2022年5月2日月曜日

鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線①

 公開予定日2022/08/04

[晴れ時々ちょっと横道]第95回 鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線①


愛媛県の県都・松山市の中心部にある松山市駅を拠点に郊外電車や市内電車を運行する伊予鉄道。このうち郊外電車は松山市駅を起点に北西方向に高浜線、南西方向に郡中線、東方向に横河原線といういずれも約10km3路線が放射状に延びているということは、鉄分補給シリーズ(その1)の高浜線のところで書かせていただきました。次に取り上げるのは横河原線です。私の実家の最寄り駅は横河原線の北久米駅で、実は伊予鉄道の中では私が一番利用することの多い路線です。

 

【伊予鉄道横河原線】

横河原線は松山市街の中心部に位置する松山市駅を起点に、松山平野(道後平野)の東の端に位置する横河原駅(東温市横河原)を結ぶ延長約13.2kmの路線です。この横河原線の歴史も古く、伊予鉄道が最初に手掛けた高浜線を松山駅(現在の松山市駅)〜三津駅間で開業した明治21(1888)5年後、高浜駅まで全通させた明治25(1892)の翌年の明治26(1893)に、外側駅(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間が高浜線に続く2番目の路線として開業しました。終点の横河原駅まで延伸したのは明治32(1899)のことで、120年以上の歴史を誇っています。

横河原線路線図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

 
【石手川公園駅】

その横河原線開業当時に作られた設備が、今でも現役で使われています。それが、松山市駅を出て次の駅、「石手川公園駅」です。この石手川公園駅は片面ホーム11線の無人駅ですが、ホームが石手川を跨ぐ鉄橋「石手川橋梁」の上にあるという全国的にも珍しい特徴を有しています。そして、この駅を支える鉄道橋は橋長35.8メートルのピン結合式錬鉄製ポニー型プラットトラス橋。明治時代中期、イギリスから大量に輸入された同タイプの橋梁(橋桁)が全国の鉄道網の構築を支えました。この石手川橋梁は横河原線が開業した明治26(1893)に建造されたものです。日本の鉄道の黎明期を支えたピン結合式錬鉄製ポニー型プラットトラス橋ですが、その後ほとんどの橋梁が架け替えられており、竣工当時のまま同一位置で移設されずに使われている橋梁としては、この伊予鉄道の石手川橋梁が日本最古の橋とされています。そのため、平成24(2012)にはこの鉄道橋(石手川橋梁)が土木学会選奨土木遺産に認定されています。

ちなみに、横河原線は、開業時、軽便鉄道規格の軌間762mmで線路が敷かれました。この石手川橋梁も当初は軌間762mmに合わせた桁幅だったのですが、昭和6(1931)に現在の1,067mmに軌間が改軌された際に拡幅されています。

元々の駅のホームは駅の横河原側の地上部分にあったのですが、横河原線が電化され、編成長が長くなったために駅のすぐ松山市駅側にある鉄橋の上までホームを延ばしたようです。現在は18メートル級車両4両編成が停車可能なホームになっています。

ホームの陸上部分です。18メートル級車両2両ぶんほどの長さしかありません。なので、3両目以降は橋の上(川の上)に停車します。ホームの反対側は歩道橋になっています。

鉄橋の上の部分のホームは危険を感じるほどに狭いです。左側の鉄骨に土木学会選奨土木遺産の認定証が取り付けられています。

橋桁を支えるイギリス積み煉瓦橋脚。左右の橋台も煉瓦が積まれています。

ホームからは下を流れる石手川が直に見えます。なかなかワイルドです。

石手川公園駅の下を流れる石手川は、実は人工の河川なのです。

松山城を築城し、松山の城下町を整備した豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人の加藤嘉明(松山藩初代藩主)は当初は伊予国正木城(現在の伊予郡松前町)城主で10万石の大名でした。慶長5(1600)、加藤嘉明は関ヶ原の戦いで東軍(徳川軍)に味方し、石田三成の本隊と戦って武功をあげ、その戦功により20万石に加増。翌慶長6(1601)、道後平野(松山平野)の中にポツンと立つ勝山の山頂(海抜132メートル)に本格的な防御態勢を有する平山城(平地にある丘陵や山に造った城)を建造する許可を徳川家康より得て、築城に着手しました。当時の道後平野一帯は伊予川(現在の重信川)と湯山川(現在の石手川)という2つの河川がたびたび氾濫を繰り返す一面の荒れ地(河原のような湿地帯)でした。なので、松前に城があったわけです。

勝山への築城にあたり、加藤嘉明は、重臣(家老)足立重信を普請奉行に任じ、『伊予川等の氾濫を防ぎ、要害に備え、城下町の繁栄を促し、近在の田畑の灌漑に活用できるように改修せよ』と命じました。

足立重信は、美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、若年で加藤嘉明に小姓として仕え、文禄四4(1595)、主君・加藤嘉明の転封に伴い伊予国松前(正木)城に入った後、文禄・慶長の役(俗に言う朝鮮征伐”)に従軍して幾多の戦いで活躍し、慶長5(1600)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、石田三成側に応じた毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢が松前城に来襲したのを撃退する手柄を立てました(三津浜夜襲)。これらの戦功によって家老に任ぜられ、5,000石の所領を与えられました。この足立重信、勇猛果敢な猛将というだけでなく、文武両道を供えた極めて優れた武人でした。その才能は武術・兵術よりも土木技術、プロジェクトマネジメントにあったように思います。

主君・加藤嘉明から伊予川をはじめとした河川の改修を命じられた足立重信は、すぐに綿密な地形調査を行い、湯山川(現在の石手川上流部)の流れを変えて、これを伊予川(現在の重信川)と合流させるという大規模な河川改修工事を計画しました。

足立重信は、まず、勝山の南麓を流れていた湯山川の流路を南方向に変え、その末流を伊予川に合流させる方法を考えました。また、流れを変えることで旧流路を城の堀として活用し、城の防衛線を築くことを狙ったわけです。この大改修で困難を極めたのは、湯山川の流路を南に変更させることでした。そこで、現在、岩堰と呼ばれている場所にかつてあった数十メートルの巨大な岩石を切り崩し、その巨大な岩を使って流れを堰き止め、それにより河川の流路を少し南方に変えてしまうという途方もない計画を立てました。発破(ダイナマイト)も重機もない時代のことです。数十メートルもある巨大な岩を切り崩すわけですから、さぞや大変な作業だったことでしょう。

しかし、足立重信達は卓越した手腕によりこの離れ業を見事にやってのけ、湯山川の流路を南方に変えることに成功しました。下流には余土の出合大橋のところで伊予川(重信川)に合流するまでの約12kmに渡って新たな流路を開削し、そこに高い堤防を築きました。この人工の河川は「石手川」と呼ばれ、その後、湯山川のまま残っていた岩堰より上流の部分も合わせて石手川と総称して呼ばれるようになりました。この河川の付け替えという大土木工事により、見事水害を防ぎ、流域に五千町歩(5,000ヘクタール)にも及ぶ広大な耕作地を生み出し、さらには松山城の防衛線()を作り、城下町の建設用地を築くことにも成功しました。この功績により、伊予川は足立重信の名前をとって「重信川」と改称されました。日本の一級河川の中で、人名から名称が付けられた河川はこの重信川が唯一です。

現在、その足立重信により開削された人工の河川・石手川の堤防(土手)は、石手川公園駅周辺から石手寺付近の新石手川公園まで全長約2kmにわたって緑地化された公園(石手川緑地)として整備され、松山市民の憩いの場となっています。公園として整備されている場所にはソメイヨシノやヨウコウザクラ、シダレザクラなど約900本の桜の木が植えられ、桜が咲き誇る頃には多くの花見客で賑わいます。


石手川の土手は緑地化された公園(石手川緑地)として整備され、松山市民の憩いの場となっています。桜が咲き誇る頃には多くの花見客で賑わいます。

鉄道橋(石手川橋梁)のすぐ松山市駅側の石手川の土手には、もう1つの土木学会推奨の土木遺産があって、それが伊予鉄道煉瓦橋です。この煉瓦橋は横河原線の線路を石手川の堤防(土手)の上を通すために嵩上げしているところに作られた鉄道橋です。腰壁の煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる特殊な物です。くわえて、鉄道の線路が橋下を通る道路とやや斜めに交差していますので、相互の角度に合わせるために、アーチ上部の煉瓦を1段ごとにずらして調節を図る凝った造りとなっています。この煉瓦橋も横河原線が外側駅(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間で開業した明治26(1893)に作られたもので、建築から130年近く経った今も現役で使われています。愛媛県内最古の煉瓦橋といわれており、平成15(2003)に松山市より「景観形成重要建造物」に指定され、平成24(2012)に土木学会選奨土木遺産として認定もされました。


土木学会推奨土木遺産に認定されている煉瓦橋です。この煉瓦橋も明治26(1893)に作られたもので、今でも現役です。

【伊予鉄道開業の背景】

高浜線、郡中線、横河原線という伊予鉄道郊外線の3本の路線のうち、高浜線が電化されたのは昭和6(1931)のことで、同年に全線の複線化も行われました。郡中線は今も単線のままですが、電化・高速化は昭和25(1950)になされています。そうした中で最後まで非電化のまま残されていたのが横河原線でした。1950年代の初頭まで小型の蒸気機関車(坊っちゃん列車)牽引の客車による運行が続いていました。小型のディーゼル機関車への転換により近代化が図られたのが昭和29(1954)のことで、電化されたのは昭和42(1967)のことです。したがって、昭和31(1956)生まれの私が子供の頃は、濃緑色をした小型のL型車体のディーゼル機関車が34両の小型の客車を牽引して、松山平野(道後平野)の田園地帯の中をトコトコ走っていました。

横河原線の電化・高速化が遅れた理由は、伊予鉄道設立のそもそもの目的に深く関係します。(その1)でも述べましたように、伊予鉄道は明治20(1887)に設立され、会社設立の翌年の明治21(1888)に松山(現在の松山市駅)〜三津間で運行を開始しました。そのため、日本で初めての軽便鉄道、中四国地方で初めての鉄道という名誉ある歴史を有しています。また、現存する日本の私鉄としては南海電鉄に次いで2番目に古い歴史を有しています。このように、四国の一地方都市を走る地方私鉄ではありますが、どうして明治維新から僅か20年後という明治20年代にこれほどまでの鉄道網が敷設されたのかについては、ある明確な理由があります。それは松山市の地形です。


松山平野(道後平野)の地形図(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)


これは松山市民でも気づいている人が少ないことなのですが、実は松山市街中心部の標高は3040メートルと意外と思えるほど高いのです。現在、私は関東地方でも海岸線から遠く離れた埼玉県さいたま市に住んでいるのですが、そのさいたま市の最も高い地点の標高が約20.5メートル。平均の標高だと5メートル程度です。なので、松山市より断然低いのです。埼玉県で市街中心部の標高が松山市と同じ3040メートルのところを探してみると、埼玉県北部の熊谷市がそれに当たります。したがって、平坦な関東平野にある熊谷市までと違って、松山市の場合は海岸線からの距離が短いので、海から急激に坂道を登って市街中心部に至るということになります。松山市の海の玄関である三津浜港、高浜港と松山市街中心部の間にはこの標高差による急な坂道がありました。当時は荷車を人や馬や牛が牽引するのが陸上輸送の中心でしたので、この標高差は物流において極めて大きな障壁になっていました。そこで目をつけたのが鉄道というわけでした。標高差という大きな課題の解決のために、鉄道という当時の最先端技術を取り入れた創業者の小林信近翁をはじめとした松山の先人達の進取の精神に、敬意を表します。

この鉄道による標高差の克服は、横河原線の場合にも当てはまります。終点の横河原駅の周辺の標高は約140メートル。松山市街中心部よりも100メートル以上も高いところにあります。松山市街の真ん中に高く聳える松山城の本丸の標高が約132メートルですから、140メートルというのは松山城の本丸よりも高い標高のところだというわけです。

で、ここでもこの標高差が物流において極めて大きな障壁になっていました。横河原は松山平野(道後平野)の最東端に位置します。横河原駅まで行ってみると、目の前に四国山地の高い山々が迫ってきます。横河原からは桜三里という峠で高縄半島を横切り、西条市や新居浜市、そして香川県方面に向けて国道11号線(昔の讃岐街道)が延びています。また黒森峠で四国山地を横断して久万高原町や高知県方面に向けて国道494号線(昔の黒森街道)が延びています。このように、横河原は讃岐街道の宿場町であると同時に、松山市にとって山を越えて運ばれてくる物資の陸の玄関のようなところでした。

かつては峠道を越えて陸路 横河原にまで運ばれてきた様々な物資は、ここから一級河川・重信川の水運によって松山市街中心部まで運ばれていたのですが、それを鉄道によって置き換えようと敷設されたのが横河原線という訳です。しかも、地図を見ると、横河原線は讃岐街道(旧の国道11号線)という昔からの街道筋から(すなわち、古くから人が住んでいたところから)少し離れたところを田園地帯を突っ切るように線路を敷設したように見えます。そのため、直線区間が比較的多いという特徴があります。おそらく開業当初は旅客輸送などまったく念頭になく、貨物輸送主体で敷設されたのでしょう。それが横河原線の電化が遅れた最大の理由だと考えられます。

ということで、横河原線沿線の宅地開発がなされ沿線住民(電車利用者)が急激に増えていったのは、横河原線全線が電化・高速化された昭和42(1967)以降のことだと言えます。そのため、沿線には比較的新しい住宅街が続いています。これが横河原線の特徴です。

 

【横河原駅】

横河原線の終点、横河原駅です。横河原線は全線単線で、離合可能な島式の12線のホームを持つ駅が多いのですが、終点の横河原駅は11線の構造になっています。横河原駅は松山平野(道後平野)の東の端に位置し、南側には日本最大の断層帯である中央構造線が形成した四国山地の山々が真っ直ぐ屏風のように連なって東西方向に延びています。また東側には、高縄半島の1,000メートルを超える高縄山脈の山々が目の前に迫っています。まさに松山平野(道後平野)の東の端って感じのところです。駅前は広いロータリーになっていて、かつてはここに貨物の集積所があったのではないか…ということが、容易に推察されます。


終点の横河原駅に到着しました。横河原駅は11線の構造になっていて、到着した電車はすぐに高浜行きとなって折り返していきます。

横河原駅で出発の時間を待つ高浜行き3000系電車です。松山平野(道後平野)の最東端に位置する横河原駅の背後には高い山々が迫っています。

横河原駅の駅舎です。明治32(1899)の横河原線全通時に開業し、116年間使われた初代駅舎は平成27(2015)に取り壊され、翌平成28(2016)に現在の2代目駅舎となりました。

横河原駅の駅前には、もとは旅籠か問屋であったと思われる町屋造りの木造家屋があり、かつてここに物資の一大集積所があった面影が今も残っています。

横河原駅の近くの不思議な踏切です。常時遮断機は下りていて、通過する時は「左右の安全を確認後、遮断ざおを押し上げてご通行願います」という表示が出ています。通常、そんなことをしたら危険ということで道路交通法上では取り締まられちゃうのですが、ここではこれが交通ルールのようです。(ただし、横断できるのは人だけで、クルマは通れません)

横河原駅のすぐ近くを一級河川・重信川が流れています。まさに文字通りの「横は河原」です。かつては山を越えて運ばれてきた様々な物資は、ここから船に乗せ、水運で松山市街中心部に運ばれていたのでしょう。


旧国道11号線の横河原橋から見た重信川です。

重信川を横河原橋で渡ったところです。道路標識に「↑高松」と書かれています。この道路は旧の国道11号線で、江戸時代は讃岐街道と呼ばれる四国最大の幹線道路でした。讃岐街道は松山城の北西にある札之辻が起点で、高縄半島の付け根を西から東へと横切り、小松(現・西条市)へ抜け、瀬戸内海の海岸線沿いを香川県の丸亀市付近まで進み、そこで琴平街道と合流して琴平町の金毘羅神社まで繋がっていました。

【梅本駅】

横河原駅から松山市駅方向に戻ります。この梅本(うめのもと)駅が松山市の一番東の端にある駅です。ここから先、横河原駅までは東温市になります。梅本駅は昭和10(1935)に開業した駅で、開業当初はもう少し松山市駅寄りに駅があったのですが、昭和56年(1981年)に現在の位置に移転してきました。国立病院機構四国がんセンターの最寄り駅で、駅名の表示は「梅本駅 四国がんセンター前」になっています。

線路のすぐ脇を通っている道路は愛媛県道209号美川松山線。上浮穴郡久万高原町と松山市を結ぶ県道で、この手前の松山市平井町で旧国道11号線(現在の愛媛県道334号松山川内線:かつての讃岐街道)と合流します。この愛媛県道209号美川松山線、松山市側から行くと、重信川の支流である拝志川を遡り、松山平野の南側に屏風のように立ちはだかる皿ヶ峰(標高1,271メートル)を越えて久万高原町に至る県道で、残念ながら県道としては未完成区間が残っていますが、このルートで県道を通そうとするということは、かつてこのルートが久万地域と松山市を結ぶ重要な物流ルートの1つだったのではないか…ということは、容易に想像できます。このルートを使って久万地域から運ばれてきた様々な物資は、当時の物流拠点となっていた次の平井駅まで運ばれていたのではないかと思われます。


梅本駅です。開業当初はもう少し松山市駅寄りに駅があったのですが、昭和56年(1981年)に現在の位置に移転してきました。

線路のすぐ脇を通っている道路は上浮穴郡久万高原町と松山市を結ぶ愛媛県道209号美川松山線です。愛媛県道209号美川松山線はこの先で横河原線の線路を離れ、南方向、皿ヶ峰方向に曲がっていきます。

【平井駅】

平井駅です。横河原線は明治26(1893)に外側(現在の松山市駅)〜平井河原駅(現在の平井駅)間が開業。終点の横河原駅まで延伸したのは明治32(1899)です。そのかつての終点がここ平井駅でした。また、横河原線は昭和42(1967)に全線が電化・高速化されたのですが、その直前の半年間ほどはこの平井駅が電化区間の終点でした。開業当初の駅名「平井河原」の名称から推察されるように、平井駅のそばを重信川の支流である小野川が流れていて、かつてはここも松山市街への水運の拠点の1つだったところです。この平井駅周辺から東の東温市一帯は麦作をはじめとした穀倉地帯で、この平井駅はそこで獲れた作物の集積地だったようです。くわえて、前述の皿ヶ峰を越えるルートで久万地域から運ばれてきた様々な物資もここに集められたようです。横河原線はここから松山市駅にかけて、かつての讃岐街道(旧国道11号線)の南側に沿って延びています。

松山市内には正岡子規の句碑が多いのですが、平井駅の駅舎横にも正岡子規の句碑が建っています。

「巡礼の 夢を冷すや 松の露  子規」

この句は明治24819日、折りから帰省中の子規が松山中学の同級生である太田正躬、竹村鍛と3人で温泉郡川内町(現東予市)の唐岬(からかい)、白猪(しらい)の2滝の見物に出かけた際、平井駅近くの平井町畑中の老松(兜松)の下で憩っている時に詠んだ句なのだそうです。

平井駅は島式12線のホームを持つ駅ですが、その外側に留置線が1本あります。ここがかつての終点だった名残りと言えます。

同じく平井駅。こちらは上の写真の反対側、横河原駅方面です。松山市駅方面高浜行きの電車が入線してきました。

平井駅の駅舎は開業当時のものが今も改修を繰り返して使われており、改札とホームの間には構内踏切が設けられています。

巡礼の 夢を冷すや 松の露  子規

【北久米駅】

ちょこっと余談。私の実家の最寄り駅である北久米駅です。横河原線は比較的直線の区間が多いと書きましたが、中でもこの北久米駅から2つ先のいよ立花駅間の約2.5kmは一番長い直線区間になっています。北久米駅が開業したのは、横河原線が電化・高速化された昭和42(1967)のことです。


北久米駅です。駅は島式12線の構造をしています。

北久米駅に高浜行きの610系電車が入線してきました。この610系電車は1995年にアルナ工機で2両編成2(4)が製造された久々の伊予鉄道の自社発注車両です。東京メトロ日比谷線直通の東武鉄道20000系に準じたステンレス製車体の3扉車両です。2編成のうちの1本は「みきゃんパーク梅津寺」の可愛いラッピングが施されて運行されています。

続いて、鉄分補給シリーズ(その2):伊予鉄道横河原線②を掲載します。



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