2023年7月6日木曜日

伊予八藩紀行【伊予小松藩】②

公開日2023/07/07

 

[晴れ時々ちょっと横道]第106 伊予八藩紀行【伊予小松藩】② 


【伊予小松藩の苦悩と功績】

これらの産品があったものの、参勤交代や江戸屋敷の維持などのため、多くの藩と同様に財政は逼迫し、借金も増大しました。そのため、領内の商人など領民からの上納金、藩士の減俸をしばしば行っていました。寛政5(1793)には家臣の奉行・竹鼻正脩(たけはな せいしゅう)の進言により、「銭預かり札」という名目で、幕府の公許を得ないまま実質的な藩札を発行したりもしています。ちなみに、明治維新後、明治政府は諸藩の藩札を無効として新貨幣()と交換する措置を取ったのですが(新貨条例)、小松藩の「銭預かり札」は幕府の公認を受けない私札とされて政府による交換が拒否されています。

享保17(1732)長雨とイナゴの被害による凶作に起因して全国的に発生した近世史上、三大飢饉の一と称される「享保の大飢饉」では、伊予小松藩でも救済を必要とする「飢人」が住民の4割を超えるほどの緊急事態となったのですが、隣藩の松山藩が3,500人を超えるほどの多くの餓死者を出したのに対して、伊予小松藩の餓死者は皆無でした。これは、小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く対策が立てられやすかったこと、また日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものとされています。その後も天災や飢饉に際し、領民の状況の把握と救済米の支給など、きめ細やかな対応を行っています。18世紀後半には、大規模な逃散や、首謀者の領外追放で幕を閉じた騒動などはあったものの、流血を伴う事件はほとんど記録されていないなど、かなり治安が保たれた藩でした。

伊予小松藩は藩士や領民の子弟の教育にも非常に熱心な藩でした。前述の奉行・竹鼻正脩によって、第7代藩主・一柳頼親のもと享和2(1802)に藩の学問所(藩校)「培達校」が設置され、翌享和3(1803)にはかつて同じ一柳家が統治する川之江藩のあった川之江から朱子学者・近藤篤山(とくざん)を招聘し、藩校「培達校」を幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に倣って整備。「養正館(ようせいかん)」と改名しました。養正館では藩士子弟のみならず庶民にも門戸を開き、藩内外に幾多の人材を輩出しました。近藤篤山は藩外へも大きな影響を及ぼした人物で、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬らの師匠であった松代藩の兵学者・佐久間象山は手紙の中で、近藤篤山のことを「徳行天下第一の人物」と讃えており、“伊予聖人”と呼ばれてその名声は全国に拡がり、多くの人から尊敬を受けたといわれています。


伊予小松藩と言えば、藩校養正館の教授で朱子学者だった近藤篤山ですね。近藤篤山は藩外へも大きな影響を及ぼした人物で、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬らの師匠であった松代藩の兵学者・佐久間象山は手紙の中で、近藤篤山のことを「徳行天下第一の人物」と讃えており、“伊予聖人”と呼ばれてその名声は全国に拡がり、多くの人から尊敬を受けたといわれています。

近藤篤山旧邸です。小松藩の儒学者として藩内師弟の教育に尽くした近藤篤山が40年間暮らした武家屋敷(私邸)の書斎は、ほぼ昔のままの姿で残り、伊予聖人の生活を今に伝えています。愛媛県の文化財に指定されています。

住宅地の一角に伊予小松藩の藩校「養正館」の跡を示す石碑が建っています。

今日に至るまで“伊予聖人”と崇められている小松藩の儒者、近藤篤山ご夫妻の墓です。

明治4年(1871)、廃藩置県によって伊予小松藩が廃止されたのに伴い、藩校である養正館も廃止されたのですが、この養正館の跡地には明治5(1872)の学制発布後、小学校「一番学校」が置かれました。この一番学校は、その後の変遷を経て、現在の西条市立小松小学校の前身となったとされています。また、養正館で教えを受けた人々は、明治期に幾つかの学校の設立に関わりました。このうち一柳春二(はるじ)が明治40(1907)に地元に設立した「小松町立実用女学校」と昭和16(1941)に設立した「私立子安中学校」の2校は、第二次世界大戦後、合併して愛媛県立小松高等学校となりました。このため、愛媛県立小松高校は養正館の伝統を受け継ぐ学校であるとされています。


現在の西条市立小松小学校です。この小学校は以前は伊予小松藩の藩校「養正館」があった場所にあったのですが、現在はこの場所に移転されています。

「養正館」の伝統を受け継ぐ学校であるとされる愛媛県立小松高校です。テノール歌手の秋川雅史さんは、この小松高校の出身です。

「愛媛近代女子教育発祥之地碑」が建っています。ここは伊予小松藩士・丹信積の妻・美園が設けた伊予国で最初の婦女子のために設けられた寺子屋「女児校」の跡です。丹夫婦は近藤篤山の弟子で、寺子屋設立にあたっては、当時の伊予小松藩主・一柳頼紹の多大な庇護があったことは言うまでもありません。

聞名山本善寺です。本善寺は浄土宗総本山知恩院に属する寺院で、小松藩の藩寺でした。この本善寺の境内には、明治5(1872年)に学制がしかれた際、郡内ただ一校の「十二番女児校」が設置されました。本善寺の山門の扁額「聞名山」の文字は伊予小松藩第3代藩主の一柳直卿(なおあきら)が揮毫したものですが、一柳直卿は当時の諸大名の中でも随一といわれるくらい字がうまかったそうです。

【幕末の伊予小松藩】

伊予小松藩も第8代藩主・一柳頼紹(よりつぐ)の時代に幕末の動乱期を迎えます。慶応4/明治元年(1868)から翌年にかけて起きた戊辰戦争において、伊予小松藩は新政府軍に加わり、総勢51(足軽・小者も含む)が出兵しました。伊予小松藩兵は京都で明石藩・小野藩・三日月藩・足守藩などの諸藩の兵と合流してともに越後国に出陣し、新潟・長岡・村上などを転戦しました(北越戦争)なかでも、最近、役所広司さん主演の映画『峠 最後のサムライ』に取り上げられたことで有名になった河合継之助率いる越後長岡藩600名余りとの長岡城奪還戦にも参戦しています。伊予小松藩は一連の戊辰戦争の戦いの中で、戦死者1名・重傷者1名・軽傷者1名を出しています。

明治2(1869)6月、藩籍奉還に伴い一柳頼紹は藩知事に任命されたのですが、間もなく病没しました。このため一柳頼紹の子の一柳頼明(よりあき)が藩知事を継いだのですが、明治4(1871)7月、廃藩置県によって小松藩は廃止され、小松県となりました。しかし、その小松県も同年のうちに廃止になり、松山県、石鉄県を経て愛媛県に編入されました。


圓覚山佛心寺です。佛心寺は初代藩主・一柳直頼が亡くなった時に、藩主の菩提寺として創設された寺院で、一柳家代々の菩提寺となりました。伊予小松藩の陣屋の御霊屋門(みたまやもん)は佛心寺に移築されています。

佛心寺の庫裡は、伊予小松藩の政務を行っていた会所の建物を移築したものです。

桜門も佛心寺に移築されています。

ここは、供待(ともまち)。佛心寺は藩主である一柳家代々の菩提寺で、殿様が参拝している間、そのお供の人が待っていたスペースです。

現在、伊予小松藩の陣屋があった場所には石碑が建つのみで、広い庭園をはじめ大部分の土地は宅地や農地となっています。ただ数多くの門と太鼓櫓、そして会所の建物が、一柳家の菩提寺である佛心寺をはじめ、覚法寺、明勝寺、徳蔵寺といった小松周辺の寺院に移築され、現存しています。


佛心寺の裏山にある伊予小松藩歴代藩主の墓です。

これは第3代藩主・一柳頼徳(前名が直卿)の墓。逆光なので分かりにくいですが、墓石には「従五位下 一柳氏越智宿禰頼徳之墓」と刻まれています。えっ! 伊予小松藩主の一柳家って越智氏族だったの!? 一気に親近感が湧いちゃいました。

なお、伊予小松藩一柳家の江戸屋敷ですが、藩主とその家族が居住し、かつ藩の政治的機構が置かれて政治・経済・外交活動の拠点であった上屋敷は、港区新橋2丁目10の「愛宕下 佐久間小路」にありました。また、中屋敷はなく、下屋敷が港区三田4丁目の「三田寺町 魚籃坂下交差点前」にありました。残念ながら、どちらも当時の面影を残すようなものは現存しておらず、上屋敷などはほとんどが日比谷通りと烏森通りが交差する西新橋2丁目交差点になっていて、地下を東京都営地下鉄三田線の線路が通っています。


太鼓櫓は明勝寺に移築されています。明勝寺はもともと現在の小松温芳図書館の地にあったのですが、この地に移転されました。太鼓櫓はその際に移築され、その際に2メートル余り切りが取られていると言われています。

御竹門は覚法寺(西条市氷見乙)に移築され山門となっています。

陣屋の搦手にあった坂下門は徳蔵寺(西条市広江)に移築され山門となっています。

徳蔵寺の山門の扁額「密林山」の文字は伊予小松藩第3代藩主の一柳直卿(なおあきら)が揮毫したものですが、一柳直卿は当時の諸大名の中でも随一といわれるくらい字がうまかったそうです。

【伊予小松藩会所日記】

伊予小松藩で、150年以上にもわたって書き継がれてきた『会所日記』が、西条市小松町に残されています。会所とは、江戸時代、種々の目的をもって人々が集合した事務所のようなところのことで、この『伊予小松藩会所日記』の会所は家臣団の筆頭である家老の執務部屋と大目付(警察庁長官と裁判所長官を兼ねたような役職)の部屋が続いているので、伊予小松藩の行政・立法・司法という藩政を司る中枢機関のようなところでした。なので、この『会所日記』には、藩の内部事情から庶民の暮らしに至るまでの実に様々なことが書かれています。

『伊予小松藩会所日記』(集英社新書)です。

伊予小松藩では寛永13(1636)の立藩以来、初代藩主・一柳直頼につき従ってきた喜多川家が家老職を世襲してきました。この喜多川家の代々の家老が実に筆まめだったようで、藩政の記録を実に詳細に遺しています。これが『伊予小松藩会所日記』で、享保元年(1716)から慶応2(1866)までの150年間も書き継がれた全262冊という膨大な量の記録になっています。この膨大な量の『会所日記』は「小松町誌」を編纂する際に武田三郎氏が詳しく調べられ、小松町誌に「小松藩一柳家の統治」として発表されています。また、北村六合光(くにてる)氏が現代文による全文解読を進められていて、その御二方の成果を増川宏一氏が解説付きで『伊予小松藩会所日記』という一冊の本に纏められて出版しています。今回のコラムは、地元愛媛県の歴史を調べるうえで私が常に愛用させていただいている愛媛県生涯学習センターが公開しているデータベース『えひめの記憶』と合わせて、その増川宏一氏の『伊予小松藩会所日記』を大いに参考にさせていただきました。

その増川宏一氏によると、『伊予小松藩会所日記』の特徴として次の3点を挙げられています。

第一に、伊予小松藩自体長い歴史があるが、150年間続いた記録であるため、幕府の通達とこれに対応した藩の動向など、いわば地方から見た江戸幕府の政治の推移であること。

第二に、小さい藩であるために、領内の隅々にまで目が行き届いていることである。藩士や商人、領民の詳細な動静が記録され、大藩には見られない住民の生活の内容を知ることができること。

そして第三に、以上の事柄を通じて、テレビや映画の時代劇から漠然と得ている「知識」と、記録されている江戸時代の人々の暮らしや感情がいささか異なること。

歴史の研究は必ず「史料」に基づいて行われます。過去に存在した事象を把握し筋道を立てるのに役立つ材料のことを「史料」と呼びます。史料は歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるもので、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含みます。史料は一次史料と二次史料に分類されます。一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙、文書、日記などを指します。記述対象の観点から言うと、「その時に(When)」「その場で(Where)」「その人が(Who)」の三要素を全て充たした文献を「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼びます。二次史料は第三者が記した物や、後の時代に書かれた記録が該当します。もちろん一次史料は信憑性が高いものが多いのですが、ただし、一次史料が必ずしも正確というわけでもありません。日記や手紙などは主観的で偏った記述であることが付き物ですし、歴史知識の乏しい人間が偏向した一次史料の記述を直接読めば、誤った情報を得ることにもなりかねません。また、二次史料は一般には一次史料よりも正確性や重要性が劣るとされていますが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らないとも言われています。さらには三次史料、四次史料という区分もありますが、これらは歴史学の検証ではまったく重視されないので、説明は割愛します。

史料とはまったく別のジャンルのものがあり、それが歴史小説やテレビや映画の時代劇。いちおう時代背景や登場人物について一次史料や二次史料を参考にしてはいるとは思いますが、そのストーリーや描かれる内容は、ほとんどが後世の小説家や脚本家が頭の中に描いた解釈や想像をベースにした創作物に過ぎず、歴史学的価値はまったくありません。しかし、多くの現代人は歴史小説やテレビや映画の時代劇から入ってくる想像の世界を、現実にあったことだと思い込んでいるふしがあります。

しかし、この『伊予小松藩会所日記』は一次史料。それも藩の公式記録としての日記ということですので、一次史料中の一次史料。ここまで江戸時代のことを正しく記録したものはないと言っても過言ではないほどの史料です。そこには現代人が江戸時代の庶民の暮らしは多分そうであったのだろうと思い込まされていることとはまったく別のことが、幾つも書かれています。まさに“本物の時代劇”って感じです。

一般的には藩の記録に残らないような農民などの庶民の生活、不倫、駆け落ち、賭博、刃傷沙汰、酔っぱらいの喧嘩や訴訟事などの話から、藩の財政破綻、武士の内職(なんと、殿様の奥方までもが内職をしていた)、今で言えば地方債のような藩札の発行等々、常に借金の返済に苦労している様子といった藩の内情に至るまで、現代の中小企業の悲哀にも似た江戸時代の極小藩の庶民の暮らしが、あますところなく綴られています。私も年間売上規模約10億円、社員数100名弱の中小企業の社長を15年間務めさせていただいたので、その苦労はよく分かり、共感する内容が多々含まれています。また、企業経営のヒントになりそうな事柄も随所に出てきます。

この『伊予小松藩会所日記』、私が持っているのは20018月に発行された集英社新書の第2刷ですが、現在、『小さな藩の奇跡 伊予小松藩会所日記を読む』という題名で角川ソフィア文庫から復刻版が出ております。お薦めの1冊です。


三島神社です。この神社は元明天皇の和銅5(712)に勅詔によって国司河野伊予守越智宿禰玉興、玉澄がこのあたり一帯の総鎮守として大三島の大山祇神社より勧請されたとされる古社です。毎年1017日に行われる秋祭りには、だんじり10数台が、五穀豊穣と家内安全の祈りを込めて、境内で絢爛豪華な練りが奉納されます。ちなみに、この三島神社は船山古墳群と呼ばれる古代の古墳の上に建てられています。

四国八十八箇所霊場の第62番札所の天養山宝寿寺です。聖武天皇の勅命を受けた道慈によって創建されて以来、往時は伊予三島水軍の菩提寺や大山祇神社の別当寺として栄えました。旧伊予小松藩内(現在の西条市小松町)には四国八十八箇所霊場のうち第60番札所の石鎚山横峰寺、第61番札所の栴檀山香園寺、第62番札所の天養山宝寿寺という3つの札所があります。弘法大師も修行したと伝えられる山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある西日本最高峰の石鎚山(1,982)の主要な登山口の1つですからね。この狭い町内に3つも札所があるというのは、それだけ特別なところであったということですね。

西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)が間近に見えます。小松は石鎚山の登山口の1つでもあります。

それにしても、周囲を新藩や譜代、紀州徳川家の御連枝、天領にグルッと囲まれた石高わずか1万石の外様大名であるにも関わらず、9代約230年間にわたって改易や移封されることなく存続し続けた伊予小松藩、一柳家って凄い!の一言です。こんな奇跡のような小藩が江戸時代にこの伊予国(現在の愛媛県)にあったという事実を、多くの愛媛県民に知っていただき、そして誇りに思っていただきたいと思います。愛媛も松山藩や宇和島藩、大洲藩だけじゃあないんです!

 


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