2019年1月20日日曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その14)

天守の中に入ります。入ってすぐに目につくのが「祈祷札」です。


松江城の天守は平成27(2015)7月に天守建築として63年ぶりに5件目の国宝に指定されました。その要因の1つは平成24(2012)5月に「慶長十六」や「正月吉祥日」などと記された2枚の祈祷札が再発見され、その後、この地階の柱にその祈祷札が打ち付けられていたことが確認されて天守の完成時期が少なくとも慶長16(1611)正月以前であることが明確になったこと、もうひとつは平成22(2010)に松江市が設置した松江城調査研究委員会を中心に取り組まれた学術調査によって、二階分の通し柱を用いながら上層の荷重を分散させて下階へ伝えるという松江城の特徴的な構造が明らかになったことなどです。こうした多面的な調査・研究の成果によって松江城の価値が再評価され、国宝指定へと繋がりました。

城の天守の国宝指定には完成時期が極めて重要な要素になるようです。『既存12天守』のうち、松江城の天守以外に国宝に指定されている天守は犬山城、松本城、彦根城、姫路城の4城で、犬山城の天守建造年は慶長6(1601)、松本城は慶長20(1615)、彦根城は慶長11(1606)、姫路城は慶長6(1601)と、どれも江戸時代初期の慶長年間となっています。それ以外の7城はいずれも重要文化財に指定されているものの、弘前城の天守建造年が文化7(1810)、丸岡城は天守建造年不詳、高梁城(備中松山城)が天和元年(1681)、丸亀城が万治3(1660)、松山城が嘉永5(1852)、高知城が延享4(1747)、宇和島城が寛文6(1666)と慶長年間より後の時代に完成したものです。

加えて、江戸城の天守(寛永天守)が明暦3(1657)の「明暦の大火」で焼失して以降、江戸城では天守が再建されず、時の第4代将軍 徳川家綱が万治2(1659)に「今後は本丸にある(3層の)富士見櫓を江戸城の天守とみなす」と発したことから、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても、徳川将軍家に遠慮して、「御三階櫓」と称するなど、富士見櫓を越えないように高さ制限を自主的に設けるようになりました。『現存12天守』では弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守がそれにあたり、禄高のわりには天守が小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。前述のように、国宝に指定されている松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城の5つの城は全て「明暦の大火」以前の慶長年間に建てられた天守が残る城であり、それ以外の丸岡城と高知城の2つの城の天守は万治2(1659)より前に建てられたものなので、その限りではありません。 (また、近年になって復元された城の天守閣は、どうしても一番大きかった時代のもので復元する傾向にあり、まったく参考にはなりません)

天守の屋根の上に載っている鯱(しゃち)は木造銅板貼りで高さは210センチメートル。『現存12天守』では最大のものです。昭和25(1950)から昭和30(1955)にかけて行われた天守の「昭和の解体修理」で外された古い鯱が天守地階で保存展示されています。



地階(穴蔵の間)は、籠城用の生活物資の貯蔵倉庫で、中央には深さ24メートルの井戸があります。天守の北方にある池の底とほぼ同底で、常時飲料水が得られました。天守の内部に井戸や塩蔵を設けているところなども、実戦を強く意識している城です。



桐の階段です。板の厚さ約10センチメートル、階段の幅や約1.6メートルで、1階から4階の各階の間に設けてあります。この階段は、万一敵が侵入してきた時に、階段を引き上げてこれ以上の侵入を防いだり、防火防腐のために桐を使ったもので、他の城では見られない特殊な構造のものです。





“矢狭間”です。矢や鉄砲を射かけるために壁面に設けられた穴です。このほか2階の四隅と東・西・北壁には幅広い“石落とし”が設けられていて、石垣に近づく敵に石を落とすようになっています。この松江城天守の石落としは、外部からは容易に発見しにくいように構造物を利用して隠すように設けられていることに特徴があるのだそうです。




松江城天守の柱には各面に厚板を張る“包板”と呼ばれる特徴的な技法が用いられています。松の芯柱の外側に、厚さが2寸~25(610cm)ある板(包板)を揃えて寄せ合わせ、鉄製の釘や鎹(かすがい)、帯金などで固定したもので、これにより太い柱が作られています。この寄木柱の方が普通の柱より力学的に強く、大きな天守を作るために柱の強度を求めた堀尾吉晴の苦心の作と窺えます。


その包板で用いられた釘や鎹が鬼瓦と並んで展示されています。松江城では天守の各層や櫓の屋根の隅々には鬼面の鬼瓦が載っています。それも1枚ごとに異なった表情の鬼面の鬼瓦が。他の地域の城では家紋や吉祥紋様の瓦が鬼瓦に用いられることが多く、文字通り鬼瓦に鬼面を用いる松江城の例は珍しいのだそうです。


これは昭和の解体修理工事で解体された松江城天守の古材で、1階の床梁の部分に使用されていました。松江城を築城した堀尾氏の家紋である分銅文(ぶんどうもん)と、以前の居城・月山富田城(とだじょう)を意味するのではないかと推察される「富」の字が刻まれています。




後藤又兵衛の所用と伝えられる兜・甲冑と槍です。後藤又兵衛基次は黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げた武将です。特に、慶長19(1614)11月から慶長20(1615)5月にかけての大坂の陣では真田信繁(幸村)、毛利勝永、明石全登、長宗我部盛親とともに「大坂城五人衆」の1人に数えられ、慶長20(1615)5月の大坂夏の陣で奮闘の挙句、戦死しました。この甲冑と槍は、その後、又兵衛の弟が所持し、のちに後藤家の親戚で松江藩士の土岐円太夫家に伝来したものです。兜の前立てには、松江藩の合印である「猪の目」が付いています。



天守の壁面にある狭間から狙い撃った鉄砲です。口径5(1.5cm)で、銃身が150cm弱と長い火縄銃です。城の防御のため狭間に備え付けられ、そこから攻めてくる敵を狙い撃つようにしていたと思われます。ちなみに、松江藩では橋南地区の雑賀町に鉄砲を扱う足軽を集住させていたのだそうです。雑賀町ですか…。なるほど、松江藩は鉄砲集団として名高い雑賀衆を雇っていたのですね。




天守閣の起源の1つは四方を展望できる望楼です。天守最上層の5階は手すり(高欄)をめぐらし、壁のない360度の展望が広がる望楼になっています。ここが展望台や司令塔の役割を担っていました。望楼からは松江市の市街地や宍道湖を眺望することができます。 




 江戸時代の松江城の様子を描いた絵図面です。なるほどぉ〜。



明治元年(1868)当時の松江城を撮影した貴重な写真が残っていて、展示されています。まだ廃城令により櫓や御殿が取り壊される前に撮影された写真で、本丸の天守に加えて、二の丸の中櫓、御式台、広間、南櫓、御書院が見えます。石垣の下が三の丸で、そこに建つのが長屋門。この奥に藩主の御殿がありました。





……(その15)に続きます。




2019年1月19日土曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その13)

『既存12天守』の1つ、国宝・松江城の天守閣です。


日本の歴史を語る上で外せないものの1つに「城」があります。特に、戦さがそこかしこで行われていた戦国時代(15世紀末〜16世紀末)、城は大名や藩主の政治上の拠点であり、居住の場所であり、攻守の要であり、城下や近隣の人々の命や生活を左右する、まさに命運が決せられる場所でした。城を取り合う、すなわち領地を取り合う戦さで国内の勢力図は書き換わり、歴史の流れが決まってきたようなところがあります。また、城を中心に町が出来、政(まつりごと)が行われ、都市として発展してきました。

かつて日本には25,000以上もの城が存在したと言われています。実際にはただ柵で囲われただけの砦のようなものもあり、その数には文書に残っているのみでその存在が証明されたのでもないものも含まれますが、それでも相当数存在していたことは確かです。しかし、数多くの戦さや、江戸時代に入ってからは藩主の転封の度に廃城になったり破却されたりとその数は次第に減っていきました。

日本で最初に本格的な天守閣を備えた城は、織田信長が天正4(1576)に琵琶湖東岸の安土山に築城した安土城だと言われています。安土城は地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されています。城郭の規模、容姿は、「天下布武(信長の天下統一事業)」の象徴として、信長の威光を一目にして人々に知らしめるもので、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされています。日本の城の歴史という観点からは、安土城は南北朝時代の建武2(1335)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝側の六角氏頼が篭もったとされる六角氏の拠城・観音寺城をモデルに、総石垣で普請された城郭であり、初めて石垣の上に天守が建てられる構造の城でした。ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭のプロトタイプとなりました。そして、安土城の普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」は、その後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は日本中に広がっていきました。

(日本で最初に天守閣を備えた城としては、松永弾正こと松永久秀が永禄3(1560)に築城した多聞山城(奈良県奈良市)の天主(天守閣)や、同じく松永久秀が天文5(1536)に築城した信貴山城(奈良県生駒郡平群町)4層の櫓がこれにあたるという説もあります。)

慶長5(1600)の関ヶ原の戦いで徳川家康が率いる東軍が勝利し、東軍の総大将を務めた徳川家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として諸大名の転封や改易を行い、慶長8(1603)、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開きました。家康は慶長10(1605)に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍職は世襲により継承するものであることを諸大名に徹底確認させました。慶長20(1615)、大坂夏の陣で豊臣秀頼の居城・大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼすと、同年には「一国一城令」を発し、諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じました。これは諸大名、特に外様大名の多い西国の諸大名から軍事的な拠点を奪い、軍事力を削減するためのものであるとされ、数日のうちに約400の城が壊されたと言われています。

家康はその後も大御所として影響力を持ち、諸大名の転封や改易を積極的に行い、諸大名の勢力を徐々に弱めていくことになります。特に、武家諸法度により新たな築城や増改築は基本的に禁止され、また、江戸時代を通じて災害などによる焼失や倒壊によって、その後は再建されなかった天守もあったため(江戸城・大坂城など)、天守閣を有する城の数は減少の一途を辿りました。あわせて、17世紀中期、第3代将軍徳川家光が死去し第4代将軍徳川家綱が就任した頃より幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換して、太平の時代を迎えていくことになります。

この江戸の太平の時代においても、城は様々な意味でその地域を治める藩の中心でした。現在の日本の都道府県庁所在地、47のうち実に30あまりの都市が元々城下町であった都市であり、現在でも(戦後再建されたものも含めて)城が町の中心にある場所も多く、城、特に壮麗な天守は市民達の心の拠り所、シンボルとして、散策や集いの場として愛され、また内外から数多くの観光客を集める場所となっています。

それでも、江戸後期にはおよそ200の城が残っていたとされています(天守を持たない城を含む)。しかし、幕末から明治にかけての戦乱や、さらにその後の明治維新期の明治4(1871)に明治新政府が行ったそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革、いわゆる「廃藩置県」と、明治6(1873)に出された「廃城令」により、全国のほとんどの城郭陣屋(いわゆる城)の建造物が取り壊され、土地は地方団体や学校敷地等として払い下げられました。中には姫路城や彦根城のように陸軍の兵営地等として保存されたものもあります。

その後も、天災や火災による焼失等でさらに天守を持つ城の数は徐々に減少の一途を辿っていきます。1940年代までは20城の天守が現存し、戦前・敗戦直後までは国宝保存法で国宝などの文化財に指定され『現存天守』と呼ばれていました。これら20の城の天守のうち昭和20(1945)に第二次世界大戦(大東亜戦争)でのアメリカ軍による空襲によって水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の7城の天守が相次いで焼失し、昭和24(1949)に失火によって松前城天守が焼失してしまい、現在、文化財として見ることができる天守は残る12城の天守のみとなっており、『現存12天守』と総称されています。それ以外の現在見られる城は戦後新たに再建復興されたものです。天守や城郭が往時のまま現存している『現存12天守』は以下の12城です。

弘前城…青森県弘前市、築城年:慶長16(1611)、天守建造年:文化7(1810)、独立式層塔型33階の天守【重要文化財】

犬山城…愛知県犬山市、築城年:文明元年(1469)、天守建造年:慶長6(1601)、複合式望楼型34階地下2階の天守【国宝】

松本城…長野県松本市、築城年:文禄3(1611)、天守建造年:慶長20(1615)、層塔型56階の大天守と34階の乾小天守・2重の辰巳附櫓と月見櫓を付属させた複合連結式の天守【国宝】

丸岡城…福井県坂井市、築城年:天正4(1576)、天守建造年:不明、独立式望楼型23階の天守【重要文化財】

彦根城…滋賀県彦根市、築城年:元和8(1622)、天守建造年:慶長11(1606)、複合式望楼型33階地下1階の天守【国宝】

姫路城…兵庫県姫路市、築城年:正平元年(1346)、天守建造年:慶長6(1601)、望楼型56階地下1階の大天守と3重の小天守3基を2重の多聞櫓で連結させた連立式の天守【国宝】

松江城…島根県松江市、築城年:慶長16(1611)、天守建造年:慶長12(1607)、複合式望楼型56階の天守【国宝】

高梁城(備中松山城)岡山県高梁市、築城年:仁治元年(1611)、天守建造年:天和元年(1681)、複合式層塔型22階の天守【重要文化財】

丸亀城…香川県丸亀市、築城年:慶長2(1597)、天守建造年:万治3(1660)、独立式層塔型33階の天守【重要文化財】

松山城…愛媛県松山市、築城年:慶長7(1602)、天守建造年:嘉永5(1852)、層塔型33階地下1階の大天守と2重の小天守1基・2重櫓2基を多聞櫓で連結した連立式の天守【重要文化財】

高知城…高知県高知市、築城年:慶長8(1603)、天守建造年:延享4(1747)、独立式望楼型46階の天守【重要文化財】

宇和島城…愛媛県宇和島市、築城年:天慶4(941)、天守建造年:寛文6(1666)、独立式層塔型33階の天守【重要文化財】

松江城はこの『現存12天守』の1つで、平面規模では2番目、高さでは3番目の規模を誇ります。城郭建築最盛期である慶長年間を代表する天守として、平成27(2015)7月に国宝に指定されました。明治6(1873)に出された「廃城令」により、全国の多くの城が取り壊される中、松江城も櫓や御殿など多くの建物はことごとく壊されたのですが、唯一、天守だけは旧松江藩士・高城権八や豪農・勝部本右衛門親子らの奔走によって取り壊しを免れ、以降も市民の手によって守られ、今日にいたっています。


松江城の天守は本丸中央の東寄りに南に面して建ち、外観は4重、内部構造は5階、地下1階の構造で、天守の南側の入り口には地下1階を持つ平屋の附櫓が付属しています。形式上は望楼型天守に分類され、2重の櫓の上に2(3階建て)の望楼を載せた複合式望楼型と呼ばれています。2重目と4重目は東西棟の入母屋造で、2重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけています。天守入口の防御を固めるために設置された附櫓も入母屋造になっています。この附櫓は鉄延板貼りの大扉を持ち、中へ入ると2段構えの桝形の小広場が備えられています。

天守の壁面は1重目・2重目は黒塗の下見板張り、3重目・4重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りになっています。南北の出窓部分の壁は漆喰塗です。屋根はすべて本瓦葺きです。随所に矢や鉄砲を射かける“狭間”や、外壁を登ってくる敵に大きな石を落とす“石落とし”、窓などの開口部から城外の敵を攻撃する場合に上に乗って応戦をする台である“石打棚”などの防御装置を配し、実戦を強く意識した構造をしています。さすがは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人に仕えた歴戦の勇士・堀尾吉晴が築いた城郭です。

正面から眺めた時に目立つ天守の2重目と附櫓の入母屋破風は千鳥が羽を広げたような見事な曲線を描く三角形をしていて、天守の美観を構成する重要な要素となっています。この入母屋破風は、その上に載る望楼とともに桃山時代の様式を継承しています。この入母屋破風が千鳥が舞い飛ぶように見える美しいものであることから、松江城は別名「千鳥城」と呼ばれています。

内部構造的には、2つの階にまたがる通し柱を多用している点に特徴があります。建物の中央部には地階と1階、2階と3階、4階と5階をそれぞれ繋ぐ「通し柱」があり、側柱など外側部分には1階と2階、3階と4階を繋ぐ通し柱があります。二階分の通し柱を各階に相互かつ均等に配した「互入式通し柱」と呼ばれる構造で、これと上層の荷重を下層の柱が直接受けずに梁を通して横方向にずらしながら伝える2つの工法を併せて用いたもので、望楼型天守の建築においては到達点に位置づけられる高度な構造をしています。


1階・2階の平面は東西12(21.8メートル)、南北10(18.2メートル)。高さは、本丸地上より約30メートル(天守台上よりは22.4メートル)。前述のように、『現存12天守』の中では、平面規模では姫路城に次いで2番目、高さでは姫路城・松本城に次いで3番目の規模を誇ります。



……(その14)に続きます。




2019年1月18日金曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その12)

国宝・松江城を訪れます。大手門を入って出迎えてくれるのは松江城を築城した堀尾吉晴の銅像です。


堀尾吉晴は天文12(1543)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町)の土豪である堀尾康晴の長男として生まれました。父は岩倉城主・織田信安の重臣で、永禄2(1559)16歳の堀尾吉晴は岩倉城の戦いで初陣を果たし、一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が織田信長に敗れ滅亡したため、父とともに浪人となります。織田信長が尾張を統一すると堀尾吉晴は召し抱えられ、同じく岩倉城主・織田信安の重臣であった山内盛豊の子・山内一豊(後の土佐藩初代藩主)とともに木下秀吉(羽柴秀吉、豊臣秀吉)の家臣に加えられました。

以後、羽柴秀吉の忠実な家臣として、各地を転戦。羽柴秀吉が長浜城主となると、近江国長浜に100石を与えられました。その後も戦功をあげ、堀尾吉晴は播磨国姫路にて1,500石、のち丹波国黒江で3,500石と出世していきました。天正10(1582)の備中高松城の水攻めでは、敵将・清水宗治の検死役も務めました。本能寺の変となり、明智光秀との山崎の戦いでは、堀秀政や中村一氏(嫡男の中村一忠が伯耆国米子藩初代藩主)とともに鉄砲頭を務め、敵将を討ち取り、6,284石にて丹波国黒石城の城主となりました。さらに翌年には大名となって17,000石で若狭国高浜城主、天正12(1584)には2万石となり、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、近江国佐和山城主となると4万石の禄高になっています。

天正18(1590)の小田原征伐では、豊臣秀次のもとで山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡男・金助が戦傷死しています。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主12万石に封じられ、豊臣姓を名乗ることも許されました。堀尾吉晴は武勇ある勇猛な武将ですが、温和で誠実な一面もあり「仏の茂助」と呼ばれて人望を集めました。また、豊臣秀吉の重臣では最古参の部類であり、発言力も強かったようです。その後、豊臣政権においては中村一氏や生駒親正(初代高松藩主)らと共に三中老に任命されたようですが、慶長3(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、井伊直政を通じて徳川家康に接近しました。そのため、前田利家や石田三成の反発を受けたのか、慶長4(1599)に堀尾吉晴は隠居して、家督を次男・堀尾忠氏に譲りました。この時、徳川家からは5万石の隠居領を授けられています。

慶長5(1600)、関ケ原の戦いの直前、堀尾吉晴は三河国刈谷城主の水野忠重と、美濃国加賀野井城主である加賀井重望と宴会の席を持ちます。このとき、加賀井重望と口論となり、水野忠重が殺害され、堀尾吉晴も17箇所の傷を負いますが、なんとか加賀井重望を返り討ちしています。そのため、関ケ原の本戦には、子の堀尾忠氏が代わりに東軍に参戦して武功をあげ、戦後、堀尾家は出雲国月山富田城にて24万石に加増されました。

この時、前述のように新たな城として松江城の築城を開始しますが、初代松江藩主となった堀尾忠氏が28歳の若さで死去します。そのため、堀尾吉晴は第2代藩主となった6歳の孫の堀尾忠晴を後見し、国政を補佐しました。同年、隣国伯耆国米子藩の中村家におけるお家騒動(米子騒動)においては、幼い藩主・中村一忠(かつての盟友・中村一氏の嫡男)の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧したりもしています。慶長16(1611)、現在国宝にも指定されている本拠・松江城が完成するのを見届けて、堀尾吉晴は死去しました。享年67歳。堀尾吉晴の墓は月山富田城の近くにある巌倉寺にあります。

その堀尾吉晴が築城した城がこの松江城です。


 大手門(正門)を入ります。かつて、この大手門には大手柵門が築かれていましたが、現在は土台となった石垣のみを残して取り壊されています。



大手門の中は桝形の構造をしていて、門内で直角に右折します。この右折した先には屋根に鯱(しゃちほこ)を付けた壮大な大手門(御門)がありましたが、今は取り壊されて、土台となった石垣だけが残されています。ここが二の丸です。かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見(つきみ)櫓という5つの櫓がありました。これらの櫓は後述の廃城令により明治8(1875)にことごとく取り壊されたのですが、このうち、太鼓を打って時刻を知らせる太鼓櫓と御貝足蔵と呼ばれた中櫓、南東方面を監視するための2階建の南櫓の3基の櫓は、平成13(2001)に約125年ぶりに復元されました。桝形の両端にはその3つの櫓のうち太鼓櫓と中櫓が見え、その2つの櫓の間を繋ぐ細長い渡櫓が設けられ、防御を固めています。桝形の中は馬溜(うまだまり)と呼ばれる一辺46メートルほどのほぼ正方形の平地になっています。出撃の際にはこの馬溜に城兵を待機させ、隊形を整える機能を果たしていたようです。



大手門の桝形を過ぎると、二の丸下の段です。この二の丸下の段一帯には、江戸時代、米蔵や屋敷などが建ち並んでいました。米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていましたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようにしていたのだそうです。

目の前に天守が見えてきます。松江城は標高29メートルの亀田山の山頂に築かれた平山城です。緩い石段を登り、二の丸に向かいます。


二の丸は、本丸の南側に位置する南北72(141.8メートル)、東西62(122.1メートル)の曲輪(くるわ)です。江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務を司る「御広間(おひろま)」や、生活をしたり私的な接客や面会などを行った「御書院(ごしょいん)」をはじめ、「御臺所(おだいどころ)」、「御式臺(おんしきだい)」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた太鼓櫓や、城下の監視や倉庫に使われた南櫓、中櫓をはじめとする5つの櫓などがありました。これらの櫓、御殿などの建物は、明治維新とともに無用の施設となり、廃城令により明治8(1875)にすべて取り壊されました。


 

現在、櫓、御殿などの建物がすべて取り壊された二の丸には松江神社が鎮座しています。この松江神社は、もともとは明治10(1877)に、旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)の楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建された神社です。寛永5(1628)、堀尾忠晴が朝酌村(現松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を明治31(1898)に合祀し、翌年の明治32(1899)に、現在地のこの二の丸に遷座して、神社名称を松江神社と改めました。さらに昭和6(1931)に、松江藩中興の盟主として仰がれた第7代藩主松平治郷と、松江開府の祖・堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、今日に至っています。

三の門を過ぎて本丸に向かいます。かつてはこの三の門にも櫓が築かれていたのですが、現在は取り壊されて土台の石垣だけが残されています。松江城の石垣は基本的に野面積み(のづらづみ)と打ち込み接(うちこみはぎ)と呼ばれる石積み手法で築かれています。野面積みは自然石や割石をそのまま積む方法で、打ち込み接は石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方のことです。石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山石が大量に使用され、堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められるのだそうです。

松江城の築城工事にあたっては、この石垣積みが全体の半分以上の労力を要したと云われています。松江城は着工から約5年で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしたと言われています。この石垣積み工事には大阪から穴太衆(あのうしゅう)を石工として招かれました。ちなみに穴太衆の“穴太”とは地名で、現在の滋賀県大津市坂本町穴太のこと。この地には中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持つ達人集団がいて、穴太衆と呼ばれていました。現代にも穴太衆は残っていて、今は地震により崩れた熊本城の石垣の修復にあたっているのだそうです。私達が卒業した丸亀高校のある香川県丸亀市の丸亀城も7月豪雨とそれに続く台風の影響で、昨年(2018)9月に石垣が大きく崩壊したのですが、1日も早く穴太衆の皆さんが熊本城の石垣の修復を終え、丸亀城の石垣の修復に取り掛かっていただけることを祈るばかりです。


二の門跡を過ぎて、一の門をくぐります。この一の門ももともとの門は明治8(1875)に取り壊され、現在の門は昭和35(1960)に復元されたものです。


  

さぁ、一の門をくぐると天守のある本丸です。


……(その13)に続きます。

2019年1月17日木曜日

大人の修学旅行2018 in出雲松江(その11)

『大人の修学旅行2018in出雲松江』の2日目の朝は宍道湖に上がる朝日で目が覚めました。前日は雲が多く、「日本夕陽百選」にも選定されている宍道湖に沈む夕日を残念ながら楽しむことができなかったのですが、この日は朝から雲1つない快晴で、宿の窓のカーテンを開けると宍道湖越しに対岸の松江市の市街地の上を登ってくる朝日が見えました。残念ながら松江市の市街地からこの松江しんじ湖温泉までの距離が短く、湖面に映る朝日の長さは短かったのですが、それでも神々しさが感じられる素晴らしい風景です。出雲大社側からだと宍道湖の対岸にある松江市まで距離があるので、湖面に映る朝日の光の帯も長いと思われますので、さぞや神々しい風景ではないかと容易に想像できます。この風景を目にすると、出雲の国において数々の神話が生まれたのも、分かるような気がします。


全員揃っての朝食。前日あんなに遅くまで飲んで騒いでいたのに、朝になると皆さんケロッとして元気です。さすがさすが。朝が苦手な私は今年も一番最後に着席(遅れたといっても5分ほどですが…)。眼を覚ますために朝風呂にゆっくり入っていましたからねぇ〜。せっかくの温泉。朝風呂まで楽しみたいですから。ここはマイペースです。



朝食を済ませると、宿をチェックアウト。『なにわ一水』の送迎バスに乗って松江観光に出かけました。



松江市は島根県の東部(出雲地方)に位置する都市で、同県の県庁所在地です。北は日本海に接する島根半島、さらに宍道湖と中海、南は中国山地に挟まれた地域に広がり、松江藩の城下町を中心に発展してきた山陰最大の人口(20万人)を擁し、鳥取県の米子市とともに中海・宍道湖経済圏の中核を担っています。松江市の市街地は宍道湖から中海に注ぐ大橋川によって南北に二分され、北側が橋北(きょうほく)、南側が橋南(きょうなん)と呼ばれています。宍道湖畔、大橋川の両岸に築かれた町であることや松江城下の堀川(外堀、内堀)の保存状態も良いことから「水の都」と呼ばれています。

松江市は松江藩の城下町として発展してきた都市であることは前述のとおりです。松江市の歴史に関して、一般社団法人 松江観光協会のHPから抜粋して、一部加筆のうえ掲載します。

松江市南郊の大庭・山代・大草地域には多くの古墳群があります。山代二子塚古墳(94メートル)は出雲地方最大の前方後方墳です。風土記の丘の岡田山一号墳からは、「額田部臣」銘文入りの太刀(重要文化財)が出土しています。矢田町の平所(ひらどころ)遺跡から出土した埴輪の「見返りの鹿」(重要文化財)は、写実的で洗練された造形美を見せています。

奈良時代には大草町の六所(ろくしょ)神社周辺に出雲国の国府が置かれ、中央政府から派遣された国司が出雲国9(平安時代には10)を治めました。『万葉集』巻三には「出雲守門部王、京を思ふ歌」として「飫海(おうのうみ)の 河原の千鳥 汝()が鳴けば 吾が佐保河の 思ほゆらくに」という出雲国司として赴任した門部王(かどべのおおきみ)の歌が載っています。この飫海は現在の中海、佐保河は奈良の都を流れる川のことで、出雲国庁にあって遠く奈良の都をしのぶ望郷の歌とされています。東出雲町の阿太加夜(あだかや)神社境内にその歌碑が建っています。天平5(733)に編纂された『出雲国風土記』は、唯一の完本風土記として、残されています。出雲国府跡や竹矢町の出雲国分寺跡の遺構は復元され、往時の面影を偲ぶことができます。また、古墳や国府・国分寺の出土品は、「県立八雲立つ風土記の丘資料館」で見ることができます。

鎌倉幕府の成立によって、出雲国守護に補任された佐々木義清が入城した広瀬(島根県安来市)の月山富田(がっさんとだ)城は、南北朝時代には山名氏、室町時代には京極氏の居城となりました。富田城が最も華やかに歴史の舞台に現れたのは、京極氏の守護代であった尼子経久の時代です。尼子経久は守護の京極政経を追放し、戦国大名に成長しました。尼子経久の孫・尼子晴久は天文21(1552)、出雲・隠岐・伯耆・備前・美作など山陰・山陽8ヵ国の守護職につき、尼子氏として最大の範囲を領有支配しました。尼子晴久はさらに勢力拡大を図るため、安芸の毛利氏を攻めたのですが敗北し、さらに尼子義久の代になって毛利元就に侵攻され、永禄9(1566)、月山富田城は開城しました。

慶長5(1600)11月、関ヶ原の戦いに戦功のあった堀尾忠氏は、出雲・隠岐両国24万石の太守として、父・堀尾吉晴と共に、遠江国(静岡県)浜松から広瀬の月山富田城に入りました。しかし、月山富田城は中世の山城で、戦国時代には難攻不落を誇ったのですが、近世(江戸時代)になり軍事用の目的が薄くなると一気に時代遅れの城となってしまいました。近世には政治・軍事だけでなく、経済機能と多くの武士を住まわせる城下の構築を必要としていました。そこで堀尾吉晴・忠氏父子は幕府の許可を得て松江に移城することにしました。堀尾吉晴・忠氏父子が松江を選んだ理由は「交通の便に恵まれている」「城下町を形成することができる平地がある」等だったと言われています。当時、最大の交通手段だったのは船。宍道湖から大橋川、中海を通じて国内諸国はもとより、遠く海外まで見据えることができる要害の地・松江は、大きな飛躍と可能性を感じさせる地として堀尾吉晴・忠氏父子の目に映ったことは想像に難くありません。堀尾吉晴・忠氏父子は松江市の南に位置する床几山に登り、城地や城下の場所を選定したと伝えられています。しかし、慶長9(1604)、堀尾忠氏が28歳で急死、嗣子の忠晴は6歳であったため、祖父の堀尾吉晴が国政を補佐し、城と城下町の建設は慶長12(1607)に着工。5年の歳月をかけて慶長16(1611)に完成しました。

完成した松江城は、亀田山(28.4メートル)の低い丘陵上に構築された平山城です。天守は複合式で45階地下1階の望楼型。外壁は黒を基調とし、桃山時代初期の古式を伝える建築です。松江城天守は我が国に現存する12の天守の一つで、古さでは5番目、高さでは3番目、平面規模では姫路城に次いで2番目の威容を誇っています。

城下の町割りは、松江大橋の橋北の城に近い殿町・母衣町・内中原町・田町一帯を侍町、その外側の末次本町・茶町・苧町・東本町は町人町として形成されています。大橋川を挟んだ橋南の白潟本町・八軒屋町・天神町・灘町などは町人町、その南は足軽が住む雑賀町になっています。また、橋南の東側には、合戦のとき出城となる寺町があります。城は内堀で囲み、侍町の周囲には外堀(北田川・京橋川・四十間掘川・田町川)がめぐり、道路は鈎型路・丁字路・袋小路や勢溜(せいだまり)を設け、実践を意識した合理的・計画的な城下町になっています。

松江藩開府の祖である堀尾氏は3代で嗣子がなく断絶。寛永11(1634)に京極忠高が出雲・隠岐2ヶ国264千石の領主として、若狭国小浜から入封して、斐伊川・伯太(はくた)川の治水に努めたのですが3年で病没。これまた嗣子なく、断絶してしまいました。(ちなみに、私達が卒業した香川県立丸亀高校のある讃岐国丸亀藩初代藩主の京極高和は京極忠高の養子です。京極家は明治維新まで丸亀藩主を勤めました。)

寛永15(1638)、信濃国松本から松平直政(徳川家康の次男・結城秀康の三男)が出雲国186千石(隠岐は天領として幕府預かり)の藩主として松江城に入りました。これ以降、松江藩は親藩として明治維新まで続きます。この松平氏の時代は、度重なる天災や幕府への公務の出費などで藩財政が悪化していきました。第6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)は中老・小田切備中尚足を補佐役として「延享の改革」を実施したのですが成功せず、隠居して藩主の座を次男の治郷(はるさと)譲りました。第7代藩主になった松平治郷は家老・朝日丹波郷保を登用して「御立派の改革」といわれる藩政改革を行い、勧農抑商の政策によって藩財政は次第に好転していきました。また、松平治郷は“不昧(ふまい)”と号し、茶の湯を極め、名物茶器の収集、陶芸・木工芸などの振興を図り、茶道文化の成熟に寄与し、茶の湯と和菓子の文化を今に伝えています。

10代藩主・松平定安は美作国津山藩松平家より第9代藩主・松平斉貴(なりたけ)の養子として迎えられ、親藩として、長州征伐や鎮撫使事件など幕末の多難な時期の藩政に当たりました。明治2(1869)の版籍奉還の後、定安は松江藩知事となり、廃藩置県が行われた明治4(1871)まで務めました。

明治維新後、松江は島根県都となり、明治22(1889)に市制を施行しました。1890(明治23)8月、ギリシャ生まれのイギリス人ラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が島根県尋常中学校の英語教師として赴任し、のちに妻となる小泉セツと出会い、塩見縄手の旧武家屋敷で暮らし、翌年11月、熊本の第5高等学校に転任しました。ハーンは『知られざる日本の面影』を著わして日本文化を広く世界に紹介しました。

昭和26(1951)3月、ラフカディオ・ハーンの由縁をもって、松江市は住民投票を経て京都、奈良に次いで全国3番目の国際文化観光都市となりました。また、小泉八雲旧居や武家屋敷が並ぶ塩見縄手は、昭和48(1973)、松江市伝統美観保存条例の美観地区に指定され、昭和62(1987)には「日本の道百選」に選ばれています。

前述のように、松江市は「水の都」で「東洋のベネチア」とも言われています。築城の際に作られた内堀と外堀を巡る遊覧船の運航が平成9(1997)に始まりました。屋根つきの小船に乗って、そうした伝統美観地区の眺望や松江城を取り巻く自然を楽しむことができます。


その松江城の内堀と外堀を巡る遊覧船「松江堀川めぐり遊覧船」に乗船しました。松江城を取り囲む堀川は、慶長16(1611)の松江城築城の際に堀尾吉晴によって作られた内堀と外堀、すなわち人工の運河です。堀川は築城当時のままの姿を残しているところも多くあり、松江市の市内中心部のいたるところで見ることができます。かつては武士や殿様がお城に行くのに船を使ってこの堀川を通ったとされています。そんな松江城の堀川を約3.7km、約50分をかけてゆっくりと景色を楽しみながら船で巡るのが堀川めぐり遊覧船です。



船上から眺める松江の街並みはどこか懐かしく、水辺を彩る草花や水鳥が四季を感じさせてくれます。冬の風物詩であるコタツ船も好評なのだそうです。乗り込むと船の中央にはテーブルに布団がかけられていて、「おっ! コタツ船か!」と一瞬期待しちゃったのですが、残念ながら12月初旬のこの時期はまだコタツ船にはなっていませんでした。しかし、この布団がかけられたテーブルには意味、と言うか、別の利用法があって、それはすぐ後で分かります。

遊覧船への乗り場は3箇所(ふれあい広場乗船場、カラコロ広場乗船場、大手前広場乗船場)あり、私達はそのうちのふれあい広場乗船場から乗船して、大手前広場乗船場に向かいます。

まず新橋の下をくぐり、右折すると細い水路に入ります。ここからは松江城の内堀です。堀川めぐり遊覧船は全長約8メートル、幅約2メートルの小さな船ですが、幅ギリギリの狭い水路も通ります。進行方向の左岸は松江城です。両岸は石垣で覆われています。


 島根県庁が見えてくると、一旦、内堀を離れ、外堀(京橋川)に入ります。外堀に入るとちょっと川幅が広がります。




堀川めぐり遊覧船では、途中、17もの橋の下をくぐり抜けます。その17の橋の中には水面からの橋桁の高さがかなり低い橋もあります。そういう橋の下をくぐる時には、遊覧船は屋根を下げて橋の下をくぐるようにできています。すなわち「下がる屋根」です。屋根が下がってくると、それに合わせて乗船しているみんなで頭をさげるのですが、半端なく下がってくるので、その時には布団がかけられたテーブルに頭()を押し当てることになります。なるほど、この布団がかけられたテーブルはそういう使い方のためにあるのですね。この光景はとても面白く、みんな大興奮です。そういう屋根を下げないとくぐれない橋は4(うべや橋、甲部橋、新米子橋、普門院橋)あります。まずはその中の1つ、うべや橋の下をくぐります。



くぐり抜けると、屋根は元の高さに戻ります。堀川めぐり遊覧船の乗船場の1つ、カラコロ広場乗船場です。



 外堀(京橋川)の進行方向左岸は侍町、右岸には商家が建ち並んでいました。右岸にはそうした商家の荷降ろしのための船着場が幾つか昔のまま残っています。



京橋川を左折して米子川に入ります。この米子川も外堀の1つです。この米子川に入ると、甲部橋、新米子橋、普門院橋と屋根を下げないとくぐれない橋を次々と3つ連続してくぐります。その都度、屋根が下がったり上がったりします。



堀川めぐり遊覧船は松江市のさまざまな表情を見せてくれます。ふれあい広場乗船場を出て島根県庁あたりまでの内堀区間は松江城址の“自然豊かな松江”、外堀に入って京橋川沿いは市街地区間で“今の松江”、そして米子川に入ってからは江戸時代の風景が残る“昔の松江”とでも言うべき風景の区間に入ります。

船頭さんの説明によると、このあたりは梅雨の季節にはアジサイ(紫陽花)や花ショウブ(菖蒲)が咲き誇って美しいところらしいのですが、今は紅葉です。静かな川面に木々の紅葉が映って、とても印象的です。


 米子川を左折し、普門院橋の下をくぐります。この普門院橋が、最後の「屋根を下げないとくぐれない橋」です。



また、堀川めぐり遊覧船では、船頭さんが松江の城下町をいろいろと紹介してくれるので、次に行くスポットなどのことも事前に勉強できちゃいます。さらに撮影スポットなどで止まってくれるのでじっくりと写真を撮影することもできます。松江城を撮影するなら、この場所がベストの撮影スポットなのだそうです。



 北堀橋です。宝暦年代(1751年~1764)の城下町に橋が40あったそうで、その中の1つです。記録によると、当時の橋の長さは164(30.3メートル)、幅は2(3.6メートル)だったそうで、松江城と武家屋敷を結ぶ重要な橋でした。



この江戸時代そのもののような橋は宇賀橋です。宇賀橋の先は塩見縄手と言って、武家屋敷が建ち並んでいます。ここから先は内堀に戻ります。



 宇賀橋をくぐって左折し、北惣門橋をくぐると終点の大手前広場乗船場が見えてきます。進行方向右岸は松江城で、野面積みの石垣が見事です。



大手前広場乗船場に到着しました。大手前広場乗船場は松江城の大手門(正門)前にあります。大手前広場乗船場近くの「島根ふるさと館」に荷物を預け、次は国宝・松江城の見学です。




 ……(その12)に続きます。

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  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...