2023年8月2日水曜日

鉄分補給シリーズ(その10) 住友別子鉱山鉄道①

 公開日2023/08/03

 

[晴れ時々ちょっと横道]第107 鉄分補給シリーズ(その10) 住友別子鉱山鉄道


別子銅山記念館の玄関前には、かつて住友別子鉱山鉄道で実際に使われた蒸気機関車や電気機関車が静態展示されています。このうち、「別子1号機関車」と呼ばれている小型のタンク式蒸気機関車「住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車」が静態保存されています。

『鉄分補給シリーズ』、“鉄分補給”と題してはいるものの、このところ取り上げているのはバスであったり船であったり、“鉄分”ではなく“塩分”、挙げ句には“骨分”まで取り上げて、脱線しまくっていたのですが、今回は久々の鉄道ネタ。取り上げるのは住友別子鉱山鉄道です。

私が改めて説明するまでもないことですが、別子銅山(べっしどうざん)は、かつて新居浜市にあった銅山で、閉山までの総産銅量は日本で2番目に多い約65万トンと、日本を代表する銅山でした(1位は古河財閥の礎となった栃木県の足尾銅山)。元禄3(1690)、標高1,000メートルを超える別子山村の山中に発見された露頭を手がかりに、ここに良好な銅の鉱脈があることを確認した住友は、翌元禄4(1691)から本格的に採掘を開始しました。以降、昭和43(1973)の閉山までの283年間、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業等、関連事業を次々と興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となった、また新居浜市が瀬戸内海工業地域の一角を形成する四国の拠点都市の1つとなる礎となった銅山です。そして、日本国の近代化に計り知れないほどの貢献をした銅山でした。

別子銅山の鉱床は新居浜市の南方に屏風のように高くそそり立つ四国山地の赤石山系の山中に位置しており、日本最大の断層帯である中央構造線のすぐ南側にある三波川変成岩帯の変成岩の中に現れる層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)と呼ばれるものです。この層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)は海底火山の活動によって地底深くからもたらされた銅の成分を多く含んだ熱水鉱床の一種と考えられており、それが中央構造線の断層活動により長い年月をかけて地表近くまで上昇してきて、一部は地表に顔を覗かせるまでなったものと考えられています。その鉱床の規模は、長さ約1,800メートル、厚さ約2.5メートル、約45度から50度傾いて海抜約1,200メートルから海面下およそ1,000メートルにわたって広がるというもので、国内では最大規模、世界的にも稀にみる大きな鉱床だったといわれています。くわえて、この鉱床からは極めて純度の高い黄銅鉱(銅の鉱石)や黄鉄鉱が産出されました。別子銅山の鉱石は銅の含有量が極めて多いという特徴があり、高品位の物だと20%台にも達していました(現在世界で最も採掘されているチリ産の銅鉱石の銅含有量は1%前後です)。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)にあったのですが、時代とともにその中心は下部の新居浜市側へと移っていきました。坑道は全長約700km、最深部は海抜マイナス1,000メートルにも及ぶという超巨大な銅山でした。出鉱量は推定約30百万トン、産銅量は前述のように約65万トンにも達しました。ちなみに、最深部の海抜マイナス1,000メートルは、日本で人間が到達した陸地の最深部となっています。

意外と思われるかもしれませんが、江戸時代、銅は日本国の最大の輸出品目でした。江戸時代初期までは金や銀も輸出されていたのですが、銀が1668年以降、金も1763年に輸出禁止となっています。銅は、元禄11(1698)に幕府が、清国とオランダに対して、年間8902,000(5,337トン)の銅輸出を取り決めたことから、輸出量が激減した金や銀に代わる主要な輸出品目となりました。この年間8902,000(5,337トン)という輸出量は膨大なもので、江戸時代、日本は世界一の産銅国でした。別子銅山は元禄4(1691)の開坑ですので、もちろん採掘された銅は長崎の出島から清国やオランダ経由で世界中に輸出されていました。そして、当時の銅の主要な使用用途は通貨(銅貨)でした。その意味で、別子銅山は江戸時代の日本経済、さらには世界経済をも支えた極めて重要な鉱山だったと言えます。赤穂浪士討ち入り前年の元禄14(1701)、大坂(現在の大阪)に銅の取引や、銅の鋳造(鋳銅)を行う“銅座”が設けられました。当時、別子銅山をはじめ日本全国の銅山から産出した荒銅(粗銅)はこの大坂にあった銅座に集積され、荒銅の中に含有される銀などを取り除いて純度99.9%程度にまで精銅した上で、長さ78(23cm)、幅5(1.5cm)、重さ7080(263300g)という細長い棒状の棹銅に精錬され、海外に輸出されていました。このため、オランダ商人は江戸参府の帰途、大坂の精錬所を見学するのが恒例だったと言われています。大坂の銅座の中心的役割を担ったのが、幕府より全国の銅山から採掘される銅の蒐荷任務を担当するようお達しを受けた泉屋(吉左衛門)と大坂屋(久左衛門)でした。このうちの泉屋が後の住友財閥発展の基礎となります。また、大坂で銅座が置かれていたところが現在の大阪市中央区北浜で、今も大阪証券取引所をはじめ証券会社や銀行等が立ち並ぶ商都大阪の中心エリアとなっています。

まったくの余談ですが、かつての日本国は地下資源大国で、金銀銅といった地下資源が最大の輸出品目でした。12世紀に平清盛が行った日宋貿易においても、宋からの輸入品が宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍だったのに対し、日本からの輸出品は金、銀、硫黄、水銀、真珠、刀剣や漆器などの工芸品でした。宋からの輸入品が宋銭というのは、明らかに“代金”ですね。物々交換では日本からの輸入品に適うものはなかったということを意味しているように思われます。宋の次の元の時代に、この日宋貿易の話がマルコ=ポーロに伝えられ、『東方見聞録』の記事となったことからも、いかに当時の日本国が諸外国の人達から見て魅力溢れる資源大国であったかがお判りいただけるかと思います。江戸時代に入ってからも基本的にはそれは変わらず、主要な輸出品目は初期には金や銀、金と銀が輸出禁止になってからは銅(棹銅)が主体で、樟脳や陶磁器、漆器などが輸出されていました。輸入されていたのは生糸や砂糖、薬品、香料などで、代表的なものは砂糖でした。日本は資源に乏しい国というイメージを現代日本人は持ちがちですが、実際にはそういうわけではありませんでした。現代人のイメージによる先入観で語っていると、日本史の解釈を見誤ることになります。

本論に戻ります。新居浜市にはその別子銅山に関連したとてつもない鉄道遺産が残されています。それが住友別子鉱山鉄道です。住友別子鉱山鉄道は、かつて新居浜市において別子銅山で採掘された鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道です。住友別子鉱山鉄道は角石原駅 〜石ケ山丈駅間の「上部鉄道」(5.5 km)と惣開駅〜端出場駅間などの「下部鉄道」(14.5km)から構成されていました。開業は明治26(1893)。伊予鉄道に次ぐ愛媛県で2番目に開業した鉄道で、山岳鉱山鉄道としては日本初の鉄道でした。開業以来、前述のように、主に別子銅山で採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担っていたのですが、昭和48(1973)の別子銅山の閉山を見届けた後、昭和52(1977)に廃止となりました。その住友別子銅山鉄道の遺構を見に、新居浜市を訪れました。

別子銅山運搬の変遷。データベース『えひめの記憶』愛媛県史 社会経済3 第二章愛媛県における主要交通企業の生成・発展より

マイントピア別子本館の玄関に飾られている別子銅山の全景の模型です。ここで位置関係を頭に入れておかないと、住友別子銅山は規模が大き過ぎて、よくわかりません。

まず最初に訪れたのは新居浜市角野新田町の山根公園に隣接する別子銅山記念館です。この別子銅山記念館の玄関前には、かつて住友別子鉱山鉄道で実際に使われた蒸気機関車や電気機関車が静態展示されています。このうち、「別子1号機関車」と呼ばれている小型のタンク式蒸気機関車「住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車」は、かつて住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線で使われていた機関車で、明治25(1892)にミュンヘン(ドイツ、当時はバイエルン王国)のクラウス社製のB形蒸気機関車で、鉱山専用鉄道用に購入されたものです。この住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車は明治34 (1901)までに10両が輸入されました。

「住友別子鉱山鉄道1形蒸気機関車」は、かつて住友別子鉱山鉄道の上部鉄道線で使われていた機関車で、明治25(1892)にミュンヘン(ドイツ、当時はバイエルン王国)のクラウス社製のB形蒸気機関車で、鉱山専用鉄道用に購入されたものです。

クラウス社製の狭軌(軌間762mm)用のB形蒸気機関車と言えば、伊予鉄道が明治21(1888)に伊予鉄道が松山駅(現在の松山市駅)〜三津駅間で開業した際に導入したいわゆる「坊っちゃん列車」(伊予鐵道1号蒸気機関車)と同じで、愛媛県、いや、四国における鉄道の黎明期を支えた機関車でした。この別子1号機関車は昭和25(1950)に下部鉄道線が電化された際に廃車になったのですが、その後、愛媛県立新居浜工業高校に教材として保管展示されていました。昭和50(1975)に別子銅山記念館が開館するにあたって、同館の玄関前に移設され、永久保存されることとなりました。

ED-104号電気機関車。昭和25(1950)の電化後に導入された電気機関車です。


別子銅山記念館です。別子銅山記念館は大山祇神社の境内にあり、山の斜面を利用した半地下構造で、屋根には1万本を越えるサツキが植えられています。館内には別子銅山や住友の歴史を紹介するコーナーや、別子銅山及びその周辺の地質などを鉱石や模型などを用いて説明するコーナーなどがあり、好奇心を大いにくすぐられました。残念ながら館内撮影禁止です。

【端出場…住友別子鉱山鉄道下部鉄道線遺構】

次に訪れたのは、別子銅山の施設跡などを利用したテーマパーク『マイントピア別子』です。マイントピア別子は、最後の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区を開発した端出場ゾーンと、最盛期の拠点であった東平(とうなる)地区を開発した東平ゾーンに分かれているのですが、まずは端出場ゾーンです。新居浜市内のほぼ中心を南北に流れる国領川を愛媛県道47号新居浜別子山線を使って上流に向かって遡っていくと、別子ラインと呼ばれる渓谷があり、景勝地になっています。その別子ラインのほぼ真ん中あたりに端出場はあります。標高約150メートル。この端出場は別子銅山の最後となった採鉱本部が昭和5(1930)に東平から移って来た所で、明治26(1893)に下部鉄道の始発駅が完成した頃から、閉山になった昭和48(1973)まで、別子銅山で採掘された鉱石の中継地点になっていたところです。また、採掘場所が標高の低い方向に徐々に移動してきてからは、端出場の近くでも大規模な採掘現場ができ、別子銅山において常に重要な地位を占めていたところです。

「カブの駅」とは、住友別子鉱山鉄道の下部鉄道線の端出場駅があったことから名付けられたものでしょう。

端出場ゾーンの本館2階にある「開運駅」からは約400メートルの観光鉄道が開設されており、片道約5分で鉱山観光エリアと行き来できます。この観光鉄道に使用されている蒸気機関車は、住友別子鉱山鉄道で走っていた蒸気機関車「別子1号機関車」をやや小さくして復元した電気駆動式のものですが、往時の雰囲気を十分に味わうことができます。


観光鉄道に使用されている蒸気機関車は、住友別子鉱山鉄道で走っていた蒸気機関車「別子1号機関車」をやや小さくして復元した電気駆動式のものですが、往時の雰囲気を十分に味わうことができます。

端出場鉄橋を渡ります。客車も昔のものを再現したものです。

住友別子鉱山鉄道下部鉄道線はこの端出場駅が起終点で、ここから鉱石の積出港である新居浜港駅までの10.3kmが端出場本線と呼ばれ、地方鉄道として一般旅客営業も行なっていました。このほかに端出場本線の星越(ほしごえ)駅から惣開(そうびらき)駅間の1.6kmの惣開支線、同じく星越駅から国鉄新居浜駅間 2.6kmの国鉄連絡線 があり、惣開支線は本線と同じく地方鉄道として一般旅客営業を行なっていました。実は明治26(1893)に開業した際、路線は端出場駅〜星越駅〜惣開駅間でした。さらに、端出場駅から奥に向かって打除駅まで約2.6kmの専用鉄道がありました。現在観光鉄道に使われているのは、この専用鉄道だったところです。

2トン蓄電池式機関車です。狭い坑道内で鉱車の牽引用に使われました。

住友別子鉱山鉄道下部鉄道線は地方鉄道として一般旅客営業も行っていた路線ですが、軌間(線路幅)762mmの軽便鉄道と呼ばれる路線でした。伊予鉄道も開業当初は同じく軌間762mmの軽便鉄道だったのですが、その後、JR在来線と同じ1,067 mmに改軌しています。こちら住友別子鉱山鉄道下部鉄道線は昭和52(1977)に廃止になるまで、ずっと軌間762mmの軽便鉄道のままでした。開業当初は非電化で蒸気機関車牽引による運行だったのですが、昭和25(1950)に電化され、電気機関車牽引に変わりました。また、国鉄連絡線と並行する星越駅と多喜ノ宮信号所間約1kmは複線になっていました。

端出場ゾーンの周辺にはかつて鉱山軌道で使われていた機関車や貨車が整体保存されているほか、幾つかの住友別子鉱山鉄道下部鉄道線の遺構が遺されています。

 

端出場鉄橋(足谷川鉄橋)この鉄橋は打除鉄橋(うちよけてっきょう)とも呼ばれ、橋長39メートルの単線仕様。対岸と約60度ずれた斜橋形式の鋼製単トラス桁橋、中でもトラスがピン結合となっているのが特徴のドイツ・ハーコート社製のピントラス橋です。下部鉄道線が開通した明治26(1893)に建設されたものですが、建設から130年経った今も観光鉄道用として使用されています。この端出場鉄橋(足谷川鉄橋)は国の登録有形文化財に指定されています。

足谷川に架けられた端出場鉄橋(足谷川鉄橋)です。明治26(1893)に建設されたもので、建設から130年経った今も観光鉄道用として使用されています。国の登録有形文化財に指定されています。


『端出場隧道』中尾トンネルとも呼ばれるトンネルで、緩やかに湾曲する長さ92.55メートル、幅員3メートル。馬蹄形断面の煉瓦造りの隧道(トンネル)で、これも明治26(1893)に建設されたものです。この端出場隧道も観光鉄道用として現在も使用されており、国の登録有形文化財に指定されています。

『端出場隧道』です。このトンネルも明治26(1893)に建設されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。


『第四通洞と四通橋』標高156メートル。大正4(1915)に完成した長さ4,600メートルもある坑道です。昭和5(1930)、別子銅山の採鉱本部が東平から端出場へ移されたことにより、重要な位置を占めるようになりました。端出場の坑口より探鉱通洞と併せて約10kmの水平坑道によって筏津第二斜坑の下方に通じており、採鉱された鉱石は各斜坑・立坑により、この坑道に直接搬出され、端出場を経由して下部鉄道線により星越へと運ばれていました。第四通洞に繋がる坑内軌道(トロリー集電式の電気機関車に牽引されたトロッコ列車)用の四通橋は、大正8(1919)に開通した足谷川に架かるトラス橋です。大正12(1923)、この四通橋の東側に、別子銅山の全坑道から湧き出る全ての地下水を排出するための坑水管が設けられました。以降、大正、昭和と第四通洞と四通橋は別子鉱山開発の大動脈として機能し、その坑口は、昭和48(1973)の閉山まで、約60年にわたり、毎日約1,000人の入・出坑を見守り続けました。

第四通洞と第四通洞に繋がる坑内軌道の四通橋です。


『下部鉄道線廃線跡』東平から索道で下ろされた鉱石は、ここ端出場から下部鉄道で星越、そして新居浜港に運ばれました。廃線跡が残っています。


下部鉄道線の廃線跡が続いています。


端出場貯鉱庫端出場貯鉱庫は東平から索道で下ろされてきた鉱石をいったん貯めておくための施設で、大正8(1919)に完成しました。貯鉱庫の上には、第四通洞からの軌道敷きが延び、鉱石運搬車が貯鉱庫の上から鉱石を落として鉱石を貯める仕組みになっていました。この端出場貯鉱庫跡は上記の廃線跡の先にあり、残念ながら現在は立ち入り禁止になっています。

どこも「兵(つわもの)どもが夢の跡」って感じで、いいですねぇ〜。

長く別子銅山の採鉱本部が置かれた端出場ゾーンには、住友別子鉱山鉄道下部鉄道線の遺構だけでなく、往時の別子銅山の栄華を偲ばせる建物や遺構が幾つも残っています。

 

『泉寿亭の賓客用玄関と特別室の1室』昭和12(1937)に、元禄4(1691)の開坑から250周年を迎えるにあたって記念のお客様を迎えるために建てられた京風数寄屋造りの住友接待館(泉寿亭)として新居浜市内の北新町に建築されました。平成3(1991)にその地に図書館の建設計画が持ち上がり、取り壊される運命となりましたが、平成3(1991)のマイントピア別子のオープンに合わせて泉寿亭の賓客用の玄関と特別室棟を移築してきたものです。豪華な日本建築で、この旧泉寿亭特別室棟は国の登録有形文化財に指定されています。

住友の接待館であった泉寿亭の賓客用の玄関と特別室棟が移築されてきています。


旧端出場水力発電所…明治45(1912)完成した水力発電所です。当時としては東洋一の落差(596メートル)を利用して発電が行われました。これによって別子銅山の機械化による近代化が大きく進みました。赤煉瓦造りの建物は、愛媛県を代表する西洋建築の1つで、マイントピア本館のモデルとなりました。中には、ドイツのシーメンス社製発電機、フォイト社製のペルトン水車などが、当時の姿のまま残されていますが、内部は通常非公開になっていて、対岸より眺めるだけです。この旧端出場水力発電所も国の登録有形文化財に指定されています。

別子銅山の遺構の代名詞とも言える明治45(1912)完成した旧端出場水力発電所です。赤煉瓦造りの建物は、愛媛県を代表する西洋建築の1つです。この旧端出場水力発電所も国の登録有形文化財に指定されています。

旧端出場水力発電所の内部は長らく耐震補強工事のため内部の見学ができませんでしたが、工事が終わり、今年328日から内部の公開が始まりました。


『大斜坑・粗鉱ビン跡』…大斜坑は昭和43(1968)に別子銅山再生の最後の望みをかけて完成した施設です。完成した大斜坑は斜度約15度で延長4,455メートル、海面下約1,000メートルに達っしていました。そこから採掘された粗鉱は約4,000トンの貯蔵能力がある粗鉱ビンに一時貯鉱されました。粗鉱ビンは対岸の山の中腹に見えるのですが、その左にあるとされる大斜坑口は草木で埋もれていて、よく見えません。


『鹿森社宅跡』…北側の大駐車場から下部鉄道の線路跡をくぐって15分ほど上がったところに全盛期には約300戸約1,300人の社員と家族が暮した社宅の跡があります。大正5(1916)から建設が始まり、昭和45(1970)に閉鎖されました。別子銅山関連に残る最大の石積で、斜面に造られた社宅群の中央には277段の石段が上まで延びています。残念ながら今回は時間の関係でその鹿森社宅跡を訪ねることができませんでしたが。端出場の周辺も、よく見ると、針葉樹の林になった山の中にかつて住宅の基礎であった石垣の部分だけが、何段にも重なって残っています。ここも鉱山で働く人達の社宅だったんでしょうね。

端出場周辺の山の中にもかつて社宅が建てられていたことを偲ばせる石垣の遺構が幾つも残っています。その別子銅山繁栄の遺構は木々の中に埋もれるように眠っています。


『観光坑道』…また、観光鉄道の終点には往時の実際の坑道を利用した約333メートルの「観光坑道」があり、見学することができます。この観光坑道には江戸時代から近代に至るまでの別子銅山の歴史を展示模型や別子銅山で行われていた作業を体験できるアトラクションが用意されています。なかなか興味深い施設です。

観光坑道では江戸時代の採鉱の様子が人形を使って再現されています。今では想像もつかない苦労があったのでしょうね。

“仲持ち”です。仲持ちとは運搬夫()のこと。銅山から行きは粗銅や半製品の銅の塊りを、帰りは米や味噌といった生活用品を運びました。男性は約40kgを、女性も約30kgを背負って運んでいました。鉄道と索道が開通する前は、こんな感じで運ばれていたのですね。

 

……②に続きます。②は明日84日に掲載します。


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