2018年9月26日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その2)

山下橋架道橋です。ここかつて外濠に架かる山下橋という橋があったところです。山下橋跡を示す案内板が懸かっています。それには次のように書かれています。


「ここに山下橋がありました。山下御門に付随する見附橋です。門は昔、山王社(日枝神社)の山下にあったものをここに移したため、その名にちなんで「山下門」と呼ばれました。山下門について『御府内備考』には「古くは姫御門といひしよし(「寛文江戸図」にみゆ)。また山下町にある故に後に山下門といへり。また俗に鍋島御門と唱ふるは鍋島家の屋鋪ありてよりの名なるべし(『江戸紀聞』)と記されています。また、喰違小枡形、南鍋町喰違門、土岐前の門、外日比谷御門とも呼ばれました。
門は寛永13(1636)、肥後国熊本藩初代藩主・細川忠利により構築されました。江戸城諸門の中では最小の門であったようです。
明治6(1873)7月、門は撤去され、あとに残った堀も昭和29(1954)頃から逐次埋め立てられ、橋は姿を消してしまいました。
                                     昭和513月 千代田区教育委員会」


山下橋架道橋の手前には、内幸橋架道橋のところで見たのと同じかつてここがお濠だったことを示す段差があります。


山下橋架道橋を抜けた左手が帝国ホテルの本館です。この帝国ホテル本館が建っているのは、かつての陸奥国白河藩阿部家の上屋敷があった場所です。そしてそのお隣は「薩摩国鹿児島藩島津家の装束屋敷があった場所で、その薩摩国鹿児島藩島津家の装束屋敷があった跡には、明治16(1883)、国賓や外国の外交官を接待するための社交場『鹿鳴館』が明治政府によって建てられました。その場所は現在のNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が建っているあたりです。そして、その隣のNTT日比谷ビル(かつての日本電信電話公社本社ビル)からみずほ銀行に至る敷地には、『鹿鳴館』の庭園が広がっていたとのことです。

そうそう、山下御門が鍋島御門とも呼ばれたと案内板に書かれていましたが、その肥前国佐賀藩鍋島家の上屋敷は帝国ホテル本館(陸奥国白河藩阿部家の上屋敷)の先の現在の日比谷公園内の噴水広場周辺にありました。


この山下橋の先で外濠は2つに分かれていました。ここから左手に分かれる濠は現在の日比谷公園の日比谷通りに面した北東隅にあった日比谷御門(見附)へと繋がり、約100メートルほどの長さがありました。右手に分かれる濠は数寄屋橋御門、鍛冶屋橋御門、呉服橋御門と続いていました。現在の外堀通りです。ここからは一旦抜けた山下橋架道橋を戻り、その右手に分かれた外濠を歩きます。


そこにあったのは、半年ほど前、イタリアの高級ブランド『アルマーニ』監修の制服騒動のあった中央区立の泰明小学校です。この泰明小学校は明治11(1878)の創立と言いますから、今年で140周年を迎える超の字が付くほどの伝統校です。卒業生には、元内閣総理大臣の近衛文麿や、資生堂初代社長の福原信三、詩人の北村透谷、作家の島崎藤村など、そうそうたる顔ぶれが並んでいます。学校の前には北村透谷の島崎藤村の記念碑も立っています。


中央区では、城東小学校、常盤小学校、阪本小学校と合わせ、泰明小学校も人数の上限付きで学区外から児童を受け入れる「特認校」に指定されています。昨年度の実績を見ると、泰明小学校は30人程度の受け入れ上限に38人から応募があり、抽選を経て27人が入学したのだそうです。各学年50人前後のうち、少なくとも半分程度は学区外からの通学者で構成されており、銀座という土地柄からアルマーニ監修の制服というのも決しておかしくない印象もあります。


この泰明小学校の前を通っている通りが「みゆき通り」です。「みゆき通り」は銀座通り(中央通リ)と交差して、銀座5丁目と6丁目の境目を、晴海通りと平行に築地の新橋演舞場と有楽町の日比谷公園とを結ぶ全長約1.2kmの通りです。かつては外濠の土手沿いの道路でした。名前の由来は、明治期に明治天皇が海軍兵学校、海軍大学校等々への行幸(みゆき)の際、また浜離宮へのお成りの時、この通りを行幸路とされたため、いつしか「みゆき(御幸)通り」と呼称されるようになったといわれています。さらに江戸時代には、築地周辺に屋敷を持っていた諸大名が江戸城に登城の際にも利用したと伝えられていますので、「みゆき通り」は歴史の中でも、その名が示すように由緒のある通りだったようです。


この門扉は明治期に南フランスの貴族の館で使われていたものだそうです。明治11(1878)に建てられた校舎は大正12(1923)の関東大震災で焼失し、昭和4(1929)に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。現在、小学校全体が東京都選定の歴史的建造物に指定されています。


この泰明小学校の前にも「銀座の柳 二世」が植えられています。



……(その3)に続きます。


2018年9月25日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その1)


98()、『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の第6回に参加してきました。今回はJR新橋駅前を出発して、幸橋御門、山下御門、数寄屋橋御門、鍛冶屋橋御門、呉服橋御門、神田橋御門、一ツ橋御門、雉子橋御門を経て竹橋まで歩きます。このうち、新橋の幸橋御門から呉服橋御門の先までは昭和33(1958)頃まで外濠があったのですが、現在は埋め立てられて外堀通りとなり、交差点名称にその名残りが残っているだけです。

9月に入ったとは言え、今年の夏は記録的猛暑が続いていて、この日の東京もよく晴れて、真夏の太陽が容赦なく照りつける暑い1日でした。水分補給をしながら熱中症に気をつけてウォーキングを楽しむこととしました。


今回の集合場所はJR新橋駅西口(日比谷口)にあるSL広場。このSL広場には小型のC11型蒸気機関車(C11 292)が静態保存されているのですが、さすがにJR新橋駅前という多くの人が集まる場所に保存され、待ち合わせのためのランドマーク(モニュメント)にもなっている蒸気機関車です。清掃や整備がこまめに行われているようです。

ちなみに、説明書きによると、この展示車両「C11 292」は昭和20(1945)に日本車輌製造によって製造され、兵庫県の姫路機関区に所属し、引退するまでずっと姫路機関区で播但線や姫新線といった近距離路線や駅構内の貨車の入替えなどで活躍していた機関車です。なので、新橋駅前に静態保存されている蒸気機関車なのですが、東京周辺で一度も走っていなかったという衝撃の事実があります。新橋駅前への設置は昭和47(1972)10月。日本で初めて鉄道が開業したのが明治5(1872)10月の新橋(汐留)駅〜横浜(現在の桜木町)駅間の開業で、それからちょうど100周年を記念したものなのだそうです。新橋駅前の展示車両として東京周辺で一度も走っていなかった「C11 292」が選ばれた理由は、おそらく「引退する時に最も状態が良かったから」ではないかと想像されます。昭和47(1972)8月に現役を退いて品川機関区へ移動され、9月に廃車となって、10月から展示されているので、新橋駅前で展示されるためにわざわざ遠く姫路から運ばれてきたようです。


そのJR新橋駅前のSL広場を出発して、この日の江戸城外濠内濠ウォークの開始です。すぐに外堀通りを渡ります。前回第5回でご紹介したように、この外堀通りはかつては外濠だったところです。外堀通りを渡るということは、すなわち外濠を渡るということを意味します。その外濠を渡ったところに江戸時代には幸橋御門(見附)がありました。現在は外濠は埋め立てられ、それと同時に門も橋も取り壊されて、現在は上をJR山手線や京浜東北線、東海道本線(上野東京ライン)、東海道新幹線と言った多くの線路が通る幸橋架道橋にその名を残すだけになっています。


ちなみに内幸町という地名は、この幸橋の内側(江戸城側)にあったことから、その地名が付けられました。また幸橋を渡って南方向にまっすぐ進んだところにあるのが芝大門。この芝大門は徳川家康をはじめ徳川家の歴代将軍の菩提寺の1つである増上寺の境内に入るための門でした。歴代の徳川将軍は徳川家康の月命日には増上寺に必ず墓参りに訪れないといけないという決まりがあり、その都度、この幸橋を通らないといけないということで、この幸橋は極めて重要な橋で、ここに幸橋御門という枡形門が設けられていました。現在、第一ホテル東京が建っているあたりにその幸橋御門がありました。



余談ですが、地下鉄の都営三田線に御成門駅という駅がありますが、その増上寺近くに御成門という門があります。虎ノ御門や幸橋御門が江戸城の外濠に面した外郭門であったためか、御成門も江戸城の門と思いがちですが、 実は芝の増上寺の北方馬場にあった裏門の別称のことなのです。すなわち、増上寺の門の名称なのです。前述のように、増上寺は徳川家の菩提寺の一つで、歴代の徳川将軍は徳川家康の月命日には増上寺に必ず墓参りに訪れないといけないという決まりがあり、将軍が参詣する際には、現在、国の重要文化財に指定されている正面の三解脱門ではなく、この裏門がもっぱら用いられたので、この門が御成門と呼ばれるようになりました。もともと現在の日比谷通りにある御成門交差点のところにありましたが、明治25(1892)の東京市区改正計画で道路(日比谷通り)が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移設され、今も現存しています。また、地下鉄の都営浅草線の駅名にもなっている「大門」も、増上寺の旧総門のことを指します。


前回【第5回】でも書きましたが、この幸橋が架かっていたところで外濠は浜離宮(濱御殿)へと続く本線とは別に、北方に山下御門、数寄屋橋御門、鍛冶屋橋御門、呉服橋御門と続く支線とも言うべき濠が分岐していました。今回第6回ではその濠に沿って歩きます。この濠の幅は約50メートル。進行方向右手に壁のように立っているJR山手線や京浜東北線、東海道本線(上野東京ライン)、東海道新幹線の高架の線路の下はすべてが外濠でした。


新幸橋交差点です。ここにかつて新幸橋という橋が架かっていました。この新幸橋は江戸時代にはなくて、大正12(1923)の関東大震災の後、地元の有志により架けられたものだそうです。その場所は現在は上を山手線をはじめとする線路が通る内幸橋架道橋となっています。ちなみに、有楽町駅〜新橋駅間の高架鉄道が開通したのは、明治43(1910)。この赤レンガ(煉瓦)造りの高架橋脚は、なんと当時のものが今も残っているのだそうです。


その内幸橋架道橋で線路を抜けた先にかつてここが外濠であったことの証拠が残っています。私も大好きなNHKの人気番組『ブラタモリ』風に言うと、
「タモリさん、この段差はなんでしょう?」
(・・?) (´⊙ω⊙`)!! 「お堀ですか?」
「正解です。ここは外濠の跡で、段差の一番下がお堀の底にあたります」

って具合になります。現在、この段差の底の部分は駐車場になっているのだそうです。


ここに新幸橋の跡を示す石碑が立っています。石碑には寄付を行なった人の名前が刻まれています。


JR線の高架に沿った銀座コリドー街です。この銀座コリドー街のコリドー(corridor)とは建物の各部をつなぐ回廊、廊下、また、一般的に通路を意味する言葉で、ここでは飲食店が立ち並ぶ通路という意味で名付けられたと思われます。私は若い頃、この銀座コリドー街とはJRの線路を隔てて向こう側の内幸町にあった日本電信電話公社本社の技術局という部署で勤務していたことがあります。当時、飲みに行くと言ったら、ほとんどこの銀座コリドー街でした。その銀座コリドー街が私が生まれた昭和31(1956)当時はお堀だった、すなわち水の中だったってことを当時は知りませんでした。



……(その2)に続きます。

2018年9月22日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第5回:虎ノ門→浜離宮】(その6)

目の前は東京湾。すなわち、海です。夏の日差しはメチャメチャ強いのですが、海からの風が爽やかです。


ここに「海手の御茶屋跡」があります。この「海手の御茶屋」は宝永4(1707)、第6代将軍・徳川家宣が舟遊びや漁夫達の漁の様子を見るために建てた休憩所です。現在は礎石が残されているだけになっています。


潮入りの池の1つ「横堀」です。「海手お伝い橋」で横堀を渡ります。この「海手のお伝い橋」も鉤形の特徴的な構造をしています。対岸を見ると緑が広がっていて、東京都心のど真ん中にいながらも、自然の豊かさを感じさせてくれます。この横掘の水は水門を通して東京湾(江戸湾)の海水をもう1つの潮入りの池である「大泉水」まで導いています。


海水ですので鯉などの淡水魚はいませんが、クラゲ、ウナギ、ボラ、セイゴ、ハゼ等の海水魚も棲息しているそうです。


白鷺(シラサギ)を見掛けました。じっと池の水面を眺めているので、魚を狙っているのかもしれません。


庚申堂鴨場です。将軍の鷹狩りの鴨場は濱御殿には庚申堂鴨場と新銭座鴨場の2箇所があり前者が安永7(1778)、後者が寛政3(1791)の築造というのは前述のとおりですが、こちらがその古いほうの庚申堂鴨場の跡です。


東京湾(江戸湾)の海水を調整し、園内の池に引き入れるもう1つの水門「横堀水門」です。よく見るとフナムシやカニ、フジツボなど海の生き物が生息しているのが分かります。


水上バスです。この先に水上バスの乗り場があります。浅草から浜離宮までの水上バスの航路があるので、近いうちに乗りに行きたいと思っています。江戸に関する基礎知識もそれなりに豊富になってきたので、船から見える景色もこれまでとは違って見える事でしょうから。


「将軍御上がりの場」です。ここは将軍が江戸城から船(御座船)で濱御殿を訪れた時など船を接岸していた場所です。第15代将軍・徳川慶喜は戊辰戦争の緒戦「鳥羽伏見の戦い」に敗れて、わずかな側近だけを従えて大坂城を脱出し、幕府の軍艦・開陽丸に乗船して江戸に逃げ帰ってしまうのですが、その時もこの場所に開陽丸を接岸して上陸しました。


灯台の跡です。「将軍御上がりの場」があるだけでなく、前述のように濱御殿(浜離宮)は遠く京・大阪あるいは長崎等から運ばれてきた物資を江戸城へ入れるための重要な港湾施設でもありましたから、灯台が設けられていたのでしょう。


幕末の一時期、ここに江戸幕府海軍の本拠地「海軍所(旧海軍伝習所)」が置かれていました。

黒船来航後に幕府海軍の建設に乗り出した江戸幕府は、最初の本格的な海軍教育機関として、安政2(1855)に長崎に海軍伝習所を設置しました。そして、長崎に続いて、江戸の築地にあった講武所の中にも海軍教育部門を設けることにしました。安政4(1857)に、永井尚志以下の長崎海軍伝習所の学生の一部が蒸気船「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所が開かれました。その後、軍艦教授所は、軍艦操練所と改称し、しばらくは長崎海軍伝習所と並立していたのですが、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担の大きさや、西洋式軍事技術の導入に消極的な井伊直弼の大老就任により、安政6(1859)に長崎海軍伝習所は閉鎖されました。そのため、築地の軍艦操練所は以後の幕府海軍教育の中核施設となっていきました。

築地の軍艦操練所の当初の教育対象は幕臣に限定されていたのですが、万延年間(18601861)には諸藩からの学生も受け入れるようになりました。元治元年(1864)に付近で発生した火災が延焼して、施設の大半を失い、勝海舟はこれを期に神戸に海軍操練所を整備しようと画策したのですが、当時の軍艦奉行であった小栗上野介忠順らが速やかに築地軍艦操練所を再建したため、神戸の海軍操練所は幕府が設置した施設でありながら、勝海舟の私塾のような色彩が濃くなり、坂本龍馬や陸奥宗光(後の外務大臣)、伊藤祐亨(初代聯合艦隊司令長官)といった幕末から明治初期にかけての人財を輩出することになります。


この築地の軍艦操練所はさらに軍艦所と改称され、慶応2(1866)には教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能も追加されて、最終的に海軍所と呼ばれる組織となりました。しかし、慶応3(1867)に再度の火災に遭って焼失し、築地から築地川を挟んで対岸にあるこの濱御殿(浜離宮)の地へと移転しました。このように江戸幕府はこの濱御殿に移転した海軍所で江戸幕府海軍を強固に構築していこうとしたのですが、残念ながら、同年に大政奉還・王政復古に伴う江戸幕府の瓦解により、実現しないままに終わってしまいました。


現在、浜離宮には水上バスの乗船場があります。ここ浜離宮の乗り場からは日の出桟橋・浅草・お台場海浜公園行きの水上バスが運航されています。船上から眺めるスカイツリーやレインボーブリッジっていうのもいいですね。


江戸幕府海軍の軍艦の停泊地であったことを示す石垣でできた岸壁の跡が水上バスの乗り場の付近に残っています。


小さな社殿と鳥居があります。「旧稲生神社(きゅう いなぶじんじゃ)」です。旧稲生神社そのものの創建時期は明らかではないそうです。前身となる社殿が明治27(1894)620日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため、翌年に当時の宮内省内匠寮の手によって、浜離宮内にあった数社をまとめ、稲生神社を再建したのだそうです。それゆえ、各所に他の神社で使用されていた古材が使用されているのだそうです。本殿内にある宮殿は江戸期に建てられたもので、大正12(1923)の関東大震災では倒壊は免れましたが、大きく傾き、昭和6(1931)になって大修理が行われたのだそうです。鳥居に刻まれている年号は天保〇年。天保年間というと西暦1831年から1845年の間で、その時の江戸幕府の将軍は第11代の徳川家斉です。


広大な敷地にはちょうどキバナコスモスやコスモスが満開でした。ここは春には黄色い菜の花のお花畑に変わるのだそうです。


「浜御殿の籾倉跡」です。です。第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐を務め寛政の改革を推し進めた陸奥国白河藩第3代藩主・松平定信(江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫)の進言により、この場所に籾倉(もみぐら)が建てられました。これは天明年間(1781年〜1789)に相次いだ天災と飢饉によって社会不安が高まる中で、寛政元年(1789)に諸大名に対して飢饉に備えて籾の備蓄を命じ、寛政4年(1792年)と7年(1795年)に2棟ずつ江戸幕府自ら「三十五間蔵」と呼ばれる巨大な籾倉を救荒用倉庫として建造しました。ちなみに、一間とは約1.81メートルのことですから、三十五間というと約63.35メートル。実に巨大な倉庫でした。


それにしても、この浜離宮、見どころが多くありました。濱御殿として徳川将軍家の別邸(庭園)であるばかりでなく、象の飼育所であったり、鷹狩り場であったり、将軍の乗馬の練習場であったり、江戸城の港湾施設であったり、砲台が設けられた要塞であったり、海軍伝習所が設けられていたり、飢饉に備えての籾倉があったり…と様々な側面を持ったところであったということがよく分かりました。


1時間半ほど浜離宮を散策しました。真夏の日差しが照り付ける暑い一日でしたが、さすがに東京を代表する日本庭園です。この日も多くの観光客が訪れていました。それも日本人観光客より海外からおみえになった観光客のほうが多い印象です。これから紅葉の時期になるとまた違った日本庭園の姿が見られるのではないでしょうか。その頃にまた訪れてみたいと思っています。



この日はこの浜離宮恩賜庭園までした。次回【第6回】は今回も通ったJR新橋駅にほど近い幸橋架道橋をスタートして、現在のJR山手線等に沿うように北方(山下橋、有楽町方向)に分岐していた外濠を歩きます。外濠は江戸城を中心にして反時計回りに「の」の字を描くように連なっていて、徐々に江戸城に近い内濠へと変わっていきます。江戸城が近くなってくるってことは、歴史(江戸時代)の痕跡もより多く残っていると思われるので、楽しみです。



――――――――〔完結〕――――――――





愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...