2023年10月4日水曜日

鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】①

 公開日2023/11/01

 

[晴れ時々ちょっと横道]第110 鉄分補給シリーズ(その11) 国鉄内子線&伊予八藩紀行【新谷藩】


今回は「鉄分補給シリーズ」と「伊予八藩紀行」という2つの紀行文のコラボ企画です。

現在のJR内子駅前には旧国鉄内子線時代に走っていた小型の蒸気機関車C12231号機が静態保存で展示されています。

【廃線鉄とは】

最近は鉄道マニアのことを鉄道オタク『鉄ヲタ』と呼ぶようですが、『鉄ヲタ』と一言で言っても鉄道に対する愛情の深さや楽しみ方は人により多種多様です。したがって、鉄道マニアには色々な種類(流派)が存在します。主な流派だけを並べてみても、

① 「車両鉄」車輌の分類、パンタグラフや連結器などの車輌装置、内燃機関、内装、外装、編成など車輌に関する研究を楽しむ鉄ヲタ

② 「撮り鉄」鉄道の写真を撮ることを楽しむ鉄ヲタ

③ 「音鉄・録り鉄」列車の走行音はもちろんのこと駅に流れる発車メロディや案内アナウンスなど鉄道に関する音を録音して楽しむ鉄ヲタ

④ 「乗り鉄」鉄道の車輌に実際に乗ることを楽しんだり、鉄道路線を乗りつぶすのがメインの鉄ヲタ

⑤ 「時刻表鉄」時刻表を読み物として楽しみ、列車の運行ダイヤを分析・研究することを楽しむ鉄ヲタ

⑥ 「模型鉄」鉄道模型を作ったり、走らせることを楽しむ鉄ヲタ

⑦ 「収集鉄」切符や不要になった備品や装置、鉄道に関するグッズの収集を楽しむ鉄ヲタ

⑧ 「駅弁鉄」駅弁を食べたり、包装紙を集めたりすることを楽しむ鉄ヲタ等々、様々です。たいていは1つの流派でとどまらず、複数の流派をかけ持つ鉄ヲタがほとんどで、趣味のスタイルは人それぞれっていう感じです。

なかには、鉄道が好きすぎて関連会社でアルバイトする⑨「アルバイト鉄」や、鉄道を何よりも愛し鉄道会社に入社した⑩「プロ鉄」という筋金入りの人達もいらっしゃるようです。私は、鉄道の車輌に実際に乗ることを楽しむ「乗り鉄」が基本のオールラウンダーの『鉄ヲタ』といったところでしょうか。しかも、趣味の守備範囲が鉄道だけに限らず、バスやフェリー、飛行機といった公共交通機関全般に拡がっているので、『公共交通機関マニア』と言ったほうがいいかもしれません。

そういう中で、最近静かに勢力を伸ばしているのが、廃線になった鉄道路線を訪れることを楽しむ『廃線鉄』です。今、鉄道の廃線跡を巡る小さな旅が静かなブームになっています。この「廃線跡探訪」という特殊な鉄道趣味は、1990年代半ばに紀行作家の宮脇俊三さんが『失われた鉄道・廃線跡探訪』を出版されたことをきっかけとして最初のブームが巻き起こりました。それまで鉄道マニアですらほとんど興味を示さなかった廃線跡が、なぜ世間でクローズアップされるようになったのか? それには赤字国鉄ローカル線の廃止があります。昭和58(1983)の国鉄白糠線の廃止を皮切り赤字国鉄ローカル線や地方私鉄の廃止が相次ぎました。そうした廃線となった鉄道路線の痕跡が、最初のブームを巻き起こした平成年代の初め頃には、各地で廃墟のように残っていました。そうした背景の中で出版された宮脇俊三さんの『失われた鉄道・廃線跡探訪』はたちまちベストセラーとなり、シリーズ化もされました。また、宮脇俊三さん以外の方からも「廃線跡探訪」に関する本が何冊も出版され、それにより『廃線鉄』が鉄道マニアの間で市民権を得たようなところがあります。私も宮脇俊三さんの『失われた鉄道・廃線跡探訪』シリーズを何冊か持っていました。

その最初の廃線跡探訪ブームから30年近い年月が経ち、廃線跡の様子も大きく変わってきました。赤錆びたレールはほとんどが撤去され、駅舎もほとんどが取り壊されてしまっています。朽ち果てる寸前の鉄橋や危険なトンネルなどは通行禁止となり、時の過ぎゆくままにその存在を残しているに過ぎなくなってしまっています。廃線跡の多くは道路に吸収、転換され、土に戻り、鉄道の面影を感じ取ることはほとんどできなくなっています。しかし、廃線跡のところどころには線路跡が遊歩道やサイクリングロードとして整備され、駅の跡が鉄道資料館や休憩所などに生まれ変わったところもあります。現在の廃線跡探訪マニア(廃線鉄)は、そういうところを訪れることで、懐かしい鉄道を実感し、想像の世界を楽しんでいる感じで、かつての雑草が生い茂る廃線跡を掻き分けて鉄道が走っていた頃の痕跡を探すワイルドな感じから、随分と知的でオシャレな趣味に変貌してきた感じさえ受けます。

前々回「鉄分補給シリーズ(その10)」で住友別子鉱山鉄道下部鉄道線と上部鉄道線の廃線跡を訪れ、私も廃線跡を探訪する面白さに目覚めたようなところがありますので、(その11)ではここを訪れてみました。旧国鉄(日本国有鉄道)の内子線です。そして、今回は私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』のもう1つのシリーズ「伊予八藩紀行」の【新谷藩】編とのコラボ企画になっています。


【国鉄内子線の歴史】

現在の内子線は、大洲市の新谷(にいや)駅から喜多郡内子町の内子駅に至る区間のJR四国の鉄道路線で、予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間の短絡ルートの一部に組み込まれ、特急列車が行き交う幹線路線となっていますが、今回取り上げるのは、かつて予讃線(現在、「愛ある伊予灘線」と呼ばれているほうの海線)の五郎駅から分岐して新谷駅経由で内子駅に至る盲腸線であった旧日本国有鉄道(国鉄)の内子線です。

この旧国鉄の内子線の路線距離は約10.3km。途中、五十崎駅、喜多山駅、新谷駅の3駅があり、1両編成のディーゼルカーがのぉ〜んびりとした速度で走る、鄙びたローカル路線でした。私の手元にある交通公社時刻表復刻版昭和39(1964)10月号によると、内子駅〜五郎駅間は110往復、所要時間は23分でした。

内子線の開業は大正9(1920)のことです。開業したのは私鉄の愛媛鉄道で、当初は軌間762mmの軽便鉄道でした。内子線にあたる路線は、愛媛鉄道の前身である西予電気軌道により明治43(1910)に計画されたものです。この時の計画では起点は伊予鉄道の郡中駅で、犬寄峠を越えた後、中山、内子、大洲等を経て八幡浜に至る予定でした。西予電気軌道は西予軽便鉄道を経て大正元年(1912)に愛媛鉄道に社名を変更。大正5(1916)に計画も難所である犬寄峠を避けて工事が安易な伊予灘沿いに変更し、大正7(1918)に長浜町駅(現在の伊予長浜駅)〜大洲駅間が開業。内子方面への路線は支線として建設され、大正9(1920)に若宮連絡所〜内子駅間が開業しました。その後、国有化され、現在のような1,067mmの軌間に改軌されたのは昭和10(1935)のことです。この愛媛鉄道は大正7(1918)には長浜駅〜大洲駅間も開通させており、明らかに内陸部の大洲・内子と港のある長浜を結ぶことを目的とした鉄道路線でした。

ちなみに、愛媛県における鉄道の歴史は古く、明治21(1888)に三津〜松山(現松山市駅)間に開通した伊予鉄道が、全国で3番目の私鉄(四国で最初の鉄道。現存する私鉄では南海電鉄に次いで2番目に古い私鉄)として開業したのが最初です。東海道本線の東京〜神戸間が全通する前の年だということで、いかに早く愛媛県に鉄道が敷設されていたのかが窺えると思います。その後も、明治26(1893)には別子銅山の鉱石や資材を輸送することを目的として住友別子鉱山鉄道 下部鉄道線、上部鉄道線が開業。続いて、道後鉄道(現在の伊予鉄道の市内線)、南予鉄道(現在の伊予鉄道郡中線)、松山電気軌道(伊予鉄道城南線・本町線の一部として現存)、宇和島鉄道(現在のJR予讃線の宇和島〜吉野生間)、そしてこの愛媛鉄道と、合計7つの鉄道事業者(私鉄)が大正時代の末までに開業していました。

現在のJR予讃線は伊予鉄道が開通した翌年の明治22(1889)に私鉄の讃岐鉄道により丸亀駅〜多度津駅〜琴平駅間が開業したのを皮切りに、明治30(1897)に高松駅〜丸亀駅間が開業。山陽鉄道による買収を経て、明治39(1906)に国有化されました。その後、西に向かって線路を延ばし、大正5(1916)に観音寺駅〜川之江駅間が開業し、愛媛県内にまで線路が延びてきました。伊予北条駅〜松山駅間が開業して、松山市まで線路が延びてきたのは昭和2(1927)のこと。愛媛鉄道を買収して伊予大洲駅まで延びたのが昭和10(1935)のことで、宇和島鉄道を買収し、宇和島まで線路が延びて、現在の予讃線が予算本線として全通したのは、なんと第二次世界大戦終戦間際の昭和20(1945)6月のことです。現在は買収や廃止が進み、愛媛県内で営業を続けている鉄道事業者はJR四国と伊予鉄道の2社だけですが、こういう時代背景を考えると、大正時代に愛媛県内に7つの鉄道事業者が営業していたということは特筆すべきことで、それだけ当時の愛媛県人が先取の気運に満ちて、西洋の新しい技術をどこよりも早く取り入れようとしていたことが窺えます。

五郎駅と内子駅の間に今から100年以上前の大正9(1920)に鉄道を敷設したということは、当時その区間に人や物の大きな流れがあったということを意味します。内子線(当時の愛媛鉄道)の場合は、それは内子で産出される高品質な木蝋(白蠟)と和紙、それと木材でした。内子の木蝋(白蠟)は、明治時代、絹糸と並ぶ日本の代表的な外貨獲得商品で、日本の近代化を支えた極めて重要な産品でした。なので、それらを内子から長浜港まで運び、そこから瀬戸内海を渡って神戸港へ。そして、神戸港から海外へというルートが日本の極めて重要な貿易路だったというわけです。内子が木蝋(白蠟)と和紙の取り引きで大変に栄えたことの証拠が、この内子線だったように思えます。ただ大正期以降は安価なパラフィン蠟や電気の普及により木蝋の需要が激減し、内子では大正13(1924)を最後に全ての製蠟業者が廃業し、製蠟業は終焉を迎えました。なので、大正9(1920)に開通した内子線は、本来の目的を十分に果たすこともなく、ただの鄙びたローカル線として、長く地域住民の皆さんの通勤通学の足としてだけ使われてきました。現在は前述のようにJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線になって、再び開業した意義をある程度取り返しているようにも思えます。

旧国鉄内子線の路線図です。赤色の破線の部分が廃線跡です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

JR内子駅】

JR内子駅です。昭和61(1986)に予讃線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間が開通し、現在はJR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルート(予讃線新線。山線)の一部に組み込まれ、特急列車が行き交う路線の中間駅になっていますが、かつて予讃線が伊予灘の海岸線を走っていた頃は、予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸のような路線であった内子線の終着駅でした。現在でも、正式にはこの内子駅を境にして伊予市方面が予讃線、伊予大洲方面が内子線と分かれているのですが、運転系統上は一体化されており、列車はすべて相互に直通するため、運用上は途中駅同様の扱いとなっています。昭和61(1986)33日、予讃本線の向井原駅〜内子駅間、新谷駅〜伊予大洲駅間の開業により内子線が短絡ルートに組み込まれた際に、新谷駅に交換設備が設けられ、五十崎、内子の両駅は移転、五郎駅〜新谷駅間は廃止になりました。予讃線の短絡ルートに組み込まれた現在の内子駅は高架の駅になっていますが、駅舎は往時を偲ばせるような建物になっています。

現在の内子駅です。昭和61(1986)33日の予讃線新線開通時に開業した駅ですが、駅舎は旧国鉄内子駅当時を偲ばせるような建物になっています。

現在のJR内子駅前には旧国鉄内子線時代に走っていた小型の蒸気機関車C12231号機が静態保存で展示されています。このC12231号蒸気機関車は昭和14(1939)に日本車輌の名古屋工場で製造され、旧国鉄仙台局管内や会津若松区、福島区、小牛田区など主に東北地方で活躍した後、昭和44(1969)に四国の宇和島地区に転属後、旧国鉄内子線でおよそ1年間活躍しました。昭和45(1970)5月に廃車となり、その後地元の小学校に保存されていたのですが、新ルートとなった予讃線の内子駅前に平成9(1997)に移設され、静態保存されています。また、内子駅前には旧国鉄内子線時代に使われていた駅名標が展示されています。「うちこ 〜UCHIKO〜」と書かれた駅名の下には小さく隣の駅の駅名が書かれているのですが、そこには「いかざき 〜IKAZAKI〜」という表示のみ。それが内子駅が終着駅だったことを物語っています。この内子駅の隣駅の「五十崎(いかざき)駅」、この駅は難読駅としてだけではなく、回文駅としても有名です。「いかざき」とひらがな表示では回文とはなっておりませんが、アルファベット表記するとIKAZAKI」、前から読んでも、後ろから読んでも 「IKAZAKI 」です()

現内子駅前には旧国鉄内子線時代に使われていた駅名標が展示されています。終着駅らしく、隣の駅名表示は「いかざき IKAZAKI」だけです。

内子駅前の交差点を南北に走る道路は内子線の旧線路跡地を再整備したもので、北側に向かう道路は愛媛県道54号串内子線で、この先に旧国鉄内子線時代の内子駅がありました。南側に向かう道路は愛媛県道56号内子河辺野村線で、この先で国道56号と合流します。

 

【国鉄旧内子駅跡】

国鉄旧内子駅のあとは内子自治センターや内子文化創造センターなどとして再整備されています。

駅の跡を示すものは道路の脇に立つ小さな「国鉄旧内子駅跡」の石碑だけです。

旧国鉄内子線時代の内子駅の跡は、現在の高架になった内子駅からその愛媛県道54号串内子線を北東方向に500メートルほど行った先の、国の重要文化財に指定されている内子座をはじめ内子町の中心部にほど近いところにあります。

愛媛県喜多郡内子町は県都松山市から南西に約40km。一級河川・肱川の支流である小田川に沿った盆地にある人口15千人ほどの小さな町です。古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町です。江戸時代から明治時代にかけては和紙と木蠟の生産で大いに栄え、特に木蠟は品質の高さで海外でも高く評価されるほど名を馳せ、最盛期には全国生産の約30%がこの山あいの小さな町で産み出されました。大正時代以降は、石油や電気の普及によって木蠟生産は急激に衰退していったのですが、当時の繁栄ぶりを伺わせる漆喰塗りの重厚な商家が数多く建ち並ぶ町並みが、今でも八日市・護国地区に残っています。この歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、現在でも地元の人々の努力により保存されています。

そういうこともあって、JR予讃線の向井原駅〜伊予大洲駅間短絡ルートの高架線路はその伝統的建造物群の景観を汚すことのないよう配慮したのか、町の中心部から離れたところを通っていて、内子駅も町の中心部からはかなり離れたところに移転されています。旧内子駅の跡地は、現在は内子自治センターや内子文化創造センターなどとして再整備されていて、駅の跡を示すものは道路の脇に立つ小さな「国鉄旧内子駅跡」の石碑だけです。旧内子線は木材の輸送に使われていたので、かつて、この旧内子駅の周辺には材木屋が幾つも軒を並べて建っていたのだそうです。


【内子町中心部】

前述のように、旧内子駅は、国の重要文化財に指定されている内子座をはじめ内子町の中心部にほど近いところにあります。せっかくなので、その内子町中心部を訪ねてみました。

まず最初は旧内子駅の近くにある内子座です。内子座は、大正5(1916)に、大正天皇の即位を祝い、地元の商家の旦那衆が建てた劇場です。木造2階建て瓦葺き入母屋造りで、回り舞台や花道、升席等が整えられました。かつてこの内子が大いに栄えた証しのような建物です。老朽化で取り壊されるところを町並み保存運動に連動して、地元の人達の手で昭和60(1985)に開業当時の姿に修理復元され、劇場として再出発を果たしました。現在でも歌舞伎をはじめ、各種演芸で使われています。平成27(2015)に国の重要文化財に指定されました。

国の重要文化財に指定されている内子座です。

続いて国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されでいる八日市・護国地区です。私は旧街道歩きを趣味の1つとしていて、これまで中山道や甲州街道、日光街道などを歩いてきましたが、これほど歴史的情緒溢れる町並みはほとんど見たことがありません。強いて挙げれば中山道の奈良井宿や妻籠宿ですが、真っ白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ美しさという点では、この内子の八日市・護国地区の町並みが一番です。これは、和紙や木蠟といった非常に燃えやすい商材を扱う商家が多かったことで、各家が漆喰壁や卯建(うだつ)といった防火設備が当初から整っていたことと、田舎だったために第二次世界大戦中に空襲の被害を受けていないことが挙げられます。

国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されでいる八日市・護国地区の町並みです。 

八日市・護国地区には魅力的な建造物が幾つも並んでいるのですが、その中でも一番は国の重要文化財に指定されている上芳我邸です。上芳我邸は、江戸時代から明治時代にかけて木蠟生産で大いに栄えた豪商です。内子の木蠟生産の基礎を築き、その発展の中心となった芳我(はが)家の分家で、文久元年(1861)にこの地に出店を構えました。本家を本芳我家と呼ぶのに対して、上芳我家と通称されています。主屋は内子の木蠟生産が最盛期であった明治27(1894)に上棟された建物で、往時の豪商の暮らしぶりを窺うことができます。邸内には釜場や出店倉、物置などの木蠟生産施設も一体で往時のままで残されており、居住施設と木蠟生産施設合わせて10棟がまるまる国の重要文化財に指定されています。

八日市・護国地区を代表する建物と言えば、国の重要文化財に指定されている上芳我邸ですね。 

この八日市・護国地区の歴史的情緒溢れる町並みは、昭和57(1982)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されているだけでなく、昭和61年には「八日市道路」として「日本の道100選」にも選定されています。内子は古くから大洲街道の交通の要衝として、また四国遍路の通過地として栄えた町で、宿場の役割も果たしてきました。その証しが残っています。八日市・護国地区の趣きのある町並みの端には、道路が鈎形(クランク状)に曲げられた「枡形」があります。これは宿場町で多く見られる構造です。

八日市・護国地区の趣きのある町並みの端は、道路が鈎形(クランク状)に曲げられた「枡形」になっています。内子は四国遍路の通過地として栄えた町で、宿場の役割も果たしてきました。

【旧五十崎駅】

本当は八日市・護国地区の町並みをゆっくりと観て回りたいところなのですが、この日は先を急ぐので、このあたりで断念。国鉄旧内子駅をスタートポイントにして、国鉄内子線の廃線跡を歩くことにします。内子町の歴史的情緒溢れる町並みに関しては、[晴れ時々ちょっと横道]第67回:伊予八藩紀行【大洲藩】(その3)に書かせていただいておりますので、そちらをお読みください。

愛媛県道54号串内子線のもと来た道を戻り、内子駅前交差点から愛媛県道56号内子河辺野村線に入ります。緩やかな左カーブが、この道路がかつて内子線の線路であったことを偲ばせます。鉄道の場合、急カーブでは曲がれないため、こんな感じの緩やかなカーブになります。日本の鉄道技術基準では、営業線の最小曲線半径の基準は半径400メートル、特例で半径160メートル(ちなみに、路面電車の場合は交差点で右左折する必要があるため、最小曲線半径の基準は半径11メートルです)。最急勾配は新幹線を除く普通鉄道の場合、機関車牽引列車がある区間は25‰(パーミル)、機関車牽引列車がない区間は35‰と決められています。旧内子線は蒸気機関車牽引列車が走っていたので最急勾配は25‰でした。この25‰とは1km進んで25メートル登る勾配のことで、角度に換算すると約1.4度で、そんなにキツい勾配というわけではありません。なので、この緩いカーブと緩い勾配が廃線跡を見極めるポイントになります。道路の勾配については、全国一律に最大120‰と規定されています(100‰を超えると歩きでも相当キツいです)。この基準の違いから、鉄道の廃線跡を利用した道路は、歩いていても勾配をほとんど感じません。高架となった現在の内子線(予讃線新線)はこの先で五十崎トンネルに入ります。

現内子駅の前を西に進みます。右側の高架になった線路が現在の内子線(予讃線新線)。左に緩くカーブする道路が旧内子線の廃線跡です。

内子駅前交差点から南へ約1km、愛媛県道56号内子河辺野村線は松山自動車道(手前)と国道56号線()の高架下を通るのですが、かつてこの付近に旧五十崎(いかざき)駅がありました。その痕跡は松山自動車道建設の際に内子五十崎IC関連の道路整備において大きく掘り下げられたようで、跡形もなく失われています。ここに駅舎があったことを示すものも皆無で、鉄ヲタとしてはちょっと寂しい光景です。五十崎駅は大正9(1920)に愛媛鉄道の駅として開業しました。昭和61(1986)の予讃線の新線開業とともに、約1.6km西の現五十崎駅に移転しました。

このあたりに旧五十崎駅がありました。その痕跡は松山自動車道建設の際に内子五十崎IC関連の道路整備において大きく掘り下げられたようで、跡形もなく失われています。

五十崎は現在は平成17(2005)に行われた平成の大合併により喜多郡内子町の一部になっていますが、かつては喜多郡五十崎町という独立した自治体で、まわりを緑の山々に囲まれた人口6,000人弱の典型的な中山間地の町です。その中心地は旧五十崎駅の南側の小田川沿いにあります。五十崎は清流小田川と大凧合戦の里として知られ、近年はパラグライダーのフライト基地としても有名になりつつあります。パラグライダーのフライト基地は町の西にある神南山にあり、南側に大登山が横たわっていることから上昇気流が発生しやすく、地理的にも自然条件的にも西日本最高のフライト基地の1つであると言われています。

 

【廃線跡を歩く1

松山自動車道と国道56号線の高架の下を潜り、右に進みます。内子線の線路は、ここから国道56号線のすぐ南側を道路に沿うように延びていました。すぐに国道脇から山の中へと入っていくと、平坦な場所に出ました。線路は撤去されているようですが、この感じは明らかに線路敷ですね。ちょっと興奮したのですが、この先で雑草が腰の高さまで生い茂っていて、この線路敷を歩くのは断念しました。国道56号線に戻って、歩道を大洲方面に歩きます。雑草や木々が生い茂っていますが、旧内子線の築堤の跡らしきものが見えます。

 

旧内子線の廃線跡です。この先で雑草が腰の高さまで生い茂っていて、この線路敷を歩くのは断念しました。

「峠たこ焼き」の手前に下にくだる道があり、下った先に旧内子線の廃線跡が現れました。こちらは線路もしっかり残っています。37年という時を越え、残されていた廃止路線の鉄路。感動です。前述のように、内子線は愛媛鉄道という軽便鉄道(軌間762mm軌間)が前身で、大正9(1920)に開業し、昭和8(1933)に国有化されました。国鉄在来線の標準である1,067mmの軌間に改軌されたのは昭和10(1935)のことです。なので、この線路は90年近く前に敷設された線路ということができます。枕木もしっかり残っています。その廃線跡を歩きます。地元の方が整備をなさっているのでしょう、とても歩きやすいです。ありがたいことです。この旧内子線の残された鉄路。もう二度と列車は走らない線路ですが、大正時代の愛媛鉄道からの歴史のある路線であり、愛媛県の鉄道遺産として、大切に残して欲しいと思います。鉄ヲタの『廃線鉄』でなくても感動すると思います。

旧内子線の廃線跡です。こちらは線路もしっかり残っており、地元の方が整備をなさっているので、とても歩きやすいです。

残されている線路は300メートル弱といったところでしょうか。さすがに奥へ進むと雑草が生い茂っています。この程度雑草が茂っているのも、廃線跡らしく味わいがあっていいですね。

残されている線路は300メートル弱といったところでしょうか。行き止まりは二本松隧道(トンネル)です。二本松隧道のトンネル入口はコンクリートで閉塞されており、中を覗くこともできません。二本松隧道の反対側は大規模な国道工事で谷ごと埋められ、廃線跡は完全に消失しているのだそうです。トンネル内は地下水が溜まっているようで、入口からは水が流れ出し、手前の線路敷も泥濘(ぬかるみ)となっていて、近付くことはできません。

線路の行き止まりは二本松隧道(トンネル)です。二本松隧道のトンネル入口はコンクリートで閉塞されており、中を覗くこともできません。

線路敷跡歩きは残念ながらここまでで、再び線路の上を歩き国道56号線に戻ります。このあたりは両側を山に挟まれた谷のような狭隘地(きょうあいち)になっていて、その狭い窪地を国道56号線と松山自動車道、そして旧内子線の廃線跡が並行して走っています。ただ、現在の内子線(予讃線新線)だけは進行方向右手の山の下を五十崎トンネルで抜けています。前述のように、内子線は大正9(1920)に開業した軽便鉄道の愛媛鉄道(軌間762mm)をベースにしているので、軌間1,067mmに改軌された後も全体的に急勾配、急カーブが連続する低規格な構造でした。特に峠越えとなる旧五十崎駅〜喜多山駅間の二本松隧道(トンネル)の前後は、予讃線新線開通後に幹線として高速運転を実施するのは不可能であったため、新たに延長1,106メートルの五十崎トンネルが掘削され、内子線の終端部分だった五十崎駅と内子駅が五十崎トンネルを抜ける高架となった新線上に移転することになりました。確かに国道56号線を歩いていても、二本松隧道(トンネル)の前後の峠越えのあたりは、明らかに25‰35‰といった現代の鉄道の最急勾配の基準を超える勾配になっているのが分かります。 

国道56号線の左を旧内子線の線路敷が延びています。

峠を少し下ったあたりから旧内子線の廃線跡は国道56号線のすぐ脇を通っているのですが、このあたりの線路敷跡は国道管理事務所の所有になっていて、フェンスで仕切られて立ち入り禁止になっているので、歩くことはできません。横に眺めながらの廃線跡歩きになります。線路敷の上は歩けないものの、それなりにいい感じです。

 

【現在の五十崎駅】

旧内子線の廃線跡は国道56号線に沿って伸びているのですが、その国道56号線の上を現在の内子線(予讃線新線)の線路が通っています。その交差部分の近くに現在の五十崎駅があります。現在の駅は、新線切替に合わせて移設されたもので、旧五十崎駅からは約1.6km西に位置しているので、五十崎駅と言っても、五十崎の中心市街地からはかなり離れたところにあります。

現五十崎駅です。現在の駅は、新線切替に合わせて移設されたもので、旧五十崎駅からは約1.6km西に位置しています。

現在の五十崎駅は単式ホーム11線を有する無人駅で、築堤の上にあります。その五十崎駅のホームから内子駅方向(上り方向)を見ると目の前に五十崎トンネルがあり、ホームの一部はトンネル内に達しています。このトンネルの開通により、内子駅~五十崎駅間の距離は約1.6kmとなりました(ちなみに、旧五十崎駅から現五十崎駅までの距離も同じく約1.6kmです)。ホームは4両編成の特急列車でも十分に停車可能な長さがあるものの、一度も特急の停車駅になったことはありません。

五十崎駅のホームから内子駅方向(上り方向)を見ると目の前に五十崎トンネルがあり、ホームの一部はトンネル内に達しています。

反対にホームから喜多山駅方面(下り方向)を見ると高架下を国道56号線が通っているのですが、内子線の旧線もこの高架下を通っていました。現在の内子線(予讃線新線)は五十崎駅を出ると徐々に高度を下げ、この先で旧内子線の線路跡と現在の内子線(予讃線新線)の線路が合流します。その合流地点より先は、旧内子線の線路跡と現在の内子線(予讃線新線)の線路はしばらく重複します。このあたりの内子線は、おそらく微妙な土地の高低差を補うためでしょう、築堤の上を通っています。その築堤の部分に跨道橋が架かっているのですが、かなり古い跨道橋のようなので、旧内子線時代から使われている跨道橋なのでしょう。ただ、予讃線新線開通時に、幹線として高速運転を実施するための補修はなされているようです。

五十崎駅の喜多山駅方面(下り方向)です。現在の内子線(予讃線新線)は五十崎駅を出ると徐々に高度を下げ、この先で旧内子線の線路跡と現在の内子線(予讃線新線)の線路が合流します。

旧内子線時代から使われている跨道橋なのでしょうか。予讃線新線開通時に、幹線として高速運転を実施するための補修はなされているようです。

【喜多山駅】

喜多山(きたやま)駅です。喜多山駅も単式ホーム11線の無人駅です。経路変更や廃止区間が多い内子線の中では、最も原形に近い区間の駅と言えます。旧内子線が盲腸線として走っていた頃には小さな駅舎が存在していたそうなのですが、現在は解体され、その痕跡はなにも残っていません。ちょうど3両編成の宇和島駅行きの下りの特急「宇和海」(改良型N2000系ディーゼル特急列車)が猛スピードで喜多山駅を通過していきました。おそらく100km/時を超える速度で通過して行ったので、駅の外にいても風圧を感じ、身の危険を感じるほどの迫力があります。今は特急列車が猛スピードで駆け抜ける同じ線路を、旧内子線の時代は蒸気機関車に牽引された客車列車や貨物列車、1両か2両の短い編成のディーゼルカーが、のぉ〜んびりとした速度で走っていたことでしょう。そういうイメージを頭の中でするのも、廃線跡歩きの楽しさです。

喜多山駅です。ちょうど3両編成の宇和島駅行きの下りの特急「宇和海」が猛スピードで通過していきました。

【新谷駅】

新谷(にいや)駅です。予讃線(新線)は厳密には当駅を境に内子方面は内子線、伊予大洲方面は予讃線(新線)と路線名称が分かれるのですが(実際の分岐点である伊予若宮信号所はもう少し先の地点)、運行系統上は分かれておらず全ての列車が相互に直通します。現在の新谷駅は相対式ホーム22線を有する地上駅で、駅舎はなく駅員も配置されていない無人駅です。駅東方の踏切を挟んで上下線の出入口が別々にあり、各ホームへは線路に沿って通路を少し歩く構造になっています。これは予讃線の新線が開通した際に現在の形になる前、ホームが現在の駅の東方の踏切を挟んだ内子側にあったことの名残りと思われます。かつては木造駅舎が線路の北側にあり、12線の島式ホームでホーム上に待合所があったのだそうで、跨線橋はなく、駅舎からホームへは線路を渡りスロープで直接上がるようになっていたとのことです。現在は新谷駅の駅名標の次の駅が「いよおおず(伊予大洲)」になっていますが、旧内子線時代はここが「ごろう(五郎)」でした。旧内子線はこの新谷駅を出てしばらく西に進むと大きく北に向かってカーブし、五郎駅に向かって延びていました。ちょうど2両編成の松山駅行き上り普通列車(キハ54形ディーゼルカー)が軽やかなエンジン音を響かせて発車していきました。

新谷駅です。現在の新谷駅は相対式ホーム22線を有する地上駅で、駅舎はなく駅員も配置されていない無人駅です。

現在は新谷駅の駅名標の次の駅が「いよおおず(伊予大洲)」になっていますが、旧内子線時代はここが「ごろう(五郎)」でした。

……②に続きます。②は明日105日に掲載します。


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