地グルメ・三津浜焼きを提供しています。

三津浜焼きは、広島県からやってきた漁師が伝えたといわれるお好み焼きがアレンジされて、独特のスタイルになったものなのですが、広島のお好み焼きとの違いが幾つかあり、それが独特の味となっています。実は広島のお好み焼きと三津浜焼きは似て非なる食べ物なのです。三津浜焼きが広島のお好み焼きと違うのは、まず、三津浜焼きでは台となる中華そばやうどんをソースで味付けしてから生地に乗せる点です。一方、多くの広島のお好み焼きでは、キャベツなどの具材が下で、味付けされていない麺がその上に乗ります。次に、一般的にお好み焼きで肉というと豚肉がほとんどではないかと思われますが、三津浜焼きでは牛肉を使うのが一般的です。また、三津浜焼きでは、焼くための油には牛脂を使います。牛脂を使うことで、山盛りのキャベツに甘みとコクをプラスしてくれます。焼いている周囲には、ジュワーっと焼ける牛脂の香ばしい匂いが漂います。さらに、三津浜焼きでは、具材の中に必ず紅白の“ちくわ”を入れます。この“ちくわ”も三津浜焼きになくてはならないものです。“ちくわ”は鉄板の上で焼かれる時に程よい弾力とダシを出し、三津浜焼きをいっそう美味しくさせる役目を担っています

私はこの三津浜焼きが大好きで、松山に帰省した折には三津浜焼きを食べるためだけの目的で、三津浜を訪れたりしています。


三津浜と言えば松山市民のソウルフード「三津浜焼き」ですね。関西風や広島風に対抗して、この「松山風お好み焼き」も全国に広めねばなりませんね。


【大手町駅】

次に取り上げるのは大手町駅のダイヤモンドクロスです。この大手町駅のダイヤモンドクロス、鉄道ファンの間では、伊予鉄道と言えばダイヤモンドクロスという声が返ってくるくらいに全国的に有名なところです。

ダイヤモンドクロスとは異なる路線の線路がほぼ直角に“+の字形”に平面交差する地点のことで、ただでさえ大変珍しいスポットなのですが、伊予鉄道では国内で唯一の激レアな光景が見られます。なんと電車の前に「遮断機」が下り、一般の自動車や歩行者とともに、「電車が電車の踏切待ちをする」という衝撃的な光景が繰り広げられるのです。その劇レアな衝撃的な光景が見られるのが高浜線大手町駅前の踏切です。この踏切では高浜線の郊外電車とJR松山駅方面に向かう市内線の路面電車が平面交差(ダイヤモンドクロス)していることから見られる光景です。しかも、高浜線の郊外電車は、日中も15分おきに大手町駅を通過するため、こうした電車同士の踏切待ちの光景が、ここでは日常茶飯事のこととして見ることができます。そして、この大手町駅のダイヤモンドクロス、高浜線の線路も市内電車の線路もどちらも複線なので、電車がダイヤモンドクロスを通過する際に発するダダダダダダダン ダダダダダダダンという連続音がとにかくたまりません!!

大手町駅前のダイヤモンドクロスです。踏切の遮断機が下りた手前で、市内線の路面電車が高浜線の郊外電車が通過していくのを待っています。写真ではお伝えできないのが残念なのですが、電車がダイヤモンドクロスを通過する際に発するダダダダダダダン ダダダダダダダンという連続音がとにかくたまりません‼️


【古町駅】

伊予鉄道高浜線の大手町駅前のダイヤモンドクロスは全国的に有名ですが、実は松山市駅から高浜線へ向かうと大手町駅の次の古町駅の構内にもダイヤモンドクロスがあります。大手町駅前のダイヤモンドクロスほど直角には横断していませんが、JR松山駅方面からやって来た市内線の電車が松山市駅方面からやって来た郊外電車(高浜線)の線路を平面交差で斜めに横切り、古町駅へと入線して来ます。その時にも特有のダダダダンダダダダンという連続音を発します。時には市内線の電車が駅構内に入る手前でいったん停車し、高浜線の電車が通過するのを待つという光景を見ることもあります。ただ、その場合、市内線の電車はこの区間は道路上を走行する路面電車区間ではないので、遮断機は下りません。

古町駅構内にある斜めダイヤモンドクロスです。駅構内に入る手前で、市内線の電車がいったん停止して、高浜線の電車が通過するのを待っています。

古町駅構内のダイヤモンドクロスでは、市内線の電車が高浜線の線路を斜めに横切って行きます。

古町駅は三津駅・松山市駅とともに明治21(1888)1028日の伊予鉄道開業時に設置された駅で、四国で最初に開設された鉄道駅の1つです。開業時の駅名は三津口駅だったのですが、翌明治22(1889)7月に現在の古町駅に改称されました。市内線の電車(環状線:軌道線)と郊外線の電車(高浜線:鉄道線)の併用駅で、ホームは45線。駅構造としては伊予鉄道最大の駅です。5線あるプラットホームのうち、1番線と2番線ホームを市内電車線、3番・4番・5番線ホームを郊外電車線(高浜線)が使用します。かつては各ホームを結ぶ地下道があったように記憶していますが、現在はバリアフリー化のためか各ホームへは遮断機付きの踏切を渡って行ける平面構造になっています。さらに、前述のダイヤモンドクロスのところで触れましたが、市内線の線路と郊外線(高浜線)の線路が駅構内で斜めに平面交差する構造になっています。

また、古町駅には古町車両工場(車両基地)を併設しており、市内電車と郊外電車の車庫と工場、検修場があります。斜めダイヤモンドクロスに加えて郊外電車や市内線の路面電車がしばし休んでいる光景がホームから間近に見られることもあり、古町駅は伊予鉄道の数ある駅の中で私の一番好きな駅でもあります。

古町駅に入選してきた横河原行きの電車、こちらは伊予鉄道3000系電車です。この3000系電車は元京王帝都電鉄井の頭線の主力電車だった3000系電車で、伊予鉄道では2009年度より3両編成10本、計30両が導入され、現在は郊外線の車両の約6割を占める主力車両となっています。

古町車庫にて、元京王帝都電鉄京王線の主力電車だった700系電車と、元京王帝都電鉄井の頭線の主力電車だった3000系電車が並んで休んでいます。同じ京王帝都電鉄と言っても京王線の線路の幅(軌間)1,372mm、いっぽうで井の頭線の線路の幅は1,067mm。東京では絶対にあり得なかった同一線路上での名車同士の共演が、この四国松山の地で実現しています。ちなみに、伊予鉄道の軌間は1,067mmです。

古町駅には市内電車の車庫も併設されています。通常の路面電車に加えて、「坊っちゃん列車」も休んでいるのが見えます。


次回(その2)では、松山市駅から東方向に延びる横河原線を取り上げます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...