2019年7月29日月曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その8)

花水坂入口交差点の横断歩道を渡ったところに「古道入口」と刻まれた道標(石碑)が立っています。ここからは旧甲州街道の古道を歩きます。道標の下に古道の説明が刻まれています。それによると、「古道は甲斐府中より韮崎市三之蔵より西に分かれ、小田川を経て穴山の車坂にかかり、七里岩の長沢町渋沢と日野の花水坂へと通じていた。ここで釜無川の花水橋を渡り、西岸の台ヶ原へ出て、信州蔦木へと向かう道で、甲州街道以前の信州へと通じる主要な道路であった」とのことです。細かい地名は分かりませんが、ここから花水坂を登って七里岩の台地の上に出て、そこから台地の上を通って韮崎まで行っていたのが甲州街道開設以前の「はらぢみち」と呼ばれる古道だったようです。ここから先は、その古道と甲州街道は重複するようです。
甲州街道(古道)はここからしばらく草で覆われた道を進みます。
3体の馬頭観音が祀られています。その馬頭観音の側面に「右かうふみち 左はらぢ道」と道標が刻まれています。かうふみちとは甲府道、すなわち甲州街道のことです。なるほど、ここが旧甲州街道と古代甲州街道(はらぢ道)の追分(分岐点)だったってことですね。確かにここから田圃の中を突っ切ると、花水坂入口交差点で、その先に花水坂に向かう山梨県道617号台ヶ原富岡線が伸びています。
馬頭観音からすぐのところに「無銘の巨塔」と刻まれた石碑が立っていて、奥の丘の上に何も刻まれていない大きな石がデェ〜ンと鎮座しています。実はこの「無銘の巨塔」は、どこかの人がおそらく「南無阿弥陀仏」の題目碑を刻んで建立しようと巨大な石を切り出して運んでいたところ、資金が底をついてこの場所で捨てられたものを、地元の人達がこの丘の上に持ち上げ、そこに無銘のまま建てたものだそうです。おそらく地元の人達は一時的に預かっておくつもりだったので、無銘のままにしているのではないか…と思われます。でもまぁ〜、あれだけの巨大な石が街道脇に捨てられていたら、邪魔だろうし、崩れる(倒れる)危険性もあるわけで、どかせたかったのでしょうね。それにしても、いつの時代も計画性の欠如した無鉄砲な輩っているものですね。私は、そうした無鉄砲さ、決して嫌いではありませんが
甲州街道の古道を進みます。テレビや映画の時代劇のロケにでも使えそうな、往時の雰囲気が色濃く残る大変に魅力的な道です。往時もこのまんまだったのではないでしょうか。
畑の脇を進む農道のようですが、これが旧甲州街道、そして古代から残る古道です。道幅は一般的な農道のほうが幾分広いですし、最近は舗装されている農道も多いので、この道が旧甲州街道であるとは、案内してくれるウォーキングリーダーさんがいなかったら分からないでしょうね。
横を尾白川が流れています。前日の雨で多少濁ってはいますが、それでも澄んだ綺麗な水です。水量はさほど多くはありません。川の上流部分にあたるので、川底に勾配があるようで、かなり速く水が流れていて、せせらぎの音も大きいです。せせらぎの音に清涼感を感じます。旧街道歩きでなくて、単なるハイキングとしてもいい感じの道です。
今回のさいたま新都心駅発のツアーの参加者は23名。男性が13名と女性が10名です。それを今回初めての試みとして男性陣と女性陣の2(グループ)に分けて歩くことにしたのですが、そうすると街道歩きにおける男性と女性の差がハッキリと分かる面白い結果が出てきました。歩くスピードは女性陣のほうが遥かに速いのです。この旅行会社の街道歩きツアーでは、説明ポイントでかぶらないように、通常、先行する班が出発してから5分ほどの間をあけて後続する班は出発するのですが、スタートしてから4kmちょっとでその約5分間の差がみるみるうちになくなってきました。先ほどから振り返ると後ろに女性陣の姿が見えるな…とは思っていたのですが、とうとう笑い声がハッキリと聞き取れる距離にまで近づいてきました。それと歩き方がまるで違います。私を筆頭にマイペースの方が多いのか、男性陣の隊列は前後に非常に長くなってしまっているのですが、女性陣のほうはずっとひと塊に整然とまとまっているのです。これが歩く速度にも大きく影響しているのでしょうね。このペースだと、次の台ヶ原宿に入るまでに追いつかれてしまうかもしれません。ということで、歩く速度を均一に保つため、次回からは再び男女混成の班編成に戻すのではないか…と思われます。
ここにも「甲州街道 古道」と刻まれた道標が立てられています。ここまでが古道が残る区間でした。「台ヶ原宿」という文字も刻まれていますが、ここはまだ台ヶ原宿ではなく、台ヶ原宿はもうちょっと先です。
台ヶ原宿に向かってはさらに緩い坂道を登っていきます。国道20号線に登坂車線があったように、かなり登ってきました。
緑溢れる周囲の光景に癒されます。
庚申塔や馬頭観音といった石塔石仏群が1箇所に集められて祀られています。おそらくこのあたりの旧甲州街道の街道筋に個々に祀られていたものを、道路の拡幅工事等の際にここに1箇所に集めて祀っているのでしょう。
台ヶ原下交差点で国道20号線を横切ります。まっすぐ先に伸びる国道の脇道のような道路が旧甲州街道です。
宿場の入口らしくここに道祖神が祀られていたようです。現在は道祖神跡の案内板とともに、道祖神の代わりに「古道入口」と刻まれた道標(石碑)が立っています。
国道20号線から脇道(旧甲州街道)が分岐する地点に「日本の道百選 甲州街道 台ヶ原宿」と書かれた案内板が立っています。日本の道百選とは、道の日の制定を記念して、昭和61(1986)度および昭和62(1987)度に、建設省(現国土交通省)と「道の日」実行委員会により制定された、日本の特色ある優れた道路104本のことです。旧甲州街道で「日本の道百選」に選ばれているのは、唯一、この台ヶ原宿内の街道筋だけです。期待が高まります。
ですが、この案内板が立てられているところは、まだ台ヶ原宿の江戸方(東の出入口)ではなくて、江戸方はもうちょっと先です。

ここにも石塔石仏群が集められて祀られています。
旧甲州街道の街道筋らしく静かな佇まいを感じさせる道です。


……(その9)に続きます。




2019年7月28日日曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その7)

坂道を石塔石仏群のところまで下ってきて、ここから旧甲州街道歩きの再開です。右手には七里岩が続いています。旧甲州街道も七里岩と同様、ちょっと高台を通っていて、その間には豊かな田園地帯が広がっています。田植えを終えたばかりの田圃が青々として爽やかです。その田園地帯を国道20号線が伸びています。
道路脇にホタルブクロ(ツリガネソウ)が咲いています。ホタルブクロは、キキョウ科の多年草で、初夏に大きな釣り鐘状の花を咲かせます。
おいおいおい、せっかく坂道を登って高度を上げてきたのに、ここから下り坂で徐々に高度を下げていきます。この日は高度差約370メートルを登っていくのですが、この先もこのようにアップダウンを何度も何度も繰り返しながら少しずつ高度を上げていくのでしょうね。単純に高度差約370メートルをただひたすら登っていくというわけではなく、坂道を登る高さの総和はおそらくその2倍近くになるということで、この区間の厳しさを感じます。前方に上三吹の集落が見えてきました。
三吹の地名の由来となった三富貴(みふき)神社です。創建年代は不詳ですが、元は諏訪神社と称していました。その後、故あって三富貴神社と改めました。武田家代々の御祈願所として崇敬され、万休院のところで名前が出てきた武田四天王の1人・馬場信房(馬場信春)を輩出した馬場氏もこの近くの根古屋に居館を構えて、近くの中山の頂上にある中山砦の警固のため諏訪神社(現在の三富貴神社)を尊敬していたとされています。武田家没落後は徳川家もまた崇敬するところとなり、地頭秩父彦兵衛に社殿の再建修覆を仰せつけたと言われています。三富貴神社の面白いところは参道が大きく左にカーブしながら神社にいたるところ。写真の右手に伸びる道が参道で、手前の旧甲州街道下に鳥居があります。真っ直ぐ神社に向けて参道を伸ばしても問題がないところだけに、このカーブは何か意図があってのことだと思われますが、よく分かりません。
「南無阿弥陀仏」の題目碑をはじめとした石塔石仏群です。この石塔石仏群の中で目立つのが「甲子」と刻まれた甲子塔(きのえね様)です。庚申塔のところで述べた干支による60の組み合わせのうち、甲子(きのえね)は第1番目であるため、「ものの始まり」に喩えられます。子待・甲子待は甲子の日に甲子講の人達が集まって、大黒天の掛け軸を掛けて礼拝し、子の刻(午前0時から午前3)頃まで酒肴とともに歓談する(ドンチャン騒ぎをする)行事のことです。甲子塔は60年ごとに巡ってくる甲子の年(始まりの年:還暦)に、その供養として建立されたものがほとんどです (ちなみに、最も新しい甲子の年は昭和59(1984)です。我等が阪神タイガースの本拠地、阪神甲子園球場はその前の甲子の年、大正13(1924)に竣工したので、甲子園と命名されました)。甲子は「ものの始まり」の意味から、豊作祈願・招福などがその信仰の中心です。
甲子塔は文字塔が多く、「甲子」「甲子塔」「子待塔」「大黒天」などがあり、神道的表現としては「大国主命(おおくにぬしのみこと)」「大己貴命(おおなむちのみこと)」「大黒主神」などと表現する場合もあります。石像塔では打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、米俵を踏まえる大黒天の姿が刻まれる場合がほとんでです。

講の人達が集まってドンチャン騒ぎをするということでは「庚申待」と「甲子待」は似ていますが、庚申待が朝まで一晩中大騒ぎするのに対して、甲子待は子の刻(午前0時から午前3)頃までということで、いくぶん健全だったようです()

上三吹の集落に入っていきます。
ラベンダーのようですが、これはムラサキサルビアですね。こうした路傍の草花は街道歩きに癒しを与えてくれます。
旧甲州街道は国道20号線を横切って伸びています。
上三吹の集落にも歴史を感じる古く大きな建物が幾つも建ち並んでいます。
旧甲州街道一里塚跡の石柱が立っています。この一里塚も甲府府中を起点としての一里塚で、これは甲府府中から7里目の一里塚で「七里塚」とも呼ばれています。
上三吹の集落のはずれに石塔石仏群が祀られています。
進行方向右手に尾白川(おじらがわ)が見えてきました。尾白川は、釜無川の支流で、山梨県の北杜市を流れ、この先で釜無川に合流します。尾白川は甲斐駒ヶ岳の古来からの登山道である黒戸尾根ルートの七丈小屋上流の北東の沢を源とし、鋸岳の稜線下の、同じく源流である本沢と合流し、途中、尾白川渓谷を形成し甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根ルートの登山口である竹宇駒ヶ岳神社あたりから扇状地を形成しています。古(いにしえ)より源流である甲斐駒ケ岳をはじめとした白州の山中には身体の色が白黒で、尾が白い神馬が住んでいて、その霊験で白と黒(善と悪)を明らかにしていました。この人界を律する神馬が住む霊境とされるところを源とする川であることから、尾白川と呼ばれました。尾白川は「白州・尾白川」として、昭和60(1985)に日本名水百選の1つに選定されています。
初夏のこの時期、道路脇にはずっと草花が咲いて、癒されます。
振り返って見たところです。振り返って見たほうがその道が登っているのか下っているのかが分かりやすいのですが、上三吹の集落を出てからずっと緩斜面を登ってきています。
国道20号線に合流し、尾白橋で尾白川を渡ります。2日目のスタートポイントの武川町農作物直売センター駐車場を出てから約4km。実はこのあたりが本来の1日目のゴールでした。前日は雨の中での歩きということでウォーキングリーダーさん(旅行会社)の判断でここから4kmほど手前の武川町農作物直売センター駐車場で街道歩きを切り上げたのですが、この日この区間を歩いてみて、その判断が妥当だったってことを納得しました。路面が舗装されているとは言え、アップダウンのあるこの区間を雨の中で歩くのは大変でした。また、雄大な富士山の姿を含め、周囲の南アルプスをはじめとした山々の風景を楽しめたのも、この約4kmの区間を2日目に回してくれたからこそのことでした。
尾白橋で尾白川を渡った先の花水坂入口交差点(三叉路)で国道20号線を横断します。この花水坂入口交差点で国道20号線から右に分岐する道路は山梨県道617号台ヶ原富岡線で、この交差点からすぐのところで釜無川を花水坂橋で渡ると、花水坂という風流な名前の付いた坂道にかかります。
この花水坂は、甲州五道九筋の1つで、かつては甲斐国と信濃国を結ぶ重要な道の1つでした。七里岩の上の台地を「逸見(へみ)の台地」と呼ぶのですが、七里岩は釜無川に落ち込む断崖に囲まれ、長い間人々の往来を拒み続けてきました。その昔、七里岩の崖下にある武川筋と崖上にある逸見筋を結ぶ路は、2ヶ所だけでした。その1つは、韮崎近くの穴山からくだる「尻こすり」という小さな沢道で、あと1つは、ここ日野から逸見に向かう「日野坂(またの名を花水坂)」の2つだけでした。

この日野坂(花水坂)は七里岩のうち最もなだらかな場所を通るため、古代から道が開けていました。この花水坂から眺める富士は、南部町の西行峠、笛吹市の御坂峠と並び「甲斐富士見三景」の1つとして古くから人々に親しまれてきました。最も美しい季節は春。巨大な松の中に山桜が咲き盛り、それが深沢川の川面に移り、花水坂という風流な名前のとおりの絶景となるのだそうです。古代、あの日本武尊(やまとたける)も東征の帰りにこの坂を通り、山水の極美、富士山と桜、岩と清流の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。日本武尊が休息したとされる場所は「休み平(やすまんていら)」といい、現代でもこの一帯にはこの地名が残っています。ちなみに、この花水坂を登った先にある七里岩の台地の上の地名は北杜市長坂町(旧北巨摩郡長坂町)。この「長坂」という町名のは、花水坂に由来するといわれています。 

甲州街道は残念ながらその「甲斐富士見三景」の1つ花水坂を通らないので、絶景と言われる花水坂からの富士山の姿を拝むことはできません。国道20号線もこの花水坂入口交差点から登坂車線が用意されているようなかなり斜度の大きな急坂にかかります。この坂道の先が台ヶ原宿のある白州町台ケ原です。


……(その8)に続きます。

2019年7月27日土曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その6)

大武川橋を渡った先からは三吹(みふき)集落に入ります。進行方向右側には相変わらず七里岩が続いています。
その七里岩越しに八ヶ岳の特徴的な山容が見えるはずなのですが、残念ながらこちらも5合目付近より上は雲の隠れてしまっています。
このあたりも豊かな田園風景が広がっています。「This is the JAPAN!」「これぞ日本!!」とでも呼びたくなるような光景です。このあたりは「武川米」と呼ばれる良質な米の産地です。
振り返ると富士山がその雄大な山容を覗かせています。
甲斐駒ケ岳は引き続き雲に隠れています。
三吹集落に入ります。このあたりから登り勾配の道になります。写真では分かりづらいと思いますが、まず最初にちょっとした急勾配の坂道を登ります。このような登り勾配が、これから先、蔦木宿まで続くわけですね。この先長いので、心持ちギアを落として歩きます。
大きな茅葺き屋根だったと思われる大きな民家があります。
この三吹集落も土塀で囲まれていたり、土蔵を持っていたりする大きな民家が建ち並んでいます。落ち着いた雰囲気の道です。
庚申塔をはじめ、石仏石塔群が集められて祀られています。
この石仏石塔群のところで左手の脇道に入り、かなり急な坂道を登っていきます。ここは曹洞宗の寺院、万休院の参道です。眼下に今も藁葺きの民家の屋根が見えます。聞くと、民家ではなく水車小屋なのだそうです。だよねぇ〜、民家だとちょっと屋根が小さすぎます。
万休院です。万休院の創建は戦国時代の元亀2(1571)に、武田二十四将と呼ばれた武田信玄・勝頼期の重臣のうち猛将として知られ「武田四天王」の1人に数えられた馬場信房(馬場信春)の嫡男・馬場民部少輔昌房によって開基された曹洞宗の寺院です。
境内には「舞鶴松」と呼ばれる樹齢約450年の赤松の巨木がありました。枝の上に枝を重ねた樹形が美しく、ツル()が羽を広げた姿によく似ていることから舞鶴松の名がつきました。樹高約9メートル、根回り約4メートル、幾重にも枝分かれし、左右に広がる総枝回りは約74メートル。全体が約370本もの支柱で支えられていました。アカマツ(赤松)の名木として知られ、昭和9(1934)には国の天然記念物にも指定されたのですが、残念ながらマツクイムシの被害で枯れ、平成18(2006)11月に伐採されてしまいました。
案内板によると、この樹齢450年と言われる有名な巨木は2代目の松で、現在、寺院の庭園に植えられている松は、樹齢100年とも想定される赤松を3代目舞鶴松として平成20(2008)9月に植栽しました。
平成18(2006)11月にマツクイムシの被害で枯れ、伐採されてしまった2代目の舞鶴松は幹の部分だけが展示されています。
万休院でしばしの休憩をとり、旧甲州街道歩きを再開しました。万休院から旧甲州街道に下る坂道からは雄大な南アルプスの山々の姿が見えるのですが、正面に見えるはずの甲斐駒ケ岳は相変わらず山頂付近に雲がかかっていて、その全貌を拝むことができません。


……(その7)に続きます。




愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...